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昭和の記者のしごと⑰番外編・4つの取材エピソード

第1部第16章 4つの取材エピソード 


(1)王さんと愛子さん

 私はプロ野球・ジャイアンツの王貞治選手、すなわち王さんと同じ世代で、しかも高校が王さんの早稲田実業の近所だったので、勝手に近しい気持ちを抱いていました。1957年の春、王さんがエースだった早実が甲子園の選抜高校野球大会で優勝した時、通学路の商店街は「早稲田実業優勝おめでとう」「王選手、万歳」などお祝いの張り紙だらけでした。それから23年たった1980年、王さんは数々の記録を樹立して、世界の王となり、現役引退の宣言をしました。
一方私は、古手の社会部の遊軍記者(担当の記者クラブがなく、デスクの命のまま雑用をこなす記者)で、まだ管理職にもならず、サラリーマンとしてはこれから、というところ。王さんの引退に対し、有名人の反響を集めて来い、と指示されました。
当時そのエッセイをよく読んでいたことと、住いがNHKのすぐ裏の渋谷区松濤なので取材に便利、という勝手な都合で、まず作家の佐藤愛子さんに電話をかけました。すると、正確な言葉は忘れましたが、「あそこまでコンスタントに活躍できたことこそ、天才の証拠だ」とかなんとか、うまいことを言う。しめた、と思い、これからカメラマンと取材に行きます、と言うと、「駄目です」とにべない返事。
当時、佐藤さんは週1回民放の朝のテレビに出演していて、その都度、時事的なことで何か気の利いたことを言わなければならないが、それが中々思いつかず、苦痛でしょうがない。今日は王さんについて気の利いたコメントを思いつき、これで次回の苦痛から免れた、とほっとしたところ。なんじょうNHKなぞにしゃべられようか、というわけです。
ここであきらめたのでは社会部記者の名が廃る。カメラマンと共に愛子さん宅にすぐ押し掛けましたが、電話で言った通り、と会ってもくれない。せめて「引見したうえで」(古風な言葉!わざと使いました)断ってくださいと秘書を泣き落としました。不承不承、着物姿の愛子さんが現れましたが、紅を引いただけの愛子さんがあまりに美人なので、びっくり仰天。へどもどしているうちに、「ダメなものは、ダメ」と断られてしまいました。
良い狙いでしたが、ダメでした、では済まないのが、遊軍記者のつらいところ。NHKの廊下で、大河ドラマ「獅子の時代」の打ち上げにやってきた女優の沢村貞子さんをつかまえ、泣きつくと、沢村さんは、やおら衣文を抜いて構えて一言。「王さんの居ないプロ野球なんて」。そして、「これで良い?」。思わず、「いやー、結構です」。
30秒あるかないかの1カットでしたが、その夜と朝のテレビで何回も使われました。
あれから40年近く、王さんと愛子さんの「現役」の元気な姿をテレビなどで見ると、決まって、あのときのうまくいかなかった取材のことが思い出されます。

(2)最高裁判事の全員取材が目標 9勝5敗

特ダネを取った取材は忘れられない、とよく言われますが、結果が誇るべきものでなくとも、その取材の過程が苦心惨憺したもので忘れられないものもあります。私にとっては1978年の春、最高裁15人の裁判官のうち、最高裁長官を除いた14人全員との個別のインタビューを目指した取材が、そうした忘れられない取材です。
この年の5月3日の憲法記念日、岡原昌男最高裁長官が恒例の記者会見で、当時国会で審議中で、被告人の人権を無視した法案だという厳しい批判の出ていた、いわゆる弁護人抜き法案への熱烈な支持、必要論を表明し、検察官出身のタカ派根性丸出しの「岡原発言」として問題になりました。この時NHKの司法担当チームの一員だった私は、岡原長官以外の14人の最高裁判事は、全員がタカ派ばかりというわけでもあるまいし、この発言をどう思っているのか取材してニュースにしたい、と思いました。
この取材には二つの方法があります。一番普通なのは、この岡原発言後最初に開かれる5月24日の最高裁裁判官会議で、長官が発言の真意を説明し、他の裁判官から質問や意見が出るだろうから、それを取材し、ニュースにする、というやり方です。
しかしこのやり方には、二つ問題があります。一つは裁判官会議で誰が何をしゃべったのか、という取材は、もちろん正式な発表はなく、極めて難しいだろうということです。さらに問題なのは、苦心して会議の真実らしいものを取材してニュースにしても、間違いなく、最高裁事務総局が、会議の実際とは違う、として猛烈な抗議をしてくるだろうことです。それに対する反論は中々難しい。
そこで第2の方法として考えたのが、14人の裁判官を会議全体ではなく、個々人として取材する、さらに、会議より前に取材して、会議の前にニュースにしてしまう、という方法です。最高裁の裁判官と普段、個人的な付き合いがある訳ではないし、この取材も大変な困難が予想されますが、何よりも最高裁事務総局が抗議しにくい、という利点があります。会議と違って私のインタビューの中身を事務総局は知らないわけですから、真実と違う、と言って抗議するわけにはいかにからです。
さて、前置きばかり長くなりました。実は、裁判官の自宅(官舎)を一人で回って行ったこの取材の顛末を、ミニコミ誌の「マスコミ市民」1979年1月号と2月号に書きました。それを今読み直しますと、「個人名は出さぬ」「発言者が誰か、分るような書き方はしない」という約束で、取材に応じたのは14人のうち、9人でした。4人からは、玄関払い、1人はいつも留守で捕まりませんでした。14戦して、9勝5敗、というところですが、この9人が取材に応じたのは、予想よりだいぶ多い、と思いました。裁判官も岡原発言に対し、何か言いたかったのだろう、と受け取りました。
しかし、「何か言った」内容はほとんどが、煮えたか沸いたかはっきりしないものばかり。今ここで紹介しても、かったるいばかりですから、当時マスコミ市民(1979年2月号)に書いた、印象に残ったこと、という「まとめ」をさらに短くまとめて紹介しましょう。
(イ)最高裁(判事)は、必ずしも一枚岩ではない。理由は様々にせよ、一部の判事から岡原発言にかなり批判的な雰囲気がかなりはっきり感じ取れた。その批判的意見、雰囲気は、弁護士出身の判事に多い、というわけではない。むしろ、「弁護士出身だから、意見を言うのは差し控えたい」と妙に謹慎する風の人もいた。
(ロ)一枚岩でない、と言っても、結局のところ、弁護人抜き特例法案にはっきり反対の意見を表明する最高裁判事は、1人もいなった。
この取材の直後の5月24日、岡原発言後最初の最高裁裁判官会議が行われました。当時の最高裁事務総局筋によると、この席では事務総局の秘書課長が岡原発言問題の経緯を説明したが、他の判事から特段の質問、意見は出なかったということです。
 私は「今日岡原発言後最初の最高裁裁判回会議が開かれる。岡原発言に対する最高裁のほかの裁判官の受け止め方は様々だが、今日の会議で、実際にどのような意見が出されるか注目される」という趣旨のニュースを書き、その朝のNHKニュースで放送されました。
私のニュースに最高裁事務総局の抗議はありませんでしたが、会議で肝心の裁判官の意見はなかったので、続きのニュースも書きようがなく、私の取材は、手間ばかりかかって、成果なし、という結果となりました。

(3)東大総長選挙をめぐる特ダネ

まさに番外編の取材として、私がNHKの記者になる前、東大の学生時代、東大新聞の記者だった時の話をしましょう。東大新聞は原則4ページ建て、毎週発行で、その業務は学生にとって中々ハードです。1963年秋、茅誠司総長の任期満了に伴う東大の総長選挙を迎え、3年生の私が予想記事を書きました。
縮刷版で読むと、11月6日号の1面トップで、経済学部の大河内一男学部長が最有力、ダークホースが有澤広巳前法政大学総長、その他法学部の田中二郎、石井照久両教授、工学部の吉識雅夫学部長が有力、としています。
結果は、この5氏が評議員などによる予備選挙で、5人の候補にそのまま選ばれ、全学の教授、助教授による本選挙では、大河内、有澤両氏の決選投票となり、大河内氏が当選しました。その後NHKの記者になってから書いた人事原稿でも、これほど見事に的中したことはありません。
 週刊新潮の記者が来て、なぜそうなったか、としっつこく聞く。面倒になって、記事の通り投票したんでしょう、と答えたら、「東大総長選挙は東大新聞の言いなりではないか、という声に応えて・・・」という4ページの特集記事にされ、しばらく学内を歩きにくい感じがしました。
 当時の東大には全学的に情報を伝える手段が乏しく、東大新聞は情報発信について寡占状態だった。普段はそれほど読まれていなくとも、情報が必要な時は視聴率ならぬ、読紙率がアップします。総長選では東大新聞の影響力が急上昇していたわけです。
 この記事の取材自体は簡単で、学内事情に詳しいことで有名な、経済学部の某教授と某学部の事務長の話をミックスして書いただけです。大学のような、硬そうなところでも、「情報通」はいるものです。

(4)次は、リクルートの創業者、江副さんが、関係する話

東大新聞は財団法人で、東大を代表して参画する教授連と東大新聞の有力OBで構成される理事会が経営者。学生の私が経営を補佐するマネージャー役をしていた1963年(昭和38年)頃、東大新聞の年間予算は1千万円くらいでしたが、その80%は広告収入で、そのまた80%は企業広告でした。企業広告というのは東大生を採用したい企業が、商品ではなく、企業自身をPRするもので、それを東大新聞が独占して掲載していました。
 しかしその企業広告は、すべて江副さん経営の大学広告社(のちのリクルート)が扱っていましたから、江副さんは経済的に東大新聞の生殺与奪の権を握っていたことになります。
 東大新聞の企業広告は1段9000円(新聞1ページは当時は15段)でしたが、大学広告社がマージンを引いて渡す東大新聞の手取りは、4500円でした。大学広告社の説明では50%の法外なマージンを取っているのではなく、定価通りに売れない、ということでした。東大新聞としては定価はどうでもよく、手取りをもっと上げてもらいたかった。
東大新聞研究所の教授で、東大新聞のOBでもある殿木圭一東大新聞社専務理事の命で、私が値上げ交渉に当たることになりました。交渉といっても、東大第2食堂のそばの東大出版会の建物にあるアートコーヒーで、江副さんとお茶を飲みながら話をするだけのことですが。たかが東大新聞規模の話で、江副さんが直々に交渉に出てきたのですから、まだリクルートの大躍進が始まる前だったのでしょう。
 この時私は1段あたり千五百円の値上げを要求しましたが、大学広告社の経営が苦しいようだから、千円上がれば上出来、と考えていました。ところが江副さんの回答は予想とは全く違い、毎年5百円ずつ上げていく、というものでした。この人は変わった発想をする人だ、と子供心にも感心し、交渉はすぐまとまりました。
 私が昭和40年に卒業して間もなく、東大新聞の担当者(学生)がリクルートを訪ねても、江副さんはもう会ってはくれなくなっていました。超多忙の時期が始まっていたのでしょう。そして昭和41,2年ごろ、新潟でサツ(警察)周りをしていた私が、ある日新潟大学に行くと、企業広告を満載したリクルート社の分厚い本が就職相談の窓口に配布されていました。江副さんも変な本を出したなと思い、その意味するところがピンときませんでした。しかしそれは、リクルートが企業広告を載せる媒体を自前で持ち、その後の大発展のきっかけになったもので、すなわち、東大新聞など全国の大学新聞に対する、いわば縁切り状だったわけです。

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