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地球かもしれない

昨日は空があまりにも「夏色」だったので、近所のあがたのもり公園に行く。

中心部からさほど離れていないけれど、背の高い木々と緑の芝生に囲まれた、とても静かで平和な公園だ。

木陰でお昼寝している鳩たちを起こさないように池のそばをそっと横切りながら、

芝生の広場まで行き、わたしも涼しい木陰を見つけて荷物をおろす。

ふさふさの芝生の上で裸足になり、両手を広げて仰向けに寝そべる。


さっきまであんなに暑かったのに、爽やかな風が頬を撫でる。

夏を満喫中の蝉の合唱が聞こえる。

地面を這っていた小さな虫たちが、わたしの腕や足の上で遊んでいる。

空は、どこまでも、どこまでも高く、青い。

身体の力が、ふわぁーっと抜けていく。

身体が、大地に溶けていく。

あぁ、この感じ。知っている。


海外を旅していた時、私は何度こうして空を見上げて寝ころんだのだろう。

タイのチャーン島の桟橋で。

インドのプリーの町外れで。

ネパールアサプリ村の、作りかけの学校の屋上で。

エジプトダハブの満点の星空の下で。

アフリカ、ヨーロッパの自転車旅の道ばたで。

ブラジルのマンゴー畑の広がる農場で。

ニュージーランドのおとぎ話みたいな田舎町で。


世界各地で見上げた空は数知れず、今でもその空を想うだけで、

その時々の空気感や街の匂いを、ありありと思い浮かべることができる。

その時々に出逢った人たちを思い出し、あたたかな想いを風に乗せる。


こんな時、わたしは安心しきって、日常のあらゆる感覚を忘れてしまう。

わたしは、大地に身をゆだねる。

わたしが、地球に溶けていく。

わたしが、宇宙に溶けていく。


きっとわたしは、わたしという身体を持つ以前から、こうして空を見上げていたように思う。

そしてたとえばこの先、世界からお金という概念がなくなって、なんでも自由に手に入るような時代が来たとしても

わたしは寝ころがって空をながめ続けるのだろうし、

想いを言葉にすることを続けるのだろう。

それはとても原始的で、根元的なわたしの喜び。

わたしの深い深いところから、こんこんと湧いてくる泉のような願い。


松本に移ってから、穏やかな日々が日常になっている。

わたしの心が穏やかな時、世界も同様に穏やかだ。

新聞やTVのない生活をして久しいけれど、最近携帯のニュースを見ることもしなくなった。

SNSもあまり開かなくなった。

自分に必要な情報は、自然に入ってくることがわかったから。

心地よいと思える場所に出向き、

心地よいと思えるものを手に取り、

心地よいと思える人に会うようにしている。

心地よい世界は、自分で創造できる。


誰かのつくった地球にお邪魔しているような生き方をしていた時は、

日々起こる出来事一つ一つに右往左往しながら生きていた。

イライラしている時は意地悪な人に遭遇したし、

バタバタしていて余裕がない時はその日一日良いことがない。

今はどこまでもわたしのペースで動くこの世界は、とても穏やかでゆったりだ。

わたしは、地球かもしれない。


7年前、ダハブで絵描きの友人が絵を描いてくれた。

それはまるで、7年後のわたしを見て描いたかのような描写で、あらためて驚く。

人の感覚や想いは、わたし達が思っているよりもあんがい自由気ままに

身体を超え、時空を超えて、この世界を自由に飛びまわっているものなのかもしれない。


わたしの想いも、いつかのわたしや、誰かのもとへ届けばいい。

わたしの願いも、これからのわたしや、誰かのもとへ届けばいい。

わたしはこれからも、想いを紡ぎ、想いをつないでゆく。

優しい地球を、紡いでゆく。

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Drawn by 森下進士  人の表現に込められている圧倒的な「生」のエネルギーに鳥肌が立った。

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