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『古事記』を世に出した女性天皇(現代語訳『古事記』では分からないこと 11)


■『古事記』を世に出した天皇

『古事記』は第40代の天武天皇が着手を命じたまま、逝去によって約四半世紀のあいだ中断し、その後に第43第の元明天皇が完成させたものである。

つまり、元明天皇が命じなければ、『古事記』は世の中に存在しなかったのだ。 

元明天皇は、草壁皇子の后であり、天武天皇にとっては迎えた嫁にあたる。

元明天皇が『古事記』の文字化を太安万侶おおのやすまろに命じてから、わずか4ヶ月で『古事記』は完成し、献上されている。

このことは、元明天皇が書物化を命じる前(天武天皇の生前)に、『古事記』はほぼ完成していたことを意味している。元明天皇が太安万侶おおのやすまろに命じたのは、『古事記』の文字起こしだったのだ。

天武天皇は、『古事記』をギフテッドである稗田阿礼ひえだのあれに染み込ませた。それは、『古事記』の身体化であるとともに、秘蔵化でもあった。

天武天皇は、意中の息子(大津皇子)を天皇にすることが叶わず、皇后の推す子(草壁皇子)も早逝して天皇になることはできず、皇后自らが次の天皇として即位した(持統天皇)。持統天皇は、天智天皇の代からの律令国家化事業を推し進め、孫の文武天皇ともども律令国家化と相容れない内容を含む『古事記』には関心がなかった。

次の元明天皇(草壁皇子の未亡人)も、『古事記』に関心がなければ、『古事記』は世の中に存在することは無かったのである。


■祖父である天武天皇の血統を抹殺した文武天皇

では、元明天皇は、天武天皇の後継者だったのかと言えば、これは単純には言えない。

元明天皇は、自分の子どもである文武天皇が若くして死期を悟った時に、その息子の首皇子おびとおうじ(後の聖武天皇)がやがて青年になって即位するまでの後ろ盾となることを託されて、息子の指名で即位した女性天皇である(首皇子おびとおうじの母は、出産後にメンタルで別居を余儀なくされている)。

8世紀は女性天皇が多かった時代だが、それでも元明天皇が即位するには、先代となる天皇の指名だけでは周囲を納得させるのには十分ではなかったようで、自らの即位の根拠として、『天智天皇の不改の常典』に従って即位するのだと宣言して天皇になっている(『続日本紀』)。

元明天皇は、天武天皇と持統天皇にとっては嫁であるが、嫁が即位するというのは、建て前として通らなかったようで、天智天皇の娘として即位したのだ。

『天智天皇の不改の常典』というものが本当にあったのかは、歴史学上定かではないが、これを自らの即位の根拠に据えることで、首皇子の即位まで、天武天皇の血筋の皇子の即位を封じることができる。

文武天皇は、息子の即位を確実にするために、母に天武天皇の血脈を切る役割を背負わせたのである。

元明天皇は、天智天皇を父とする持統天皇の腹違いの妹であることを考えれば、壬申の乱に勝利した天武天皇は、やがて勝ったはずの天智天皇の血脈に取って代わられた悲劇の天皇であったとも言える。

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■絶えた天武天皇の血統と入れ替わりに世に出た『古事記』 

天武天皇の血脈を切った元明天皇であるが、息子の文武天皇は、姑であり腹違いの姉である持統天皇の傀儡とも言える存在であったため、その路線を単純に継承することには抵抗があったのではないか。

律令国家化は、当時の海外情勢の要請であり、その歩みを止めるわけにはいかないために、外面的には持統路線を積極的に継承、推進するものの、精神性においては、持統天皇が一顧だにしなかった天武天皇の秘蔵の『古事記』を復活させた元明天皇の動機は、このような人間的な感情にあったのではないかと思っている。

そしてもうひとつ、元明天皇には、『古事記』の文字化を急がなければならない理由があった。それは、稗田阿礼ひえだのあれの年齢である。

天武天皇に誦習を命じられた時に28歳の青年だった稗田阿礼ひえだのあれも、58歳、当時の年齢としては高齢と言ってよい。文字化しなければ、『古事記』は、稗田阿礼ひえだのあれの肉体と共に永遠に失われてしまう。また、年若い首皇子おびとおうじも、青年になれば自己の考えが固まって、父同様に『古事記』的なる精神性を無視するようになるかもしれない(実際、聖武天皇は仏教に傾倒する)。元明天皇にとって、『古事記』を完成させ、継承するには、今が最初で最後のタイミングなのである。

元明天皇の主な業績が、四神相応に設計された平城京への遷都、地域の独自性を尊重した風土記の編纂、出羽と大隅という国境緩衝地帯(国)の設置であることを見れば、それらは『古事記』らしいと言えなくもないように思えてくる。

天武天皇の血統は絶えたが、『古事記』は、元明天皇によって文字化されたことで、日本という国を構成する二重螺旋DNAつ国の長きを取り入れ我が短きを補う律令国家化・戦後民主主義推進に通じる発想と、いにしえのもののありかたやこころを忘れずに活かしていく発想という一対の一つとなったのである。


■おまけ:幻の女系女性天皇

元明天皇は、娘に天皇位を譲っている(元正天皇)。元明天皇が、『天智天皇の不改の常典』によって即位したことから、この譲位は、母系(女系)での皇位継承の意味を持っている。父系なら、天武天皇の名に於いて皇位に着いていなければならなかったからだ。つまり、日本史上、女系女性天皇はただ一度だけあったことになる。

元正天皇は生涯を独身で通したことにより、女系が継続する可能性はあり得なかった(ただし、女系が継続することは王朝が変わることを意味するため、可能性があったとしても実現はしなかったと思われる)。

また、『続日本紀』では、元正天皇は天智天皇の孫としてではなく、天武天皇の孫としてのみ書かれており、日本史上ただ一度だけあった女系相続の側面は、無かったことになっている。

元正天皇は、母方をたどれば女系相続による女性天皇であるが、父方をたどれば男系の女性天皇でもある。ただ、元正天皇を天武天皇に連なる男系の女性天皇であるとしてしまう『続日本紀』のスタンスは、天武天皇の嫁の即位ではなく、天智天皇に連なる男系女性天皇としての即位だとした元明天皇の就任理由を否定するものでもある。

実際、以降、『天智天皇の不改の常典』が言及されることはない。

そして、天武天皇の男系の曾孫である聖武天皇(第45代天皇)は、血統としては娘の孝謙天皇(第46代・称徳天皇として第48代)に天皇位を承継することになり、以降は、天智天皇の血統に王権が移っていき、天武天皇の血統は天皇家の歴史から消えてしまうのである。


●今回のあとがき

思ったより長くなってしまいましたが、ようやく、『古事記』の背景について今回書いておこうと思った範囲を書き終えました。

これで、やっと『古事記』冒頭の中身の話に入れます。

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