SDGsと記号論

SDGsとは文化である。
しかし、それと同時に、SDGsとは文化である。
カラフルな円環に身を固め、文化的フェティッシュから世界を裁断する。
まさに、イデオロギーとしての諸生産物から抜け出せないでいるようだ。
だが、本来的には、自然との調和とは文化を排除した上での調和であるはずではないか。
しかし、残念ながら我々は文化を捨てることなどできない。
我々が、シミュレーション、共同幻想、システム、内存在であることは、これまで多くの指摘を受けてきたように、ほとんど自明のことである。
ゆえに、文化を排除した本来的な自然との調和は不可能であると見定めた方が良い。
すなわち、文化を持って自然と調和するあり方以外他に術はないのだ。

では、文化を持って自然と調和する、とは何か。
これを哲学的に捉え直すことこそ、今重要なことであると言える。
先に結論を述べておけば、私の考えは、自然をもう一度文化的に超越化することこそが、解決策となる。
これはどういうことだろうか。

ここでは、浮遊するシニフィアンという概念を導入したい。
浮遊するシニフィアンとは、ラングの体系内における他のシニフィエとの差異が極限的に取りうる記号表現のことである。
重要なのは、その記号表現自体は実態を持って残されているが、その記号内容自体は極限的に未規定であるということだ。
例えば、神という概念。
これも浮遊するシニフィアンである。
否定進学システムが象徴するように、神とは「〜であらず」という形でしか表現できない。
なぜなら、神を「〜である」と言った途端に、神は陳腐化するからだ。
仮に「神は存在者である」と言ってみよう。
しかし、神は超越者であり、全能なのではないか。
つまり、神は非存在者にもなれる可能性を孕んでいなくてはならない。
ゆえに、「神は非存在者でもある」。
これは矛盾めいたことである。
だからこそ、これらの命題を否定的に言い換えることで、両義的に矛盾的に解消するという策。取るのが否定進学システムなのだ。
つまり、「神は存在者であらず」そして、「神は非存在であらず」。
こうすることで神は超越化する。
したがって、ありとあらゆるシニフィエとの差異を明示することで、神のシニフィエが、シニフィエのラングから持ち上げられ、超越化する。
否定進学システムとは、シニフィアンからシニフィエを抜け落とす、正確には他の記号との徹底的な差異化によってそのシニフィエを否定し続けることで、シニフィアンを超越化する営みであるのだ。
こうした、出来上がったシニフィアンこそが浮遊した存在になる。

では、この浮遊するシニフィアンとは、SDGsにどう応用できるのか。
自然とは何か。
歴史を振り返れば、自然とは浮遊するシニフィアンであったはずだ。
いつ何時天災が降り注ぐから分からない。
完全なる偶然性。
自然はいかなるシニフィエも引き起こし、そして、いかなるシニフィエによっても規定されることはない。
そして、その偶然性を記述説明するための対抗手段として生まれたのが神話である。
ただし重要なのは、その神話も同じように浮遊していたことだ。
自然とは、神話とは、まさに、いかようにも意味内容を取りうる、浮遊するシニフィアンであったのだ。
ここで強調しておきたいのは、自然から二時的に発生した神話は、自然を陳腐化することなく、神話を超越化したことだ。
つまり、自然と神話は密接に関連しており、神話を通して見た自然は超越的である。

しかし、科学の導入によって、自然と神話が相対化され、陳腐化してしまった。
そして同時に科学は超越化した。
科学は、ターミネーターという映画に象徴されるように、偶然性を帯びた、畏怖すべき存在になったのだ。
問題点は、科学は自然を超越化できない点だ。
科学は自然に、超越的に、つながることはできず、乖離している。

SDGsが導入される意味はこういう点に見出せるだろう。
つまり、かつての神話と自然のように、科学を自然と繋げることで、自然の再超越化を目指す。
そして、浮遊するシニフィアンとなった自然ともう一度かつてのように関わり直すことで、本来的な自然との調和を目指すのだ。

しかし、これは本当に可能だろうか。
というのも、SDGsは科学を陳腐化してしまうからだ。
斎藤氏の言うように脱成長を目指すと言うやり方は、科学自体の陳腐化を含んでいる。
つまり、SDGsをまともに遂行すれば、科学は陳腐化し、同時にSDGsが超越化する。
科学とSDGsは繋がりようがないのだ。
科学とSDGsは互いに排反する。
ゆえに、SDGsが見据えられた未来には、SDGsという文化のフェティシズムが超越化し、無論自然も同時に超越化した世界が広がり、同時に科学が陳腐化しているはずだ。
こうした考察を通して考えれば、自然とSDGsの矛盾的関係については言うまでもないだろう。
そして、自然と調和するための自然の超越化には、SDGsが役立つことだろう。

最後になるが、浮遊するシニフィアンはとても危険なものである。
それ自体が徹底的なコードに化してしまえば、もう他に道はない。
コードという表現をしたが、それは浮遊するシニフィアンが、完全には浮遊していないことを意味する。
つまり、シニフィアンが他の在り方に徹底的に開かれていることが、もっと本来的な自然であり、その自然化、神話化、超越化、が中途半端であるからこそ、強制的な憎らしい権力へと頽落してしまう。
もっと浮遊したコードとしてSDGsが機能することを、同時にSDGsが超越化することで全く機能しないこと、全く浮遊してしまうことを、心して望んでいる。

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