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魯迅に関する著書を何冊かご紹介

これまで、4回続けて魯迅の作品を読んできた。最後の「起死」以外、どれも学生時代に何度も読んだことのある作品だが、歳を重ねるに連れ、さらにコロナ禍で世界と中国に対する見方が変化したため、以前と全く異なる感慨を持つに至り、長々と書いてきた。ほかにも取り上げたい作品がいくらでもあるが、魯迅にかかりっきりというわけにもいかないので、このあたりで魯迅自身の作品から離れることにする。

離れる前に、魯迅を読む上で大変お世話になった本を数冊ご紹介する。このブログの記事は、読み始めてから書き上げるまで1週間を目処に執筆しているが、魯迅の場合は読むのが速くても、書くとなるとなかなか筆が進まなかった。ぼくにとって魯迅があまりにも巨大すぎて、どこから手を付ければよいのかわからないためだ。そんなときは、今にらめっこしている作品を取り上げた研究書や論文を読む。すると、どんなに高名な学者が書いたものでも、「いや、そうじゃないだろ」と違和感を持つ箇所が必ず出てくる。そこで本を置いて魯迅に戻り、違和感の正体を確かめる。それを何回か繰り返すうちに、思考の方向性が定まってきて、「これならなんとか書けそうだ」となる。したがって、心折れず、方向を見失わずに4回書けたのは、ひとえにこれら立派な先行研究のおかげだ。

魯迅に関する先行研究の量は膨大である。日本語のものだけでも100冊以上はある。時間に限りがある今のぼくの生活では、すべてに目を通すのは不可能で、執筆の際に参考したのもほんの数冊のみだ。そのなかで、魯迅が生涯の各時期になにを経験し、その時期にどの作品を書いたのかがわかりやすく示されたのが、片山智行の『魯迅 阿Q中国の革命』だ。魯迅に興味を持ち、この人物の輪郭を知りたいのなら、読みやすい新書ということもあって、この本が最適だろう。ただ、魯迅作品に対する読解では首肯しかねるところも多い。片山が特に重要視したのは魯迅が使った「馬馬虎虎」(「いい加減な、不真面目な」の意)という言葉で、魯迅が終始中国や中国人の「馬馬虎虎」を批判し続けたというが、それでは魯迅を単純化させすぎている。近代批判、文明批判、人間存在への反省など、より深く掘り下げて読むべきだ。

作品の深読みなら、代田智明の『魯迅を読み解く 謎と不思議の小説10篇』がすばらしい。10篇といっても、ほかの小説や雑文を随時参照したりするので、魯迅の創作全体を理解することにつながる。また、代田は魯迅が身を置く時代背景に配慮しながらも、完全に引っ張られるのではなく、ときには大胆に自身の体験を中心に読解を試みる。たとえば、夢破れた旧友との再会を描いた小説「酒楼にて」については、それを森田童子の「ぼくたちの失敗」を比較し、魯迅の心境と大学闘争の熱気から冷めた日本の若者ーーおそらく代田自身の心境でもあるーーと並列させる。これにより、魯迅が一気に現代人一人ひとりにつながるのである。

「現代人から見て魯迅の作品にどんな意味があるのか」を知るのに最適なのが代田の本だとすれば、「魯迅という人間は一体どういう人だったのか」を知りたければ、山田敬三の『魯迅 自覚なき実存』を推したい。ぼくも魯迅から実存を読み取ろうとしたが、それはあくまで彼の晩年の作品にしか現れていないと考えている。それに対し、山田は魯迅が最初から最後まで実存主義的思考を貫いたと読む。しかも、作品を作者から切り離して考えようとする流行りの文学理論に背を向けるかのように、山田は魯迅その人と作品を同じ地平で捉え、数十年前と全く同じ手法で検討する。軽やかなフットワークで流行を追いかけるのではなく、学問に誠実な学者の姿がここにある。

上記の3冊は、いずれも文学者魯迅と同時に、思想家の側面を強く推す。それに対し、藤井省三の『魯迅と日本文学 漱石・鴎外から清張・春樹まで』は、魯迅と日本の文学者の作品の相互影響、作品感の相似性によって作品論を展開するかわりに、思想面には深入りしない。それよりも、松本清張と村上春樹に触れている点、さらに一箇所のみだったが『嫌われ松子の一生』と魯迅のとある作品の相似に言及するなど、単なる中国文学ではなく、日本文学、ひいては世界文学にとって、魯迅がインスピレーションの源泉になれることを示唆しており、魯迅をよく知らない日本の読者にとっても大変親しみやすく仕上がっている。

ほかにも、丸川哲史の『魯迅と毛沢東 中国革命とモダニティ』佐高信の『いま、なぜ魯迅か』も興味深く読ませていただいた。前者は魯迅を毛沢東と並べ、欧米のモダニティと異なるモダニティを構想した人物として描く。ただ、毛沢東の場合はそう言えても、魯迅がモダニティを構想したとは思えず、丸川の読みは魯迅を毛沢東の方に引き寄せすぎている感がある。後者は忖度がはびこる日本を反省し、魯迅から抵抗と批判を学べと声高に叫ぶが、魯迅を中心に扱った箇所があまりにも少なすぎる。彼の抵抗と批判の根拠が深い哲学的思索にあることを、もう少し明示しなければ、魯迅がなぜ抵抗・批判し続けたのかがわからなくなってしまい、本書の立脚点が崩れてしまう恐れがある。

そして、日本語で魯迅を読むのなら絶対に読むべきなのが、竹内好の『魯迅』だ。戦時中に書かれたこの本は、学術書というより竹内好の遺書である。ロクに資料が手に入らなかった時代に、竹内ただ魯迅のテクストに向かい、ある意味独断によって覚書のように書いた。その筆から溢れ出たのはもはや魯迅だけではない。読解を通して竹内は自己を発見し、自己の精神を持てるようになり、その上で戦後にあれだけの近代日本への根源的批判を展開できたのである。魯迅が絶望した状況は、まさしく竹内好自身が絶望した日本でもあった。だから、どうしても中国文学、中国思想と見られがちのこの本だが、実は丸山真男の『日本の思想』同様、近代日本を理解する上で必読だと思う。

さて、本としての価値はもしかしたら上記のいずれにも及ばないかもしれないが、最初のページで心打たれた本を次回取り上げる。尾崎秀樹の『魯迅との対話』である。

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