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昭和の記者のしごと⑩巨額農家負債(2)

第1部第9章 巨額農家負債(2)―取材拒否と抗議、農協との対決

負債農家と組合長の対決インタビュー


ローカルのシリーズ放送「どうする農家負債」に対して、角館さんらに金を貸している立場でインタビュー取材に応じている安代農協の組合長からも強い抗議がありました。「報道されたことで組合員農家が動揺しており、迷惑だ」というものです。組合長は「どうする農家負債」4回シリーズの放送の2回目に登場しました。何故巨額な農家負債が生じたか、解明しようとしたもので、別々に取材した組合長と負債農家二人のインタビューをいわば対決させる形で構成しているものが中心になっています。インタビューだけでも、農家負債を生んだ構造がだいたい理解できます。

角館勇さん(負債農家)
「だいたい第1回目に返せなかったら、やめろ、と言ってくれればよかった。それを次から次かと国の金をまわしてきた・・」

川又正三郎組合長
「資金を伴うものだということを忘れた経営をした。ただ増やせ増やせという時代だったから、資金も要った。そういうものが積み重ねとなっていく。それに放漫もあった」

三浦安身さん(負債農家)
「49年がオイルショックで、30万円で買った牛が14万円を切るという状態だった。この時、1000万円の借金を負った。昭和51年、危険と知りながら近代化資金を借りて畜舎を建てたわけです。損して規模拡大しても始まらないが、規模拡大したら負債を返していけるのでは、と考えてやった」

組合長
「その農家の経営だけではなくて、資金の供給をした農協にも甘さがあった、と。そこの農家の担保に見合う範囲でとどめておけば文句がなかった。それについては借りた方に責任があると言う一方的なものでなくて、貸した方にも責任がある」

三浦安身さん
「偉い人の話を真に受けてがんばった俺が不勉強だったなあ、と思っています。そういう指導をしたら、結果に対しても責任を負うのが指導でなかったかなと・・・」

組合長
「あまりにも補助金なり奨励金を出せば振興になるんだと、そういうことで、釣り屋のえさのような気持でやってきたものが、まともに釣れない。日本の農業を考えてみれば戦後食糧増産の時代からこんなことで、本来は過保護主義、最近に至っては畜産がそうだ」
 

農協との対決


以上、組合長の発言は農家に巨額な資金供給をしたことを反省する、穏健妥当なものでしたが、放送後のあまりに大きな反応に驚いて、報道が悪い、という気になったようです。放送後の2月下旬に開かれた安代農協の理事会を取材に行ったところ、組合長は「今後は取材に応じない」と宣言しました。このためそれまで農協取材の窓口になっていた岩手県農協中央会の幹部と私との間で数回話し合いを持ちました。
私「農家負債問題の深刻さとともに、農協が問題解決のため真剣に取り組んでいることを放送にきちんと出したい。そのためには農協の協力がいる」
県農協中央会「この問題の放送を一つのきっかけとして安代の負債問題の抜本解決を図りたい気持もある。取材に協力するよう安代の組合長と話し合ってみる」
しかし県農協中央会の説得は効無く、放送から1ヵ月半ほどたった3月下旬、とうとう組合長が抗議のためNHK盛岡放送局に乗り込んできました。局長、放送部長、担当デスクの私との話し合いは2時間半にも及びました。組合長は「負債問題は農協が自分で解決するのでこれ以上TVで取り上げるな」と言います。こちらは負債問題解決のためにもっと取材に応じろと主張し、全くの平行線です。
この話し合いの中で、組合長が「特定の政党のための放送だ」などと言う。これは黙って聞いているとかえって誤解されるという計算も有って、私は立ち上がって、「NHKの放送に対する誹謗・中傷だ。表に出ろ」と怒鳴りあげました。70歳近いが利かん気の組合長も「何をこの野郎」とかなんとか言ってこぶしを握って立ち上がります。
ここでわが上司の局長が私に対し「何という失礼なことを言う、君は下がれ!」とかなんとか言ってくれると話が収まるものです。しかし局長はケンカ仕立ての交渉の経験はないらしく、何も言わず、おろおろするばかり。組合長も私も振り上げたこぶしをどうおろすか、困ったことを覚えています。この局長は技術畑の出身で人柄が良く、仕事は司司の部下に任せてくれましたから、こうした放送も出すことが出来たわけで、感謝しています。
話が横にそれましたが、交渉の中で、これ以上新たな取材に応じてもらうのは不可能と判断し、これまで組合長からインタビュー取材した分について、番組の中で使うことを拒否させないことに全力をあげることにしました。で、「再取材に応じてくれないとこの間の(不十分な)インタビューを今度は番組の中で使わざるを得なくなる」と言いますと、組合長は黙っています。しめた、インタビューを再度放送に使うことへの事実上の同意だ!これ以上追及せず、なんとか話し合いを終わらせました。

「放送をやめろ」と言ってきたら、どうするか


最初のシリーズから1ヶ月あまりを置いて、4月の頭に再度、盛岡ローカルの放送で3回のシリーズを組むことにしました。この放送の前、それまで取材に協力的だった岩手県農協中央会の幹部からNHK仙台放送局のディレクターと共に自宅まで呼びつけられ、放送をやめるよう求められました。農家負債問題の解決にはこの問題に対する社会的関心を高める必要がある、ということで意見が一致しているはずでした。しかし、我々の放送がきっかけになって、世論が農協への批判という形になって盛り上がってきたのに恐れをなしたらしいのです。
再建の見込みのある農家は取り上げてよいが、7人の侍のような再建の見込みのない農家は取り上げてくれるな、などと勝手なことを言います。ぐずぐずしているとまた局長のところへ抗議に来たり、話がややこしくなると思いました。この時頭に浮かんだのが、元毎日新聞の国際事件記者・大森実氏の著書で読んだベトナム戦争時のエピソードです。ニューヨークタイムズ紙のハルバースタム特派員を当時のベトナムのゴ・ジン・ジェム政権
側がアメリカ政府に手を回してアメリカに帰国させるよう圧力をかけてきました。この時、ニューヨークタイムズは、たまたま休暇を取ることになっていたハルバースタム氏に「休暇を取り消す。ベトナムから一歩も出るな」と電報を打ったというのです。
 話が大げさになってきましたが、圧力がかかった時、瞬時に、圧力に屈しない、という意思表示をするのが圧力を跳ね返すコツだと思います。それを大森氏の著書から学んでいたわけです。すぐ決断し、負債農家のその後を伝えるシリーズの放送を予定より2日早め、この専務理事にあった日の翌日の4月1日から開始しました。このことで我々の不退転の決意を感じたらしく、この放送に対しては岩手県農協中央会側から何の注文も来ませんでした。   

取材より交渉の日々


この頃の取材予定などを書き込む私の手帳を見ると、取材の予定と、取材を確保していくために農協などと行う交渉の予定が半々ぐらいになっています。
○  4月5日 安代農協あてに改めて取材の申し入れ書を送る。これに対し川又組合長は8日付で申し入れ書を送り返し、「これ以上取材するなら、東京のNHKに出向いて抗議するので、その時は案内頼む」(!)と言ってきた。
○  4月10日 仙台局の黄海富寿雄チーフプロデューサーとともに岩手県農協中央会にこの問題の担当幹部を訪ね、協力を要請。中央会側は基本的な協力を約束。
○  4月17日 仙台局の黄海チーフプロデューサーとともに足代町の山間部にある種牛センターに川又組合長を訪ね、改めて取材協力を求めた。しかし、川又組合長は「何しに来た。牛の糞をぶつけるぞ!帰れ!」と繰り返すのみ。
○  同日、安代町長を訪問。町長は「放送のあと、県や農協中央会の農家負債問題に対する取り組みが真剣みを増してきた。放送に意味があったと思う」と激励してくれた。
○  5月8日 安代農協の次年度の事業計画を決める組合員総会開催。負債問題を一般の農家がどう考えているか取材する絶好の機会。記者2、カメラマン2、ディレクター1それに私という大取材団で取材。組合長は「お前ら何しに来たか」と怒鳴るのみで、相変わらず取材拒否。総会の映像取材は断念し、会場の外回りを撮影、「・・組合員から負債問題を危惧する質問が相次いだ・・」とローカルのニュースとして放送。
このあとも取材をめぐっていろいろありましたが、何とか乗り切り、NHK特集「農家が破産するとき」の東京での編集、コメント入れ、となりました。ニュースで編集を担当した鈴木卓君が番組の編集も担当しました。担当の仙台のKディレクターとともに7、8種類の構成の番組を編集しました。私も上京、コメント作りに参加しました。収録当日は、相川浩アナウンサーが乗りに乗った語りで、番組効果をさらに盛り上げました。番組の中味はビデオを見てもらうのが一番です。1986年7月25日放送のNHK特集「農家が破産するとき」は予想以上の反響を呼んだといってよいと思います。

15年後の再会―放送は被害者を救えたか


問題はその後の角館さんたちです。その年の年末までにまとめられた国と県、農協の再建策は角館さんは、無利子で40年かかって(!)1億8000万円を返す、という内容。無利子とはいっても、短角牛の肥育で年450万円を返せ、というのは無理で、実現できる再建策ではありませんでした。また5000万円あまりの負債だった三浦さんも無利子になりましたが、毎月10万円を返しつづけろということで、これも実行不可能でした。
それから15年後の2001年2月、雪の安代町に角館さんと三浦さんを訪ねました。まず三浦さん。昔の家に住んでいましたが、やはり再建策は実らず、結局農協の厳しい借金取立てにあい、裁判まで起されました。農協は専門の借金取立屋を雇って攻め立てたということです。借金のうち三浦さんにとって一番辛かった保証人の責任について、1500万円で解消することで農協側と話がつきました。1500万円は兄弟の他、岩手県外に住む親戚が1000万円出してくれて用意できました。山仕事や道路工事などで働き、お金をためた人で、「これで出直せ」と言って、多額の金をぽん、とくれたということです。
残りの借金はそのままになっていますが、三浦さんは借金を激しく取り立てられた時のことが、いわばトラウマとなって残っているようです。
「借金に振り回され、一生を棒に振った」。
角館さんは家も土地も失い、妻子とも別れ、一人でいました。が、いまもあの岩手単角牛を飼って、暮らしています! 畜舎のそばに建てたバラックに住む角館さんを三浦さんと訪ねましたが、部屋の中心にある大きなまきストーブは、自分で鉄板を溶接して作ったものだといいます。「俺みたいのを器用貧乏というんだ」。角館さんの冗談が悲しい。
放送は二人にとってたいした力にならなかったようです。私はずーっと気になっていたことを聞きました。「あの放送に出たことをどう思っていますか?」。二人とも言うことは同じでした。
「負債問題への警告になったと思うから、放送に出たことは後悔していない」。
私への思いやりもあるようでした。二人ともやさしいのです。

突然の訃報


2017年の12月初め、年賀状の準備をする時期、三浦さんの家族から突然の訃報が届きました。三浦さんは取材の上で、困ったら頼べば何とかしてくれる、私にとって「兄貴」のような存在でした。その三浦さんが亡くなってしまうとは!急いで自分の気持をまとめ、三浦さんの奥様あての手紙を、この章の原稿も同封して送りました。
        
三浦キヌさま 2017・12・14 中尾庸蔵拝

三浦安身さま ご永眠の報、衝撃の思いで受け取りました。巨額農家負債の取材は、私の記者生活で、最も忘れられない仕事であります。三浦さんは、その仕事を仕事として成り立たせてくださった、私の大恩人です。
 この取材の経緯、三浦さんとのお付き合いのいきさつは、10年ほど前、私の取材経験をまとめた「記者のしごと」(「昭和の記者のしごと」と改題し、出版準備中)の一部として書き留め、安身さんに送って、チェックしていただいたことがあります。そうしましたら、送った原稿が、そのまま送り返されてきました。安身さんのご不興を招くようなことを書いてしまったのかと、あわてて安身さんに電話しましたら、直すところがないのでそのまま送り返した、とのことで、感激しました。
 改めてその原稿を送ります。安身さんを思い出すよすがになれば、と思いました。
 些少ですが、線香代を同封させていただきます。安身さんが、安らかにお眠りくださるよう祈っております。

 手紙を送った後、安身さんの息子さんから、私の留守に電話がありました。「原稿を読んで、父がどんなことをした人かよくわかって、ありがたい」と言っていただきました。

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