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❤️BMW野々宮のリトアニアへの感傷的な旅行NEW 10/17❤️

野々宮とは30年来の友人だ。私が佃島に住み始めた頃に手紙をよこした。メールではない。手紙である。その冒頭にこれはファンレターではありませんと書いてあった。だからそれ以来30年間で近くファンレターではないお付き合いをしている。

一昨年の秋であったか、マイレージがたまったのでリトアニアに行ってヨナスめかすの生まれた村を訪ねたいと野々宮は言った。その場所はジョナスめかすの映画で我々には有名なところで、リトアニアの北部の何もない農村地帯なのである。この親孝行な息子はアメリカに亡命してから28年ぶりに母親を当時の社会主義体制の故郷に訪問するのである。

これが有名なジョナスめかすのリトアニアへの感傷旅行と言う映画だ。その映画に封じ込められた70年代の光景はそのまま私にとってはオーストリアに住んでいた7年の記憶とオーバーラップしてくる。めかすはリトアニアに母親を訪問してからかつて自分が収容されていたハンブルグ近くのコンセントレーションキャンプも訪問している。そしてオーストリアウィーンにも来ている。それが1971年の話だからめかすと私とはウィーンで遭遇することはなかった。

でもオーストリアウィーンに私が住み始めたのは1973年であるから、2年位の誤差はニアミスと言ってよいであろう。それで1973年にwinのオーストリアフィルムミュージアムでまとまった彼の映画を20時間位見たのである。私は映画に関しては商業映画は全く見ない主義であるからこれは私の過去半世紀の映画を見た時間の中では非常に特殊な体験なのであった。

ジョナスめかすの名前は日本で既に知られていたが、誰もその映画を見た人間はいなかった。当時は上映会と言う場所がないと誰も映画を共有することができなかったからだ。今はインターネットあるし私の嫌いなアニエスベーが何を思ったのかジョナスめかすの前映画作品をDVDのセットにしてくれた。だからジョナスめかすの映画はいつも私の手の届くところにある。

でも皮肉なものでそうなってしまうと、人間は自分の幸せに気がつかないのである。だから私は手の届くところにジョナスめかすの前映画作品があるにもかかわらずそれを見るということがない。

大映画作家にあったとかなんとか言うことも個人の体験としては何のプラスにもならない。でも私は事故みたいなもので1983年の11月と12月にジョナスめかすに遭遇している。最初はマンハッタンの漏話イーストサイドで、2度目は東京の原美術館であった。

2度目に原美術館で会ったときに私はジョナスめかすの口から母上が亡くなったことを知らされたのであった。リトアニアへの鑑賞的旅行の中で田舎道をてくてく歩いてくるほっかぶりのお母さんの事だ。彼の母上は家の中で炊事をするのは嫌いでいつも青天井の下でジャガイモのパンケーキを焼いたりする本格派なのであった。

野々宮はそのリトアニア北部のカンツリーに行ったのである。時差が7時間あるけれども私は野々宮の行動をずっとワッチしていた。深夜に驚きがもたらされた。彼はめかすの生誕地の場所に立って360度彼のiPhoneでPanningをしたのである。こーゆー戦闘的なカメラワークと言うのは映画の巨人ジョナスめかすですらやった事はなかった。

野々宮のiPhoneはカメラが360度回転した後でゆるゆると進行して1つの記念碑に接近するのである。そのモニュメントの上には見覚えのあるハットが置かれている。これはジョナスめかすが被っていたトレードマークのあのハットであるらしい。

つまりジョナスめかすの1連の故郷に対しての感傷的旅行の映画のエピローグは野々宮が完成させたと言うことになる。

ジョナスめかすを追悼するリトアニアへの感傷的旅行。

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