ジョージ・セル【指揮台のタイラントと呼ばれて】《特別編》衣鉢を継いだ者:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ


「ミスターS」生誕100年に寄せて

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クリーヴランド管弦楽団音楽監督在任中の1970年に世を去ったセルは、同時代にフィラデルフィア管弦楽団で活躍したユージン・オーマンディ(1899-1985〔1980年に音楽監督から退き、リッカルド・ムーティ〈1941-〉を後継指名〕)と異なり、自身の後継者の指名もしくは発掘をしていない。
1969年、首席客演指揮者にピエール・ブーレーズを迎え、「新しい方(レパートリー)は任せている」と信頼を寄せたが、当時40代半ばのブーレーズは既に現代音楽界の大物であり、セルの「息のかかった指揮者」とは違う。
なお、ブーレーズはセル逝去の後、1972年までミュージック・アドヴァイザーの肩書でクリーヴランドにとどまり、ニューヨークフィルの音楽監督へ転じるが、最晩年のセルはバーンスタインが1969年に離任したニューヨークフィルの音楽顧問だった。

では、ポストとは別にセルの「音楽的後継者」は誰かと考えた時、その音楽スタイルをある程度なぞりつつ、自身のスタイルへ昇華させた人物なのが、指揮者・作曲家のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1923~2017)。
70歳以降に芸が深まり、NHK交響楽団や読売日本交響楽団との共演で、日本のクラシック音楽受容における「名指揮者の時代」の掉尾を飾ったスクロヴァチェフスキの歩みをひも解く。

セルが見出した才能

ポーランド各地のオーケストラのポストを務めたスクロヴァチェフスキは、1957年にクリーヴランド管弦楽団との欧州ツアー中のセルに認められ、翌年から2年連続で同管弦楽団を客演指揮した。
事実上セルの「お墨付き」を得たスクロヴァチェフスキのもとに、ニューヨークフィルを含む複数の北米楽団から客演のオファーが舞い込む。

そして1960年、ミネアポリス交響楽団(現在のミネソタ管弦楽団)の音楽監督に迎えられる。
セルとの出会いからわずか3年で拠点を得たスクロヴァチェフスキ。
以降ミネアポリスに定住、米国籍も取得して生涯暮らし続けた。

オーケストラビルダーとして評価を確立

30代後半のスクロヴァチェフスキが渡った1950年代終盤のアメリカはいわゆる「古き良き」空気の残る戦後の全盛期。
地方都市でも名士たちが文化活動に寄付を惜しまず、市井の層の厚い中産階級はささやかな贅沢として大量生産で値段の下がったレコードプレーヤーを買い、音楽に親しんだ。
物的豊かさがある程度満たされ、次の段階としてちょっと教養を身につけたいひとがクラシック音楽に手を伸ばす、そんな状況だった。
ちなみにオーケストラ系のレコード売上トップはオーマンディ:フィラデルフィア管弦楽団のアルバム。注目度抜群のバーンスタイン:ニューヨークフィルのレコードを遥かに凌いだ。

さて、任地のミネアポリス交響楽団は戦前にオーマンディが礎を築き、戦後はセル同様ハンガリー系で1940年代にアメリカへ移ったアンタル・ドラティ(1903~1988)が鍛えたオーケストラ。
演奏活動に加え、戦後ドルの力を背景に勃興した新興レコード会社のひとつで録音技術が売り物のマーキュリーに多数の録音を行い、その音質の鮮明さがオーディオマニアに注目された。

比較的恵まれた状況で就いたスクロヴァチェフスキだが、一定水準に達したオーケストラをより洗練させる責任があり、相応のプレッシャーは感じたと推測する。

スクロヴァチェフスキは筋肉質のサウンド、スキのないアンサンブルを軸にしながら、ドイツ・オーストリア系レパートリーにフィットするしなやかな彫りの深い質感をしみ込ませる方向性を採った。
セルがクリーヴランド管弦楽団で花開かせた精華に倣い、あれほど強権的スタンスはとらずに進めたように映る。
前任同様マーキュリーへ録音を行い、ドラティ時代からの国民楽派、近代ものにシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン(協奏曲)が加わった。
また単身ヨーロッパへ赴いて、ピアノのジーナ・バッカウアー、チェロのヤーノシュ・シュタルケルによる協奏曲録音でロンドン交響楽団と共演。
さらにルービンシュタイン(RCA)やワイセンベルク(EMI)が弾くショパンの協奏曲録音の指揮者に起用された。

1968年、ミネアポリス交響楽団はミネソタ管弦楽団と改称。
1974年にはオーケストラホールが落成した。
スクロヴァチェフスキ:ミネソタ管弦楽団は15年以上の長期政権となり、1970年代後半に入るとVOXレーベルでベートーヴェンの序曲集・「献堂式」のための音楽・カンタータ、ストラヴィンスキーの三大バレエ、ラヴェル・バルトーク・プロコフィエフの管弦楽曲集などを録音している。
このVOX音源は指揮者壮年期の結実で後年音源の権利が動きつつも、何らかの形で大体いつも聴ける。

スクロヴァチェフスキは1978年にミネソタ管弦楽団の音楽監督を辞し、桂冠指揮者に退くが、離任間際の同年1月にニューヨークのカーネギーホールでアイザック・スターンをソロに迎え、ペンデレツキのヴァイオリン協奏曲を米国初演。直後にセッション録音も行い大きな話題となった。
ペンデレツキの作風の転換が波紋を呼んだこの作品、自身ピュリッツァー賞音楽部門に2度ノミネートの作曲家であるスクロヴァチェフスキはどう受け止めたのだろうか。

前任者ドラティが引き上げたミネソタ管弦楽団の地位をもうワンランク上の領域で固めたスクロヴァチェフスキ。
オーケストラビルダーとして不動の評価を獲得し、ヨーロッパでの評価も次第に上昇。ハレ管弦楽団の常任指揮者(1984年~1990年)を務めた後、1994年にカイザースラウテルン・ザールブリュッケン・ドイツ放送フィルハーモニー(旧称ザールブリュッケン放送交響楽団)の首席客演指揮者に就任。ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナーの交響曲全集の録音を完成させた。特にブルックナーは高く評価され、晩年の充実の出発点になった。

「師」から受け継いだひとクセ

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