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嘘いつわりなく。②

はい。ヘッダーの写真は、相変わらずウソです。笑

😎「はてさて…」

😅「Part 2…」

😎「うん。準備はいいか?」

🙂「はい」

😎「前回、じぶんと対話をせずに、物事をそのまま受け入れることは、じぶんを欺くことだ、と言えると結論を出したな」

🙂「うん」

😎「今日は、この部分をもっと掘り下げてみよう。」

🙂「うん」

😎「…………💭」

😑「あっ………!!これについて書けって?!」

😎「そうだ」

😫「えーーーーーっ!?!」

😎「すまんかった。まだ早かったな。フライングだった。」

😇「いやー、えー、うーん、謝ることじゃないけどさ、いまインスピレーションで送ってくれた言葉については、まだ上手く言語化する自信がないのよ……うーん。やってみて平気かなぁ……」

😎「大丈夫だ。やってみなさい」

「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」

臨済録

😑「……。よめまてん。」

😎「調べなさい」

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん。……

🙂「はい。

人から与えられた、言葉やもの。

これらをそのまま盲信してしまうと、本質がどんどん見えなくなっていきます。

本質を吟味することなく、これがよい、あれがよいと行動することは、

「よいことをしたつもり」

に過ぎないのです。

「よいことをしたつもり」というのは、
単なる思い込みであることも多いのです。

そして、自分は知っているのだ、とひとたび思い込んでしまうと、なかなか厄介です。

知ったつもりになって、それ以上、知ろうとしなくなってしまうからです。

受け売りの言葉を用いて、他人に正義を振りかざしてしまうことだって、あるかもしれません。

ですから、
本質をつかむことなく「これが答えなのだ」と言い切り、思い込んでしまうと…

じぶんを欺くだけでなく…

じぶんを傷つけるだけでなく…

結局、自力で答えを導き出せないままになってしまうのです。」

😎「いいぞ。さて、ここで、↑の禅語にもとるわけだ」

😌「はい。

あなたは、何を信じて生きていますか?

他人の言葉や在り方が、生き方の指針になっていませんか?

いつの間にか形成された倫理観が、生き方の指針になっていませんか?

じぶんという存在を、他者に委ねてしまった瞬間から、あなたのしあわせは、外側の出来事に左右されることとなってしまいます。

これは、非常に不安定な状態です。

たとえば、問題が解決した時とか、足りない何かが手に入った時とか……

そのようなときにしか、しあわせを感じられなくなってしまうからです。

だって、問題を問題とするのも、足りないことを足りないとするのも、他者との比較あってこそ。
ですから。

そんなふうに、他者に幸せをゆだねず、
いま、ここで、幸せを感じようとするには。」

😎「仏に逢うては、仏を殺せ。」

☺️「そういうことです」

😎「なるほど。では、どうやって殺せばよいだろうか?」

😊「他者が出した答えが、なぜ、そのような答えになったのかを考えることです。そして、じぶんと対話しながら吟味し、実践してみることに尽きます。」

😎「どうして、実践することが良いと考えるのだ?」

😊「見つけられるからです。じぶんの、答えを」

😎「ほう」

🙂「真理も正義も、信じなくていいのです。

神も仏も聖霊も、信じなくていい。

信じられるものを探して、こうらしい、ああらしいと、右往左往しなくていいのです。

それよりもまず、自分自身の中にある、幼子のような、ゆるぎない幸せな気持ちを見つけること。

つくるのではなく、見つけること。

見つけたら、それを大事に愛でること。

こうすることで、じぶんなりの答えを出せますし、

なにより、じぶんが救われるのです」

😎「よく書けたな。じぶんが救われると、他者も救われる。そんな愛の連鎖で、この世はもっとよくしていける。

変容の世紀。

ともに、参ろう。」

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