見出し画像

アルプス一万尺

9月14日-15日、「アルプス一万尺」の歌で有名な小槍に3人で登ってきました。1万尺=3,030mですが、GPSだと3,060m前後を表示。

敬老の日を含む3連休は好天が予想されていたので、大槍は上の写真のように大渋滞で早々にギブアップ。小槍の取りつきまでは槍ヶ岳山荘のヘリポート裏手より脆いルンゼのトラバースから始まります。帰路に使おうと2本のステンレス・アンカーにクイック・ドローを残置しましたが、帰りに見ると新しい方がしっかり盗まれていました。

先行は2パーティ7人、後続は1パーティー2人。取りつきで1時間ほど、懸垂で30分ほど待たされましたが天気が良かったので助かった。

画像4

1ピッチ目は2級15mのチムニーでいったんテラスでピッチを切ります。2ピッチ目はカンテを5mほど登った後、スラブを左に7-8mトラバースして、チムニーに入ります。チムニーを5-6m登ったあとカンテ状のフェースを7-8m登って、スリングが束になった懸垂ビレイ点に到着、4級30mほど。

ルートはジグザグに屈曲するのでダブル・ロープが有利。残置ピトンはたくさんある。ビレイ点から山頂までは稜線通しに10mぐらい歩くが、狭い山頂に先行の5人が休んでいるので石を落とさないように慎重に登頂。

画像4

大槍を望むと大勢の登山者が列を作っています。山頂でお決まりのアルペン踊り。私が「アルプス一万尺」を歌い始めると「その歌アメリカの歌だよ」とニックが言う。あとで調べてみると、「ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)」というアメリカの民謡でした。独立戦争時の愛国歌だそうです。

懸垂下降の準備。アンカーは2か所あるが、右(2ピッチ目の終了点)は先行パーティが使用中だったので、左のアンカーを使用。ステンレス・ボルトとワイヤーでしっかりしている。直線的に懸垂すると、取りつき点よりさらに下方に降りてしまうため途中でカンテを乗越し、取りつき点にまっすぐ下るが最後の12-13mは空中懸垂。60mロープ2本使用したが50mでも十分。

小槍懸垂下降

古野が先に下って懸垂終了後は、ロープの末端を握る。万一懸垂中に手を放してしまった場合、末端のロープを引いてやると摩擦が増えて止まってくれるはず。

3人無事に下って、往路を帰ろうとしたところで、ニックが「iPhone忘れた」と言う。山頂に忘れたか、途中で落としたようだが、もし見つけたら連絡をいただけるよう、槍ヶ岳山荘に名刺を置いてくる。せっかくの写真をすべてなくしてしまってしょげていた。

槍ヶ岳山荘でカラカラののどを潤して、15:00に出発し、21:48にヘロヘロで上高地帰着。風呂に入って酒も飲まずに爆睡。

9月14日(土)晴れ
11:44上高地山研発
15:40槍沢ロッジ着

9月15日(日)晴れ
05:00槍沢ロッジ発
09:20槍ヶ岳山荘着
09:50槍ヶ岳山荘発
11:30登攀開始
12:30小槍山頂
13:15懸垂下降開始
14:00取付き点到着
14:40槍ヶ岳山荘着
15:00槍ヶ岳山荘発
17:45槍沢ロッジ
19:02横尾山荘
20:00徳澤園
21;48上高地山研

画像2

大槍の初登頂はご存じ播隆上人と案内人の中田又重郎

三郷南小倉の豪農中田又重郎は飛騨新道(小倉~鍋冠山~大滝山~蝶ヶ岳~上高地~中尾峠~飛騨)建設工事の陣頭をとっていました。この建設中のルートを利用して播隆を案内し1828年(文政11)7月28日に登頂。山頂に仏像3体を安置して「開山」

その後、天保年間にロープやクサリも付けられて、多くの登山者(巡礼者)が登るようになりました。

小槍の登攀史

小槍の登攀史を紐解いてみます。

小槍初登攀

1922年(大正11)夏、信濃山岳会の土橋庄三と、有明の案内人中山彦一が南面ルートより初登攀に成功しています。中山彦一はすでに岩登りの名人として知られていました。

「切れたザイル ―小槍登攀史上、初の犠牲者― 」小島隼太郎(小島烏水の長男)より抜粋。

宇治達二「山の人々」(同人誌「岳」1929年(昭和4)発行)によると、

『岩場に於いての彼(中山彦一)の確実さは驚異に値する。小槍の写真を撮る為に鞍部から殆ど頂上まで角を登り、相当ひどいオーバーハングを登った。』

この一文の最後のくだりを読んだ私(小島隼太郎)は、正直のところ呆れた。(中略)岩場ではザイルと供にピトンが使用されていた時代に、バランスと腕力に物をいわせて『相当ひどいオーバーハングを登った』中山の技術には、宇治ならずともあの当時の技術水準よりすれば『驚異に値する』ものであろう。この中山も常念で吹雪で凍死した有明村の案内塚田清治等の遺骸引き下ろし作業のため、1932年(昭和7)3月29日、一の沢で雪崩に巻き込まれて生命を絶った。二重遭難事件であった。

この後に小槍で初の死亡事故(ザイル切断事件)が発生したが、本文とは直接関係ないため省略。(詳細は「参考資料」のリンク参照)

すでに小槍は3000mのゲレンデと化していますが、最初に登った中山彦一はアドレナリン全開だったことでしょう。

「山岳 第一年第三号」にある「徳本峠と槍ヶ岳 河邨白水」によると、1906年(明治39)8月9日、大槍に登る前、小槍に登ったとの記載を見つけた。

ついに信濃飛騨分け目の馬の背に立って前と後ろを較べる。槍に登る前に先づ南の方の小槍に上って左梓川の渓谷、右蒲田渓谷の中央に立って四方を眺める。

小槍は大槍の北西に位置しますが、「南の方」と言っているのでおそらく現・槍ヶ岳山荘の南にある大岩のことを小槍と勘違いしたのだと思われます。

秩父宮殿下はオックスフォード大学留学中、1926年(大正15年)8月の1ヶ月間でスイスアルプスに出かけマッターホルンやヴェッターホルンなど10数座を登攀されました。岩登りがお得意な殿下は、1927年(昭和2)8月26日、小槍に登攀されています。

登攀は準備さえ十分にし、慎重に登るならば、岩は堅いし、危険はない。むしろ岩登りの練習としては少しあっけないかもしれないほどだ。ところが大槍の山稜が小槍を回って、ちょうど誂え向きの桟敷を造っているものだから、新聞社の人はもちろん、県庁、営林署などの人々まで、数十名がずらりと見物席についたのである。僕らは実に花形役者として、小槍を舞台に、岩壁登攀の冒険を演じたのである。見物料を取ったら、小屋の一つも作れたろうに惜しいことをしたものだ。
山は、山に登ったものだけが、その美しさを味わえる。(中略)山登りはトリックではできない。一歩、一歩、確実な歩を運んではじめて目的が達せられる。自分も今後はこの心持を忘れないで世の中をわたりたい。

参考資料
1)百瀬慎太郎と登山案内人たち(大町登山案内人組合創立100周年記念)
2)青山学院大学体育会山岳部OB会 №30(1989年1月1日発行)
3)日本山岳会『山岳』第一年第三号
4)喜作新道(山本茂実著 1971年10月25日発行 )朝日新聞社 
5)わたしの山旅(槇有恒著 1968年2月20日発行)岩波新書
6)思い出の記(秩父宮雍仁親王文集 昭和39年8月10日発行)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?