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濱口竜介監督「悪は存在しない」衝撃のラストを解説。偶然と想像が積み重なった悲劇

濱口竜介監督といえば、少しつつけばバランスを崩しそうな人間関係や(多くの場合それは崩れる)、事故や災害、思いがけない偶然によって決定的に変わってしまう人生のドラマ、特に都市の人たちを描く作家というイメージだったのですが、今回は、監督、自然を舞台に映画を撮ってもこんなに面白いのか!凄まじいと思いました。
 
薄雪積もる森のシーンが美しく、観客を一気にその映画世界へ引き込きます。同時に、監督らしく絶えず緊張感やそこはかとない不気味さを感じさせる、ダークな大人の寓話といった世界観が好きでした。
 
今回は、この映画が何を表現しているのか、何が凄いのか、そしてもちろんあの驚きのラストの解釈について考えてみました。

*ここから『悪は存在しない』のネタバレを含みます
*2024.5.16 ㈭ まで無料公開




人間に対して突然、無差別に牙を剥く自然。自然災害や時には生き物が人の命を奪うこともあります。もともと日本は災害が多い国ですが、私たちはあのコロナ禍でまた自然の脅威というものを再確認しました。
 
しかし、こういった自然の暴力性に対して、私たち人間は自然が悪だとは考えません。自然というのは人間の善悪の価値基準が当てはまらない存在です。
 
『悪は存在しない』は、ここに一つの問いを投げかけます。もし、人間に危害を加えた者がいて、その自然と人間の境界が曖昧だった時、あなたはそれをどう受け止めますか?

巧と花・人間と自然の狭間で

映画の舞台は長野県に位置する架空の町、水挽町。この自然豊かな土地に代々住む巧と娘の花は湧き水を汲み、薪を割って火を焚く素朴な暮らしを送っています。
 
まず、巧と花は人間よりも自然の近くにいる人、そんな感じがしました。
 
巧は、花の迎えの時間や打合せの時間を忘れる、お金の計算を間違える。花は学童保育で他の子どもたちと遊ばず、一人で森の中を歩いて帰る。この親子は人間界のルールよりも自然の中で生きているという感じがします。
 
巧と花を比べると、どちらかというと巧の方がより人間側に寄った存在であるように思いました。町の便利屋の巧は、住民が水を汲むのを手伝う、山菜について教えるなど、まるで自然と人間の橋渡しをするような役割を担っています。
 
花は巧以上に自然の中で過ごす時間が多いです。巧が水を汲んでいる時や、グランピングの説明会に参加している間も森の中で一人で過ごします。
 
人間と自然の間で生活しているようなこの親子なんですが、巧はより人間の世界に近く、花は巧以上に自然の世界に近い存在といえると思います。
 
このことは、巧がグランピング事業のスタッフ2人の前で帽子を取り自分は開拓三世だと素性を明かすのと対照的に、花の方はラスト、鹿の前で帽子を取ることでも象徴的に表されていました。

高橋・自然を利用する人間

そんな素朴な暮らしを送る巧と花でしたが、ある日、家の近くでグランピング場を作る話が持ち上がります。その事業者である芸能事務所Playmodeのスタッフ2人、高橋と黛が住民向けの説明会のためにやってきます。芸能事務所が国の補助金目当てではじめたこの事業は、町の誇りである湧水を汚染するリスクがあるものでした。
 
高橋と黛は説明会で住民たちにこてんぱんにやられますが、2人は巧と少しづつではありますが打ち解け、両者の歩み寄りの可能性を感じさせながら映画は進んでいきます。巧は高橋に薪の割り方を教えたり、2人に湧水で作ったうどんをおごります。
 
しかし、歩み寄りを見せていく一方で、濱口監督の脚本は両者がすれ違い続ける部分というのも浮き彫りにしていきます。
 
グランピング場の予定地が鹿の通り道という話題になった時、黛は「鹿が臆病な動物なのであれば、人に近づくこともないんじゃないですか」と言う。それに対して巧は「グランピング場ができたらそこにいた鹿はどこに行くんだ?」と問いを投げかける。高橋は「それはどこか別の場所に」と返す。自然の生態系のことを考える巧と、人間の価値基準でしか物事を見ないPlaymodeの2人の会話はかみ合わない部分があります。
 
芸能事務所での仕事にうんざりしている高橋は、グランピング場の管理人として水挽町への移住を考えるようになりますが、その一方で、自然と共生するとはどういうことなのかを理解していません。
 
説明会の時に住民が「都会から来る人はみんなここにストレスを投げ捨てに来るんですよ」と言っていました。結局のところ、今の高橋はストレスを捨てにくる都会の人と似たようなものです。
 
このように、高橋は自然を利用する人間の象徴として描かれます。

巧は高橋たちと時間を過ごし少しずつ打ち解けていく一方で、花は一人で森の中で過ごし、ついには行方不明になってしまいます。

このように、映画後半では、人間界の象徴としての高橋、自然界の象徴としての花、そしてその両者に挟まれた巧という構図がはっきりとしていきます。そして、多くの方が驚いたと思いますが、あのラストの場面でこの三者が偶然一堂に会します。

巧はなぜ高橋を殺したのか?

最大の謎は、巧はなぜ高橋の首を絞めたのか。巧の動機とその意味を、現実のレイヤー、想像のレイヤー、メタファーのレイヤーという物語の3つのレイヤーで考えたいと思います。 

①現実のレイヤー

まず、物語世界の中の現実のレイヤーでなぜ巧は高橋の首を絞めたのか考えましょう。
 
ここを理解するために、大事なのは巧と花のストーリーラインを想像することだと思います。
 
一見、仲の良い巧と花の親子なんですが、巧は花の迎えの時間を忘れるなど娘に対して少し無関心なところがあります。
 
映画の前半、巧と花が森の中を歩くシーンが2回繰り返されます。1回目は実際に起きたこと、2回目は花が寝て見ている夢です。花が見る夢の中だけ、巧と花は手をつないで歩きます。花は、父親と手をつなぐのを夢に見る少女なんですね。
 
巧がグランピング場の説明会に参加している間も、花は一人で羽を集めに出かけます。区長からは「あんまり一人で行かない方がいいよ」と言われます。同じ日の夜、巧はPlaymodeの2人の絵を描くのに集中していて、花が話しかけてもまともに相手をしませんでした。
 
このように、巧が花に十分に向き合えておらず、逆にグランピング場の件にどんどん入れ込んでいくという様子を映画は見せていきます。
 
濱口監督はこの映画はビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』の影響を受けているとインタビューで仰っています。※1
 
『ミツバチのささやき』は、少女アナの成長譚がメインストーリーとして描かれ、スペイン内戦後のフランコ独裁政権下のスペインに生きる大人たちの悲しみや苦悩がところどころさりげなく顔を覗かせるという構成の映画でしたが、『悪は存在しない』はそれを反転した構成になっています。
 
メインで描かれるのはグランピング場誘致を巡る大人たちの騒動ですが、ところどころに花の孤独、母親の不在が彼女の心に落とす影というのが顔を覗かせます。(ちなみに花 Hana という名前も Ana を連想させます。)

物憂げな少女アナの母親
『ミツバチのささやき』©2005 Video Mercury Films S.A.

映画を通して、花は鳥の羽を集めるのに夢中になっていきます。これはきっと花の中でピアノが母親との思い出の象徴になっていて、不在の母親、はっきりとは示されませんが恐らく亡くなられたのかなという感じの母親への思慕から羽を集めているということでしょう。
 
この花が楽器に結び付いた鳥の羽を集めるというのは、『ミツバチのささやき』のアナが映画で観た怪物フランケンシュタインに惹かれていくのに対応して、本作の制作がもともと音楽家 石橋英子さんからの依頼がきっかけではじまったということに由来している気がします。
 
しかし、巧はその花の心の繊細な問題には気付いていない様子です。巧は高橋たちに対応する一方で、その間、花を放って置いているという状況がありました。そんな巧の姿勢がついにはラストの花が鹿に襲われるという事態をもたらします。
 
鹿と花が対峙したあの瞬間、巧は花の抱える問題にやっと気が付いたということだったのではないでしょうか。

②巧の想像のレイヤー

巧はあの場面で、高橋を殺さないと花の命が奪われると考え、高橋を殺したように見えましたが、これはどういう心の動きだったのでしょう。
 
高橋はグランピング場ができたら「鹿はどこかへ行く」と無責任な返事をしていました。巧は、花の危機を鹿そして自然からの警告だと想像したのではないでしょうか。
 
想像というのは、濱口監督の映画において重要なモチーフです。
 
この少し前のシーンで、巧たちが銃声を聞いた時、黛は「なんで実際に聞いたことないのに銃声と分かるんですか」と高橋に聞いていました。高橋は「銃声ってこんな音だろう」と想像して判断していたわけですね。
 
もしかしたら、ラストの花が鹿と対峙しているあのシーン自体、巧が想像した光景を映しているものなのかもしれません。巧と高橋はケガをして倒れている花を見つけて、巧がそこに至る経緯を想像したのかもしれません。巧は少し前に銃声を聞いていたので、撃たれた手負いの鹿に花が出くわしてしまったのだと想像したということですね。
 
想像には、想像した人自身の思考パターンや行動原理が反映されます。巧があのラストの場面で、ケガをしている花を見て手負いの鹿から攻撃されたのだと想像し、それを自然からの警告だと受け取った。こんなふうに、巧の想像には、人間と自然のバランスを取るという自分の思考パターンが反映されているんですね。

③メタファーのレイヤー

最後にメタファーのレイヤーがあります。高橋は自然を壊す人間という存在の象徴でした。水挽町に高橋を受け入れることは、グランピング場を受け入れ自然にダメージを与えることを意味します。一方、花は自然の象徴でした。そして、巧の行動原理は人間と自然のバランスを取ることです。
 
メタファーのレベルで見ると、巧の高橋を受け入れる行為は人間の介入を許すということ。人間を受け入れる分だけ自然は壊されます。バランスが取れていれば問題ないのですが、巧が高橋を受け入れ続けた結果として、今、自然の象徴である花がケガをしています。
 
このように、高橋を殺し、花を助けるという巧の行為は、人間側に傾き過ぎた自然と人間のバランスを元に戻すための行為、そのメタファーとして理解することもできます。
 
このラストの悲劇に向けて、水挽町に夜の帳が下りていきます。夜の闇はあらゆるものの境界線を曖昧にします。そして自然の象徴である鹿と花の目が合う時、あの悲劇が起ります。あの瞬間、花と自然の境界は溶け合い一体となっていたのかもしれません。

© 2023 NEOPA / Fictive

偶然と想像の連鎖がもたらした悲劇

先ほど、巧が高橋の首を絞めたのは、巧が花のケガを自然からの警告と想像したからではないかと言いました。これは、濱口監督は、偶然と想像というものを映画の中でどう扱うかということをよく考えて映画を撮られる監督だからです。
 
フランスの映画監督エリック・ロメールは、偶然と想像をモチーフとした映画を沢山撮っています。濱口監督は、ロメールのこれらの作品がお好きということで、2021年の短編集『偶然と想像』はロメールの影響を受けていると発言されています。※2

エリック・ロメール『木と市長と文化会館 または七つの偶然』
©1993 LA C.E.R.

偶然と想像の偶然の方についてですが、『悪は存在しない』も小さな偶然が重なって大きな悲劇につながる物語でした。
 
水挽町を再訪する車中、高橋と黛の何気ない雑談を通して高橋が「結婚して田舎引っ込むのがしっくりくるわ」と自分の進みたい道を自覚していきます。この場面では、物凄いタイミングでマッチングアプリでマッチするという偶然もあり、高橋が自分の願望に気付きました。
 
巧とうどん屋にやって来て、その流れで高橋と黛が水汲みを手伝うことになる。巧がまた花の迎えを忘れて、3人で花を探しに行く。黛がウコギの棘で手を切る。こういった出来事が連なって、結局、巧と高橋が2人で花の捜索に向かうことになります。こうして小さな偶然が重なりあの悲劇的なラストへと向かっていきます。
 
グランピングの説明会の時、駿河区長がずさんなグランピングの計画を水の流れに例えていました。「上の方でしたことはどんどん積み重なって最後に物凄く大きな結果になる」これ、はじめは現実社会を風刺しているのかなと思ったんですが、それだけではなくて、小さな偶然が積み重なって大きな結果、今回の場合は高橋の死という悲劇につながるというこの物語の行く末も暗示していたんですね。

映画を面白くする仕掛け

ラストの解釈のところで書いた通り、巧の最後の行動は自然に対する畏怖の念に発したものであり、やはりこれがこの映画のテーマの一つであると思いました。この『悪は存在しない』には、私たちがコロナ禍の時に感じた自然の脅威に対する畏怖の念というのが反映されているように感じました。
 
この「自然に対する畏怖」というのは、もうこれまで散々世界中の色んな作品に描かれてきた、言ってしまえばありきたりなテーマです。だからこそ、それを観客にどう体験させるかというのが重要だったと思うのですが、そこがこの映画は考え抜かれ、工夫されているなと思いました。
 
まず、観客を巧と高橋のどちらにも感情移入させておいて、2人がついさっきまで歩み寄ろうとしていたにも関わらず、片方がもう一方を殺すという展開にすることで観客に強いショックを与えますよね。
 
しかし本質的には、この映画の面白さは、人と自然の境界を曖昧にしたこと、これに尽きると思います。ラストの巧の行動を、自然が巧を介して人間にしっぺ返ししたのだというふうに捉えることもできます。
 
コロナ禍の時にも、新型コロナウイルスの発生は人間が生態系を破壊しすぎたことが原因であり、コロナ禍は自然から人間へのしっぺ返しだという言説が広まりましたからね。
 
ラストの巧の行動を「人間と自然のバランスを正常に戻すための行為だったんだから仕方ない」と取るか、「いや、人殺しは人殺しでしょう」と取るか。巧の行動を人間の善悪の価値基準で判断してよいものか、曖昧にすることで観客に問いを投げかけているなと思いました。

自然の目線を捉えたカメラ

ここで生きてくるのが、この映画が自然の目線から撮られているということです。
 
この映画はカメラワークが印象的でした。中でも一番印象的なのは車の後ろ、リアウィンドウの視点から捉えたショットでしょうか。
 
森のシーンでは、カメラと人物の間に木々や草が写っていて、生えている木々や草越しに巧、花、高橋たちを見ている感覚が印象的でした。
 
山わさびの視点から巧を見るショット、鹿の死骸の視点から黛を見るショットなど、自然が彼らを見返しているかのようなショットがありました。
 
監督、本作のカメラワークについて、「カメラがそこにもあそこにもあるというありようを通じて、“自然の目線”みたいな視点を作品に組み込んだ」と仰っています。※3
 
映画は、冒頭と同じ、森の木々を下から見上げたカットで締め括られます。冒頭では、これは森を歩いていく花が空を見上げた視点なのかなと思っていたのですが、そうではなくて、これは逆に木々が自然が花を見つめているという画だったんですね。
 
そしてそのことに気づくと、実はこの時、観客自身が自然に見返されていたのだと気づくという仕掛けになっていました。
 
自然はずっと見ていた。偶然と想像の連鎖がもたらした悲劇のこの最後の介入者は、巧たちをずっと俯瞰していた――そんな感じさえする、自然の目線を捉えたカメラワークが秀逸でした。
 
 
ということで、『悪は存在しない』について私なりに分析してきました。
 
石橋英子さんの音楽も素晴らしかったです。例えば、哀しい、恐ろしいといった人間が抱く感情を表現した音楽ではなく、複雑で重層的で、人間の感情とは関係なく存在する自然、人間を俯瞰して見ている自然、そして木々や動物・虫たちの蠢きみたいなものを感じる音楽でした。
 
皆さんはどう思われましたか?ぜひ感想をコメント欄でお聞かせください。
 
最終更新 2024.5.6


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✤出典
上から注釈※1~3

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