どこまででも行ける切符:『幕が上がる』感想


はじめに

 本稿は『幕が上がる』の感想になります。原作とも映画とも舞台とも限定していないのは、それら全てに個人的体験・接続点があったからで、もちろんきっかけはぱる(山口陽世ちゃん)まりぃ(森本茉莉ちゃん)が舞台に出ることでしたけど、これを機に一挙に触れたことで立ち現れてきたものがあったので、こうしてアウトプットしています。半分以上は某FFの方に向けて書いています。それではどうぞ。

「演劇」とわたし

 本作の題材は高校演劇というわけですけど、わたし自身は「演劇」というものとの距離感はそんなに近くないというか、ここ最近まではむしろ無縁に近いと思っていました。いわゆる商業演劇としての舞台を生で観たのは乃木坂46の久保ちゃんが主演していた『夜は短し歩けよ乙女』が最初くらいの(推しメンとかではないけど謎に2回観に行った。良かった。)。ただ本作を通じて自身の高校時代を思い返すと、公立高校でありながら行事として演劇コンクール(出演は有志だがすべて学生主体で運営)があったし、文化祭では短編映画の真似事みたいなことをやってたし、大学では学祭の運営側でそうした表現活動の場のサポートをして来た経験があり、そしてわりと今下北沢にアクセスが近いところに住んでいる身としては、遠くない縁を感じる題材でもありました。

 また、趣味というほど深くはないにしても映画を観ることが好きな身としては、本作を観たときに『アルプススタンドのはしの方』を想起したり、あるいは「演劇」ではないにせよ『サマーフィルムにのって』を想起したりと、青春×表現活動というか、そういった群像劇に(図らずも)ここ数年で触れてきていたところもあったので、今触れるのは必然だったのかな、と思ったりも。

 そして、これはのちにも触れるんですが、もともとアイドルにハマったきっかけがももクロだった人なので、もう当時は現場を離れてはいたものの、2015年公開当時に『幕が上がる』という単語だけはインプットされてました。まさか2023年に観ることになるとは。ただ、それ故個人史を振り返るようになった感覚もあり、いい体験でした。

「幕が上がる」とわたし

原作

 「平田オリザ」という人を最初に認識したのは、劇作家であるというよりはむしろ「コミュニケーション教育」の文脈で触れたような記憶があります。それが高校時代だったのか浪人時代だったのか大学時代だったのか、いずれにせよ「教育」の側面で最初にインプットされていたので、実際にどんな演劇を作っているのか、などに最初は興味が向かなかったというのが正直なところでした。

 そんな第一印象というか記憶だったのでとっつきづらいのかなとも思っていましたけど、原作を読んでみると戯曲戯曲していないというか、ちゃんと「小説」の形式であり案外スッと入ってきた感覚があり、買ったその日のうちに原作は読破していました。一気に。

 小説を原作とした作品の映像化、あるいは舞台化となったときに思い浮かぶのは「キャストを誰にするのか」「尺としてどこを残しどこを削るのか」あたりかなと思います。キャストについては映画であればさおりは百田夏菜子でユッコは玉井詩織であり、舞台ならさおりは森本茉莉でユッコは山口陽世である、という具合にキャラクターがまずあって、そこに演者としての「キャラクター」、正確には「人(にん)」が乗ってくるといいますか。またさらに映画も舞台も主要キャストは現役アイドルであるため、高校演劇を題材にした場合の「演じる」レイヤーは下記の4層になっている、と個人的には感じています。

4層:劇中劇の役
3層:登場人物
2層:アイドル
1層:中の人

 アイドルと「演じる」行為については以前別記事で書いたのでそちらを参照いただくとして、こうした舞台化作品にアイドルが起用されるのは、そのアイドル当人に付いている、ないし所属グループのファン層へのリーチによる興行的成功を見越したもの、という側面ももちろんあるでしょうが個人的には「リアリティ」を切り売りする「アイドル」という特殊な職業と板の上(ステージ)での自身の演出は、すなわち演劇における「演じる」にも通じるでしょうし、演技から得られるパフォーマンスへのフィードバックもあるでしょうし、という意味で、個人的にはいい傾向だよな〜と思っています。(舞台『あゆみ』の日向坂四期生版やってくれないかな)

 映画・舞台は上記の視点を基底にして感想を出力しますが、原作についてはそのエピソードを事細かに触れるというよりは印象的だったところをピックアップします。映画・舞台で描かれた部分もそうでない部分も。

・平田オリザ的演劇観(とわたしが読み取ったもの)

スポーツと違うから、みんなが一体になんてなる必要なんてない。どれだけ違うか、どれだけ感性とか価値観とかが違うかを分かっていた方がいい。バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合うのが演劇、ってもちろんこれも吉岡先生の受け売りだけど。

平田オリザ.『幕が上がる』.講談社文庫.2014年12月12日.80頁

 原作における上記の「バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合う」という部分は、下記の対談で平田オリザ氏が語っている「異なる価値観を持つ者同士が話し合い、意見をすり合わせること」こそが対話であり、演劇はこの異なる価値観や他者との衝突というドラマを描き出すのが演劇である、だからこそ「演劇の中で役を演じ、対話の意味を掴む」ことがコミュニケーション教育における演劇の役割である、という部分に通じるのかなと思います。

 作中ではさおり視点で展開されますが、その中でもさおり自身の中での葛藤、「外」だった中西さんとの交流、ユッコとのすれ違い、吉岡先生の裏切り、などを経て、『銀河鉄道の夜に』という一つの演劇作品をみんなで作り上げていきます。そう、演劇とは「少しずつ分かり合う」ことなんだということ。この視点が平田オリザ的演劇観なのかなと感じたりしました。

・夏休み:中西さんとの交流
 池袋の地下の劇場は芸術劇場かな(通っていた大学の最寄りなので)。ちなみにこれ書いてる今日大塚にも用事(ライブを観に)があって行ってるので不思議な感触です。中西さんは東京でワークショップを受ける、その休みの1日に全国大会を観ようと中西さんがさおりを誘う、この関係性が好きです。このときには既に中西さんはさおりのことを演出家として信用していたんだな、と思います。ワークショップで課題になっていたエチュードを見てもらったりしていたところは映画にも舞台にもなかったけど、結構好きな場面で。だし、全国大会を観てしっかり食らったのち、色々持ち帰った上で帰りの電車でさおりが中西さんとの会話と車窓から見える星空に着想を得て『銀河鉄道の夜に』を題材とすると決めていた一連のシーンはかなり好きモーメント。相手をどんな名前で呼ぶかって関係性出るじゃないですか、そういう意味で中西さんが「悦子でいいよ」といってくれたのもまた。ちなみにかつては中央線で育ったので立川で人がたくさん乗ってくる感じも実体験の質量を持って迫ってきていたので、そういった意味でもこのエピソードはわたし自身に身体化されている感覚があります。

・吉岡先生の手紙:『告別』の詩
 全体向けの手紙もさおり向けの個人の手紙においても登場人物たちに感情移入しながら読んでいた身としては、さおり個人への手紙も最初はまだ受け入れがたいなという感情もありつつ、だけどさおりたちに出会って演劇への熱量が再び強くなった吉岡先生の気持ちも今では理解できなくはない、くらいの感覚です。かつて3年生だけ集めてミーティングしたときに「目標は全国」と掲げ、吉岡先生の「責任を持ちます」に対し「責任なんて取ってもらわなくていいです。自分たちの人生なんで。」と返したさおりの言葉を思い出します。演劇は楽しすぎる、だからこそその道に進むことの重みもわかっている、それでも吉岡先生はさおりに演劇の道に進んでほしいと心の底から思っている。さおりの才能を信じている。だからこそ贈る詩が『告別』なわけです。

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが街で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

平田オリザ.『幕が上がる』.講談社文庫.2014年12月12日.288頁
文中で引用されていた宮沢賢治の詩『告別』の一部を抜粋

・二十億光年の孤独(谷川俊太郎)
 国語の滝田先生はかなり重要人物だなあと。上期をかけて(たしか)『三四郎』を読み込む授業とか、詩の授業とか、単なる現代文読解よりも面白そう。吉岡事変から県大会までの3週間に台詞を書き換えるに際し、この詩が決定的な役割を果たしたことは明らかです。詩自体が何かを直接教えてくれるわけではないけれど、その中の一節が、あるいはそれを通じて受け取ったものがだんだん血肉になっていく、そうした事こそが詩の持つ力なのだなあと思います。小説も映画も、演劇だってそうかも。「私はいま、何か大事な話を聞いている……と思った。何が大事なのかわからないけど、とても大事なことを、いま滝田先生は言っている。」

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

平田オリザ.『幕が上がる』.講談社文庫.2014年12月12日.297頁
文中で引用されていた谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』の一部を抜粋

映画

 2010年代前半は、既存のアイドル(AKBや坂道)に対するオルタナティブとしてのももクロの快進撃の時代であった、というのは同時代にアイドルを眼差していた人にとっては実感のあるところとは思います。国立ライブが2014年だったかな。そうしたうねりの中でできたのがこの映画。監督は本広克行さん。ももクロ御用達の監督である。なのでこの映画は「ももクロが」幕が上がるをやることが主眼というか、キャスティングにせよ舞台設定にせよ映像化したシーンの取捨選択にせよ、画面内での演出にせよ、その部分は強く感じたかなあと思います(中盤の夢オチパートの謎演出は福田演出みたいでちょっと冷めたな、、、)。ただ脇を固める俳優陣もめちゃくちゃ豪華で、吉岡先生は黒木華だし、演劇部後輩には伊藤沙莉、吉岡里帆、芳根京子が台詞量少なくてもずっと居るし、というので何回か再生止めて確認しました。

 ただ、主要キャストの5人の配役はかなり良かったんじゃないかなと思ってます。主人公であるさおりは百田夏菜子。ユッコは玉井詩織。ガルルが高城れに、中西さんが有安杏果、そして後輩の明美ちゃんを演じたのが佐々木彩夏。スターダストは女優事務所だし元来ワークショップ的な意味合いで結成されたのがももクロである、というのは彼女らがあちこちオードリーで話していたりしましたけど、演技力という点ではまあ、まずまずという感じでした正直。でも百田夏菜子ちゃんはゾーンに入ったときの主人公感をバチッとかますルフィみたいな人なので、この子が作・演出に専念はもったいなさすぎる!と謎目線で観てました。さおりなんだけどね。あと中西さんを杏果にしたのも英断だったかなと。原作にはない滑舌要素を入れたのはどう転んだんだろう、でも陰がある感じとか実際に子役経験者であった過去とか、転校生という役柄が妙にしっくり来る感覚がありました。上手いんですよねきっと。ちなみに5人を物語の中心に持ってきた関係でわび助のわの字もなかったのは個人的に寂しかったです。すごく。

 映画主題歌である『青春賦』のMVをこの記事書いてるまさに今初見だったんですけど、劇中の富士ヶ丘高等学校の卒業式という設定というか画で撮られてました。実際に合唱曲として歌われてたりもするのかな。好きな曲です。

舞台

 舞台の感想って難しい。時系列で追ってしまうとライブのセトリレポみたいになってしまう部分がある。ただ、舞台の強みというか揺るがない特徴としてわたしが認識しているのは「空間と身体がそこに在り続けている凄み」で、それに付随した発声だとかも演劇的な発声(かなり範囲の広い言葉とは思いますが)だったりするので、広く「舞台」、演劇という表現形態として受け取ったものも多かったなと思いました。さらに題材自体が高校演劇なので、劇中劇が舞台上で上演されるという入れ子構造。その中で演技の巧拙や上達を演じ分けるのはだいぶ高度な話だと思うし、キャスト陣に感服するばかりでした。

↑は茉莉ちゃんの独白シーンで思い出した

 実際に観た人のTL感想などを拝見して茉莉ちゃん陽世ちゃんの台詞量が多いというのは聞いていましたけど、実際にわたしも観てみると特に茉莉ちゃんは地の文としての語り=独白パートが多いのでほとんどずっと舞台上にいるような感じで、これはとんでもない凄い事をやっている、しかも「高橋さおり」として舞台上に立ち続けているという凄みを感じました。そして陽世ちゃんは声が素晴らしいんだなと気づけたのも大きかったです。舞台向きのよく通る声をしていたし、回を重ねるごとに舞台度胸が文字通りついてきたと思うので観ていて安心したというか、ユッコとしてそこに存在しユッコが演じるジョバンニを観る、という体験ができたのもよかった。作中では「根っからの女優」として光り輝くユッコでしたけど、対となるカンパネルラを演じた中西さん、を演じた浜浦さんは、「演技が上手い役」というハードルを超えてくる上手さというか、あんな感じのミステリアスで、でも話してみると思いやりにあふれるアツい子で、という役柄を見事に演じていたなと思います。原作だと中西さんわりと好きなので個人的にも浜浦さんの中西さんが好きだなとなってました。

 あと溝口先生を演じたなだぎ武さん。配信の回は割れたスマホ画面を爪楊枝でほじくり返すエピソードをアドリブで入れてさおりユッコガルルが笑っちゃうくだりとか、結構何箇所もアドリブ入れ込んでて楽しかったです。その日向坂ネタというか本人のことを調べたりして準備してくれたんだなという愛も感じましたし、舞台は同じものを繰り返し稽古して育てていくものと思いますが、こうして1回1回を大事にしてくれる共演者がいることもまた、主演の2人にとって有り難かったんじゃないかと思います。

 好きなシーンはやはり地区大会から吉岡事変を経て書き直した新版での県大会パート。わび助を演じる宮本さんがもうすごかった。博士でしかなかったし、カンパネルラのお父さんだったし。声もいいしあの背格好が舞台映えするな〜と思った。あとは合宿かな、でも肖像画のパートも好きだったからな、、と迷うところではありますが、物語のクライマックスでもありますし、劇の後半にさおり自身が演劇を通じて得たもの、学んだこと、について気づいていくと同時にラストシーンに差し掛かる部分で、晴れやかにジョバンニを演じるユッコを見て、それに呼応し手を振るカンパネルラを演じる中西さんを見てわたしは泣いてました。演劇はみんなで作るものだからね…と演劇部のみんなに感情移入していました。明美ちゃんの上達を演じ分けていた飛香さんもまたスペシャルで。

 ラストシーンはちゃんとエピローグとして大学生になった3人が島根に向かう寝台列車のシーンを入れていて嬉しかったです。映画では省かれていたので。「私たちを乗せた銀河鉄道は、まだ走り出したばかりだ」。

おわりに

 本稿を書いている7月22日にはヨーロッパ企画の映画『リバー、流れないでよ』を観ていました。『ドロステの果てで僕ら』に続くヨーロッパ企画の長編映画第2弾。ヨーロッパ企画は上述の『夜は短し歩けよ乙女』の舞台で初めてフィジカルな舞台を観たので個人的に思い入れがあった劇団です。『リバー』は2分間がループし続ける、ただ記憶は引き継がれるので皆で協力したりときにはいがみ合ったりしながら解決に向けてそれぞれの人生も動かしていく、という話なのですが(あらすじであってネタバレではないです、というか観て初めて楽しいやつ)、川の流れが常に同じではないように、そして戻ることがないように、時間もまた繰り返したりやり直したりはできない。この不可逆性にこそ意味があり、未来はきっと楽しい。という話。『幕が上がる』に引き付けると、演劇の全国大会は翌年の夏、3年生は大会に出られないという謎ルール(本当になんで?)もありますけど、作中でさおりが触れていたように大会自体も年一、という機会の中でその大会のために青春をスパークさせていく。ときにはままならないこと、わだかまりや衝突だってあるでしょう、それに対し折り合いをつけたり解決したりしながら前に進んでいく。この抽象的なメッセージを受け取ったような気がしてわりとわたしの中では腑に落ちています。

観てよかったです。本当に。

※演劇という意味ではあとダウ90000も好きです。本公演本多劇場当たらなかったな…(配信で観た。良かった。)

おまけ/参考


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