酒とタバコの時代

人生100年時代と言われる現代。
少子高齢化が叫ばれる中、我々は果たしてそんなに長生きしたいのか?
私はそうは思わない。
せいぜい長生きして75歳までには必ず死にたい。
早ければ早いほどいいとまでは言わないが、
しかし、現代人は恐らく長生きするだろう。
なぜなら、現代人は「予測可能性」に対してあまりに傾倒してしまっているからだ。
予測可能性とは、すなわち、アレコレをしたらコレコレになるというような明確な未来が「予測」できる状態を指す。
たとえば、私たちは食べログやAmazonのレビューを逐一確認するが、これも予想可能化であるといえよう。
たしかに、この一連の作業は我々に信用できる情報を提供してくれるし、使って損は無さそうだ。
しかし、「レビューがないと信用ならない!」といって食べに行かず、注文もしないのは馬鹿げているだろう。
少し極端な例だが、予測可能性の安心安全な快適さにあまりに傾倒してしまうと、反対に、予測不可能な事態に対処できなくなってしまうことはあるだろう。
予測可能性は、未来をクリアにしたと同時に、予測不可能なものに対する不安を高めてしまったのだ。
では、予測不可能性に対する不安の高まりは、どのような問題を生じさせるのだろうか?
マッチングアプリ「with」のCMをもとに考察したい。
「もう、合う人だけと、出逢いたい」
withのCMではこの決め台詞と共に、アプリを通して出逢う男女が描かれる。
では、この決め台詞は何を意味しているのだろうか?
まず、合う人とはなにか?
合う人とは、アプリによって価値観のマッチが伺えた人のことであろう。
つまり、恋愛対象を価値観をベースとして「予測可能化」しているわけである。
そして次の言葉
「合う人だけと、出逢いたい」
には「予測不可能な合わない人となんか出逢いたかねぇよ馬鹿野郎!!」というような、そんな気持ちが溢れている。
つまり、予測不可能性に対する不安は、予測不可能性に対する不寛容さとして現出するわけだ。
また、アプリでマッチした人と出逢ったとしても、予測不可能性に出くわすことはよくあるだろう。
顔がタイプで趣味が同じ人間であっても、自分と違うところなどいくらでも出でくる。
完全な予測可能な他者など存在しないにも関わらず、予測可能化を進めるのはいかがなものだろうか。※1、※2(※については読み飛ばしてもらって構わない)

(※1、予測可能化について学問的基礎付けをしておこう。予測可能化とは、ウェーバーの官僚制化→リッツァーのマクドナルド化→宮台のイタさの回避、という社会学的な理論の系譜として頻繁に示されたテーゼである。これらの概念は共通しているため、今回はマクドナルド化を中心にして説明したい。マクドナルドという組織は見事なマニュアルシステムを保有している。何のためにか?これらは、マクドナルドの店舗で起こりうる問題全てに対処するために形成されたのだ。すなわち、これは問題の予測可能化である。こうすることで、ただのアルバイトの定員でも、マニュアルに従えばスムーズに業務をこなすことができるわけだ。なにせ、マニュアルさえあれば、アルバイト店員だけでなく、組織としても安心安全な未来が得られる。やはり、予測可能性はとてつもなく心地よいものだと言えるのではないだろうか。しかし、予測可能性は別の問題を引き起こす。それは、予測不可能な事態への対処能力の低さである。もしマニュアルに書いていないことが起こってしまったら、マニュアル人間には何もすることができない。パニックに陥ってあたふたするだけである。つまり、予測不可能性に対して恐怖することしか出来ないのだ。もちろん、予測可能化を極限まで進めれば、限りなく全ての問題を予測可能にできるかもしれない。しかし、それでもなお予測不可能性が残ってしまうだろう。物理学における不確定性の原理{電子レベルのミクロな粒子においては、位置と運動をともに認識することはできない}やカンタンメイヤスーの偶然性の絶対性{因果関係などの予測可能なものなどなく、全ては偶然でしかないということだけが絶対的に正しい}などという概念はまさに、実証的にまたは思弁的に、告発された予測不可能性を意味していると言えるだろう。つまり、予測不可能化傾向によって予測不可能性の存在を暴いてしまったのだ。)

(※2、私はバタイユという哲学者が好きだ。ここではバタイユ的な図式を通して、予測可能化傾向について語りたい。彼は連続性と非連続性という概念を提示している。本来はもっと抽象的な概念であるが、ここではひとまず、我々人間が他者と繋がっている状態を連続性として捉えてもらえばよい。一方で、不連続性とは人間同士が繋がっていない状態である。この「繋がっている」という言葉の意味は、物理的でもあり精神的なでもある広義の意味である。我々は、生まれながらにして間違いなく非連続な存在である。誰とも繋がり合えない孤独を抱いた非連続性がベースにあるのだ。しかし、一方で我々は誰かと繋がりたいという欲求をもつ。どこまでが私でどこからが貴方なのかわからない、全てが繋がってしまったかのような状態に憧れてしまう。これが連続性のイメージである。ではいかにして連続性、すなわち繋がってしまった状態、を獲得できるのだろうか?ここで出てくるのがバタイユのもう一つの概念「禁止と侵犯」である。禁止とは主に言語的活動によって生じた法律のことである。そして、その法律を飛び越えることによって、すなわち法を犯すことで、非連続性を獲得できるのだ。この禁止と侵犯が連続性獲得の重要な契機となるのだ。しかし、現代人の予測可能化傾向によって、この禁止と侵犯が、特に侵犯が、不可能なってしまったのだ。なぜか?予測可能化とは安全安心な状態を作るためになされてきた営みである。そういう意味では、言語活動や法律も同じである。言語によって諸問題を記述し、法律によって問題を統治する。まさに予測可能化といえよう。そして、これらの予測可能化が禁止として働いたわけだ。しかし、今度はまた別の問題が発生している。予測可能化は、あるところまでは良かったが、現代においてはあまりに過度になってしまった。つまり、禁止が強すぎて侵犯できないのだ。本来的欲求であるはずの連続性へ開くことがもう私たちには出来なくなってしまったのだ。予測不可能性に怯える我々は、他者という存在のその恐ろしさに震え、耐えられないままに予測可能性の中に閉じこもる。これでは、エロティシズムを獲得できようがないだろう。)

だからこそ、こので私が提案したいのが「酒とタバコ」だ。
今こそ、酒とタバコの時代である!
でも、何のために?
それは、予測不可能な状態をもう一度取り戻すためだ!
皆さんも一度は酔っ払ったことがあるだろう。
そして、酔ったとき、あることに気づく。
それは、自分の身体が思い通りに動かない感覚である。
まっすぐ歩こうとしているのにフラつく。
言ってはいけなかったはずのことをポロポロと口から溢す。
自分が自分でないような感覚。
これはまさに自己の「予測不可能化」である。
ではタバコはどうだろうか?
もちろん、ヤニクラを例に体のおぼつかなさを説明しても良いが、ここでは別方向から自己の予測不可能化を説明したい。
タバコは身体への有害性を原因に今では社会の端へ追いやられている。
現代的にはタバコは悪の元凶なのだ。
しかし、この有害性こそが我々に予測不可能性を直面させるキッカケとなる。
タバコを吸えば、食道ガンや肺ガンなど、死の確率を高めることになる。
言い換えれば、喫煙は「死」を意識させる。
「死」とは我々にとっての最大の予測不可能性でないか。
人間に必ず訪れる、それでいて、予測できないものが「死」である。
タバコは、この予測不可能な「死」を、身体の内側で感じさせるために必要であるのだ。

ここまでの議論をまとめておこう。

①現代は予測可能化している
②予測可能化は予測不可能性への対応能力を低下させる
③酒やタバコを予測不可能性をもう一度取り戻す契機となる

以上がここまでの論理展開である。
しかしながら、私もここまで書いてなんではあるが、、
本当のところ、酒とタバコが現代人への処方箋として機能するとは思ってもいない。
いや、四分の一くらいは、真面目な顔をして酒とタバコを飲んでいる私が頭に浮かぶが、残りの四分の三が、煙まみれの私を押し潰そうとしている。
本当に申し訳ない。

では最後に、酒とタバコを超えた、より抽象的なレベルの議論をしてみたい。

ここで考えてみたいのは、予測可能性と予測不可能性とはどのように関係しているのだろうか、ということだ。
先ほども述べたが、予測不可能性を全て予測可能化することはできない。
ここで私は、この命題をもう少し変形させたい。
予測可能性は予測不可能性を隠蔽してきただけではないか。
という命題にだ。
予測不可能性を隠すために予測可能性を作り上げた。どういうことか?
それは、予測不可能な事態に対する畏怖のその不快さをキッカケに、予測可能性を帯びた事態へと認識を変形させて、以前よりも心地良いものへと錯覚させる営みであったということだ。
例えば、未開社会における当時の人間たちは、自然というものに対し畏怖していた。
彼らにはどうすることもできないダイナミックな自然の運動によって、彼らは瞬時に破壊されてしまう。
もちろん不快である。
しかしこれらが、どういう理由で起こっているのか認識できれば、以前ほど恐ろしいものではなくなる。
「どうにかして不安を滅したい!」
そこで作られたのが神話である。
自然の運動を神のせいにすることでトラブルを記述し、もし次に自然が暴れ出しても神様が怒っていると説明することができるのだ。
こうして予測不可能な事態を、ある程度予測可能にすることができた。
正確にいえば、予測可能な錯覚へと変容させることができたのだ。
そして、私が考えるに、この神話の役割の延長線上にあるのが科学である。
科学といえば実証的に形成された知の集大成だと思うかもしれないが、これもただの錯覚に過ぎない。
言わずもがな、科学を下支えしている原理に因果論がある。
つまり、ある原因からある結果が導き出されるという論理である。
しかし、これは本当に正しいのか?
もし因果論が正しいならば、そして、全ての因果の繋がりを暴いたならば、未来を100%予測可能化することは可能なのだろうか?
いや、それは不可能である。
これはヒュームという哲学者が否定したのだが、私は別の方法で因果論を否定したい。
使いたい概念は、不確定性原理である。
不確定性原理とは、ミクロレベルの粒子においては位置と運動が同時に知ることができず、確率的な広がりを見せる原理である。
重要なのは「確率」という響きである。
確率が絡むなら、我々はその確率に従って未来を予測ぜざるを得ない。
それは、確率によって無数に分化された道筋を予測することはできるかもしれないが、無数である以上意味を持たないだろう。
つまり、因果論自体が不安定である(ヒューム)だけでなく、予測可能化には確率が孕むことから、実際は予測不可能であるということが分かるわけだ。
私は、科学が誤りであるという話をしているわけではない。
実際、科学的な確率論でミクロレベルの運動を計算することはできる。
私が伝えたいことは、予測不可能性を克服することは出来ないということだ。
神話も科学も、予測不可能性を予測可能のように見せることはできるかもしれない。
しかし、実際には予測不可能なままなのである。

では、この克服し得ない予測不可能性にどう立ち向かえば良いのだろうか?
私の答えは単純である。
それは、予測不可能性を「目を見開いて」知覚しろ!
というものだ。
予測不可能性をただ認めるしかないのだ。
予測不可能性に身を投じること。
川の流れに身を任せて、ただただ心地よくプカプカと浮くこと。
これが私の想像する予測不可能性の堪能のした方である。
最後にこの生き方を魅力的伝えた、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」から引用したい。

日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に
私はなりたい

「雨ニモマケズ」宮沢賢治

ただ真っ直ぐに生きれば良いだけなのである。
日照りの時には涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩く。
ただそのまま生きれば良いのだ。
酒を飲みたきゃ飲むし、タバコを吸いたきゃ吸う。
「酒とタバコの時代」はここに始まりここで終えてしまおう。

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