新潟旅行(その1、到着まで)

 2023年9月20日(水)、ぼくは30歳になった。30歳というのは大きな境目だな、本当に自分がその年齢になることがあるのだろうか、と昔から漠然と感じてきたが、いざそのときになると呆気ないものだった。小学生の頃から誕生日には学校も仕事も行かないという自分なりのしきたりがあって、この日(を含む連続する3日間)についても前々から休みをとることにしていた。いざ何をしようかと考えたときに、せっかくだから好きなひとり旅をしよう、それも日帰りで一日フルに楽しむものを、と思った。
 行先候補としては、東京から公共交通機関で約3時間以内で行ける場所。普段であれば、一も二もなく西日本のどこかに定めるところだけれど、今回は北陸地方の金沢若しくは富山、東北地方の仙台、松島若しくは会津又は信越地方の長野若しくは新潟を主な候補とし、悩んだ挙句に新潟にした。その理由としては、行ったことが無い土地であること、信濃川が流れ海に近い港町であるなど水辺に恵まれていること、そのため古くから人が集住する土地であり、農業や商業が盛んで経済的に豊かなまちであることなど。魚、米、酒といった食のイメージも強いことも選択を後押しした。
 同日の早朝、6時8分東京発の上越新幹線とき301号に乗り込む。朝食用にあらかじめ買っておいたパンをかじり、持ってきた本を開く。若菜晃子の『途上の旅』。主に海外へ、それも大自然に圧倒されるような旅をしている著者には及ぶべくもないが、同じく「デラシネ」を自称する者として、旅に人生の何かを求め、不安と期待が綯い交ぜになった気持ちを抱えることには変わりなかろうと思い、旅に行くからと携えてきた。印象的だった文章を引用してみる。

 ここではなにもかもが明るくそよいでまどろんでいる。昨日と同じ今日が過ぎていく。なにもかもが美しく、ときのまにまにたゆたっている。そのことが全身にしみわたるように快い。私は頂の白い岩の上に座って思った。毎日こうやって暮らせればいいのに。クレタのヤギのように。自分の好きなもの美しいものだけを見て、ゆっくりと何事もなく、穏やかな気持ちで生きていけたら幸せなのではないだろうか。生きるとは本来そういうことではないだろうか。なぜそのように生きていけないのだろうか。
 ここでは時間が時間どおりに流れているだけで、なにも変わらない。私はいつかまたここに帰ってくればよいのだ。深い安堵をもたらす地がこの地上にあるということを知っていればよいのだ。今はそのことだけでよい。
 再び取付まで下りると、黄色い大きなキンポウゲが風に揺れていた。

若菜晃子『途上の旅』「クレタ島のヤギ」

そして再び目を上げて地平線を見たとき、突然、自分は自分の道を歩けばいいのだと思った。
 そんなことはわかり切ったことなのだが、こうして道の途上で小さな石を拾うことひとつとっても、その行動は私自身の選択であって、拾った石は私にとっての石なのだ。石など世界中にいくらでも転がっていて、この一本道の上にもごまんとあって、それこそ拾いきれないし、もちろん拾い切る必要もないけれども、一生に拾える石に限りがある以上、自分が拾いたいと思う石を拾うしかない。ヨーガンさんの美しい石と同じように、私が拾いたい石は他の人にはなんの価値もないものかもしれないけれども、私にとっては価値があるのだから、それをこそ拾わないといけないのだ。
 そうして石を拾いながら、私は私の道を歩くしかない。その途上で、好みとは異なる石をこれもいい石だからと、思い込んで拾おうとするのは違うだろうと思う。それはそれで納得できるかもしれないけど、もっと違う石もあったんじゃないかと後で思うのはつまらない。やっぱり私は、自分がこれだ、と思う石を拾わなければならない。生きていれば選択の連続で迷うことばかりだが、私の人生は他ならぬ私のものでしかなく、誰かが私の代わりに私の人生を幸せにしてくれるわけではない。だから私は私の道を自分で歩き、私自身が私を幸せにしていかねばならないのだ。

同「路上の石」

 読みながら時折車窓の外を見やると、風景がものすごいスピードで流れていく。ちょっと速過ぎやしないかと怖くもあるけれど、その速度の分だけ、土地の特色の違いが際立って見えてくる。関東平野は本当にだだっ広い平野部で、これだけ人が広範囲かつ集中して住めるところというのは日本でも稀有だなと眺めていると、そのうちに秩父の山々が見えてくる。白く煙った更にその向こうには、方角的には南アルプスだろうか、高峰の山稜が控えている。果てることが無いかのように続く山脈が荘厳で美しい。ちょうど山に関する章を読んでいたところで、著者が山の存在に打たれピークを手で描いていくシーンに行き当たった。確かに山のこの畏さを前にしては、人は抗えないのかもしれない。
 高崎から先、上越新幹線は山のなかを通るため、トンネルも多い。トンネルを通過するときの音はすさまじい。そしてそれに気をとられているとさっきとは違う景色が急に広がる。ワープホールがあるとしたらこんな感じなのだろう。建設中のリニア中央新幹線は、そのルートのほとんどがトンネルで、磁気により軌道から浮上して、最高速度500km/hに及ぶ超高速で移動するから、より一層ワープしている心持ちになるのかなと未来の超特急に思いを馳せていると、人里にほど近い山の斜面のところどころに設置された太陽光パネルが目に入る。わざわざ山を切り開いて置かれている分、平地のそれよりも画一的で趣のない平板さが目に付き、グロテスクな様相で立ち現れてくる。大量のエネルギーを使って生きている自分の日常(現に新幹線での移動にも大量の電力が必要である。)がこのグロテスクさに支えられていることに、済まない気持ちになる。
 東京駅を出ておよそ2時間後の8時10分、予定通りに新潟駅に着いた。あらかじめ少し調べて旅程を考えていたけれど、観光施設が開くのは早くて午前9時だから、街中を散歩してみることにする。自分の足で街を歩いてみることで生活の景色が見えてくる気がする。

(続く)

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