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新野の盂蘭盆と雪まつり

新野の盆踊り

2023年(令和5)8月26日、長野県下伊那郡阿南町新野の盂蘭盆会を見学。

1998年(平成10)12月16日、国の重要無形民俗文化財に指定され、2022年(令和4)11月30日、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

新野の盆踊りは室町時代末期、仏を供養し、先祖の霊を祀る盆踊りとして定着しましたが、仏教伝来前の純神道の形が伝承されており、祖霊を迎え送る盆踊りの原型と言われています。

8月14日、15日と、24日の午後9時から踊りはじめ、笛や太鼓を使わず、音頭取りと踊り子が一体となって上の句と下の句を掛け合いで調子を合わせて、翌朝まで唄い踊ります。

曲目は『くすいさ』『音頭』『おさま甚句』『おやま』、手踊りの『高い山』『十六』『能登』の7つ。

本来は、その年に亡くなった新仏あるいは過去に亡くなった祖霊たちを迎えて供養するためのもの。その本来の意味を南信州の盆踊りはよく伝えています。

折口信夫に紹介され、1926年(大正15)、この盆踊りを見た柳田國男は「仏道の新しい教が殆ど魂祭の解説を一変してしまった後まで、新野のやうに古くからの方式を保存して居た例も珍しい。」と、仏教が伝わる以前の、神を迎えて神を返すという日本古来の祭りの形をよく伝えていると高く評価しました。


新野の雪まつり

私が見学したのは、2019年(平成31)1月14日から15日にかけて。2021年から2023年まで、コロナの影響で観客なしの神事として開催されていました。

折口信夫らがいち早く注目。日本の民族芸能の研究史上、重要な祭りで1月14日から15日にかけて徹夜で行われす。

1月12日朝から準備や神事が開始。13日午前3時に諏訪神社に集まってから伊豆神社に向かいます。「神下ろし、面下ろし」をして行列を組んで諏訪神社へ向かい、これを「お下だり」と呼びます。祭りの準備と神事のあと、14日午後4時に伊豆神社へと出発する「お上がり」があり、15日の朝9時頃まで神事が続き、12日から19日まで5日間連続です。

火がとても大切で、火の源は凸レンズ(オリンピックでは凹レンズ)で太陽から摂り、これを「天火」とか「神の火」とか呼んでいて「社用」の提灯に移しておきます。14日の「お上がり」では、行列の先頭に掲げて3キロほど離れた伊豆神社へと行き、午前1時になると、小松明を、稲穂を掲げて大黒・恵比寿が乗るお舟の先端に取り付けて、庭の隅に立てた大松明の先に点火します。

阿南高等学校の郷土芸能同好会の発足で
小中学生、高校生の担い手が育ち、
舞子や笛の演奏で活躍しています
神の火を大松明に点火

面神「幸法(さいほう)」が9回出入りして舞い、その後もいろんな面神が登場して朝を迎えます。最後は燃え尽きた大松明の前で「田遊び」をして豊作を祈願します。

幸法は、柔和な顔をした翁で、藁の冠をかぶりますが、その先端に付く白い玉の中には白米・粟・稗・小黍・大豆の五穀が入っています。右手には正月に歳神を迎える松を持ち、左手には大松明や庭火を煽る団扇を持ちます。腰にはホッチョウとよぶ男性のシンボルをかたどった木製品をはさんでいて、観客の女性たちにすりつけて子宝を授ける呪術を行います。

新野の盆踊りと柳田・折口先生

「伊那民族第2号」柳田国男記念伊那民俗学研究所

ここにたいへん貴重な記事が掲載されていたのでご紹介します。

新野の盆踊りと柳田・折口先生

インタビュー 関勝夫さん

関さんは大正3年新野に生まれ、旦開村長、阿南町長をされた。今では柳田国男と折口信夫を知っている下伊那では唯一の人である。6月30日(1990年)、当時の思い出を伺った。

ー 昔は踊りが12くらいあったといわれますが、柳田先生が来られる前の盆踊りはどんなでしたか。
 柳田先生は大正15年に来たんですが、その3年前に村に電灯がついたんです。それまでは新盆の家でおどり、そのあとみんなで踊ったんですが、暗いから大きな輪にならない。小さいのがいくつもできていた。男衆は女の格好をしていたり、ほおかむりをしたりして踊っていました。
 その頃は飯田線もなく、物資の輸送は運送馬車。隣の津具村の佐々木さんなどが馬車を連ねて飯田吉田(豊橋)間を引いたものです。その人たちもよく踊りに来ました。木曽のおんたけやまの踊りはその人たちがもってきた。これは2年ばかり踊りましたが、そのうち「踊りの会」ができ、伝統の踊りがあるじゃないかというわけで、電灯がつき、ひとつの大きな輪で踊るようになって、おんたけやまはおどらなくなりました。最初は音頭とりの台がなくてあちこちに音頭とりがいてうたったんですが、そのうちに台ができたんです。それまではたえず輪がくずれて、男女が消えていったもんです。よばいなんかも大正末までありましたね。

ー 盆踊りに来られた時の柳田先生は ・・・・・・
 あれは大正15年8月15日です。仲藤増蔵さんの案内で一晩みていったんです。それを朝日新聞に書かれて全国に知られるようになりました。私も子供(12歳)でしたが、16日の朝、村の小学校で講演されたのをききました。そして豊橋へ行かれた。だから先生は17日明方の踊り神送りはみていませんね。
 朝日新聞に出て有名になり、みんなうれしい気分になったんですが、あまり淫靡なものでないように、と統一のとれたものになっていきました。ただそれまで12くらいあった踊りを柳田先生が7つに限定したというのはウソですね。先生が来た頃には7つ以外は踊られなくなっていましたから。自然にそうなったということです。

ー 戦後の盆踊りはどうですか。変わりましたか。
 一般に盆踊りは地元の民謡が中心で何かにつけて踊られますが、新野の盆踊りはお盆とウラ盆の時しか踊ってはならないなど、古い形式のまま今日まで続いています。
 最近は踊る人が少なくなりましたね。いちばん盛んだったのは私が村長の時はじめた学生村があった昭和40年代ですね。2000人ぐらい踊り、見物人も人垣をつくっていました。夏すごす学生もお盆には東京から知りあいを呼ぶんです。村から出た若い衆も刺激されて帰って来たんです。近頃は見る人も少なくなり、踊りの輪も小さくなりましたね。5分の1くらいかな。今はテレビを見たり、飲み屋で飲んでいて出てこない。ちょっと寂しいですが、それでも、毎年、よそからも見物に来てくれますね。

ー 折口先生が初めて新野に来た時、お会いになっていますね。
 あれは大正9年7月19日、私が9歳の時です。
青竹をついて白いシャツに学生ズボンのようなものをはいて、私の家の前の小祠をのぞいておられた。伯父の関善兵衛がいぶかって声をかけた。西から来たといったので、売木村を通ってきたと思っていたんですが、実は岐阜の中央線大井駅から岩村を経て歩いて平谷・和合・日吉を通ってきたんですね。荷物を丸八旅館において新野のあちこちを歩いているところだったんです。善兵衛に紹介されて仲藤増蔵に会い、大正15年の雪まつりをはじめ8回この地に足を運ぶことになったんです。

ー 折口先生は新野へ来る途中、鈴ヶ沢で木地師に会われて歌を作ったといわれていますが ・・・・・・。
 ええ、先生の木地師の歌は「山びとは轆轤ひきつつあやしまず、わがつく行の大きと息を」をはじめたくさんあります。私もそう信じていたんですが、あの頃鈴ヶ沢にはもう木地師はいなかったし、ある時「あれはフィクションではないですか」と折口先生に直接尋ねたんですよ。そしたら「気分ですよ」といってました。折口さんはあちこち歩いているので、その体験から場所をかえてうたったんですね。

ー 「雪まつり」というのは折口先生が名づけたともいわれていますが ・・・・・・。
 後藤兵衛さんは折口先生が名づけたと書いたり、言ったりしていますが、実は諏訪神社での祭がすんで、お下りの途中、折口先生に「このまつりは何といいますか」と聞かれた地元の田島弁蔵さんが「雪まつりといいます」と答えたんです。折口先生、ひざをたたいて「山のむこうに花まつり、ここに雪まつり、これはおもしろい。どこかに月まつりはありませんか」といわれました。それまでただ「おまつり」といっていました。そういうわけで、折口先生が雪まつりと名づけたのではありません。

ー 折口先生のシナリオで、戦後雪まつりの映画を作りましたね。
 ええ、撮影の時には折口先生は体を悪くされてまして、池田弥三郎さんや三隅治雄さんが中心になって作ったんです。折口先生はいろいろ注文をつける方なので、三隅さんらはどんどん作っちゃったんです。あとで東京に行ったと時折口先生に会ったら「あの映画はかたく撮れましたね。きのねまくらがないじゃないですか。あのまつりはもともと木の根まつりなんだから」と不満そうでしたね。また語りは石原という女性のアナウンサーでしたが「男でなくてはだめだね」といってました。しかし、雪まつりにはそんなのはないですよ。夏の盆踊りは楽しんだんですが、おまつりの方は厳粛で、そんなこと(男女の交わり)すればバチがあたるといわれてました。

ー 折口先生は雪まつりの時、一軒一軒を覗いてあるいたといわれていますが、ほんとうですか。
 あれは仲藤増蔵さんの作り話ですよ。それをあとで池田弥三郎さんが書いたんです。折口先生は夜どおし神社にいたですよ。私は折口先生に興味があったので、ずっとそばでみてたんです。そんなことは絶対ないですよ。

ー 柳田先生と折口先生、お二人のちがいのようなものを何か感じますか。
 そうですね。柳田先生は盆踊りに来た時、昼間、村の地形を村の有力者とみてまわっていましたが、何か淡々としていましたね。一過性の旅という感じですね。折口先生は1つのことを追及してやまないという感じで村の中をみてまわったり、寒い中、正座して雪まつりの資料を記録していました。柳田先生は折口先生が着目するようなうがった見方はされなかったですね。お二人ともかぶきという家で出た土器をみられたんですが、柳田先生は何もいわなかったですが、折口先生は「岩山や田畑をほりかえし、石器や土器に興味をもつことは非常に幸せなことです」と村人たちに向かってあいさつをされたのが、今でも印象にのこっています。

 関さんが帰り際に「世界中の人が幸せにならない限り、私は幸福になれない、ということばが私を生涯励ましてくれました」といわれたが、それは栁田国男の学問が「なぜ農民は貧なりや」から出発して、救世済民を民俗学の目的としたのに相通ずるものを感じました。(文責 寺田一雄)
◇参考文献
関 勝夫「柳田国男と新野の盆踊」『伊那』1987.8
関 勝夫「折口信夫と雪まつり」『伊那』1988.3

「伊那民族第2号」柳田国男記念伊那民俗学研究所『伊那民族』1990年8月5日発行

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