もしも将棋界が戦国時代のままだったら——元奨作家が描く本格将棋小説『覇王の譜』
作者の橋本長道さんの記事から知って面白そうに感じたので読んだ。noteでは最近レコメンドベースのホームタイムラインをリリースしており、「将棋」でのレコメンドで気付けた。ありがとうございます。
本作であるが、元奨励会員の作者が真正面からプロ棋界を描いた力作である。現実の将棋界は藤井聡太という天才が様々なバランスを書き換えてしまったが、羽生善治一強時代が終わってからの将棋界は戦国時代で、事件の絶えない世界でもあった。本作では叡王戦をモチーフにしたであろう新棋戦もあったりして、将棋界が戦国時代のままだったら似たようなことが起こっていたかもしれない、と思わせるような設定になっている。
かといって、設定でマニアを喜ばせる作品ではない。本作で最も惹かれるのは作者が奨励会で光と闇を見てきたからこそ描けるディテールだ。対局中の心情描写には技巧としての素晴らしさよりも身体性の描き込みを感じる。それゆえに感情移入しやすい。たとえば、入玉形の経験が薄いアマ相手に主人公・直江が入玉を仕掛ける時のこの描写。
入玉されることの困難さを、体感をもって描き出す。この短い文章に、作者がこれまでされたであろう入玉のことを想起せざるをえない。勝利の喜びも、敗北の苦みも、活字を通して体感が沁み出して来るのは経験の強みだ。作家は経験したことのないことでも想像によって描写するものだが、やはり血の通った経験というのは重みがある。
それでいて具体的な符号や棋譜はほぼ出てくることはないので、将棋を指したことのない人でも理解できよう。
もちろん将棋描写が優れているだけではい。ディテールが優れているゆえに、テーマに説得力があるのだ。群像劇ではあるが、メインとなるのは主人公・直江の成長であり、ネタバレにならない範囲で言うと「成る」までの過程である。畑は異なるが上橋菜穂子の守り人シリーズでチャグムの成長を眺めるのが好きだった人は是非とも読んでほしい。
冒頭でも述べたが、プロットの各所にAI研究をはじめとした2010年代の将棋界であった出来事をうまく拾っており、その点でも唸らされる。これを正面切って描くのは勇気の要ることであろうし、元奨ということでプロを監修に入れずとも成立するからこその作劇であろう。ゆえに連盟の協力が必要となる実写化はどれだけ売れても厳しいだろうな……と思ってしまう。
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