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本質の感染症(2)

本質の感染症(2)
[第2回]記号化
岩田健太郎 いわた けんたろう
神戸大学大学院医学研究科微生物感染症学講座
感染治療学教授


僕を見て! 僕を見て! 僕の中のモンスターが
こんなに大きくなったよ,Drテンマ
Mein lieber Dr Tenma
Sehen Sie mich! Sehen Sie mich! Das Monstrum in
meinem Selbst ist so groß geworden!
浦沢直樹「MONSTER」より

1

 基本的に,科学とは名前をつける営為である(そして,「数を数える」営為である).名前をつける対象がシニフィエであり,つけられた名前がシニフィアンだ.両者の関係性が完全に「恣意的(arbitrary)」に結び付けられるというのが構造主義の要諦であった.
 ちなみに,このarbitraryという英単語は「自由裁量の,随意の,気まぐれな」というような意味である.ラテン語arbitrarius,すなわち未定であり,仲裁者(arbiter)に決定を委ねるような,というような意味である.手元の英英辞典によれば,「based on random choice or personal whim, rather than any reason or system」とある.
 日本語の「恣意的」には「気ままな,自分勝手な,自分の好きなようにふるまうさま.論理的な必然性がないさま」(日本国語大辞典)とあり,用法として「或る目的を遂行することを急務とする人々は,往々にして歴史を恣意的に利用することを敢へてする」〔鈴木利貞編「学生と教養」(1936)〕が用例として用いられている.まあ,乱数表を使ってランダムに選んだ,という中立的な意味というよりも,「自分の都合で勝手に(そして非論理的に,かつ非中立的に)選んだ」という「意図」を内包しているように思う.Arbitraryがより中立性を醸し出している英単語なのとは若干,違いがあるのではないか.
 このように辞書的な英単語と,日本語の単語にすら,1対1の完璧な照合はないのである.投手とピッチャーは違うのである.江夏投手,第一球を……投げました! とアナウンサーが言ってもよいが,「江夏ピッチャー」とは言えないように.
 言葉の持つ「意味」は微妙であり,微細であり,そこにはある種のニュアンス,含意がある.「お姫様」につく「お」は純粋に高位の人物を指す敬称だが,「お役所」という場合は応用の効かぬ質の低い仕事をしている場所,という蔑称の意が込められている.そこに気がつかなければ,「いやいや,それほどでも.そんなに褒めてくれなくても」と勘違いしてしまうのである(しないけど).
 ニュアンスは,時とともに変じていく.
 昔,「女」は「女子供」とまとめられるように,一種の蔑称であった.「女子供に何ができる」「女が口をだすことか」という使い方で,使われたのである.現在の日本社会で「女子供に何ができる」「女が口をだすことか」などと口にすれば,あっという間に大炎上必至である.
 もちろん,女を蔑視する人たちはたくさんいるけれども,少なくともそれが「タブー」な考え方だということは広く日本社会で共有されるようになった.それと同時に,「女」という言葉がもたらすニュアンスに差別性を感じる人は少なくなったのではないか.少なくとも以前ほどではなくなったのではないか.
 「差別用語」の不毛さは,このような言葉のニュアンスの歴史的な変化を無視し,いったん「差別的」とカテゴライズしてしまうとそれを未来永劫タブーにしてしまう形式主義にある.本質を見失い,形式で動くという悪い意味での官僚っぽさは日本社会に蔓延しているが,差別用語,放送禁止用語はその最たるものである.「実態」よりも「記号」を優先するのである.それにしても,そろそろウルトラセブン第12話,解禁してほしい.
 あるシニフィエに対して名前(シニフィアン)をつける.簡単なようだが,案外手ごわい作業である.我々はこの営為を決してないがしろにしてはいけないのである.

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