情熱渇望症

私は、情熱渇望症である。
時には、何に対しても不感応な、長い夜の時間を過ごすことがある。
特に、何かに大きく揺さぶられることもない。
いや、それは言語的な防衛本能によるものなのだろうか。

私が思うに、もしこの世に言葉などなかったならば、ただミミズやオケラやアメンボのように、ただそのままに生きられたのかもしれない。
しかしながら、私は言語を、深く残念ながら、習得してしまった。
生きている意味がわからなくなり、哲学を少々学び、そして構造主義を知り、やがて全てが言語によって構成されたただの幻想にしか見えなくなった。
今まで見てきたあらゆるものが、私の心を癒してきたはずの何かが、全て「幻想」に過ぎなかったとするのなら、私は何を信じれば良いのだろう。
いや、「信じられるものなんてあるわけないじゃないか!」と開き直ったほうが良いのだろうか。
もう私には分からない。

ただ、時々気づくことがある。
それは、情熱を渇望している私がいる、ということだ。
情熱が欲しい。
周りの友達らしき人を見渡せば、彼らがただ、その毎日の日々を楽しくハツラツに、時にはハレンチに生きてしまっているのを確認できる。
しかし、私にはそれができない。
過剰に燃えながら、過剰に落ち込んで、過剰につながることができない。
しかし、これは、私が過剰に人の目を気にしたり、過剰に斜に構えてしまったりしているからではないのだ。
もしかするとそれらが原因なのかもしれない。
だが、私の感覚ではそうは思えない。
私には、いわば現実的なその光景に、不感応であるのだ。
人とのコミュニケーションの中で、甘味や苦味を感じられない。
ただ口の中にティッシュを詰められ、やはり私は堪能できないまま。
周りを見渡せば、彼らは、「ポケットティッシュの方が酸味が強い!」とか「ウェットティッシュはあんまり好きじゃない」などと訳のわからないことを、口の隙間から漏らしている。
そう、私にはなんでもいい、とにかく、味のする何かの中で、ただそれを見つめていたいだけなのだ。

そういった、もう諦めるべき一般的喜びは、もう本当に諦めるべきなのだろうか。
ただ情熱が欲しい。
情熱を追いかけたいという、その情熱だけは、誰かに負けてたまるか。

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