映画評「甘い生活」物質的豊かさと精神的空虚

 

 イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニの代表作「甘い生活」はカンヌ国際映画祭パルムドール、アカデミー衣装デザイン賞を受賞し傑作とも言われる作品である。この映画は全体に一貫した筋書きがなく、場面や人物が次々と入れ替わっていく難解な表現技法で構成されている。「映像の魔術師」とも称されたフェリーニが生み出す映像美と相まって観客をまるで堕落で享楽的ないっときの夢を見ているかのような感覚にさせる。
公開から半世紀以上経ってもなおこの作品が様々な見解で議論されるのは、圧倒的な映像美の裏に当時のイタリアの社会風刺・宗教風刺・階級格差が散りばめられているからであろう。
 ヘリコプターに吊るされたイエス像がローマ上空を運ばれる宗教風刺的なシーンから始まると、約3時間近く主人公であるマルチェロたちの優雅で享楽的な暮らしが描かれる。しかし、華やかな生活を送る一方でマルチェロの中には常に虚無感や孤独感が渦巻く。今の生活から抜け出したいと嘆くが行動することはなく、結局最後までマルチェロが変わることはない。


 私が注目するのはこの映画に多く登場する会話が通じ合わない人々の描写である。冒頭のヘリコプターの音にかき消されて会話ができないシーン、アメリカ人とイタリア人の言語の違い、あえて返事をしない上流階級の人々、そしてラストシーンでの少女との会話も波の音にかき消され最後まで通じ合わずにマルチェロは背を向けてしまう。少女が何を伝えたかったのか、それこそがマルチェロの生活を変える最後のきっかけだったのではないかと思わざるを得ない少女の微笑みで映画は終わる。これらが表すことはセレブリティを心から楽しむ人とニヒリズムを感じながら堕落していく人のメタファーではないか。マルチェロが心を開いていた友人のスタイナーは幸せな家庭をもち、見識に溢れる何一つ不自由ない暮らしをしていた。にも関わらず子供を殺し自殺したのはマルチェロと同様に虚無感を抱えきれなくなってしまったからである。そして、その対比として描かれるのが下流階級の傲慢さである。浸水した家に住む娼婦をはじめ、聖母を見たと証言して金を貰う村の人々(ここでも強烈な宗教風刺がされている。)あらゆる手を使って他人のゴシップを追いかけ回すパパラッチの存在。金を持ち退廃的な遊びをしながら空虚を感じるマルチェロと対比して彼らの生活には虚無感が一切ない。物質的豊かさはかえって人を空虚で退廃的な世界に陥れてしまうことが描かれている。この映画自体も映像の美しさやうわべの華やかさで一部始終を終えるが、登場人物たちの中には深い精神世界が広がっている。


 物質的豊かさと精神的豊かさの反比例は現在でも共通する事象である。モノと情報が溢れる豊かな現代で人々が悩むことは、’50年代のローマの人々が持つものとさほど変わらない。環境の豊かさに甘んじて自堕落で退廃的な生活を続けると次第に虚無感を抱くようになるのだ。しかし、そこから抜け出すためには今までの生活が足を引っ張る。しがらみの中で生きることになるならばむしろ物質的豊かささえ捨ててしまいたいとも考えるが、それは贅沢な悩みであって実行する勇気などない。恐らくこの矛盾はどの時代でも人類が抱えてきたものなのではないか。だからこそ、私たちはフェリーニが描く美しいローマ世界の中に風刺と空虚を感じ半世紀以上経った今でも魅了させられてしまうのである。

『甘い生活』フェデリコ・フェリーニ

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