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山本太郎の方が正しい

🔷意外に思われるかも知らんけど、私、山本太郎さん好きだし、支持する。
 
彼は関西で子ども時代、母一人子一人のお母さんが、ペルシャ絨毯(ここがまた可笑しい😁)の販売に奔走する間、今の学童保育みたいに、カトリック教会に入り浸っていた。
 
カトリックは第ニバチカン公会議以来、社会の問題に積極的に目を向けコミットする路線が打ち出され、そういう司祭さんのところに預けられていた、ってことでは?
その司祭の「後ろ姿」を見て子どもの太郎は育ったわけだ。

実際2019年、日本に教皇フランシスコが来日した際、記者団は、タルチシオ菊地功大司教に、山本太郎・れいわ新選組についても質問している。

東京ドームでの「教皇ミサ」のステージは「これはビリー・グラハム大会のステージですか?」と突っ込みたくなるほどシンプルな、大きな白い十字架が正面に掲げられた「だけ」のものであった。
カトリックの人たちの、日本にイエス・キリストの福音を伝える本気度を私は感じた。
(ミサの中でプロテスタント教会から生み出された賛美歌や共通の賛美歌も用いられていた。説教のための聖書は「新共同訳」であった)
よくコロナの勃発する前に来日してくださったことと思う。フランシスコさんはイエスの弟子として、多くの人の心に希望の灯火を残して行ったのではないか?


菊地さんは、「いのちを守る」というところでキリスト教の精神が山本太郎さんの生き様に影響しているのでは、とコメントしている。


『論座』にもそういう主旨で菊地さん、書いていた。


「安全保障」関連法案の採決で、山本太郎は牛歩の挙げ句、「お焼香」するようなパフォーマンスをして、日本の民主主義の「お葬式」になりかねないのでは?と訴えた。


また能登大震災で、いち早く被災地に駆けつけてボランティアに取り組む「スタンドプレー」。

私は山本太郎の方が正しいと思う。日本の国が未来残っているなら、そのように歴史は評価するはずだ。

いまの日本の権力筋、またそれにおもねる大メディア、そしてそれになびく愚衆が間違っているのだ(これをお読みの方はそこに入っていないのでお間違えなく)。

山本さんは俳優専業の時代「神はサイコロを振らない」といったドラマで、社会の問題に正面から取り組む、しかし、それをイデオロギーによってではなく一人の人間への共感・愛として、そして、それが恋への互いの正直さ、誠実さとも重なり合って、本当に素敵な男を演じて見せた。

だから「ドラマ(架空)だけではダメだ」と思ったのではないか?
リアルに、世の中が良くなることに尽くさなければ、と思ったのではないか(インタビューする機会があったら訊いてみたい)。

芸能人が社会的問題について、政治的なことを含め発言するのは、先進国では当たり前のことだ。
日本はもう、先進国の座を降りて、学芸会のような世界へ行こうとしているのだろうか?

🔷神はサイコロを振らない
山本太郎はヒロイン・ヤス子の、「10年前の恋人」である副操縦士・木内哲也の役であった。ヤス子(役:小林聡美)は航空会社のしがない地上乗務員に過ぎないが、10年前に消失した(その時、副操縦士の木内も消失した)航空機が現代に再び現れ、それに乗って10年前の記憶と姿のまま10年後の世界に生きる乗客たちを援助するために奔走する。

上の画像は「現代」に生きられるわずかな最後の瞬間を、ヤス子と過ごすことではなく、乗客を救う、非常に小さな可能性にかける行動に費やす決意を、ヤス子や仲間に告げる木内

ヘッダー画像は10年ぶりに、あの夜渡せなかった指輪を渡す木内

ドラマはここから全て無料で見ることができます(日本語です)


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