小島烏水の絵

烏水が住んだ丘

日本山岳会創立発起人7人のひとり、「亡びゆく森」小島烏水...①を読んで当時の居宅があった横浜市西区西戸部町を歩いてみました。この横浜港に近い丘陵の町を調べてみると、幕末から戦前までの間、横浜港の発展とともに重苦しくも興味深い歴史が垣間見えます。

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横浜真景一覧図絵 1891年(明治24)(横浜開港資料館)...②

烏水は横浜商業学校{現・横浜市立横浜商業高校(通称Y校)の前身で後に南区南太田に移転}を1892年(明治25)に卒業しました。現・JR桜木町駅(当時は横浜駅)から弁天橋を渡った横浜市中区本町六丁目にあり、皆が「豚小屋」と呼んだ粗末な平家建でした。

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左より1881年(明14)、 1903年(明36)、現代地形図 ...③横濱時層地図

烏水の住居は、横浜港から直線距離1.2kmぐらい西方の丘陵地帯で山王山と呼ばれていました。父親が港湾税関職員だった関係で、税関官舎(現横浜税関西戸部寮)に住み、その後も一家で近くの住宅で暮らしました。

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横浜税関西戸部寮

私は中学校の裏から、久保山へ抜ける森の中の落葉道で、その一人にひょっくり遭ったことがある、継ぎはぎの着物ながら、首から肩へかけて、ふっくらした肉の輪廓が、枯れ残った櫨(はぜ)の赤い葉蔭に、うす暗く消えて、引き締まった浅黒い円味のある顔にパッチリとした眼が、物思わしげに見えた、無言で行き遭って、無言で通り過ぎたが、ツルゲネフの少年時代に、森蔭で農奴サアフの少女に、髪の毛をいじられたことを、四十年も後になってから、生々と描いていることを思い出した。
「亡びゆく森」小島烏水...①

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久保山墓地

中学校から久保山墓地経由で自宅へ帰った時に貧しい服装の少女と出会った風景を思い出しています。

久保山の人を焼く煙(中略)豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名(あだな)があって、特殊の部落も、その窪地にある。
 「亡びゆく森」小島烏水...①

新開港場の横浜にあって、後からきた者たちは丘陵地に住み始めたが、戸谷に住んでいる彼らの方が先入主人である、と言っています。

森林の壁一重を隔てて、内には寺院があり、墳墓があり、孤児院と救護所があり、赤い旗を立てた、山桜の美しく咲く稲荷いなりがある、外には工場があって、煙突から煙を吐き、自動車が臭い瓦斯ガスを放散して時には人を引き倒して、後をも見ずに駈け出す、芝居と、遊廓と、待合と、料理屋があって、そこに、「悪の華」が咲いている、森は動的生活と、静的生活を仕切る壁であつた。(中略)いずれも生活の敗残者であろう、この森の中で、首縊(くびくくり)が二人ばかりあつた、人目を避けるに、都合がいいとは言ひながら、不思議なことに、死ぬ人は原始的に安息な自然を選ぶ。(中略)鋸や規尺を持って入り込むものが、毎日ふえて、森の中でも目ぼしい木は、鋭い利鎌とかまで草でも薙ぐように伐きり倒され、皮を剥がれ、傷つけられ、それから胴切にされてしまう、今までは私の宅の周囲も、森林で厚肉の蒼ぐろい染色硝子ステンドグラスを立てていたが、一角だけを残して、殆んど全部が、滅茶滅茶に破壊された
「亡びゆく森」小島烏水...①

この地域は無法者たちが森林を破壊し、あとから入ってきた住民たちの脅威になっていました。弟の小島栄によると、烏水は明治文豪たちの生の原稿を収集していました。露伴、鏡花、天外、水蔭、柳浪らの肉筆原稿のほか、尾崎紅葉の「金色夜叉」には何度も加筆訂正した筆者の苦心の跡がありました。震災では家は助かりましたが、附近在住の心なき暴徒によりこれら貴重な原稿のほか、珍品や広重の肉筆の秘画など、全部略奪されてしまっています。 

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孤児院のあった場所は保育園になっていた

西戸部町を歩いてみると、瀟洒なマンションや高級住宅が立ち並んでいます。烏水の住宅だったと思われる場所(横浜市西戸部町八九八)は「横浜税関西戸部寮」のそば。1903年(明治36)の地図に「救護所」、「孤児院」の文字が見られ、現在は「三春台公園」と「横浜市立三春台保育園」となっています。さらに南太田駅の方へ下っていくと若干のバラック小屋が残っているものの住宅としては使われていないようでした。

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旧・横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)

小島烏水は1873年(明治6)12月に香川県高松市に生まれました。本名は小島久太でしたが、ペンネーム「小島烏水」を名乗りました。登山と文筆活動に励み、日本山岳会創立メンバー7人の代表格でした。とはいえ他の創立メンバーと違って、横浜正金銀行(東京銀行→三菱UFJ銀行の前身)の一行員。

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兄・小島久太の思い出(小島栄)より抜粋 

若年時代から新聞や雑誌の懸賞小説に当選し、賞金を稼いでいたが、おやじが台湾や清水港の支署の税関長(勲章も拝受している)を退職してから、長男のため大勢の家族を独力で養ったので、正金銀行の役付きになるまでは辛酸を嘗めたものだった。昼は銀行員でありながら、雑誌「文庫」の編集記者としてはたらき、そのかたわら『太陽』や『明星』その他で稿料を稼いでいた。
新編日本山岳名著全集月報-6...④

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自宅から職場(横浜正金銀行)まで25分1.9km

しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、白峰しらねの紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。
「紀行文家の群れ 田山花袋氏」(アルピニストの手記)...⑤

烏水が若い頃、お金に苦労していたエピソードです。山、文学、氷河研究、浮世絵研究等あまりの多才さに出費がかさむのもわかります。


横浜港の発展と負の歴史

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1881年(明治14)の地図には「監獄署」の文字

昭和戦前期までの地図を見ると池が確認されますが、戦後に埋め立てられ、現在はすべて住宅になっています。戸部刑場で首を切られた囚人たちの死体が、「くらやみ坂」を通って願成寺に運ばれる途中、この池の水で血を洗ったとも。

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刑場跡のもくせい公園にあるくらやみ坂の碑と祠

保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ「保土ヶ谷道」は、藤棚商店街を抜け願成寺の下の道から「くらやみ坂」を登って「横浜道」に合流し、横浜開港場へつなぐ物流の道でした。

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願成寺にある外国人殺害で処刑された鳶の子亀と清水清次、間宮一の墓

幕末の横浜港開港と同時に「戸部牢屋敷」、「戸部処刑場」が設置され、「鎌倉事件1864年(元治1)」...⑥、「鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)1866年(慶応2)...⑦」で外国人殺傷事件の犯人が、獄門、はりつけにされています。

外国人に関する罪人ということで神奈川奉行所に引き渡され、戸部牢屋敷に入れられました。

アーネスト・サトウは、英国公使館の書記官として、殺害現場の検証から犯人の処刑の様子までつぶさに観察し報告書を書いています。

それは実に気味の悪い光景であった。最初の一撃と同時に、イギリス陸軍砲兵隊によって大砲が発射され、暗殺者の処刑が終わったことを一同に知らせた。そこで、私たちはできるかぎりすみやかにその場から立ち去った。罪人の首は横浜の北口の橋(吉田橋)のところへ持ってきて、三日間梟架の上にさらされた。...⑧(中略)この暗殺者を憎まずにはおられないが、しかし日本人の立場になってこの事件をみると、正直のところ私は何としても、この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった。しかし、日本の暗殺者の刃に仆れた外国人の血も、またその報復として処刑された人々の生命も、やがて後年その実をむすんで、国家再成の樹木を生じさせた大地に肥沃の力をあたえたのであった。
...⑨アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新(上)」岩波文庫

参考資料

表紙 小島烏水「日本アルプス」(近藤信行編・岩波文庫)
    挿絵左:茨木猪之吉画「山上の烏水」1912年(明治45)
    挿絵右:茨木猪之吉画「石室の烏水」1927年(昭和2)
茨木猪之吉(1888-1944)昭和19年10月、涸沢小屋を出発後、消息を絶つ
...①小島烏水「亡びゆく森」 (「日本の名随筆21 森」・青空文庫)
...②横浜真景一覧図絵 1891年(明治24)(横浜開港資料館)
...③横濱時層地図 iPhone版
...④新編日本山岳名著全集月報-6「兄・小島久太の思い出(小島栄)」
...⑤小島烏水「紀行文家の群れ 田山花袋氏」(アルピニストの手記・青空文庫)
...⑥鎌倉事件 元治元年(1864年)

元治元年10月22日(1864年11月21日)、イギリスの横浜駐屯歩兵第20連隊付き士官ジョージ・ボールドウィン少佐とロバート・バード中尉の2名が、鎌倉で惨殺された。幕府は下手人を捜索していたが、蒲池源八と稲葉丑次郎を捕縛。11月18日、横浜戸部の刑場において斬首した。11月25日、犯人の1人、元谷田部藩士清水清次が捕縛され、11月28日、横浜市中引き回しの後、翌11月29日、戸部にてイギリス守備隊分権隊の見守るなか斬首、吉田橋にて梟首された。翌慶応元年9月11日、清水清次の共犯者、旗本内藤豊助家来間宮一が戸部で斬首、吉田橋で梟首された。
Wikipedia「幕末の外国人襲撃・殺害事件」


...⑦鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)慶応2年(1866年)

慶応2年2月、酒に酔った2人のフランス水兵が、今の横浜公園にあった港崎町の遊廓に入って乱暴を働いた。乱暴を見かねた力士の鹿毛山長吉が取り押さえ、駆けつけた鳶職の亀吉が鳶口で殴打、1人を即死させた。亀吉は下手人として処刑され、鹿毛山は追放された。
Wikipedia「幕末の外国人襲撃・殺害事件」

...⑧長崎大学 日本古写真アルバム ボードイン・コレクション「6177 ワーグマンの絵(清水清次のさらし首)」
...⑨アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新(上)」岩波文庫

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