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表現の自由、わたし流エッセイ。

ああそうか、"一般的な"エッセイ、は、遅くてやってらんない、読んでらんない。
もちろん読んで面白い日もあった、今だってある、
でも、あれを私は書けない書きたくない、
だって!!!冗長なんですもの。
と言いつつもちろんエッセイ大好きなのよ、とも思うけど。

私は、、、した、とか
、、、の、、、というものがある、
とかいうのを説明するのがものすごくにがてで下手だ、しかし!上手くなりたいとも微塵も思っていない!!!!!!
エッセイはそこをきちんとしなきゃと思っていたから、辛かった、
書けない書けないやだやだ書きたくないつまんない。

。。。やりたくないならやらなきゃいい!
つまり、エッセイを書かないのではない、説明は省略すればいい(気になる人はググってね、過去の記事参照、とかいちいち書かないしリンクも貼らないけど、適宜よきに計らってね各自でスタイル!)
そう、読み手を考え過ぎて。外向きすぎて苦しくなってた。そこに合わせることに。私のキャパ以上に親切にすることに(詳細の説明やリンク設定もろもろ)
ああ、そこをなくすと考えただけで!快感!
あ!だから!私だけのノートは楽に書けてたのか!
他人向けの文章は書けなかったのか!
納得すぎて!なんということ!

書かなきゃわかってもらえない、というのは、読み手を見くびってることとも等しいよね、
詳細に、わかりやすく、隅々まで説明してあげる!このあたしが!という奢った態度だったわ反省。
小説をみなさいな、あるいは、詩をみなさいな。
解釈は読者に委ねられている。
エッセイだって、それでいい。
私は共感が欲しいわけではない、共感されたとて、100%の共感なんて不可能であるのは自明であり。

ああこうしてキーボードを叩く身体活動そのものが楽しい、
Macもまだまだいけるじゃない?
寝てないけど、寝ぼけてもいない、ねむくもない(迫り来る気配は感じる)←ここで今までなら必ず、眠気の、とわかる何かを入れていた、でも、なくてええじゃない!だかららくに書けるんよ。

究極の理想は、
あれのことなんだけど、あれについて、
って言って語り出して何かわからぬまま読むけど面白いねって感じのやつ。
詳細な説明なんていらない、
ある種のクイズかもしれないが、そこに、読み手側にも楽しめる要素がある、
それならうぃんうぃんじゃない!?
(ここはカタカナに自動になりそうになり、わざわざひらがなにした。その労は惜しまない、相変わらず!)

文章というか本?記事?というものは、頭の中を整理して、しっかり人に伝わるように、少なくとも自分には伝わるように書かなくてはならない、
ということこそが思い込みだった!
伝わるのだ、
直接言わなくても、事細かに説明しなくても。
それって小説と、やってることは似ているかもしれない、
あちらはぱっと見描写は細かいですが。
本質伝えたいことは言葉にされない、作者でさえ、無自覚に書いていたりする、それでも読者の心に響き、それぞれの解釈があり、何かが残る。生涯、残り続けることさえある。ものの見方や、転機のきっかけになることもある。直接的であれ、間接的であれ。
そういうものが、というかそういううものの方が芸術というならば。
私の生きられる世界もあったことに歓喜するばかりである。
そう、SEOもみもみのライティング記事とは違うのだ!ブログ!!!アフィ!!!アクセス数!!!!的なのとも違うのだ、そりゃあ機構が違うのだから。そしてそんな機構が違う文章をブログプラットフォームにのせてもいいのだ!自由がある。
プラットフォームに許可された自由のみならず。私の中にどこまでも自由がある。

もし私が誰かのこんな文章を読んだら。
あ、いっちゃってるな
思うだろう、そして正直そうだろう。
でも、私も同類なのだ、
何より私が、私への自由を許可るためにこれを載せるのを許可しよう!
(本当は自分しか見ない、メモ帳に書いていたんだよ!)

これが書きたくて生きてきたわけじゃないけど、
これは、書きたかった。
それは、間違いない。

ついて来いとは言わないし
読みなさいとも頼まない頼みようがないけれど
私の表現が自由であるのと同様に
誰の表現も自由であるというのは言いたい。

伝えたいのは、それよ。
ここまで読んでくれた方、いるかしら。
「スキ」してってね!ありがとう♥


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