午後5時

 ♪ソソソラ ソソソミ ドドレミレ~ ミミソ ラドドラ ソソラソド~♪「夕焼小焼」、午後5時を知らせるメロディー。複数ある防災無線から流れる音楽が、ずれては重なり間延びしながら、傾きつつある日が名残とともに照らすまちを渡る。外出していると、帰らなければと思う。自宅にいるときは、もうそんな時間か、今日も終いだな、と(それから7時間近くは起きているだろうに、)なんとなく寂しい。

 午後5時には、常に、ことばにならない切なさがつきまとう。明るいハ長調の旋律と、まだ日の残るなか点った街燈のなつかしい暖色が、さみしいながらに友だちにさよならをして、どこからかただよってくるカレーのにおいを感じつつ、「今日のうちの晩ご飯は何だろう?」と家路を急いだあの日のことを思い出させるからだろうか。

 午後5時。一日のうちで「境」に当たる時刻をひとつ選べと言われたら、この時間はかなりの票を集めるのではないか。私もこの午後5時を支持するひとりだ。

 夜明けの時刻が分かつのは日と日であって、一日というものの外側にあるような感じがする。午前と午後を分ける正午は、その両方に足を置いてはいるものの、私たちを取り巻く世界が大きく変わるわけでもなくて、どことなく人為的―そもそも時間というもの(というよりも時計というもの)自体が人為の典型でもあるのだけれど―でつまらない気持ちがする。

 その点、午後5時からは、過ぎ行く昼の光が空気の低いところにとどまり、それまでどこに隠れていたのか、徐に降りてくる夜の闇と溶け合う時間、昼と夜の両方に属しつつ、そのどちらであるとも言えない時間、昼と夜との境界―截然とした一点としてのそれというよりも、昼と夜とを両端に持つグラデーションのなかで、それらを区別することが意味を失っているような範囲としてのそれ―にある時間という印象を受ける。

 「また見附つた、何が、永遠が、海と溶け合う太陽が」。アルトゥール・ランボーの手になる有名な詩篇「永遠」の一節(小林秀雄訳)である。これが描いている時間が、果たして夕暮れなのか朝焼けなのか、詳しいことは承知していないが、個人的には黄昏時と考えたい。世界が始まる瞬間よりも、世界が終わりつつある瞬間の方がずっと永遠らしい。

 黄昏の前の一瞬、白んだ薄菫色の中で、澄み切った青色と淡い桃色がまじりあう。現実の午後5時が実際にどのようであるかはともかくとして、―むしろ、午後5時ではまだ黄昏までしばらく時間があることが多いかもしれない―「午後5時」という言葉には、こうした明晰さと曖昧さが同居した甘美なイメージが結びついている。先に引用したランボーの一節に引き摺られすぎてはいるけれど、もしも永遠というものに色があるならば、きっとそのような色だろうと思う。

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 「午後5時」をテーマに何かを書くというのを提案されて、手慰みのように思いつくままに書いてみたものの、収拾がつかなくなった文章です。お蔵入りにするのももったいないのでnoteに流す次第。

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