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何はともあれ楽しみたい

小説を書きたいと思ったは良いものの、何を書けばいいのか分からない。何かを書きたい気持ちはあるが、何を書きたいのかが分からない。まずは以前ダウンロードした縦書き用のソフトを立ち上げ、今の状況をそのまま書いてみることにした。自分の文章を紙の出版物のように、縦に読んでみたいと思ってダウンロードしたものだ。

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お笑い芸人や芸能人など、名前が世間で知られている人の小説が出版され、メディアで大きく扱われているのを見ると、ふと黒い感情が生まれる。名前が売れている状態で新しいことをして、それが世間で評価されるという状況に、羨やんでいるのだ。しかも大概、内容は読まない。

ちなみに私は、作品と呼べるものを何も書いていない。日記や、ただ自分が思ったことをネットに載せたことはあれど、他人に評価される前提で作品を書いたことがない。

当たり前だが、何も作らないで他人を羨んでいるだけより、何かを生み出している方がずっとすごい。
知名度がある名前を使って作品を発表したとしても、作品をまずこの世に生み出していることは確かなのだ。なにも生み出さずに文句を言うのは、とんだお門違いである。(ただ、わたしと似たような感情を持つ人もいるのではないだろうか。そうだと信じたい。)

羨ましいと思うなら、まずは自分で生み出す事だ。それをしないと始まらない。

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しばらくここまで書いて、これは小説なのか?と思う。どちらかというと(どちらか、という以前に)エッセイだ。自分の思いのたけを文章にぶつけているだけだ。

そもそも、なぜ小説を書きたいと思ったのだろうか?今この文章を書き始めた経緯を思い出してみる。

なぜ小説というか、物語を書きたくなったのか。それは、良い作品に出会ったからだ。直近で読んだ小説に、自分の気持ちを揺さぶられたからだ。
自分の高校時代に容姿がよく、ユーモアもあり、誰にでも好かれる存在がいた。仲良くはしていたが、私の内心は嫉妬まみれだった。表立って態度に出す事も、攻撃をすることもしない。ただただ嫉妬の心はあった。確実にあった。
そういう、とうに忘れていた感情を物語によって思い出させられたのだ。熱というか、頭がカァっと熱くなるというか。感情が揺さぶられるのを感じたからだ。

わたしは刺さる作品に出会うと、よくこういう事象が起きる。人にその作品の良さを伝えるだけに収まらず、自分でも魂を揺さぶるような作品を作ってみたいと思うのだ。

そういった作品はエッセイでは書けないのだろうか?
他人の共感できるようなエッセイを読むと、自分が肯定されたような感覚になることがある。安心するような気持ちや、自分の何とも言えない感情が文章になっていることに対しての感動、「ああ、わかる!」とうならされるような感情になる。エッセイもすごく好きだ。

ただ、強く感情が揺さぶられる、ということまでは起きない気がする。自分の中に潜む、不安だとか、心配事だとか、これって私だけ?と思う感情を、他の人と共有できるのがエッセイの魅力のような気がする。架空の物語を作る小説とはつくりがまた異なる。

毎日日記を書いていて、もうすぐ一年になる。日記を書いていると、実際に起こった事象があり、それについてどう感じたかを長く書くことがある。それが時にエッセイ的になっていると自分でも感じる。日記は日記で面白いし、エッセイ的な部分も面白い。自分がどうなりたいとか、何を書きたいとか、そういう明確な方向性みたいなものが全くないので、どう進むべきかわかりかねている。
とにかく楽しいことがしたいのだ。人に評価されるとか、そういうことは置いておいて、まずは楽しいことがしたい。私にとって楽しいこととは何か。そういう話になってくるが、よくわからない。ただ日記を書くだけでは物足りなくなってきた。それは最近よく感じることかもしれない。

小説を書こうと思ったのに、すっかりエッセイのようになってしまった。まだ私には書けないのかもしれない。もしくは、準備がまるで足りないのかもしれない。今生み出している文章が私のできることなのかもしれない。誰にも読まれないかもしれないし、誰のためにもならないかもしれないけど、新しいことをやるのはは楽しい。せっかくなので、この文章も記念に残しておこう。

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