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神の子となる特権って何? 受難週を覚え

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子となる特権をお与えになった」と、聖書の「ヨハネの福音書」1章12節に記されている。
(受難週を覚えて、中高科=若い人々=に向けクリ時旅人が語った内容です)

「この方」とは、私たちが主とお呼びするイエス様のこと。

むごたらしく十字架にかけられて殺されたお方だ。そんな人をなぜ主、などと・・・。

YouTube映画「ジーザス」。受難、十字架の場面は1:24辺りから

「この方」は、正しいことを言い、弱い者の側に立ち、人々を助け、人として正しいことを逆風に逆らって語り、身をもって生きられた。

そういうイエスを妬み、憎み、亡き者にまでするよう奔走する人たちもいた。

そしてイエスのエルサレム入場の際は、「ホサナ」「ホサナ」と歓迎行列をしたのに、手のひらを返すように、無責任に面白半分の群集心理で、「十字架にかけろ」と図に乗って叫ぶ群衆もいた。

なんのいわれもないのに、むごたらしく十字架で処刑されているイエスに、「他人を救ったのなら自分を救え」「救い主なら自分を救えるだろう」と心無い、むごい罵りの言葉をかける者らもいた。

確信犯として、正しいイエスが邪魔だから亡き者にしようと図り、粛々と実行した者らはほくそ笑んだ。

人目を気にし、裏切る弟子もいた。

命じられたからと、無罪の人の処刑の仕事に従事し、その人に日頃に憤懣を、その正しい十字架に付けられた人にぶつけ、からかい、いたぶる兵士らもいた。

そして、それらを見ながら、「こんなことは間違っている」と思いながら、お助けすることができない人々もたくさんいた(それも人類の、そして私の罪だ)。

それが人間の世というものだ(現在の社会も全く同じことである)。

そこに人類の罪の実相がある。

それらすべてをのみこんで、一言も、罵りに言い返すこともなく処刑を受け入れられたイエス。
かえって「父よ。この人たちを赦してやってください。自分で何をしている分からずにやっているのです」と苦しい息の中で赦しのための祈りをしてくださったイエス様。

それは、すべての人の罪の身代わりとして死んでくださったのだ。そして、その身代わりは完全であるから、この21世紀に至るまでの全ての人間が、人にいのちを与えたまことの神に祈ることができる資格が与えられたのだ。

本当に窮地に追いやられた時、(その神を知らない、信じない人でさえ)「神様!助けて」と叫ぶ。

そしてその祈りは通じる!

それはイエス様の身代わりのお陰なのだ。

ヨハネは中学生くらいの年齢の時、イエスがむごたらしく十字架にかけられ殺される現場を目撃した。

そして後に初代教会のリーダーの一人となって労し、(他の十二弟子仲間は若くで殉教してしまったのに対し)長生きした。

そして、若い時に見たイエスの死が、全人類の救い主としての死であったことをますます深く悟った。

その中で、体験に則し、実感を込めて記した言葉。「(十字架で死んだ)この方を受け入れた」人々は「神の子となる特権を与えられている」。それは、特にイエスがまことの救い主として知っている、信じている(その名を信じた)人々は「神の子となる特権」を与えられている。

特権と約された言葉「エクスーシア」は、火がそこにあれば周囲を燃やすのとおなじように、周囲に影響を及ばさざるをえないように、神の子(信じる人たち)がそこにいるだけで、社会に影響を与えざるを得ない、そういう特別な者たちとして私たちは「存在して」いるのだ。

その中でも、特に大きな人物は例えばマルチン・ルーサー・キング。人間は誰も、神の前にも平等であるはずなのに、黒人は〝解放〟されたはずなのに、しぶとく残っているこの社会的差別は間違っている!と世界に向かって声を上げた(そして、それを後押しした無名の数多くの黒人たち、白人たちがいた)。

こういうことは人間の社会の中ではなかなか通らない、あり得ない出来事だ。ましてやそれが実際に社会を変えていくとは! しかし、歴史は動いた!
(今の日本はどうだろうか? まじめに働いているのに不当に抑圧され、搾り取られて奴隷みたいになっている人々はないだろうか?)

その力をキング牧師に与えたのは神だ。すなわち、キングは神の子として20世紀のアメリカ社会に居て、権威(エクスーシア、そのものの性質が及ぼすもの)を与えられて生きていたのだ。

誰にも顧みられず死ぬ人がいていいはずがない、と立ち上がった、マザーテレサのような人もいる。

自分の携わっていく分野で、不思議と道が開かれ、立場が与えられ、不可能と思われた仕事が成し遂げられていく推進力となる「神の子の特権を持つ者」たちも、実は今の社会に多く存在するのだ。
(JAXAの成功した月面着陸プロジェクトにコミットしていた同志社大学の先生に想いを巡らした。このプロジェクトは、同志社のチャペルで祈られていたのではないか?

昨日、文楽の最高位、若太夫を襲名した林さん=クリスチャンでゴスペルin 文楽も展開=も、襲名前祝いパーティーの挨拶の中で、「目に見えない大きな力が働いて、この襲名が実現したとしか思えない」と言及しておられた)

皆さんもこれからの人生のキャリアを築いていく中で、神の子としての特権にあずかりながら、力を発揮して社会に貢献し、隣人である社会の全ての人々を愛してください。

受難週を覚えつつ、中高科で語らせていただきました。

YouTubeに上がっている映画「ジーザス」の受難の場面(1:35辺りから)を共に見ることを含め、上記のメッセージを語りました
*受難週を覚えつつ語らせていただきました。

私が採用したヘッダー画像は、「ジーザス」のうち、十字架への連行の場面の後半の一場面のキャプチャーです。イエスの横に寄り添うのは、十字架でイエスが散った後、「本当にこの方は正しい人であった」(ルカ23:47)と述懐した百人隊長だと思います。十字架に着けられるため連行される身なのに、かえって人々から支持され、女たちを力づけるイエスの姿を一番近くで見ていた彼はこの時、イエスの「正体」に気づき「おいたわしい」と思いながらも連行していたのではないでしょうか。そういう描かれ方だと感じます。

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