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小説、漫画原作の映像化(映画化、アニメ化、実写化)の難しさ



ネット上でも大きな話題になっているが、小説、漫画原作の映像化について個人的に思うことをまとめてみた

個人的に
小説や漫画の映像化(映画化、アニメ化、実写化)は
「その作品の認知度アップ」
という観点から
「やぶさかではない」
と常に思っている。
なんといっても「より多くの人にその作品を知ってもらえる」という1点に置いては、一個人ファンがどれだけ熱弁をするよりも遥かに大きな広がりを見せるのは間違いないからだ。

しかし、映像化(映画化、アニメ化、実写化/面倒だが毎回このカッコはつきます)する際に思うのは

原作へのリスペクトがどこまであるのか?

という部分。
しかしそれ(リスペクト)を感じられるかどうか…は個人差もあるし人によっては感受性の違いもあるので一概に「ある!」ともいえないし「ない!」ともいえない。

そういった中で小説や漫画が映像化(映画化、アニメ化、実写化)されるたびに起きるのが

原作との違いや差異をベースとした批判や非難


でもある。

ただ小説、漫画の映像化(映画化、アニメ化、実写化)もそうなのだが、社会的にも
「契約がすべて」
であることは間違いない。

特にアメリカでは原作の映像化(映画化、アニメ化、実写化)をする契約をする際、多くの場合は
「映像化権を取得した側の思うがまま」
となっている。
これは基本的には日本も同じ。
契約条項に
「映像化に関する全ては◯◯(映像化会社)とする」
とあれば誰も文句はいえない。
判りやすい例を近年の作品でいうと
「ドラゴンボールエヴォリューション」
がその最たるものだろう

あのドラゴンボールが実写化!
どうなるんだ!?鳥山明先生が総監督だったとはいえ、実際の監督にどれだけ意見をしてもほぼ取り入れられなかった…というお話しもある
その結果、非難の嵐となった作品。
(それでも興行収入は世界規模で観ると制作費を上回った)

もっとも原作者が監督をしたら良いのか?というとそうではなく
失敗作…というか、
なんじゃこりゃ
となった作品もすくなからず存在している。


その一方で日本では特にだが、

「原作者が絶対」


というイメージが根強い。

しかし現実問題として
契約時にどこまでその権利を原作側が持つことが出来るかを契約文章に組み込まれているか?がポイントになる。
(現在、問題となっている事案は、「原作者側の希望やお願い」を映像化する側が「了承」しておきながら、実質「無視」したのではないかと思われる様子がうかがえ、さらにややこしくなった)

結局、今回の案件は
映像化する側の怠慢…というか、
「映像化してやってる」
という意識があったのではないかと思ってしまう
ほどの対応の悪さを感じる結果となり炎上騒ぎとなっているを感じる。

そもそも映像化(映画化、アニメ化、実写化)された時点で、
原作を100%再現することは不可能なことがほとんど
(再現度がもっとも高いのは、漫画のアニメ化くらいではないだろうか?)
だろう。
小説の映像化(映画化、アニメ化、実写化)にいたっては、読み手がそれぞれのシーンをイメージしたら100人いれば100通りあるわけで、100%再現はありえない。

そうなってくると
その作品のイメージを、
「多くの人が持っているものに近づける」
という部分と
「制作側が持っているイメージで完成させる」
になってくるわけで、この2つが近ければいいのだが、
そうではない場合も良く見受けられる。
さらに映像化(映画化、アニメ化、実写化)する側としては、
「自分の作品として色を出したい」
というクリエイターとしてのプライドというか熱量が働くのも当然
だろう。

そこで行われるのが改変というわれるものになってくる。

改変だと
主人公の年齢を変更
性別を変更
住む都市名を変更
職業を変更
シナリオの流れを変更
などはよくあるパターン。

そういった改変を行われたとしても
原作をリスペクトして、
原作好きな人が「原作リスペクトを感じられるか?」
が大きなポイントだろう

小説、漫画原作を映像化(映画化、アニメ化、実写化)する際に、
プロデューサーやディレクター/監督、脚本担当などの制作側が
「その作品を映像化(映画化、アニメ化、実写化)したい熱量が、
 本当にどれだけあるのか?」
ではないだろうか?

それらの「熱量」を感じられたときに
「納得できる改変」
なのか
「改悪なのか」
が変わる場合があるのではないかとも思う。

最後に

原作改変=全て悪

ではなく

原作改悪=悪

であることを新ためて知ってほしいとは思う

原作者が怒りを持つ映像化(映画化、アニメ化、実写化)
もあるし
原作者がリスペクトする映像化(映画化、アニメ化、実写化)
もある

ただ、
映像化(映画化、アニメ化、実写化)されたものを非難し、批判し、悪だと断罪し言い切ってしまうことは
原作者をも傷つけていしまう場合もある

ことも知るべきだろう
その映像化作品に原作者が納得している場合もあるのだ
(本音が漏れてくるのは後々…ということがほとんどだが…)


納得いかない作品だとしても、制作側は限られた予算で、できるだけ良いものを作ろうと必死になって作っている(場合がほとんど)。
それを踏まえたうえで、批判、批評には言葉を選ぶ必要はある
それが個人的意見であっても、誰もが観ることが出来るネット上では言葉の使い方は気をつけべきではないだろうか?

蛇足、駄文

改変例で2作を出してみる
ただし個人的見解であることはあしからず

近年で
原作改変ながらも良くできた映画の一つとして
「亜人(17)」がある

「亜人」では主人公が高校生から研修医に変更された。主演は佐藤健。
ヴィランの佐藤は原作では40代後半~50代だが、映画では綾野剛が演じており、どう見ても30代前半に見える。

シナリオの展開も原作とは変わったオリジナリティあふれる部分も多々あるが、大まかなシナリオは
「亜人と自覚した主人公が、同じ亜人の佐藤と対立する」
という部分が守られており、それを
「ひとつのエピソードとして完結させる2時間映画」
としてうまくまとめ成功している。
また亜人を表現するCG処理もかなり頑張っていたかいもあってかヒット作になっている。

個人的にも楽しめた作品で、続編制作も可能でうまくまとめ上げたと思っている。

一方で原作改変により大きく批判を受けた作品の一つとして
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 」
があるのではないだろうか?
原作にはないキャラクターを出し、原作で人気のキャラクターを出さない(代役的キャラクターがオリキャラとして登場)部分がひとつの批判のポイントともなった。

立体機動装置のアクションはとても良くできていたし、演者の頑張りは見て取れるものの、脚本の改変がとくに悪評のやり玉に上がった作品でもある。

個人的には、樋口真嗣監督作品として樋口真嗣らしさも少なかったもあるとおもうが、やはり自分もシナリオがいただけない…と思ったのも事実。


原作との改変が明確にある2作だがこの2作の違いはなんなのだろうか?
またまた個人的な感覚だが

「原作リスペクト」を感じられるかどうか?

に尽きると思う。
もちろん
「亜人」がダメダメな人もいれば
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 」が最高に面白かった人もいるだろう

しかし、
両作品とも原作を読んでいて劇場で見た感覚でいうと、
「亜人」には「原作をリスペクトするシーン」が盛り込まれ、感じられたの対して、
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 」では「原作を思わせるシーンを『再現』しているにすぎない」と感じたからといえる。
コレに関しては観た人の数だけ意見があるとは思う



あくまでも個人の感想ではあるが、
小説、漫画原作の映像化(映画化、アニメ化、実写化)をする
制作側の偉い人、プロデューサーや監督、脚本家のかたには、
ビジネスで映像化するのではなく
原作愛をもって対応をしてもらいたい
と思う次第です

ちなみ
ゴールデンカムイの実写は、出演者が原作を読み込んでいると思えるような演技であったりした
まさに映画化として見事!といえる


ただ、
漫画の展開通りのシナリオ再現をしたら
漫画を追いかけただけでつまらない

と批判するひとが一定数出てくる……というのもあるんですよねぇ…

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