無用の人 原田マハ
意味
自分にある一見すると偉大に思える能力や性質が実はちっぽけなものだということに気付けない者は、他人にある一見するとちっぽけに見える能力や性質が実は偉大なものであるということを見逃してしまう。
岡倉天心の言葉について、思うこと。この小説の中のお父さんは、「美を慈しむ」という感性がありながら、それは日常生活に役に立たない資質であると、ちっぽけなレッテルを自分に貼った。
母親が子供に、お父さんは役に立たないと愚痴って、子供がそれを間に受けて、洗脳された様子が見られる。ニュートラルに、俯瞰的に人を見るっていうのは、子供の年齢ではとても難しい。そして、会社から、不当なリストラをされる。
それでも、私は、「パートナーの評価に流されず、お父さんが、もっと、積極的に子供と関わることができたなら。」という思いで一杯だ。
この世の中、天心のような智人は稀である。だいたいが、未熟で、エゴイストで、ナルシストである(自分を含め)。お父さんが、この本の中で、唯一の天心であった。だけど、唯一は、いつも殺されるのだ。特に、博学な唯一は。理解者がいない限り。理解者がいなかったら、レッテルに卑下せず、戦わなければならない。でも、お父さんは、戦いを放棄した。(諦めてしまった。)
DNA
センス、学力は、やはり遺伝である。その上に楽しんで続けることによって、その才能が開花する。娘は、父親譲りの天性があり、それを職業にして、幸せになった。そして、それを父親はとても喜んでいる。母親にはそれを理解できない。
後になって、娘は父親の審美眼に気づく。
幸せに生きることと、仕事での成功が一致するとは限らない。社会的に無用であったかもしれない父親は、でも、年に一度の桜の美を堪能して、幸せだったのではないかと、私には思えた。そして、それは娘に継承される。だから、このエッセイは、本のタイトルの あなたは誰かの大切な人につながるんだなと、気づいた。
ロスコの絵を前にして、父親は、自分の悲観、アイロニー、そして10%の幸せを感じたのかもしれない。幸せとは?ということをふと考えた。