アイドルミニコミ『W-IDOL』 Vol.2 「on the road of AKIBA」の感想と坂道アイドルを「語る」こと

はじめに

 本稿は『W-IDOL』のVol.2を読んだ上で、特に関心を惹かれた2篇について感想を寄せたものと、坂道アイドルを語ることについて個人的に感じていることを書き記していくものになります。文フリでは『W-IDOL』の存在に気づいておらず悔しい思いをし、通販で何が何でも買うと決めていたので、届いたその日に読破しました(通販最初の注文だったらしい)。それではどうぞ。

りりい 「ジャニーズファンは語ることができるか」

 著者のりりい氏はジャニーズファンの女性であり、この論考はそうした「女性ジャニーズファン」がジャニーズについて語ることは可能なのか?という問いを投げかけるところから、冒頭では歴史的な「女性が語ること」への抑圧の構造と、ジャンルとしての「ボーイズバンド」に類するジャニーズへの世間の視線を「ジャニーズ<なのに>優れている」という言説がかえってその偏見を強固にしてしまいうるという図式を指摘しています。

 女性アイドルの男性ファンによるアイドルについての語りというのはこれまでも数々見られてきましたし、ご多分に漏れず私もまたそうした一員になっているので、こうした「語ることそのもの」へのある種無力感にも親しいような感覚を抱きながらも、独特の語彙でもって「なんとか語ろうとする」というジャニーズファンの女性による語りの形は、これまで相対的にはなかなか可視化されて来なかった(あるいは独特の表現と文化によって「中心」から距離を置いた)ものであると読み取ったとともに、著者自身の「語り」がこうした図式への抵抗になっているなとも感じました。

 また、「語りの代理」とジャーゴン(専門用語、隠語、俗語の意)はたしかにジャニーズ(および昨今の男性アイドルグループ)においても見られる現象という印象はあり、それこそ男性ジャニーズファンとしての元日テレアナウンサーの青木源太氏であったり、論考の中で触れられていたマキタスポーツ氏であったり、近しい図式で言うならばJO1における吉本芸人(はんにゃ金田氏など)による語り(ただこちらはプデュ自体に吉本が絡んでいるので構造としては異なる)など、(若干センシティブな比較をしたことは自覚がありつつも)語りの代理でもって自ジャンル・自グループのプロップスを高めていると感じられる部分がありました。

 「語りの代理」的な意味では私自身も最近JO1のライブに参戦した感想のnote記事をアップしたところ、JAM(JO1のファンの総称)の方々の反応を多く頂いたという経験があり、こうしたファンダムの違いはあれども「女性アイドルファンの男性」による男性アイドルについての語りは、こうした構造を内包しうるのかもしれないなと。(下記がその記事です)

 こうした様々な構造と要因によって「語る」ことが難しい状況になっている中でも、「わたしはわたしだけを表象する」(p.26)という著者の姿勢は、女性アイドルを語る男性ファンとしての私自身にも示唆に富む論考でした。

※作間龍斗くんが出演していた「ひらいて」を渋谷のHUMAXで観賞したのですが、山田杏奈、芋生悠というきっての若手俳優の中でも存在感を見せていたと感じましたし、たとえが肉体をもって立ち現れた感がありました(原作も読んだ上で)。本作は「目」とか「視線」の演技が白眉だったと思いますが、その微細な表情をあの役の中で表現していたのがとても印象深かったです。

生きる 「ってか論 〜仕組まれし日向坂〜」

 冒頭に書き示しておくと私は金村美玖さん推しなのですが、そんな彼女が初センターを努めた表題楽曲が『ってか』というタイトルだと発表された際はまあずっこけましたし、楽曲を聴いたりMVを見て評価を回復しながらも、そのタイトルへの違和感とアルバムアートワークの脈絡の無さは拭い去れず、結果今でも『ってか』と口に出すことは憚られるので頑なに「6枚目」と口にしている斜に構えたオタクであるということは予め(半ば懺悔として)提示しておきます。
 その上で、日向坂をはじめとするいわゆる坂道系、またAKB系列もそうですが、ある種「秋元康という呪い」とその構造に無自覚でいることは、その箱庭的な閉じた世界観の中に彼女らを押し込むに近しい行為であり、ファンダムによるそれらの再考と語りが、今後10年またはそれ以上先の「坂」を作っていく上で重要なことなのではないかと感じている部分でもあります。

 著者の生きる氏は本論考において、大きくけやき坂46〜日向坂46の歩みを、そのキーファクターである長濱ねると彼女に端を発する現日向坂メンバーのグループに対するアイデンティティ形成の経緯を追うとともに、日向坂46時代になってからはその楽曲に込められたテーマやドラマにおける主題の変遷を紐解きながら、「日向坂らしさ」を模索するという試みを本論考の中で実践していました。「坂道を語る」ことについては次章に任せるとして、ここでは氏の論考を追う形で「けやき坂/日向坂」から立ち現れるものについて思いを馳せてみたいと思います。

 けやき坂46の象徴であった長濱ねるは、そのオルタナティブ性と等身大性を、現在の日向坂46に続く遺伝子として残している、と氏は書いています。当時けやかけ(欅って、書けない?)を初回からリアルタイムで見ていた私は、欅坂1期生のメンバー紹介回が終わったのもそこそこに「新メンバー加入!」の報を受け、当惑するメンバーと同様の反応をしたのを覚えています。経緯も特殊(オーディションを受けるも両親の反対で最終は一度辞退、のち特例で加入)だったため、やっかまれそうなポジションだなあとか。
 それでも、彼女の加入によりけやき坂(ひらがなけやき)が発足し、アンダーでもない、かと言って別働隊とも言い難い、欅のライブで数曲参加するのみ、といった期間を経て、「ハッピーオーラ」というアイデンティティを見出したことでグループとして存在感を増し、アルバム『走り出す瞬間』においては長濱ねるが欅坂専任になり別の道を歩むことになった中でも、「けやき坂らしさ」を失うことなく立ち向かっていく、という流れを受け、私自身もこの「けやき坂」という存在を認識するようになっていきました。因みにですが、『走り出す瞬間』の収録曲だと『半分の記憶』『期待していない自分』『線香花火が消えるまで』『未熟な怒り』『おいで夏の境界線』あたりが好きです。

 日向坂のパートでは、氏は各楽曲を読み込みながらそのテーマについて論じているのですが、個人的に首がもげるほど頷いたのは「DASADA」の功績の部分でした(DVDBOX買うくらいに好き)。秋元系グループは本家、また乃木坂や欅坂も然りで、メンバー出演のドラマ作品でもって各メンバーを鍛え上げる構造があると思うのですが、この「DASADA」のテーマは論考の中でも触れられているように「本物になる」ことを目指す沙織と「らしさ」を認め作り出していくゆりあを中心とした物語なので、その在り方自体が「けやき坂46/日向坂46のメタファー」(p.45)であることは注目されて良いポイントだと思っています。
 余談ですが声春は「アイドルと”演じる”ということ」を据えていたように思っていて、みーぱんの主人公性と丹生ちゃんのスター性、ミホワタナベの演技力等々見どころはかなり多かったけれども、話の展開とドラマ演出自体が大味で(日テレ系によくある感覚)、個人的には「DASADA」の方がテーマ的にも時期的にも好みな感覚でした。ただ声春を経た意義も間違いなくあるのでこのへんは好みでしかないのですが、グループ史においてターニングポイントになりうるのは「DASADA」の方であろうなと感じています。

※因みに声春のロケ地が母校だったので情報処理にワンクッション入ったというのもある

 そして『アザトカワイイ』の項では、けやき坂46が「欅って、書けない?」の漢字対ひらがなの運動会対決で勝利した特典としての「漢字禁制! けやき坂46だらけの大新年会」(注1)にて、宮田愛萌が寿司をセクシーに食べるくだりの「天丼」を引き合いに出しながら、「テレビが強い」というアイデンティティを、所与のものではなく自ら勝ち取るという形で示した、まさに象徴としてのワードであるという風に読み取りました。私自身はこの曲については楽曲や歌詞はともかく、MVやフォーメーション、『ひなたざか』のリード曲という意味や「日向坂で会いましょう」での該当期間の活動、新三期生の加入、影山優佳さんの復帰といった諸要素により思い入れはあるので、ライブなどでは楽曲そのものへの気持ちと諸要素への熱い気持ちとのアンビバレントを抱えながら見つめているという曲です。でもやっぱり楽しいんだよな…

注1:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%85%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%81%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84?#2017%E5%B9%B4

 『ってか』の項では、歌詞が「こん好き」以来の一人称が「私」になったということ、また直接的に「「私らしさ」を求める」(p.47)という内容から、これまでの軽いタッチで「恋」を描いてきた(日向坂表題の)大半の楽曲から歩を進め、自分らしさに向き合いながら「愛」という複雑性を実践していく上での「裏返し」(p.48)としてのタイトルなのではないか、という提起で論を締めくくっています。私個人としては、ものすごく乱暴に言うと、6枚目はアホみたいな歌詞ではなくなったのでそれだけで評価が高いのですが、思い返せばけやき坂/日向坂は常にアイデンティティ・レーゾンデートルを模索していく中で「ハッピーオーラ」や『青春の馬』に通ずる「誰かを励ます、応援する」という段階を経て、今作では「私らしさって何?」というそのものを歌うフェーズへと移行したんだな、とこの論考を経た上で私の中でも道筋が描けたような気がしました。そして、この『ってか』のセンターが、加入当時から自らの強みやキャラクターを模索し、試行錯誤し続けた金村美玖という人であることは、彼女もまた「等身大」と「アイデンティティの獲得」を象徴する人物としてもピッタリの、そしてベストなタイミングだったのではないかと思います。

※ただ、「同じものを見て感動できる 同じ価値観が欲しい」(『ってか』楽曲歌詞カードより引用)という考え方って危うくね?とは思いますが

 最終項はそこまで論じてきた「物語」と、秋元康による「企画脳的クリエイティブ」の功罪について書いています。この「功罪」こそ、次章で触れたい部分だったのですが、まさに「面白いから」の犠牲になってきたものに思いを馳せずにはいられませんでしたし、シスターフッドを歌いながらもグループを取り巻く構造や外部からの目線は旧態依然としているという、悲劇的なねじれ構造は、坂道アイドルを推すものとして背負わなければならない部分であるなあと感じるところでもありました。

坂道アイドルを語ること

 私自身のメインとしては現在は地下/ライブアイドルオタクでもあるので、この章では双方の要素を引き合いに出しながら、坂道アイドルを語る際との比較や視点などについて多少乱雑に書き記していきたいと思います。なお、地下/ライブアイドルと表記しているのはこだわりなので、読みづらいかもしれませんがご容赦ください。

資本と構造とクリエイティブ

・坂道アイドル
 まずもって坂道アイドルに特徴的なのは、SMEという大資本と秋元康という業界トップのプロデューサーの手によって生まれたアイドルである、という点だと思います。あまりにも大前提なので特に意識はしませんが、オーディションで選ばれたメンバーたちは大半がアイドル未経験で、動機も様々。そういったメンバーたちが、乃木坂であればAKB系列を意識しながら、欅坂は乃木坂を、けやき坂/日向坂は欅坂を、それぞれ見ながらも独自の路線を歩んでいく、という流れがあったと思います。つまり、一大プロジェクトには変わりないものの、その母体としての組織は大資本であり、メディアプロモーションや楽曲、テレビの冠番組など、市場のそれもトップクラスを初めから見据えた上での活動になっている点が挙げられるのかなと。

 それ故、ほとんど全ての楽曲の歌詞を手掛ける秋元康の仕事ぶりがそのまま各グループの楽曲のクオリティに反映されるほか、その多忙ぶりにMV撮影直前に歌詞が届く(!)といった状態であるなど(下記ページ参照)、様々なクリエイターが死力を尽くして毎作品を形にしているという印象があります。

 一方、乃木坂の「個人PV」文化が様々な映像作家の登竜門として機能したり、衣装やアートワークといった面では「乃木坂46 Artworks だいたいぜんぶ展」や「フォーシーズンズ 乃木坂46」といった「美術」への眼差しは特徴的ですし、欅坂は衣装やステージに一貫したクリエイティビティを感じさせたほか、櫻坂になってからはPERIMETRONのOSRIN氏がアートワークを手掛けるなど、まさに内外でプロ中のプロを起用しての「ものづくり」はやはり国内随一の存在感を見せています。

 このような作品群に対し(後の節でも触れていきますが)、ファンとしてはそれを受容し評するという一方通行の、翻して言えばファンダムの声は(ほとんど)届かないというある種「諦め」の境地に立った上でのクリエイションの「享受」という姿勢があるのかなと個人的には感じます。もちろんメンバー各個人に対しては握手会やミーグリなど、そういった意味での交流はあるのでそこは双方向の余地が残されていますが、ある種「遠い」ことを前提として、その中での交歓を楽しむという姿勢があるのではないかと。(ただし距離感バグは規模の大小に関わらず一定数存在するものですが)

・地下/ライブアイドル
 この節を始める前に「どこからが地下/ライブアイドルか」という定義が必要かとは思いますが、ここでは本当に大まかに「メジャーデビューしていないグループ」を指すこととして進めたいと思います。2015年のBiSHは地下、2016年以降のBiSHは地上的な感じです。
 上記に挙げたBiSHが地下から紅白まで辿り着いたようなスターダムの駆け上がり方が存在するのがこの界隈のロマンでもありますが、資本という意味ではWACKのような大所帯というよりも小〜中規模の事務所が1つまたは複数のアイドルグループを抱えているのが超雑なイメージです。半地上みたいなグループも多いのですがここはざっくりと。

 規模と構造は付随してくる話ですが、事務所の社長がディレクターやプロデューサーといった役割を兼ねているパターンが(少なくとも私自身が観測している範囲では)多いように見受けられます。作詞作曲や編曲などはそのグループの特色によりけりでしょうが、おおむねそのディレクターやプロデューサーの作風が色濃く現れる為、音楽性がそのままグループの武器となることも多いように思います(ただし昨今のインフルエンサーを集めた系のグループも同じ業界に入っているので一概には言えませんが)。

 そうした彼/彼女らの主戦場は何と言っても日々のライブ活動であり、ライブと作品のリリースを繰り返して経験を積んでいく構造になっていると言えると思います。坂道アイドルが多忙なスケジュールの合間を縫ったレッスンやトレーニングでスキルを向上させていく(もはやその時間すらない場合も多々ある)とするなら、地下/ライブアイドルはライブそのものがトレーニングでありそのまま成長の場であるということです。

 そうした作品群とライブに対し、ファンはどのように関わっていくか。この点については先程と同様細かくは次節で触れますが、こうした「現場」はある程度はオタク側も主体的に楽しむことができる空間であり(もちろん規制の強弱やご時世的なものもあるが)、その現場毎の特色≒オタクの特色とセットで語る必要があるのではないかと思います。グループの歴史とそこのオタクは不可分というか。BiSにおける研究員、ベルハーにおけるオタちゃんみたいな(あくまで私の観測範囲に限定していますが)。そうした「現場」のダイナミズムが存在し、坂道アイドルと比較してオタクのコミットメントが高いというのが、地下/ライブアイドルの特色と言えるのではないかと思います。

ファンの眼差しとコミットメント

・坂道アイドル
 前節で挙げた様な構造から、「坂道アイドルからアイドルにハマった」パターンのオタクは市場原理として多いでしょうし、「坂道しか好きじゃない」みたいなオタクも全然数多く存在していると思っています。基本的に坂道は「供給」が絶え間なくあるのでそこで満たされることは十分可能ですし、あまつさえ握手会、今はミーグリですが、といった「テレビで見たあの子」と話せるという機会があるため、ガッチリ囲うことは可能です。
 ただここで言っておきたいのは「坂道しか好きじゃない」人が悪いと言いたいわけではなく、坂道から読み取れるストーリーやメンバー各個人の人間性、また作品群や冠番組における「テレビ」から、「坂道を語る」ということは十分可能ですしその語りしろは半端じゃなく豊かなものになっているので、ここにはここの宇宙があるというか。そんな感覚です。
 
 こうした坂道アイドルに対するファンの参画の仕方としては、上述のようなライブやミーグリ、コンテンツの「享受」であり、もちろん文章や絵、その他様々な方法で推しへの愛を伝える人がいることは重々承知の上ですが、地下/ライブアイドルと比較すると、こちらからのコミットはどうしても限定的になってしまいます。構造上。

 そうした坂道アイドルへの眼差しとして自覚しておかなければならない点を挙げるならば、はたして「消費」していないか?という点かなと。平手友梨奈が凄まじい表現と引き換えにボロボロになっていった姿を見ている我々からすると、彼女の表現を希求する欲望の裏にあるものを自覚した上で眼差すことが、少なくとも欅坂以降の世を生きる者としての責務と言っても良いことになるのかな、と現時点ではボンヤリ考えています。私自身「消費」していないかと言われると完全な否定はできないですが、「消費」の文脈を内在しているという自覚のもとで坂道アイドルに対しては眼差していきたいと思っているところです。

・地下/ライブアイドル
 
翻って地下/ライブアイドルのファンの応援するグループへの眼差しは、坂道のそれよりもコミットメントが高い、というのは前述したとおりです。またここまで書いてきませんでしたが「特典会」の比重も坂道のそれとは異なっている為、よりオタク一人一人とアイドルとの間での関係性が強くなっていくという構図が存在すると思います。
 こうした地下/ライブアイドルの現場は、「生誕」の文化やMIXといったオタク主体のムーブメントが存在したり、ライブそのものを楽しむオタクの「フロア」の面白さもまた魅力の一つであり、そこに参加しても良いし後ろでゆっくり見ていてもいいし、そういった「自由」が担保された状態でのカオスが見どころだったりもします。

 上記のブログは2015年当時のベルハーの空気感を感じさせてくれます。なちい。

 面白がろうと思えばいくらでも面白がれるし、主体的に現場に入っていく、そして文字通り現場にコミットしていく、そうした機能が(ある程度)担保された空間が地下/ライブアイドル現場なのではないかなと思います。可能性しかない。私が地下/ライブアイドルに通うようになったのは、というか流れ着いて推しに出会ったという方がより正確なのでそう書きますが、こうした側面をも楽しめるという点もまた理由の一つでもあります。大げさに言うと「生きてる」と実感する感覚というか。楽しいよというのは大いに伝えたいところですね。

おわりに

 私個人としては坂道アイドルも地下/ライブアイドルも両方楽しんでいるので、今回はその双方を俯瞰しつつ、自らの感じ方と感想とを書いてみました。坂道アイドルと地下/ライブアイドルは構造的に交わりしろがあまりなく各々が島宇宙的に存在しているために、それぞれのファンダムや特色がそれぞれからは見えにくい部分があったと思います。
 ただ共通して言えるのは、オタクが推しに対して想う気持ちは本質的には同じなので、ジャンルとしてよりクロスオーバーしてくれたらなあと勝手に願望を抱いています。田中紘治曲を歌う櫻坂とかめっちゃ聴きたいもん。
 オタクの楽しみ方は無限大なので、ジャンルとしての「アイドル」がこれからも繁栄していけばいいなあと思っています。

参考書籍

https://widol.booth.pm/items/3458136


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