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「きのう何食べた」を見て、幸せに浸る

ぼくの今日の晩御飯は、炊き込みご飯だった。『きのう何食べた?』のシロさんが作っていたあれだ。

炊き込みご飯のレシピは何度も見たことあるが、実際に作ったのは1回しかなかった。それなのに、シロさんとケンジに出会ってからというもの、今月だけでもう2回も作っている。多分、これからも2週間に一回くらい作るだろう。簡単で、おいしくて、そしてそれを食べてケンジ同様に、「おいちい〜」と目を輝かせる妻を見るのが、たまらなく幸せだからだ。

流行にはいつも乗り遅れるぼく。このドラマも、高評価の記事を度々目にしながら、2021年10月まで、一度も見たことがなかった。内野聖陽は名優だ、西島秀俊の演技も安心してみていられる、しかも個性的なテレ東の深夜ドラマ、一度くらいは見てみても良さそうなものだが、LGBTというのがどうも引っかかった。差別とかではなく、ぼくの先入観で、「ゲイカップルの話ってのは、どうも重苦しくなるんだよね」と思い込んでいたからだ。最初に放送された2019年ならまだしも、コロナが始まってからは何もかもが苦しく、日々自分を奮い立てせながら生きていかなければならなかった。この間、2年に詰め込むのにあまりにも多すぎる出来事があったはずなのに、ぼくの頭にはなにも残らず、ただ心の中に2年ではとても薄められない苦しみだけが募った。「こんな世界、壊れてしまえ」と、呪詛の言葉をつぶやいたのも一度や二度ではない。そうした状態の自分に、なおもLGBTの苦しみを共感させるのが、ひどく億劫に感じられた。

それが、いざ視聴してみたら、苦しいどころか、幸せだけが残った。シロさんとケンジさんが仲良さそうにしているシーンはもちろん、料理、食事、買い物、仕事、おしゃべり、ただそこにある日常の繰り返しが、シロさんの一つ一つの手料理の如く、得も言われぬ甘美な後味を残していったのだ。不幸せがないわけではない。ドラマと映画が苦痛を故意に覆い隠したわけでもない。シロさんの両親が息子に「もう実家にパートナーをつれてこないでほしい」と言うのにはこちらの胸が痛み、ケンジが母、姉と一緒に孤独死したろくでなしの父親の悪口を言い合うのに泣き笑いした。ほかの登場人物だって、浮気、離婚、親権争い、果てには冤罪疑いもあり、まさしく「不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」状態で、不憫や同情を誘うシーンはいくらでもあった。それでも幸せだけが残ったのは、シロさんとケンジが、最初から最後まで、なにがあっても、2人でいるときは実に幸せそうにしていたからだ。ケンジの言う通り、「他の人が嬉しそうにしているのを見るのって、こっちも嬉しいじゃない」のだ。

この2年間のぼくは、いわゆる成功者の喜ぶ姿の見ても、一緒に喜ぶどころか、むしろ「喜んでいられるのも今のうちだ」と恨み節を口にするほどだった。そのたびに自分が落ちぶれたと感じ、人間として劣ってしまったことを悔やんだが、シロさんとケンジのおかげでそうではないと確信することができた。だって、本当に幸せそうなあの二人を見たとき、ぼくは充足感しかなく、ネガティブな感情が一気に吹き飛んだからだ。ぼくが成功者を呪うのは、彼らがちっとも幸せじゃないのに、何の意味もない成功を無理に喜び、自分を騙してまで喜び、そうして虚偽の幸せの蔓延を手助けするのを恨めしく感じたからだ。幸せはそんなに偉いものじゃない。食べて、おしゃべりして、眠って、働いて、笑って、そしてときには泣いて、喧嘩して、人生どうしようかと迷って、家族や同僚との人間関係に悩んで、眠れなくなるほどに苦しんで、それでも日が昇れば起き上がって、そうした暮らしの一コマ一コマを、どれもみな同じようにみえる暮らしを、ただそこにあるものとして受け入れる、そのことが、実は幸せへの最短距離なのである。そうした幸せへの気付きを与えてくれたドラマと映画、シロさんとケンジ、西島秀俊と内野聖陽と山本耕史と磯村勇斗と田中美佐子に、ぼくは心より感謝を贈りたい。

そして、ドラマを1週間で見終わり、映画をも見てしまった今、ぼくの心にぽっかり穴が空き、中学生のときに『もののけ姫』を見て以来のロス状態に陥っている。ああシロさんに会いたい、ケンジに会いたい、大策さんでもいいから会いたい。あまりにも会いたいが故に、数日前にはとうとう自分が男と手をつなぐ夢を見て、夢の中で必死に「これは夢だこれは夢だ」と念じたほどだ。テレ東は年末スペシャルに孤独のグルメをやると決めたようだが、頼むから、『きのう何食べた?』のシーズン2、できるだけ早く!

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