見出し画像

昭和の記者のしごと⑯長期拘留と国策捜査

第15章 長期拘留と国策捜査

検察の捜査を評論する


 この本は1部~3部を通じてすべて私が記者として体験、取材したことばかりを叙述しています。ところがこの第1部15章の内容だけは性格が違い、自分で取材したのではない、いくつかの事件についての検察の捜査に対する批判、いわば私の評論です。
 この中に出てくる事件は、発覚から事件処理までが、昭和から平成にまたがることになったリクルート事件を除き、いずれも平成になってから問題になった事件ばかり。と言って、昭和と関係のない事件ではありません。検察の使った捜査手法が、ロッキード事件をはじめとする昭和時代の「大事件摘発の“成功体験”に基づいたものだからです。
 この捜査手法は、兵営から令和に代わる今の時代も生きています。その代表例が日産元会長のゴーンの事件です。ゴーン被告は長期拘留などで被告の人権が守られていないとして、保釈中だった去年(2019年)12月、日本から不正出国し、母国のレバノンに逃亡しました。
 もちろん私は、この逃亡をよし、とするつもりは全くありません。しかし逮捕されて長期拘留の後保釈、さらに再逮捕で拘留(その後再保釈)という流れを見ると、まだ裁判が始まらず、判決が出ていないのに、懲罰が始まっているような錯覚まで起こしてしまいます。
 こうした検察の捜査手法に対する批判は、ゴーン被告から始まったものではありません。いずれも検察に逮捕され、長期拘留された、リクルート事件の江副浩正氏、外務官僚の佐藤優し、厚生労働官僚の村木厚子氏らが平成5年から11年にかけて、相次いで検察捜査批判の本を書きました。
 そこで私は、これらの本をもとに「長期拘留と国策捜査」という評論を書きました。(東大経済学部同窓会・経友会発行「経友」2012年10月号掲載)。そしてけんさつの捜査手法の問題はまだ終わっていないこと、唱和が平成、令和に至るまで大きな永享を与えていることの証左であることなどから、この評論をそのままここに掲載することにしました。

      「長期拘留と国策捜査」(「経友」2012年10月号より)

いわゆる郵便不正事件で2009年6月、厚生労働省の村木厚子局長(当時)が逮捕されて起訴され、長期拘留の挙句裁判起訴されたが、幸い真実が明らかになり、2010年9月、無罪となった。この事件で証拠隠滅罪で起訴された部下の検事の犯人隠匿罪に問われ、逮捕起訴された大阪地検の大坪弘道特捜部長が「拘留120日」(文芸春秋社)という本を出した。
 最近、容疑を否認すると検察が被告の保釈になかなか応じず、交流が長期化し、人質捜査、人質裁判だと問題になっている。そしてこれは歓迎すべきことだが、趙喜朗流の当事者(被害者)による、その不当性を訴える本の出版が相次いでいる。大坪元特捜部長の著書もタイトルから言って、長期拘留、人質捜査を批判するもののようだ。しかし大坪氏はまちがいなくこれまで人質捜査を推し進めてきた側の人であり、村木局長はその被害者の一人だ。大坪氏に急に被害者側、批判する側に回られても困る。長期拘留は
それほど自分の考えを変えてしまうものなのか。
 私はNHKに記者として33年勤務し、30代の10年は社会部記者だった。そのうち半分の5年間、裁判所の記者クラブに居て、ロッキード事件などを取材した。そういう経歴なので、事件の捜査、特に検察の動きに今も関心がある。昔のように当事者に会って取材するわけにはいかないが、長期拘留の当事者の著書を読み比べ、長期拘留で人は何を考え、どう対応するのか、そして背景にどんな問題があるのか、考えてみた。

 まずここで取り上げる長期拘留の当事者とその著書を示す。
   ▽江副浩正 リクルート会長(事件当時、以下同じ)。1989年(平成元年)2月13日逮捕、拘留113日。「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社、2009年出版、改訂版を中公新書クラレで2010年出版)。
   ▽佐藤優。外務官僚。2002年(平成14年)5月14日逮捕、拘留512日。「国家の罠」(新潮社、2005年)
   ▽村木厚子 厚生労働省局長。2009年(平成21年)6月14日逮捕、拘留164日。「私は泣かない、屈さない」(月刊文藝春秋2010年10月号、インタビュー記事)。
    「あきらめない」(日経BP社、2011年11月)
   ▽大坪弘道 大阪地検特捜部長。2010年(平成22年)10月1日逮捕。
    交流120日。「拘留120日」(文芸っ春秋社、20011年)

これらの著作の中で、出版の時期がはやいというだけでなく、検察捜査批判の新たな視点を提起した内容から、佐藤優氏のものは古典ともいうべき位置を占めている。佐藤氏は、佐藤氏や鈴木宗男氏を逮捕し、罪に問うたのは「国策捜査」だと主張し、読者をびっくりさせた(国策捜査という言葉は、取り調べ担当の西村尚芳検事が初めて言いだした)。
 佐藤氏の場合、鈴木氏とセットで、国内政治ではケインズ型の公平分配路線からハイエク型の傾斜分配路線への転換、外交における国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換を図るため断罪された、と主張するのだ。話が難しくなったが、時代の変化によって、それまで罪に問われなかったことが捜査の対象となり、しかもその捜査を遂げることが時代の変化を後押しする(西村検事の言い方では、「時代のけじめをつける」)ことになるという。
 検察の取り調べに対する佐藤氏の対応は、自分の仕事の実態についての調書の作成には応じ、そのことで「ひっかけられて」罪に問われるならむをえない、やっていないことを書いた調書にサインすることは原則として拒否(例外的に検察の主張を飲み込んだものも一、二あると本人が言う)という冷静なものだ。このため、この本を読んでも、1年半近い異例の長期拘留から想像される陰惨な印象はない。しかし、担当検事とのやり取りを詳細にリポートし、検察の取り調べとは、一般市民が思い込んでいるような、単純に真実を追求するものではなく、検事が被告を罪に問うためのストーリーをまず作り、それに合わせた調書を認めろとと迫ってくるものであることを明らかにしたのは、司法関係者には常識であっても、一般市民には衝撃だったのではないか。
 しかし佐藤氏の著書で特筆大書すべきは、検察の理不尽な捜査の話よりも、自分の本来業務、対ロシア外交、なかんずく北方領土返還交渉のいきさつと論理について多くのページを割いていることである。それによって、検察の国策捜査に対し、捜査批判ではなく、国策批判で退治しようとしているわけである。そしてこの本の説得力ある論理展開に私は対ロシア外交の機微が分かったような錯覚に陥った。その後佐藤氏が、外交問題にとどまらぬ時評家として大活躍しているのも郁子なるかな、である。
 このような佐藤氏の著書を物差しとして、▽国策捜査であったか▽長期拘留の中で、検察の取り調べにどう対処したか▽著書で何を主張したか、などをッポイントとして、上記の著書を見ていくことにする。

 先ず江副氏。事件は多数の政財官界の有力者に対し、まもなく公開予定で、値上がり必死の未公開株を配ったというもの。株を仮に「わいろ」と見ても、亜也に多数に配られ、かえって「わいろ」トミテオ、あまりに多数に配られ、かえって「わいろ」の趣旨がはっきりせず、贈収賄罪を適用して摘発するのは難しいというのがそれまでの常識だった。しかし、「濡れ手で粟」というが、リクルートは株購入の資金まで用意意し(貸付)、いわば手に粟をつけることまでしてやった。そこまでするのはよっぽどの利権が介在しているのだろうと事件の徹底解明を求める世論が高まった。検察の捜査はこうした声にこたえた形で、これも国策捜査の一つといえる。
 捜査は強引で、人権無視そのものだったようだ。江副氏の著書によると、事実関係髷曲げ、さらに江副氏の言っていない、株提供の趣旨をでっち上げて調書を作文し、これを認めてサインしなければ拘留がさらに長期化すると迫って来る。壁に向か会って立たせて怒鳴り上げ、土下座までさせる一方、調書にサインしても判決では執行猶予がが付く、と甘くささやく。
 読んでいるうちにこれは現代日本の、誇るべき特捜の取り調べの実態かと、空恐ろしくなってくる。改訂版は、新書版で477ページの大部名本で、「私の房内ノートヤ弁論論要旨、大判のスクラップブックファイル」27冊にも及ぶ新聞の切り抜き、国会の議事録などから主要な個所をピックアップしてまとめたという労作。問題にっている「取り調べの可視化」を議論する際、重要資料にすべき本であることは間違いない。
 さて,こうした取り調べに対する江副氏の対応だが、読んでいて情けなくなるほど弱い。
検察側の思い通りの調書に次々ととサインし、その結果、贈収賄の対向犯とされる藤波元官房長官、NTTの新藤会長らの訴追に繋がっていった。江副氏は公判で、こうした調書の証言を覆すわけだが,時すで遅くというべきか、関係者全員が最終的に有罪になった。
 勾留中の江副氏の人間的な弱さをここであげつらうつもりはない。問題は「リクルート事件・江副浩正の真実」と題したこの本で、江副氏がさっぱり真実を語っていないことである。リクルート事件の今も解明されていない最大の謎は、どういう基準で、どういう範囲の人に、何を期待して株を配ったのか、ということだ。そのことについて江副氏は、何も語っていない。同じ国策捜査の対象とされながら、自らが取り組んだ仕事の論理を詳述した佐藤氏と全く対照的だ。江副氏が多数の政財官界有力者に株を配ったのには、江副流の「仕事の論理」があったはずだ。それを全く語っていない。
 江副氏もさすがに気がさしたらしく、巻末の「長いあとがき」の冒頭に「なぜ、多額の政治献金をしたか」という稿を設けて、っ釈明している。しかしわずか4ページで、内容も「『リクルート時代、精いっぱいの背伸びをして、道を踏み外してしまった』と、いまになって深く反省している」というもので、説明になっていない。

 続いて村木氏。日本の司法の歴史上、かってないほどの見事な逆転無罪事件として我々の記憶に新しく、ここで細かいいいきさつに触れる必要はなかろう。ただ指摘しておきたいのは検察側は世間の公務員バッシングに同調し、高級官僚の恣意的な権力行使を摘発する国策捜査のつもりだったと思われることである。一方、村木氏にとっては国策捜査の対象とされる覚えは少しもなく、全くの冤罪自演であった。その結果、国策捜査に伴う人権無視の無理筋の捜査だけが残されたわけである。文藝春秋のインタビューで、村木氏は検事の調書の作成について、次のように述べている。
 「どんなに説明しても、結局、検事さんが書きたいことしか書いてもらえない。いくら詳しくしゃべっても、それが調書になるわけではないんです。話した中から、検事さんがとりたい部分だけがつまみ出されて調書になる。そこから、どれだけ訂正してもらえるかの交渉が始まるんです。なので、いくらやり取りしても自分が言いたいこととはかけ離れて調書になる。そこから、どれだけ訂正してもらえるかの交渉が始まるんです。なので、いくらやりとりしても、自分が言いたいこととはっかけ離れたものにしかなりません。頑張って交渉して、なんとかかんとか『少なくともウソはない』都いうとこっろまでたどり着くという感じです」
 村木氏のような強い人は嘘乗んないところまでたどり着けても、我々のような一般市民は到底持ちこたえられず、検事の作文調書の作成に協力してしまうのではないか。

さて最後に残された、大坪前大阪地検特捜部長の本。捕まえる立場の人が捕まったらどうなるか。こわいもの見たさというか、少々意地悪な気持でこの本を読んだ人たちも、予想以上の情けない内容にびっくりしただろう。長期拘留で何度も拘禁症状に襲われ、検察側の言い分通りの調書にサインして早期保釈を認めて三浦誘惑にかられ、人質捜査を呪う。一市民としてはそうした気持ちになることはよく分かる。しかし本人は、昨日までまさにその人質捜査を推進してきた人なのである!
しかも、人質捜査について何も書いていないのは、どうしたことか。読む側、国民の側から前特捜部長に書いてほしいのは、何故村木局長が冤罪で訴追され、「ちゅきく流される羽になったか、という一点、それをもたらした誤った捜査のいきさつと反省の弁、それである。
  「拘留120日」のなかで、事件の捜査に触れているのは、197ページから203ページまでと279ページの2か所、全体で308ページののうちの3%に過ぎない8ページである。ここでは「…厚生労働省関係者を慎重に取り調べていった結果、村木氏の容疑が濃厚になり、逮捕に踏み切ったものである。当初から村木氏逮捕ありきの検察ストーリーを作出して逮捕したものではない」としている。しかし、その後の公判での関係者の証言は、村木氏逮捕の検察スト^リーがあったからこそ、それに合わせた関係者の調書が作られ、その結果、村木氏の「容疑が濃厚になった」という、さかさまの捜査実態を明らかにしている。
 また、「残念かつ無念というのは、村木氏逮捕・起訴の時点で、この重要なマイナス証拠(フロッピーデスクのニセ証明書作成日付)が前田主任検事から上司の私に対し何ら報告がなされなかった」というが、そのようなことが特捜部長を頂点とす検察のチーム捜査の中で、何故まかり通ったのかが問題なのだ。そうしたことを引き起こす、検察捜査の構造的弱点こそが、解明さるべき核心である。大坪氏は自分の引き起こした冤だけの期間です。罪事件から何も学ぼうとしていない、と言わざるを得ない。

 検察捜査の「唯一のカード」(「拘留120日」283ページ)としての人質司法、それとセットになっている検事の「作文調書」とでもいうしかない強引な取り調べの実態をこれらの著書から見てくると、取り調べの可視化は当然のことだという気がしてくる。しかし、可視化はいかにして捜査を公平に進めるかという問題の改善だ。もう一つの根本的な問題は、何を捜査するかにもある。ここで取り上げた事件から考えてみても、無理な捜査、人権無視の捜査の背景には国策捜査を進める(だから、少々の無理は許される)という検察の意識、思い上がりがある。
 だから国策捜査はやめさせなければならない、と思う。確かにリクルートのような、社会の要所に株をばらまき、一企業の商売(金儲け)がやりやすいようにすることがまかり通ってよいはずがない。しかしそのための世直しを検察にお願いするのはやめようではないか。無理を通せば通が引っ込み、そのことの弊害は我々自身に返ってくる。国策捜査を喝采すれば、人権無視の捜査手法がまかり通ることになる。
 現役の記者時代、検事総長に言われたことがある。
 
「世の中のことは司法に関係することと関係しないことがあって、さらに司法の中で民事と刑事がある。検察はその中で、刑事―犯罪という特殊な問題をあつかっているだけの機関です。あまり多大な期待をされるのは筋違いですよ」と。
 時々、この言葉を思い出し、検察とか、特捜とかを大げさに考えないようにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?