ファイナルファンタジー15 日常と神話をつなぐゲーム① 【はじめに】【FFとはなにか】


■はじめに


これは、ファイナルファンタジー15についての長い文章です。

ファイナルファンタジー15は、2016年11月にプレイステーション4をプラットフォームとして発売されたテレビゲームで、これまでのところ世界で800万本以上を売りました。

僕は発売と同時にこのゲームを購入し、1週間くらいかけてクリアしました。そして、「いやー、俺はとんでもなく面白いゲームをやってしまったな……」と感慨にふけり、この感動をみんなと共有したい、と各種のレビューサイトやSNSを回ってみました。

よくある行動だと思うんですが、何故かそのわりに痛みを伴うことが多い行為です。

まあもちろんちょっとは予想していたんですが、そこでは罵詈雑言が結構吹き荒れていて、なんか素朴に「ファイナルファンタジー15、凄かったよな! やっぱスクエニってやるときゃやるんだな!」と能天気に会話できるような雰囲気ではありませんでした。曰く、あれがない、これがない、意味不明、説明不足、未完成。怒っている人たちはかなり本気で怒っていました。

みんながみんな怒っていたわけではありません。否定は目立ち、参加がしやすく、集合する性質をもってしまうものなので勢力が大きいように見えますが、称賛の声もたくさんありました。印象でしかありませんが、称賛と非難の声は、公平に言って半々といったところでしょうか。

ただし、称賛している人の中にも、突っ込んでいくと割と否定的なニュアンスが留保として残されていることが多かった。

簡単に言って、ゲーム発売直後から2019年時点でのファイナルファンタジー15(以下、FF15)の巷の評価を最大公約数的(使い方合ってましたっけ)にまとめると、次のようになると思います。

「ゲーム部分はまあまあおもしろいけどストーリーがダメ」

僕は、この言葉にFF15という作品が集約されてしまうことに危機感を覚えてこの文章を書き始めています。好きなものが否定されているからではなく、この言葉だと、FF15を表現するにあたっては不十分だと思うからです。

2019年4月現在、ネット上にある反応は、反射的な好評不評が半々だとして、それがどうのこうの以前に、多少まとまりを持った文章自体があんまりないのです。どっかに結構あるのかも知れませんが、僕は断片的なものしか見つけられませんでした。

感想であれ批評であれ、肯定であれ否定であれ、突っ込んで解釈してみた、ある程度一通りを語る詳しい文章がない。そういうものが存在しない作品は、やがて消費されて消えていく運命にあるように思えます。
これだけ凄いゲームがもしそういうことになってしまったら悲しいし、勿体ないのでまあ試しに自分が書いてみよう、とそういうわけです。

先にお伝えしますと、この文章は全部で17000字以上あります。長くなりすぎたんで、4回に分けて連載します。しかも始終、わりと真面目に書きます。できるだけ自分なりに面白く書こうとは思うんですが(なんせ面白いゲームについて書くんで)、アオリや小癪なテクニックを弄したところで、17000字は17000字です。重いです。

だからたぶん読む人は相当少ないと思いますが、まあ仕方がない。
FF15のことをどうでもいい/最低と思っている人に再評価を促すものとしては、この文章は適切ではないんですが、そもそもそんな風に他人から耳目を集めたり、思考や志向を矯正するためだけに感想文があるわけじゃないですよね。

僕はこの文章を二つの理由のために書きます。

一つは未来のキッズのため(いや、マジです)
僕はこの文章を、いま生きている人のためというよりはどちらかというと、10年とか20年とか30年とか経って、「あれ、このFF15って、実はなんかすごいゲームだったんじゃない?」といつか必ず思うであろう、幾らかの未来の人たちのために書きます。

こう言うとなんか凄いものを書く、という感じがしますが、そういう意味じゃないです。
いつか未来のその人たちが、FF15って発売直後はどう評価されてたんだっけ? と確認したくなった時に、ささやかな遺構として発見してもらうための文章であればいい、という意味です。かつてネット上にFF15に対し肯定的な長文の証言が存在していた、というデジタルな事実だけせめて残したい。この文章の長さは、その手段と目的の両方です。

もう一つは、このゲームを作った人たちのためです。
面白いゲームを作ってくれてありがとうございました、と伝えるため。

その2つのために書きます。

FF15は物凄く面白いゲームです。
ただ、その、「何が面白いのか」を言葉にするのは時間が掛かりました。正直、発売から2年半が経った今でも難しいです。FF15で起こっていることは、かなり複雑かつ既存のゲームの習慣を逸脱しているところがあるので、このゲームのことを言葉にするのは物凄く難しいのです。


僕はこの文章を、初めから解ありきではなく、考えながら書いていきます。
ただし、このゲームを心底楽しんだ人間の一人として、一つの肯定的な文章として提示したいとは思っています。FF15が何を達成したのか、このゲームにどのような意義があるのかについて、自分なりに考えてみたいと思います。

「すべては『未来の子供たち』に託された。」


■FFとはなにか


昔から、僕にとってFFは謎めいたシリーズでした。
何が、と言えば、シリーズの一つ一つが一回で完結し、互いに関係を持たないため、どのタイトルをとっても、いったい何をもってこれをファイナルファンタジーという同一のシリーズの一環とみなすのか、説明が非常に難しいのです。
いくらかの例外を除いて共通するメインキャラクターも世界設定もなく、それどころかディレクターも脚本家もデザイナーもどんどん変わっていき、「これがあるからFFである」、と必要十分に定義できるものは存在しないと言って差し支えないでしょう。

ただ、シリーズの歴史が積み重なるにつれて、FFが幾つか維持し続けている特徴があり、若干ながらその傾向は見えてきました。
いくつかのサブキャラクターや敵モンスターの流用であったり、ソードとマジックを利用した冒険譚である、といったことなどですが、この中でいま僕が重要だと思うのは、FFは、「現実世界ではない架空の世界で、大きな物語を語ることを一貫して続けている」、ということです。


FFは、現在の世界史や地球をベースメントにした架空の未来や、架空の超過去ではなく、あくまでここではない別の世界を作ることにこだわり続けてきた。


これは別にFFだけの専売特許というわけではないはずですが、FFの構造上、大きな要素の一つです。実際、15回も続いたテレビゲームシリーズで、これをやりつづけてきたものは結構少ないです。しかも毎回、前と全く違う新しい世界を作る、となると皆無ではないでしょうか。


だからFFを作ろうとするときは、「今回の世界ってなに? ファイナルファンタジーって、なに?」という問いに対して、毎回毎回、今自分たちが持っている技術に応じて、自分たちが置かれている状況に応じて、制作者たちは必ず自分から向かい合って再定義しなければならない。
そして結果的にこれが、FF15において、このゲームがその存在意義を全うする要素となり、大きな魅力となったと考えます。この文章では主にその考えをまとめてみたいと思います。


物語には、一つの大きな機能として、それを通じて現実を読み解いたり、とらえ方を変容させたり、別の現実を見せたりする力があると思います。その働きがあるため、逆に言えば、どのような物語においても、そのストーリーと現実世界との関係性を問われることは避けられない。物語を語ろうとするとき、まずは今我々が生きているこの時代がどういう時代か、という視点・認識を持つことが必要になるわけです。

「現実」とは何か。それを考えるところから物語は始まります。
とは言え、これは非常に多岐にわたります。半端なく多岐にわたります。数え上げることは不可能な、あらゆる事象が絶えず起こりつづけて超複雑化した世界をして、今がどういう世界か、と一言で言ってしまうことは原理的に不可能です。
しかしそれでもとっかかりはあり、物語とは、そのとっかかりを我々に示すものでもあるのです。

そういう状況下にあって、FF15がとくに注目した現実に対する認識・とっかかりは、「神話の不在」だと僕は考えます。

現代は神話を失った時代です。
神話という言葉は定義が多岐にわたるので、ここではそれが意味するものを、仮に、「現在の人間のルールを超えた真実」とさせてください。
現在の社会は人間中心の論理的な社会です。化学によって、経済によって、物理によって、法によって、基本的に説明がつく、神のいない世界です。人間関係や組織や国のルールによって推進される世界です。
非常に閉じられた世界です。あるいは、閉じられたように見える世界です。
そういう世界は、彩が無くて、何のためにあるのか意味が良く分からくて、つまらない。現状のルール(例えば経済面)でバカ勝ちしている人はそんなのどうでもいいかもしれませんが、そうでもない人にとっては時としてマジでつまらないのです。

物語の一つのロマンとは、そのような閉じた世界の超克です。言い換えれば日常の超克です。これが達成されたとき(あるいは、されたように思える時)、世界の謎が一つ解けるとともに、また一つ世界が広がっていきます。
物語がフロンティアスピリットを持ち続ける限り、それは何らかの面で神話あるいは神話的なものを求めざるを得ないと言えるかもしれません。

この閉じた世界を超克しようと、いろんな人が色んな物語を書いているわけですが、先ほど書いたとおり、FF15は「現実世界ではない架空の世界で、大きな物語を語る」というやり方でそれにアプローチします。

もうこの時点でかなりデカい挑戦であるということに、多くの人が気付くと思います。現代社会は神がおらず、真実が細分化された社会で、各々あるいは少人数グループがそれぞれの真実を抱えてやっていくしかないということは明らかだというのに、わざわざ新しい「大きな物語」って作るの大変じゃないか、しかもそれが現実と関係があるように作るなんて、と。

しかしFF15は(というか一貫してFFは)それをやってみました。架空の世界の架空の時代の物語で、人物は全部架空。
さて、ここでどんな物語が語られたのでしょうか。


「② FF15のしくみ」に続きます。これがほんとに面白かった。

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