見たいわけではないけれど

朝の最寄駅。いつもの位置で電車を待っていた僕は、手持ち無沙汰からリュックのサイドポケットにあるスマホを取り出し、電源ボタンを長押しした。が、なんど繰り返しても電源が入らない。充電が足りないことを示すあの画面にもならない。そういえば昨日の夜、音量ボタンが反応しなくなる不具合に見舞われたけど、もしかしたらそれが関係しているかもしれない。

僕はスマホの起動をあきらめ、ぼんやりと前を眺めた。焦茶色の線路。向かいのホーム下の僅かな空間。そういえば小さい頃、万が一線路に転落した時はホーム下の空間に逃げ込めば助かるんじゃないかと考えたことがある。実際どうなのか、今も知らないし、真剣に知ろうとしたこともなかった。

横に並んでいる女性が、チラリと訝しげな視線を僕に寄越した気がする。今時、暇な時間にスマホも見ず、周りの風景をぼんやり眺めている人なんて少ないから、こいつは何をしているんだろうと思ったのかもしれない。

電車が到着し、中に乗り込む。つり革を掴んで、窓から見える景色を眺めた。少しずつ電車が加速して、風景が流れるスピードが速くなる。電車の中からだと見慣れた街並みも幾分か新鮮に見える。建設途中の高層マンション、高台の上の小綺麗な住宅街、河川敷を走る自転車。そういえば僕は昔から、何でもない風景を眺めるのが好きだった。


「おそらく、スリープボタンが陥没していると思われます」

丸メガネのよく似合う、ほっそりとした女性店員が対応した。髪は肩のところで切り揃えられ、軽く内側にカールしている。恐ろしくシステマチックな接客に、僕はいささかうろたえた。スマホが死んでから2日後の土曜日だった。

「陥没ってどういうことですか?」

「はい。スリープボタンが内側に沈んでいるので、常に長押しされている状態です。ですので、何もしなくても再起動のループに陥っていたと言えます。そして再起動が無限に繰り返された結果、何らかの原因で今の全く起動しない状態になったのだと思います」

「なるほど」

とは言ったものの、半分ほどしか理解できていない。一気に早口でまくしたてられたので、彼女の言葉が腹に落ちるまで時間がかかりそうだ。こちらの理解度にはそれほど関心がないのか、そのまま彼女は続けた。

「もちろん断定はできません。端末を開いて調査する時間が必要ですので、2時間ほどかかります。そしてもし、原因がスリープボタンの陥没だった場合、ボタンの取り替えに必要な金額はこちらになります」

差し出されたメニュー表を見る。思ったより高い。これならいっそのこと機種変したほうがいいように思えたけれど、大して使わないのにわざわざ高性能にしてもしょうがないから、

「わかりました。ではこのコースでお願いします」

とだけ言った。

彼女は僕の目を見て、コクリとうなずくと

「かしこまりました。では、今から2時間後に、こちらの受け取り表をカウンターにお出しください」

僕はそれを受け取り、人で溢れかえる新宿の街に繰り出した。目についたカフェに入り、窓際のカウンター席から歩く人々を眺めながら、スマホ無しで過ごした2日間のことを考えていた。


大して困らなかった。もともと頻繁にやり取りする友達が多くいるわけでもないし、スマホでやることといえば、Twitterやアマプラ鑑賞くらいのものだったから。むしろ、これまで何となくスマホを見て潰していた時間を趣味の時間に費やせた。そして何より、入ってくる情報量が減ったので、後ろから追い立てられるような感覚が和らいだように思えた。

けれど一方で、まるで自分が世界から切り離されたような、誰とも繋がっていないような感覚を覚えた。何となくタイムラインを眺めて、友人の近況を知って喜んだり、安堵したり、時には嫉妬したり。直接のやりとりがなくても、眺めるだけでそこそこ満たされていた。これまで無意識にやっていた「繋がりの再確認」みたいなことを急に取り上げられて、宙に浮かぶような、木片に掴まって暗い海を漂っているような感覚を覚えた。


店に戻ると、丸メガネの店員がカウンターに立っていた。僕を見ると軽くお辞儀をし、受け取り表を手渡すと、

「少々お待ちください」

と言ってカウンターの奥に消えていった。

少しして、トレーを持って彼女は戻ってきた。その上には僕のスマホが置かれている。

「やはり、スリープボタンが陥没していたようです。お伝えした通り交換を行いましたので、一度確かめていただけますか?」

トレーからスマホを持ち上げ、スリープボタンを押すと、見慣れたリンゴのマークが現れた。

「あ、動きますね、ありがとうございます」

マスク越しの頬が少し綻んだような気がした。メタルフレームの丸メガネが相変わらずよく似合っている。

「はい。では、スリープボタンの交換を行いましたので、お会計は9980円になります」



帰りの電車。復活したスマホで初めにやったのは、LINEのチェックだった。届いていたのはダ・ヴィンチニュースと時事通信ニュースの通知だけで、交友関係の狭さをつくづく思い知った。次にTwitterを見た。ここ2日間、友人がしたツイートがポツポツとタイムラインに現れる。よかった、みんな特に変わりなさそうだ。

ふとスマホから視線をずらした。ときおり、10センチほど開いた窓から吹き込む風が、目の前に座る女性の髪を揺らしている。窓の外を見ると、多摩川の水面に陽の光がキラキラと反射していて、綺麗だと思った。僕は右手に持っていたスマホのスリープボタンを押し、デニムの尻ポケットに突っ込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?