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長編小説『ユートピアを求めて』





 

オープニング・クロール


 
 これから繰り広げられる対立の物語は、歴史上繰り返し起きたことであり、現在起きていることでもあり、未来の予言でもある。
 対立する両陣営の片方は、異質なものを排除し、同質のもの同士で団結することで社会が良くなると考える人たちである。歴史上ではクー・クラックス・クラン、各宗教の原理主義、ナチス政権、オルタナ右翼などがこれに当たる。もう片方は、異質なものを包容することで社会が良くなると考える人たちである。多文化主義、宗教間の共存、無宗教、移民、同性愛などを肯定するリベラリストがこれに当たる。
 この物語の主人公は、自分と同質のもの同士で団結し、異なるものを排除しようとする極右思想の持主である。主人公だからといって擁護すべき、感情移入すべき人物ということではない。それでも彼に照明を当てるのは、彼の経験と感情と思考回路に触れなければ、彼の不満と憤りに対応することができないからである。今まで社会はそれに取り組んではきたものの、十分に対応しきれていなかった。
 ジョージ・オーウェルの警告した、自由と多様性を抑圧する全体主義時代の後に、世界ではリベラリズムと自由民主主義が普及し、多くの地域で勝利した。だがまだ根強い対抗勢力があり、自由民主主義の完全勝利は訪れていない。問題はどこにあるのか。どうすればよいのか。
 これから登場人物たちが、時に迷いながら、時に遠回りをしながら、道案内をしてくれることだろう。




第一部




 

 夕暮れ時、ロストン・リバーズは何かに立ち向かうように顎と胸を突き出し、マンションのメインゲートへと入っていった。
 エントランスホールは仄かなアイリスの香りがした。正面の壁には大きなスクリーンがあり、迎え入れるように両腕を広げた中年女性が映っている。白人、黒人、アラブ人、アジア人の混血のような顔で、人種の見分けがつかない。どの角度からも見る人に向けて腕を広げているように見え、腕の下には”あなたを受け入れます″とキャプションがついている。
 ロストンがエスカレーターで二階に上り、自分の部屋に近づくと、ドアのセンサーがロックを解除して彼を招き入れた。玄関からリビングへとつながる廊下を歩くと、女性の声が聞こえる。
「血圧と脳波は正常値です。体重は七十四キロです。他に調べたい項目はありますか」
 廊下の上下左右に設置されたスマートスクリーンが体を瞬時にスキャンし、登録しておいた項目を診断してくれた。
「いや、もう大丈夫」
 彼はそう言い、リビングの窓辺に歩み寄った。大きな窓に自分の姿が薄く反射している。四十歳になって肌のたるみが気になるところだが、髪は金髪、眼は青、背は平均より少し高い。着ている若干タイトなシャツは胸と肩の広さを際だたせている。
 混じりけのない純粋な白人だ、と彼はあらためて誇らしげに思った。
 窓の外の商店街は活気づいていた。日は暮れ始めていたが、いたるところに設置されたスマートスクリーンが縦に連なる店を明るく照らしていた。スクリーンに映っているのは店の看板や広告。そのうちの一つに、さっきの3Dの女性がまた映り、こっちを向いて微笑んでいる。”アメプル″という文字が浮かんでいるスクリーンもあった。空には警察の小型ドローンが静かに動き回り、パトロールをしている。
 ロストンがソファに腰を下ろすと、リビングのスマートスクリーンがオンになり、ニュースが流れ始めた。今年のアメリカの経済成長率が当初の予想を上回りそうだという。彼は聞き耳を立てながら部屋着に着替えようと服を脱いだ。
 その時にふと、昔のニュースを思い出した。
 以前、政府がスマートスクリーンの回線に接続して人々の個人情報を盗んでいるという疑惑が浮上し、それが事実だと判明した事件があった。問い詰められた政府はテロ対策を理由に回線にアクセスしていたことを認めた。結果、政府だけでなく、政府の要請に屈して情報を提供していた関連企業も信頼を失い、スマートスクリーンはしばらく売れなくなった。だが、窮地に陥った関連企業群が民間の第三者機関によるセキュリティーチェックを受け入れるようになると、世間の信頼が徐々に回復したのだった。普及率が再び伸び、今ではほぼすべての人が複数台のスマートスクリーンを持っている。
 窓の外を再び眺めると、商店街のさらに向こう側に高層ビル群が立ち並んでいた。彼が務めているトゥルーニュース社のビルもその中の一つだった。
 すっかり大都会になったな、と彼は思った。
 今では第二のニューヨークと呼ばれるほどに成長したが、昔は高層ビルが一つもない田舎町だった。この街の三十年以上前の情景を思い浮かべてみると、今の方が生活面で便利にはなっている。だが彼は昔の方が良かったと思うこともあった。昔、街は一つのまとまったコミュニティーで、物事は今よりもっと単純明快だった。皆が同じ学校教育を受け、同じ宗教を信じ、同じ年間行事に参加していた。今では移民が流入したせいで宗教がばらばらになり、都市化によって人々のつながりも薄くなってしまった。もはや皆が共有する共通の価値観や帰属意識というものはない。
 気に入らないのはそれだけではなかった。たしかに数十年前に比べれば、社会インフラが整って色々なものが便利になった。しかし、庶民の生活水準が伸び悩む間、富裕層の所得は何倍も膨れ上がっている。格差が拡大しているのだ。庶民の給料は生活費でほぼ消えるので貯蓄は難しく、そのため大半の人々は常に失業と老後への不安を抱えながら生きている。他方、そんな状況などお構いなしに、金持ちはどんどん富を積み上げている。
 ロストンは高層ビル群のさらに向こう側を眺めた。ビル群に遮られてよく見えないが、その後ろには丘があり、自分の住むこの辺よりもはるかに高級な住宅が立ち並んでいる。富裕層の地区だ。
 じっと眺めていると、勤め先であるトゥルーニュース社のビルが再び目に入った。Tの形の現代的なデザインが目立つ。Tの冠の部分にスクリーンがあり、そこに次々と映し出される文字が彼のいるところからも見えた。
 
 多様化は一体化なり
 相対は絶対なり
 寛容は不寛容なり

 
 トゥルーニュース社の本社は高層ビルだが、周りに比べて特に大きいわけではない。その近くには、世界平和を推進する平和アソシエーションの入ったビルや、博愛精神の普及を自らの使命とする博愛園の本部タワー、政府の経済政策などを評価する経済政策研究所の建物が見える。
 博愛園の本部には、知り合いがいるためロストンも足を踏み入れたことがあった。開かれた社会を推進するかれらの活動を象徴するかのように、外側が透明なガラスで覆われている。博愛園に対する世間のイメージは、正義感に溢れていて、性差別や人種差別や障害者差別など、あらゆる差別の根絶を担う正義の番人、といったものだ。
 外を眺めていたロストンは、窓辺から離れ、キッチンに入った。冷蔵庫を開け、エナジードリンクを一本取り出し、一気に飲み干す。
 すると彼はたちまち安らかな気分になり、疲れが取れていくのを感じた。エナジードリンクには神経を刺激して疲れを感じなくさせるタイプもあるが、最近は神経をむしろリラックスさせることで疲れを取り除くタイプが主流になっている。その方が副作用もなく、効果もすぐ現れるからだ。
 彼は安らかな気持ちでリビングの奥の部屋に入り、「背景をイタリアの田園風景にして」と呟いた。すると、部屋の四方のスマートスクリーンが田園風景を映し出す。
 ロストンはテーブルに向かって座り、今度はデスクトップ型のスマートスクリーンをオンにした。そして匿名で投稿できるオンライン掲示板を開く。
「書き込み開始」と言うと、画面が投稿画面に切り替わった。
 これからやろうとしていることが大きなリスクを伴うのを彼は自覚していた。もし発覚したら取り返しのつかないことになる。ただしそれは、万が一発覚したら、の話でもあった。投稿者の住所と本名を警察が特定するのは技術的には簡単なことだ。だが殺害予告のような、よほど過激なことを書かない限り、投稿者の素性を調べるために当局が動くとは考えにくかった。
 ロストンは画面を覗き込んだ。
 
 4891年10月8日
 
 投稿画面にはデフォルトで現在の日付が映っている。この新暦に彼はまだ嫌悪感を抱いていた。
 去年から適用されたこの新暦は、十一年前にその採択が決まったもので、発端はある政治家の異議申し立てだった。テレビ越しに、白人男性の政治家が大衆の前で熱弁を振るっていたのを彼は鮮明に覚えている。
 その青い目をした中年の政治家は大衆に訴えかけていた。なぜキリストの誕生を基準にした西暦がグローバル・スタンダードなのか、と。世界にはイスラム教徒もいればユダヤ教徒も、仏教徒もいるのに、なぜキリストの生誕を基準にした西暦を採用するのか、と。もしイスラム教徒がそのような主張をしたなら、キリスト教徒はまったく聞く耳を持たなかっただろう。だがその男はヨーロッパの影響力のある政治家で、さらにキリスト教の家庭で生まれ育ち、イエスの復活を強く信じる、熱心なキリスト教徒だった。にもかかわらず西暦の使用に異議を唱えたのは、その男曰く、他の宗教との争いを避けるためには、他の宗教と共存できる環境を整える必要があるからであった。そしてその一つが特定の宗教に由来しない、中立的な新暦の採用ということだった。彼曰く、聖書には西暦を使えという記述はないので、キリスト教徒であることと西暦を拒否することに矛盾はなかった。
 当然、この主張にイスラム教徒たちは喜んで賛同し、一人の政治家の主張だったものは、瞬く間に世界中のイスラム教徒たちの主張となっていった。はじめ、西欧諸国はもちろんのこと、中国やインドや日本の政府もその主張を鼻であしらった。しかしイスラム教徒たちの声が高まり、それが世界規模の一大運動に発展するにつれ、そうも言っていられなくなった。イスラム教徒の数は西欧社会の中でもキリスト教徒の数をすでに凌駕していた。西欧諸国の政治家たちがその声を無視することは、選挙時の票を捨て、自らの政治生命を危うくさせることであった。結果、はじめは否定的だった欧米の政治家たちが新暦の採用に賛同し始め、世界全体がその方向へと傾いていった。
 だが、何を新暦に採用するかについてはイスラムの指導者たちも慎重にならざるをえなかった。もしイスラム起源のものにしようとすれば、中立的なものにしようという元の趣旨に反し、キリスト教徒たちからの大きな反発が予想された。そこで、新暦を決めるための国際委員会が発足され、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・仏教・ヒンズー教などの現存の宗教とは関わりのない暦の模索が始まった。マヤ暦やフランス革命を基準にした暦など、様々なものが候補に挙がり、歴史上のものではないまったく新しいものを作ろうという案もあった。
 協議の末に委員会は、古代エジプトでシリウス暦が始まった年を基準の年にすることを多数決で決定した。一年を365日とした人類最古の暦の一つであり、現存する宗教に由来しないものだから、という理由であった。シリウス歴が古代エジプトで採用され始めた年については諸説があるが、紀元前2800年頃に始まったとする説が採用された。そこから数えて今年は4891年ということになる。西暦では2084年にあたる。
 
 ロストンは回想から覚めて、ふと思った。自分はいったい何のためにこの投稿をしようとしているのか。
 世界暦を眺めていると、彼の頭に”対立の統合″というオープンスピーク用語が思い浮かんだ。そして無力感に包まれた。匿名の掲示板に投稿したところで世の中は何も変わらない。オンラインでは賛同者たちが匿名でつながっていても、現実世界で名前を出して協力し合うことはどうせ不可能ではないか。
 彼は黙って画面を見つめた。部屋を囲むイタリアの田園は風が強まり、黄色の花々が揺れている。
 無気力感に襲われると、そもそも何を書き込もうとしていたかも思い出せなかった。考えがうまくまとまらない。
 だが彼はとにかく思いついたものを話し始めた。スマートスクリーンが音声認識でそれを文字に変換していく。
 
 先日、映画館に行った。ラインアップを見ると、どれも残酷なアクション映画か、淫らな映画だろうと思った。一つ、家族の愛がテーマだと謳っている映画があったのでそれを選んだ。でも期待していたものと違っていた。結婚を許されたゲイカップルや、国際結婚をした中東出身の男と白人女性の話が出てきた。いったい、古き良き家族の姿は描けないのだろうか。家族の愛がテーマと謳いながら、制作者は伝統的な価値観をかなぐり捨て、刺激的な内容で売り上げを伸ばすことしか考えていない。制作者も制作者なら、観客も観客だ。自分が操られていることも知らず、刺激的なものに中毒されたこの愚民たちはまったく……
 
 ロストンは喉が渇き、そこで中断した。エナジードリンクを飲んだにもかかわらず、いつの間にか気分がイライラしていた。こんなことを書き込んで何になるのだという疑問がまた頭をよぎった。
 しかしある出来事を思い出し、彼は気がついた。匿名掲示板にあてもなく何かを書き込みたくなったのは、あの出来事があったからだった。
 それは数時間前、勤務先のトゥルーニュース社で起きたことだった。
 ロストンの働く校閲部では、お昼休みに親しい同僚たちとランチをするのが慣例で、今日も午前の仕事を終えて皆でフードコートに入っていった。ところが普段と違い、何故か結構な人だかりができていた。
 よく見ると、その中心に見覚えのある女性がいる。だが、誰なのかはとっさに思い出せなかった。
「あれ、動画サイトで有名な人だ」と同僚が言い、ロストンはそれでようやく思い出した。
 ファッション系の動画をアップして話題になっている人だった。ロストンはそっち方面に疎かったが、彼女が雑誌やテレビでも取り上げられているのは知っていた。若い女性たちの間でファッションリーダー的な存在らしかった。彼女がなぜ社内のフードコートにいるのかは分からなかったが、トゥルーニュース社と何かの共同の企画でもやっているのだろうと彼は推測した。
 顔をよく見ると、その女はエメラルド色の目をしていた。歳は二十代後半といったところ。髪は明るいブロンドで、顔は乳白色。しなやかな身のこなしで、きれいなボディーラインを際立たせるように、ぴったりとした服を着ている。
 ロストンは、彼女のようなタイプが苦手だった。胸やヒップを際立たせる服だなんて、女性らしい奥ゆかしさも恥じらいもない、と感じた。セックスアピールして、どうせいつも男を誘って遊んでいるんだろう。自分の欲望に忠実で、それは正しいことなんだといわんばかりの格好だ。
 人前で口に出して言うことは決してないが、彼は彼女のような今どきの女性が気に入らなかった。フェミニズムのスローガンを念仏のように唱え、男が話す言葉の端々に女性蔑視の小さなニュアンスを嗅ぎつけては、大きく騒ぎ立てる。とくに女性のファッションリーダーである彼女は他の女性よりもずっと危険だろう。性差別主義者だと彼女が名指しするだけで、名指しされた男はすべてを失うだろう。
 そこに考えが及ぶと彼はぞっとした。彼女もおそらく膨大に広がるリベラル・ネットワークの一員だろうと思われた。
 だが実は、彼女のことはどうでもよかった。ロストンにとって重要なのは、その場に現れたオフィールドという男だった。
 オフィールドはトゥルーニュース社の社外取締役でありながら、同時に世界市民連合の一員であると知られており、そこで何かとても重要なポストを占めているらしかった。元々は医者だが、経営者としても特出した才能があったため、医療機関の経営に専念し、それが大きく成功すると、トゥルーニュース社のような他業種の社外取締役までも依頼されるようになった異色の経歴の持ち主だった。
 フードコートに入ってきたオフィールドに気づいて、ロストンの隣テーブルの人達が手を振った。それを見てこちらへと寄ってくるオフィールドは、中肉中背で、首は細く、優しい表情を浮かべていた。
 だが、威圧感のない親しみやすい外観にもかかわらず、彼には何か近寄りがたい雰囲気があった。笑顔を浮かべてはいたが、目は笑っていない。めがね越しに一瞬垣間見える鋭い眼光は、人をドキッとさせるような、どこか野性的なところがあった。
 以前からロストンはたまに彼を見かけていて、その雰囲気に興味を持ったが、それは眼光が鋭いからだけではなかった。それも理由の一つではあったが、もっと直接的には、もしかしたらオフィールドが正統派ではないかもしれないという印象を受けたからだった。眼光の奥底に感じられる、どこか薄暗く野性的な部分がそういう印象を与えるのだった。もしかしたら異端派というほどではなく、単なる反骨精神のようなものなのかもしれない。どちらかはわからなかったが、いずれにせよ、もし親しくなる機会があったら遠回しにでもその真相を聞いてみたい人だった。しかし自分とは社内の地位がまったく違うのもあって、親しくなるきっかけは皆無だった。
 気が付くと、オフィールドは彼の仕事仲間のいる隣のテーブルに合流していた。そこにはロストンの知らない赤毛の大柄な男と、黒髪の男が座っている。
 その様子を横目で眺めていると、その向こう側で、フードコートの大型スマートスクリーンが流していたテレビ番組が一つ終わり、お昼の報道番組が流れ始めた。そして突然、ソル・ストーンズの顔が映し出された。
 すると隣テーブルの大柄男がそれを見て嫌悪感を示すように舌打ちをした。
 ソル・ストーンズは、ずっと前は世界市民連合の指導者のうちの一人だったが、その後転向して反体制運動に加わった人物だった。反体制派を指揮し、世界市民連合に対するテロ攻撃やネット攻撃を行っていると報道されていた。スマートスクリーンに埋め尽くされたこの世界で、未だに捕まらずにいるのが不思議だったが、体制の手の届かないどこかの地下施設にいるという噂だった。さらに、今の体制に内心不満を持つ支持者たちから資金援助や保護を受けているという噂もあった。
 ロストンは自分の表情が強張るのを感じた。ストーンズの顔を見るたびに様々な感情が湧いてくる。頑丈な格闘家のような顔、髭のないすっきりとした顎と口周り、天然パーマの髪。鼻の横幅が広く、どこかライオンに似た顔だった。そして彼の逞しい声もまたライオンを想起させた。
 今、番組が流している映像の中で、彼は世界市民連合を激しく非難している。グレート・マザーの欺瞞を批判し、移民の制限、異教徒の追放、同性愛の禁止を訴え、さらに、それらの訴えを自由にできる思想の自由を訴えている。番組は、ストーンズの発言が危険思想であることを強調したいのか、しばしば彼の顔を画面の端っこに追いやって、彼の指令によるものとされるテロ事件の残酷な映像をメインの画面に映していた。
 報道番組が始まって間もないうちに、フードコートのあちらこちらから怒りを押し殺したような溜め息が聞こえてきた。
 他の人種や宗教や同性愛者を誹謗中傷する言動は、人々の神経を逆なでするものに違いなかった。ストーンズの姿を目にするだけで、いや、ストーンズのことを考えるだけで、人々は反射的に怒りを感じてしまうようだった。
 しかし不思議なことに、ストーンズの主張は誰からも憎まれ、テレビや新聞や書物で憐れむべき戯言として嘲笑されていたにもかかわらず、彼の影響力は一向に減じる気配がなかった。絶えずどこかで新しい信奉者が現れては、彼の指令に従って凄惨なテロ事件を起こすのである。
 彼の組織はSS同盟と呼ばれている。噂レベルの話だが、その組織には、思想的支柱となる経典のようなものがあるらしかった。ストーンズ本人が著述したらしい。タイトルすら知られておらず、単なるデマである可能性もあったが、それを裏で入手して読んだ者は必ず感化され、彼の信奉者になるという噂だった。
 周りを見渡しながらロストンは複雑な気持ちになった。
 誰にも打ち明けられなかったが、彼の怒りの矛先は時にストーンズに向かわず、自然とグレート・マザーや世界市民連合や警察に向かうことがあった。スクリーンに映るあの異端者を、自分の考えを代弁してくれる唯一の理解者のように感じることがあるのだ。だがしばらくするとまた周りの雰囲気に流され、ストーンズの主張が全てにおいて間違っているようにも思えてくる。そのような時は、体制側のイメージキャラクターであるグレート・マザーに対する嫌悪感も薄まった。全ての人を暖かく受け入れるというグレート・マザーの愛を偽善的なものだと感じていたが、もしかしたら偽善ではないかもしれないと思うこともあった。気持ちの抑えが効かない時は、怒りの矛先を世界市民連合やストーンズではなく、意識的にまったく別のものに向けることで落ち着かせることもあった。
 たとえばあのファッションリーダーの女のような有名人を匿名掲示板で貶すと、籠もっていた感情が外に吐き出されて、気分が晴れる気がした。しかしあのような女に怒りの矛先を向ける理由はそれだけではなかった。単純にあのタイプの女が嫌いというのもあったが、正直なところ、あのような女に自分が抗いがたく惹かれてしまうというのも、もう一つの理由だった。はだけた格好で色気を振り撒く女は、自分を誘惑し、堕落させようとする存在のように思えた。だから意識的に軽蔑して遠ざけねばならない。
 番組はストーンズの蛮行を報道し続けていた。彼のテロ行為によってできた死体の山がモザイクのかかった状態で映ったりもした。
 しばらくするとストーンズに関する報道が終わり、広告が始まった。最初の広告は民間企業のものではなく、体制側のキャンペーンだった。グレート・マザーの微笑む顔が映ったかと思うと、それと入れ替わるように世界市民連合のスローガンが現れる。

 多様化は一体化なり
 相対は絶対なり
 寛容は不寛容なり

 それを観ながら、隣テーブルの大柄男はこちらにも聞こえるほどの大声で自分の同僚たちに言った。
「あれは我が社のスローガンでもあるからね。しっかりそれに沿った報道を心掛けたいものだ」
 いたって普通の正統派の意見だった。
 だがその時、ロストンは違和感に気付いた。
 ほんの一瞬だったが、ロストンはその男の隣にいるオフィールドの目に、なにか怪しいものを感じ取ったのだった。
 大柄の男の言葉を聞いた時、オフィールドは、一瞬ではあるが、その目に嫌悪感のようなものを浮かべた。そしてその目は、眼鏡越しに、自分の目と合ったのだった。それは言葉なしに人と意思を通わせる時の目だった。誰かが馬鹿な発言をした際に、周りの人たちが静かにお互いの目を合わせる時のような。
 彼は語り掛けてくれているようだった。「こいつは今、くだらないことを言っている。君もそう思うだろう?」と。いや、彼の目はもっと多くのことを語っているように思えた。「君は正統派ではないね。わたしもそうだよ」と。
 次の瞬間、オフィールドは目を瞑り、開いた。すると目に浮かべていた嫌悪感はいつの間にか消えていた。彼は同僚の方に顔を向け、言葉に同意するかのように軽く頷いた。
 一瞬の出来事だったが、それは見間違いではなかった。自分はそれを確かに見て、感じ取った。
 ロストンは現実世界で初めて仲間に出会えた気がした。この正統派の支配する世界で、世界市民連合を密かに憎んでいる人にようやく出会えたのだ。ネットではそういう人をたまに見かけたし、世界にはそういう人がそれなりの数でいるのかもしれない。だが、身近にいる誰かがそうだと感じたのは初めてだった。もしかしたら、考えを表に出さないだけで、周りにもそういう人は案外多いのではないか。もしかしたらかれらは裏で密かに繋がっているのではないだろうか。SS同盟は案外、身近なところにあるのかもしれない。
 しかしロストンはその場でもオフィールドと話すきっかけを掴めなかった。フードコートで突然話しかけるのは不自然に思えた。結局何もできず、昼食は終わった。
 
 ふと回想から覚めると、まわりには美しい田園風景が映し出されている。ロストンは投稿画面に向かってイライラとした気分をぶつけたいという衝動に駆られた。そして叫んだ。

 グレート・マザーは娼婦だ
 グレート・マザーは娼婦だ
 グレート・マザーは娼婦だ
 グレート・マザーは娼婦だ
 グレート・マザーは娼婦だ

 スマートスクリーンの音声認識機能がそれを文字に変換していく。そして彼は、それを匿名で投稿した。
 だがその直後、やりすぎてしまったのではないかと突然不安になった。
 もしかしたらリベラル・ネットワークに通報されてしまうのではないか。危険思想犯として警察に捕まってしまうのでないか。よほどのことでなければ掲示板の投稿に警察が反応することはないだろうが、もしかしたらさっきの投稿はその線を越えたのかもしれない。
 彼は自分の鼓動が大きくなるのを感じ、必死で頭を整理した。
 どんなに悪質な危険思想犯でも一年以上監禁されることはないと聞いている。だが、たとえ監禁の期間が短くても、思想犯として捕まった記録は残る。犯罪者扱いになるのだ。思想犯罪をおかしたことを悔い改めれば社会復帰ができると世界市民連合は主張していたし、メディアもそのような報道をしていたが、かれらにとって都合のいい事例を取り上げているだけかもしれない。いや、きっとそうに違いない。一度犯罪者の烙印を押された人間がそんな簡単に世間に受け入れられるわけがない。報道されていないだけで、ほとんどの場合は社会復帰に失敗し、まともな職業にありつけず、貧しい暮らしを強いられているに違いない。
 だがそこに考えが至ると、ロストンはむしろタガが外れ、やけくそになった。投稿をすぐに削除しても、キャッシュ情報はネット上のどこかに残るので、もう何をしようが状況は変わらない。それに、すでに投稿してしまったからには、同じことを一度言おうが二度言おうが同じだった。彼はやけくそになって叫んだ。
 
 誰でも抱き寄せるグレート・マザーは淫らな娼婦だ! 誰にでも抱き付くグレート・マザーは汚い娼婦だ!
 
 文字に変換されたそれを彼はまた投稿した。
 すると、やってしまったという不安感と、たぶんこれぐらいでは投稿者の特定には乗り出さないだろうという淡い期待が交差した。そして次第に不安感の方が勝り、彼は落ち着きを失って椅子から立ち上がろうとした。
 その時だった。びっくりして彼の肩が跳ね上がった。玄関のチャイムが鳴ったのだ。マンションの入り口で押されたものではなく、玄関のチャイム音だった。
 宅配でも何でも、用がある人はマンションの入り口でまずチャイムを鳴らすのが普通で、玄関で突然チャイムを鳴らすようなことはない。
 まさか、もう警察が出動したなどということがあり得るだろうか。
 ロストンは激しく動揺した。
 投稿した瞬間、ウェブ上のAIが投稿内容を解析し、ここの住所を割り出して近くで巡回中だった警察に通報した可能性もなくはない。いや、そうだとしてもこれほど早く来るのはありえない……
 不安な考えが頭をよぎる中、チャイムは止む気配もなく鳴り続いていた。




 
 
 息を飲みながらモニターを覗くと、セミロングヘアの女性がドアの前にいた。ロストンは、警察ではなかったことに胸を撫でおろしたが、約束を忘れていたことに気づいて、はっとした。彼は急いで玄関へと向かい、ドアを開けた。
「ああ、やっぱりいらっしゃったのね」女性は明るい、陽気な声で言った。「約束の時間から少し経ったので、もしかしたらお忘れなのかなと思いまして」
 ミセス・ドーソンだった。同じ階に住む会社の同僚の妻である。たしか、四十歳くらいだと聞いているが、三十代前半のように若く見える。皺ひとつない。
「ごめんなさい、色々あって遅れてしまいました」
 良い言い訳が浮かばなかった。単純に忘れていた。急いで靴を履いたロストンは、玄関を出て、彼女の後をついて行った。
 約束とは、お礼の食事のことだった。先日、夜の八時過ぎにドーソン夫妻に急な仕事が入り、かれらが雇っているベビーシッターも通常の勤務時間ではないので連絡がつかなかった。それで隣人であり、会社の部下でもある自分に子供たちの面倒をみてくれないかと頼んできたのだった。子供の世話は結局のところ二時間ぐらいで済み、大した負担にはならなかったが、お礼にディナーをご馳走してもらうことになった。それが今日だった。
 同じ階とはいえ、ドーソン家までは三百メートルほどある。進みながらロストンは周りを見渡した。
 このマンションは設備が充実している。天井や壁のいたるところにスクリーンが設置されており、建築材料はすべて頑丈な素材でできていて、錆びたり、ひび割れしたり、色落ちしたりしない。また、マンション全体が大きな台の上に乗っかっていて、大型台風が来る時は建物が地下へと降下し、洪水が予想される時は高く上昇するようになっている。また、設備が充実しているにもかかわらず、電気代や管理費はリーズナブルだった。建物の管理者に聞いた話だと、電力会社や不動産業者の間で市場競争が激しく、安くなっているらしかった。
「ミスター・リバーズ、実は……」前を歩くミセス・ドーソンが振り返りながら言った。「こちらから招待しておきながら申し訳ないのですが、サムが残業でまだ帰宅していないんです。すぐ対応しないといけない急な仕事が入ったみたいで……」
 ロストンは「大丈夫ですよ」と返したが、少し気まずい感じがした。
 ドーソン夫妻の家に入ると、そこはロストンのところよりも広い間取りで、煌びやかなインテリアに囲まれていた。それに、目に見えるすべてが整理整頓されていた。掃除ロボットが随時片付けてくれているのだろう。今も、ロボットが子供のおもちゃを収納している最中だった。ガラスのテーブルも埃一つなく、ピカピカだった。壁には中型のスマートスクリーンが掛かっていて、そこに家族写真や絵画やグレート・マザーの映像が映っている。奥の部屋では誰かが音楽に合わせて歌っていた。
「子どもたちです」ミセス・ドーソンはそう言うと、困った顔で部屋の方に目をやった。「お腹が減ったと言って聞かないので、子供たちは先に夕食を済ませてしまったんです。一緒に食事しようと言ったのですが」
「いいえ、私は、ぜんぜん構いません」
 その時、料理ロボットがシーザーサラダ、サラミ、パスタ、赤ワインをダイニングテーブルへと運んできた。トマトソースとバジルの豊潤な香りがする。
「サムも家にいたら良かったと思いますが」彼女が言った。「人とお食事をすることが大好きな人ですから」
 サムは痩せ気味だったが精力的に仕事をこなし、賢明で、冷静な思考の持ち主だった。細かいところまで目が行き届く几帳面な性格でありながら、クリエイティブな仕事も次々とこなすエリート社員だった。世界市民連合の安定は、おそらくリベラル・ネットワーク以上にサムのような人たちに支えられているのだろうとロストンは思っていた。
「とても美味しいです」シーザーサラダを一口食べて言った。
「よかった」ミセス・ドーソンは顔を緩めた。「子供たちが先ほどサラダを残したので、美味しくなかったらどうしようって心配しました」
 ロストンはサラミとパンとパスタを少しずつ口に入れながら、美味しいという感想を何度も言った。実際、嘘ではなく、それなりに美味しかった。ロボットが作ったはずなので美味しいのは当然のことだった。
「こんばんは!」突然、明るい声が聞こえた。
 振り向くと、男の子が椅子の後ろにいた。その妹も一緒にいる。二人ともTシャツに半ズボンというラフな格好だった。ロストンは笑顔を作って挨拶した。
 男の子の表情には、まだ大人になる前の純粋さがうかがえる。
「いっしょにあそぼ!」男の子がはしゃいだ。「一緒にフェスティバル行こうよ!」
 兄妹はロストンを囲むように跳ねまわった。無邪気な振る舞いが微笑ましかった。かれらの表情には計算を知らない純心と、わがままな期待感が浮かんでいる。
 ミセス・ドーソンが子どもたちを優しい目で眺めた。明るい照明の下、彼女の顔が艶々と光っていた。
「騒がしくてごめんなさいね。今、隣の町でやっているフェスティバルに行きたかったみたいで。でも今日は夕食にお招きしているし、このあともサムがいつ仕事から帰ってくるか分かりませんし」
「フェスティバル行きたい!フェスティバル行こうよ!」跳ねまわりながら、兄妹が歌うように繰り返す。
 フェスティバルと聞いて、ロストンは移民者たちによるフードフェスが開催されているのを思い出した。色々な国からの移民者達が、屋台を出して自国料理を振る舞うというものだった。彼は行ったことがないが、年に一度行われる、この地域の人気イベントだった。
「もう夕食を済ませたから、行っても、お腹がいっぱいで食べられないわよ」ミセス・ドーソンが子供たちを諦めさせようとする。
「デザート食べてないもん」女の子が頬を膨らませる。
 親子のやり取りを聞きながら、ロストンは少し急いで料理を口に放り込んだ。サムがいないので気まずかったし、子供の世話をするのを避けたかったからだ。子供が嫌いではなかったが、接し方がよく分からなくて苦手だったし、今日は家でゆっくり休みたかった。
 食後にミセス・ドーソンとお茶を飲んでいると、サムから連絡がきた。帰宅が間に合わないらしい。それでロストンはすぐに帰ることにした。
 玄関の方へ歩いていると、右足を掴まれる感覚があった。
 下を見ると、女の子が片手でズボンをつかみ、もう片手にはチラシを持っていた。フードフェスのチラシだった。諦めが悪いな、とロストンは少しイラっとした。
 覗いてみると、移民者たちのイベントということもあってか、多様性を称える文言があり、左下にはストーンズの排外主義を嘲る風刺画が描いてある。
「ミスター・リバーズはお忙しいから、また今度にしようね」
 そう子供たちをたしなめるミセス・ドーソンに、彼は会釈をしながらドアを閉めた。
 
 ロストンは自分の部屋に戻り、リビングのソファに座った。
 一息ついてからスマートスクリーンをオンにすると、アナウンサーが貿易に関するニュースを読み上げている。関税の完全撤廃に向けて多国間の協議が進行しているそうだ。
 ロストンは思った。ああいう子供たちは、小さい頃から外国人の文化と宗教に囲まれて育ち、その多様性を自然なものとして受け入れている。そして多様性を推進する学校教育や市民団体によって、文化多元主義を当然視する大人に育て上げられる。世界市民連合の推進する多文化社会に疑問を持たず、連合に対する反逆心など、微塵も湧き起らないだろう。そして大人になったかれらは、同じ文化や宗教や人種的アイデンティティーを共有して社会を団結させようとする者を、排外主義者だの、レイシストだの、思考犯だのとレッテルを貼って糾弾するだろう。いや、大人になるまでもなく、子供は小さいうちからすでに脅威だ。この前のニュースで、ある子供が白人至上主義の発言を繰り返す自分の親をリベラル・ネットワークに通報したという報道があった。
 ロストンはリビングの奥の部屋に入り、椅子に座った。投稿画面を立ち上げ、何を書き加えようかと考えた。
 すると自然とオフィールドの顔が浮かんだ。
 たしか何年か前、真っ白な空間のなかにいる夢を見たことがあった。その中で誰かの声がした。「自由なところで会おう」という言葉だった。
 その夢を見た時には、それがどういう意味か、誰の言葉なのか分からなかった。だがその後、会社でオフィールドが人と話しているのを通り過ぎながら聞いた時、それが彼の声だったことに気づいたのだった。
 そして今日、全ては合致した。数時間前、二人の目が合った時、オフィールドは視線を通して自分が体制に嫌悪感を持っていること、自分が味方であることを伝えてきたのだ。
 リビングにつけたままだったスマートスクリーンから声が聞こえてくる。
「次のニュースです。貿易自由化をめぐる交渉で、新たに十項目に対してアメリカとヨーロッパ諸国の間で関税の撤廃が合意された模様です」
 ロストンは部屋から出て、リビングの窓辺に向かった。夜空に光っているのは、おそらくすべて人工衛星だった。星は一つも見えない。
 遠くで花火が打ち上がっていた。フードフェスのところだろうか。何かのイベントがあると最近は花火がよく打ち上げられる。
 視線を下げると、商店街の路上のスマートスクリーンにアメプルの宣伝が流れていた。
アメプルの原理、オープンスピーク、対立の統合、過去の多面性。もうたくさんだ……
 ロストンは今まで自分が果てしない暗闇の中にいると感じてきた。ずっと一人だった。オンライン上では賛同する者もいたが、現実世界では誰も自分の本当の考えを表に出そうとしない。だがようやく現実の世界で、身近なところで、味方ができたのだ。世界市民連合に対抗するための現実的な手掛かりをようやく掴んだのだ。
 窓の外では、トゥルーニュース社の建物のスクリーンに三つのスローガンが流れている。

 多様化は一体化なり
 相対は絶対なり
 寛容は不寛容なり

 彼はポケットからコインを取り出した。今や現金を使う人はほとんどなく、みな電子マネーを使っている。ロストンも普段は電子マネーを使っていたが、内心、現金の方を好んでいた。コインや紙幣の方が、何かずっしりとした、内在する実在の価値というものを感じさせるのだった。
 だが現金を好むからといって、最近の現金のデザインを好むわけではない。いや、むしろ嫌悪感すら覚えていた。どの国の紙幣と硬貨にも、最近のものは表に連合の三つのスローガンが、そして裏にグレート・マザーの姿が刻まれていた。両腕を広げた彼女の姿は、硬貨にも、紙幣にも、街中にも、スマートスクリーンの中にも、いたるところにある。まるで全世界をその腕の中に閉じ込めるかのように。
 また外に目をやると、トゥルーニュース社の窓は、明かりでいっぱいだった。会社の発信力は強く、世論への影響力は甚大だ。
 ロストンは急に不安になった。自分は誰のためにネットに投稿をしているのか。それで何かが変わるのか。世界を変えるどころか、危険思想犯として捕まれば、今までに書き込んだ文章は無数にコピー・アンド・ペーストされて、繰り返し非難されることになる。リベラル・ネットワークによって吊し上げられた私の写真と投稿を、全世界の人が見ることになる。そして話題に上らなくなった後でもその記録はネット上に残り、誰かが調べようと思えば、情報は山のように出てくるだろう。そのような危険を冒してまで書き込むのは馬鹿げたことではないのか?
 アラームが夜の八時を知らせると、スマートスクリーンが自動でオフになった。テレビを観過ぎないように設定しておいたからだ。
 部屋が急に静まり返る。すると、その突然の静けさが、不思議とロストンの気持ちを和らげるところがあった。
 彼は考えた。自分は絶対権力に立ち向かう自由の守護者ではないだろうか。たとえ吊し上げられ、誹謗中傷を受けることになっても、言論の自由は守られるべきではないか。意見の自由な発信を保証してこそ真の民主主義ではないか。
 彼は急ぎ足で部屋に戻り、投稿画面に大声で書き込んだ。

 いつか、体制側に思想を強要されることなく、自らが信じることを公に主張できる時代が訪れるだろう! 人々が帰属意識を共有し、一体感を持っていた調和の時代が蘇るだろう! 分裂の時代よ、一体感を失った時代よ、グレート・マザーの時代よ、対立統合の時代よ、さようなら!

 言葉を発しながら、彼は自分がとてもいきいきとしているのを感じた。自分がいま何を追い求めているのかを、ようやくはっきり自覚できた気がした。
 続けて書き込んだ。

 危険思想が危険なのではない。”危険思想″というレッテルこそが危険なのだ。

 自分が追い求めてきたものを自覚し、意識すると、生きている実感が沸いてくる。
 そう、自分には使命があるのだ。人々が共有してきた伝統的な価値観を守らなければならない。
 でも捕まってしまっては何も成し遂げられない。全て台無しになる。自分の些細な言葉が逮捕につながるかもしれない。社内の狂信的な世界市民連合のメンバーが、そう、あのファッションリーダーの女のようなのが、自分の言葉や仕草の端々に危険思想の匂いを嗅ぎつけ、詮索し始めるかもしれない。
 そこに考えが至ると、ロストンはまた不安になった。
 だが気を引き締め、自分に言い聞かせた。危険を覚悟しなければ重要なメッセージを発信することはできない。それは大切なものを守るための仕方のない対価なのだ、と。






 ロストンは母の夢を見ていた。
 母がいなくなった時、彼は十歳ぐらいだった。母は普通の背丈で、おしゃべりな女性だった。父はというと、白人の中でも一層色白く、いつも派手な色の服を着ていた。両親とも彼が小さかった頃にいなくなったが、まずは母が誰かと駆け落ちして外国に飛んで行き、しばらくして父も彼をおいてどこかに蒸発したのだった。そのせいでロストンは親戚の間をたらい回しにされた後、孤児院に入った。
 夢の中で、母は大きな船の上に立ち、妹を抱っこしている。向き合って笑っている。すでに二人は彼の手の届かないところにいたが、さらに遠くへと離れつつあった。もう会えないということを彼は分かっていた。母を責める気持ちはなかった。意識にあるのはただ、自分が捨てられたという事実だけ。具体的に何が起きたのか当時は分からなかったが、母が他の何かのために自分を捨てたことだけは理解していた。
 夢の中で彼は考えた。家庭の悲劇はここ百年、二百年で始まった近現代社会に顕著なもの、自分の移り変わる心や欲情に忠実なことを肯定する時代のものだ。現代では家族を守ることが当然の義務や美徳ではなくなった。母は利己的なあまり自分の愛欲の方を選び、家族を捨てたのだ。もはやそうしたことは日常茶飯事。不倫、離婚、養育権の押し付け合い。世の中には快楽、欲情、不誠実がはびこり、気高い義務感や責任感はもはや存在しない……
 気がつくと、彼は広い空き地に立っていた。何もない空間が遠くまで続き、人工的な照明が空き地を白く照らしている。まだ夢の中だった。
 その風景は夢のなかで繰り返し出てきたが、どこか懐かしく、どこかで実際に見た風景のように思えた。すぐ近くでは溶解した真っ赤な鉄が流れている。彼は夢によく出るこの場所を”地獄″と名付けていた。
 その時だった。
 突然、どこからか金髪の女性が現れた。
 肌を全部覆い隠す黒い服装をし、顔は垂れ下がったベールに隠れて見えない。服装は、脱げないように何重にも重ねられ、紐やベルトでしっかりと結ばれていた。その鎧のような服は今の淫らな文化や価値観を完全に拒否していた。服の厚みは、グレート・マザーや世界市民連合やリベラル・ネットワークの価値観を完全に遮断し、撥ねつけるものだった。そう、それは……
 
 はっと目を覚ますと、アラームが鳴っていた。
 午前7時15分。起床の時間だった。
 夢の余韻にもっと浸りたかったが、ロストンはベッドから出た。もうすぐヨガが始まる。参加する義務はなかったが、規則正しい生活を維持するために参加を習慣にしていた。インド由来の異質なものに参加することに多少の違和感はあったが、近隣でやっているのはそれしかないからしょうがない。
 マンションを出て、早朝の空気を吸いながら歩くと、目が覚めてきた。
 五分ほどで近くの公園に着くと、いつものように大勢のお年寄りが集まっている。
「皆さん、お互いにぶつからないように距離を開けてくださいね」
 女性インストラクターの声が公園に響き渡った。
 ロストンは年寄りたちの間に並び、前方のスマートスクリーンを眺めた。その中にスレンダーな白人女性のインストラクターが映っている。
「でははじめましょう」
 女性の動きに合わせて、皆がヨガのポーズを取り始めた。
「はい皆さん、呼吸を整えてくださいね。イチ……ニ……」
 ゆっくりと呼吸をしながら身体を動かすと、ロストンの脳裏にさっきまで見ていた夢の風景が自然と浮かんだ。だが呼吸が深くなると、徐々に夢の風景が消え、それと入れ替わるように幼い頃の風景が浮かび上がってきた。
 それは、自分が八歳か九歳だった頃の、終戦前後の風景だった。
 空襲が終わって終戦の知らせが届いたその時、自分は父の手をつかみながら深い地下から地上へと階段を上っていた。階段はとても長かったが、途中から差し込んできた地上の明かりが足の疲れを忘れさせた。母も赤ん坊の妹をおんぶしながら後ろから必死についてきていた。
 やっと到着した地上は、想像以上に破壊されていた。主戦場ではないと聞いていたが、それでも多くの建物が跡形もなく崩れていた。地上に出た人々は、もうあるかどうか分からない自分の家や、他の防空壕にいるかもしれない家族や友人を探すため、さっさとその場を離れた。久しぶりに浴びる太陽の光や青空に感動したのか、上を見上げて涙を流す人もいた。ロストンたちは、妹をおんぶしていた母が体力を使い果たしたので、そこでしばらく休憩していた。
 その時、近くに知らない若い男女が座っていた。その頃の誰もがそうであったように汚い身なりだったが、男の目は誰よりもいきいきとしていた。
「かれらが戦争を主導する政府を従わせた。俺も仲間に加わろうと思う」
 おぼろげな記憶だが、男はそのようなことを隣の女に話していた。もっと長々と政治的なことを語っていたような気がするが、当時のロストンは幼過ぎて内容を理解できなかった。だが大人になって振り返ってみると、おそらくその青年は世界市民革命について話していたのだろうと思えた。
 世界市民革命は戦争の中で起きた出来事だった。世界戦争によって世界は壊滅状態になり、何億人という人間が死んだが、その戦争は好戦的な国家首脳同士の対立がエスカレートして勃発したものだった。そこで、政府の暴走を制御する機関が必要だという考えが広まり、戦時中、世界各国の何十億という市民が立ち上がって世界市民連合を創設した。そして連合は、各国政府に国家主権の部分的な委譲を迫ったのだった。当然、諸政府はそれを無視したが、次第にそれを無視できない状況が生まれた。多くの政府は、戦争による物理的な破壊と国民の反政府運動によって徐々に機能不全に陥りつつあった。そして弱体化した政府に対して軍部がクーデターを起こしたり、反政府勢力によって内乱が発生したりと、各国で混乱が続き、幾つかの国では政府が転覆されるに至った。世界市民連合の協力なしに状況を放置すれば、大国においても現行政府の存続が危ぶまれる事態だった。そこで、危機感を感じた各国の政治家たちは政府だけでなく、自分たちの命を守るためにも、世界市民連合に国家主権の一部を委譲することを決定した。そしてそれにより反政府運動が収まり、政府の統治力が回復することが確認されると、最初は参加しなかった他の国々もその流れに加わるようになった。その一連の出来事を世界市民革命と呼ぶ。
 それ以降、今までの数十年間、国家間の戦争は無くなった。緊張感がエスカレートする局面は度々あったし、反体制派によるテロや国内の内紛もあった。だが国家間の全面戦争は起きなかった。それは世界市民連合によって政府間の対立が制限されたおかげだと言われており、連合はその功績を大いに称えられている。
 だが、ロストンの考えでは、それは表向きの教科書的な説明だった。
 平和になれば何でもいいわけではない、と彼は感じていた。平和のためにという名目で、理不尽なことがまかり通っている。例えばアメリカは、国家予算の大きな部分を世界平和のための軍事費と支援金に使い、領土紛争の種になるからという理由で、世界市民連合の提案を聞き入れ、領有権を持っていた中南米との境目にある島々を無主地にしてしまった。
 だが国は自国民の利益を守るためにあるはずで、国は自国の利益を第一に考えるべきなのだ。平和が重要だからといって、国の威信、国の利益、国民感情を犠牲にしてまで他国に媚びてはならない。ところが、世界市民連合は、まさにそういう犠牲を国家に強いて平和を保とうとする……
 安らぎを求めるヨガの瞑想の中、彼は重い考え事にとらわれてしまっている自分にふと気づいた。だが流れ出るような思考を止めることはできなかった。
 そう……国はいつも連合に犠牲を強いられている。たとえば、アメリカとヨーロッパ諸国の関係が悪化した時期に、主要メディアは、様々な角度から見た両者間の絆や相互依存関係を報道し、国家関係は敵か味方かで片づけられるものではなく、多面的なものであることを連日強調した。国家間でたとえ対立する部分があってもお互いを利する部分の方が大きく、だからお互い譲り合って協力関係を強化すべきだ、と。そのような連日の報道の結果、世論が動き、政治家が立場を変え、自国の利益を第一に考えた元々の主張は撤回されるに至った。そのように、国家間の緊張が高まると、連合はあらゆるメディアを利用して国家間の歴史を親密なものへと塗り替えてしまう。
 でもアメリカはヨーロッパの一部ではない。アメリカは自国の利益を優先すべきなのだ! いくら多面的で切り離せない関係にあろうとも、お互いに媚びて何もかも妥協してしまっては、自立した国家とは言えない。だがそのような考えを口外しようものなら、世間に”危険思想″のレッテルを張られてしまうだろう。もう世間は、連合の刷り込んだ価値観を完全に信じていて、自分自身の力で考えることができない。連合は思想を支配しているのだ。
 連合の主張の中に”過去の多面性を明らかにすれば未来も多面的なものとして開かれ、現在の多面性を明らかにすれば過去の多面性も明らかになる″というものがある。過去の解釈が変われば未来に向けての姿勢も変わり、現在に対する解釈が変われば現在の原因である過去の解釈も変わる、というわけだ。つまりかれらは、どのような過去も現在も未来も、多面的なものとして再発掘することができると主張している。それがオープンスピークで言う”現実の多面性″や”対立の統合″だ。
「では次に、脚をひし形に曲げて、前に屈みましょう」スクリーンのなかの女性インストラクターが声を上げた。
 ロストンは座ったまま腰を曲げて屈み、ゆっくりと息を吸った。
 鼻を通る空気を感じながら、意識が今度は”対立の統合″をめぐる雑念へと流れ込んでいく。
 対立の統合とは、互いに相反するものが同時に統合されていることを指す概念だった。たとえば親しみと憎しみの関係を挙げることができる。人はお互い憎しみ合い、殺し合う関係になりうる。そのような潜在的な危険性を意識するほど、親しい関係を築くことの大事さを強く認識するようになる。また、人はお互い親しい関係になるほど、その友情と愛を失うことや、お互い憎しみ合う事態に陥ることを恐れるようになる。つまり、相反する二つが、まさに相反することによってお互いの重みを増すのだ。連合は、相反するものはお互いを必要とする一つの統合されたセットだと主張する。相反する価値観は、お互いに対立しているように見えて、実はお互いを必要とするものであると。その本質を知ることで、何か問題が起きた時の克服が容易になるという。
 だがロストンは、連合の主張は矛盾していると強く感じていた。相反する価値観はお互いを必要とすると言っておきながら、価値観の相対性を否定する価値観をかれらは許さないのだ。たとえばキリスト教が絶対に正しくて他の宗教は間違っているという考えを連中は許さない。全ての価値観が相対的であることは絶対であるというのが連合の考えだ。
「さあ、今度は息をゆっくり吐き出しましょう。ゆっくりと、フー」インストラクターが再び声を上げた。
 彼は続けて考えを巡らした。
 そう、過去が多面的で常に更新されるものならば、いま自明とされているものをどうやって信用できる? あの”アメプル″も矛盾した概念ではないだろうか。自分が十代の頃にその言葉があったかは覚えていないが……
「ミスター・リバーズ!」スマートスクリーンの中からインストラクターが声をかけた。「もっと身体を屈めてくださいね!」
 名前を呼ばれてロストンはビクッとした。
 インストラクターは優雅な動きで身体を屈め、今度は全員に向けて声を発した。
「さあ、皆さん、ゆっくりと息を吸って……ヨガは呼吸が大事ですから、私に合わせてくださいね。スー」





 ロストンは朝陽の差し込む校閲部のオフィスに足を踏み入れた。自分の椅子に座ると同時に、机に置いてある仕事用のグラスをかける。眼鏡のように軽量だが、レンズにスクリーンと拡張現実の機能が備わっている。
 彼はグラスが映し出す修正内容を確認した。
 校閲部では、出来立ての記事の表現の間違いをまず人工知能がチェックして修正し、次に社員がその問題個所と修正バージョンをダブルチェックしている。
 自分に記事の内容に手を加える権限はないので、地味な仕事だった。人工知能が仕事をほぼ完ぺきにこなすし、自分はそれを再確認するだけ。言い方を換えれば、人工知能は間違っても責任を取れないので、自分は何かあった時に責任を取らされる切り捨て要員として配置されている。大きな間違いがあったらすぐに辞めさせられるだろう。だから人工知能が間違えることなんてほとんどないのを知りつつ、血眼になってチェックしている。
 ロストンは修正箇所のリストを一瞥した。

記事タイトル:「更新されるアフリカ平和条約」
問題個所:プライムミニスター・ファノンは地域の友好関係を… 
修正:プルミエミニストル・ファノンは

記事タイトル:「GDP四半期予測」
問題個所:3.24%成長
修正:3.42%成長

記事タイトル:「世界の失業率」
問題個所:チャイナでは失業者への支援が…
修正:ジョングオでは
 
記事タイトル:「ルチアーニ議員、横領疑惑が晴れる」
問題個所:冤罪であったと判明…
修正:エローレ・ジウディツィアリオであったと判明

 ロストンは記事タイトルの横にあるリンクをクリックして原稿を開いた。
 一つ目の記事は、五年ごとに更新されるアフリカ諸国間の平和条約のことだった。条約の更新時期が近づく中で、プライムミニスター・ファノンがアフリカ内の友好関係の強化を支持したという記事内容だった。英語圏でいうプライムミニスターと、ファノン氏の国でいうプルミエミニストルは、同じく国の長を指す言葉だが、それに付随する権限が互いに大きく異なる。だからプルミエミニストルに変える必要があるというわけだ。ニュース内容に対する誤解を避け、事実を間違いなく伝えるためには、オリジナルの用語を使って報道しなければならないというのがルールだった。今年から適用されたルールなのでまだ慣れていない記者が多く、こういうミスがよく起きるのだった。記者たちの使う文章作成ツールにも自動修正機能は付いているのでそれをオンにすればばミスを避けられるが、校閲部で使う高額人工知能の方がより精度が高いので、修正は全部校閲部でやってくれというスタンスの記者も多少いる。
 次の記事に目をやると、もっと単純なミスだった。3.42%成長と書くべきところを3.24%成長と書いている。こういうミスは、本当の成長率を再確認すればよい。
 だが順調な経済成長率を見ながらロストンは疑問に思った。
 この国の生活水準や生産性は上がっていると言うが、貧富格差は広がっている。庶民の暮らしは厳しい一方で、富裕層は莫大な富を積み上げている。平均所得が増えているのは、その富める者たちが平均を釣り上げたからに過ぎない。また、庶民の生計が成り立つのは、働き口がある場合であり、失業すればたちまち貧困状態に陥る。クビになったり、病気で仕事を辞めたり、パートタイムで働くことになったりすれば、厳しい状況が待っている。それがこの世界一豊かだと言われる国の現実である。  
 ロストンは心の沈むような気持ちを抑えながら、次の記事に取り掛かった。
 ”チャイナ”を”ジョングオ″に直すというものだった。中国人は自国のことを”ジョングオ″と呼び、”チャイナ″とは言わない。そのようにオリジナルの発音を尊重して例えば”ジャパン″は”ニッポン”という風に本来の発音で表記するというのが新しいルールだ。オープンスピーク全国委員会と全国メディア協会がそれを決めたのはつい二年前のことで、記者たちは未だによく間違える。国名だけでなく、都市名も同じで、たとえば”フローレンス″はオリジナルの”フィレンツェ″、”ヴェニス″は”ヴェネツィア″と表記しなければならない。
 記事が世に出る前にこうやって校閲で修正されればよいが、中には校閲部も見逃してしまい、間違ったまま出版されてしまう場合も稀にあった。先ほどの成長率の間違いなどは、経済状況に関して間違った情報を流すことになるので、大変な問題だ。だから間違った過去の情報は、見つかり次第、訂正のお詫びとともに新しい情報にすぐさま更新される。
 しかしお詫びをしない場合も多々あった。不思議なことに、もっと大きな訂正は、謝りもなく、何事もなかったかのように静かに直されて終わりなのだ。
 メディアは何かを報道した後、訂正の謝罪もなしに、真相が明らかになったと言って、以前とはまったく異なる内容を報道したりする。たとえば、ある芸能人を大々的に持ち上げたかと思えば、次の日には裏の顔をもっていた人だったとバッシングをして、その人を潰しにかかる。
 同じく、新聞、テレビ、本、雑誌、パンフレット、ちらし、映画、歌、漫画、演劇など様々な媒体を通じて、毎日のように、過去は今まで知られていたのとは違う内容に塗り替えられている。過去の記録を否定する記録がどんどん積み上がっていくのだ。
 だから歴史は真実の記録というより、永遠に繰り返される自己否定の記録にすぎない。報道された何かを真実だと確信するのは不可能だろう。
 彼は校閲部のオフィスを見渡した。
 仕切りのない広いオフィスに、二十人ほどが十分な間隔を空けて座っている。小走りで動く人や立ち話をする人が見えるものの、まるで誰もいないかのような静けさだ。隣のデスクの人は、歌をうたっているのか口をパクパクしている。だが何も聞こえない。
 以前は地味な仕事内容にもかかわらずこのオフィスもそれなりにうるさかったが、ノイズキャンセリング機器が設置されてからは、まるで個室に一人でいるかのように静かになってしまった。音がした時に、各デスクに設置されたノイズキャンセリング機器が逆位相の音波成分を発生させて音を中和するのだ。それをオンにすれば自分の空間に騒音は入ってこないし、自分の出す騒音も外に漏れない。テキストメッセージを送ったりしないとお互いが近くにいることに気づかないという問題点はあるが、邪魔されずに仕事や考え事に集中できるのは良い点だった。
 オフィスの端っこを見ると、髪を七三で分けたグリフィスという男が背筋を伸ばして座っている。彼は、あらゆる分野のなかでも特に専門用語の多い、科学に関連する記事や本の校閲を担当していた。また、その仕事とは別に、彼自身もペンネームで科学関連の記事を書いて色々なところに投稿しているという噂だった。ただ、ペンネームを秘密にしていて、彼がどういう記事を書いているのかを知る人は周りにいなかった。
 グリフィスのように、この会社では多様な分野に特化した社員が数多く従事している。映画部門やスポーツ部門や教科書部門、音楽、学術書、子供向けの月刊誌、グラビア雑誌など、この会社はあらゆる方面に事業を拡げていた。設備も充実していて、地下の巨大な印刷所から最上階の撮影スタジオまで色々な設備が整っている。
 ロストンは、視線を自分のデスクに戻し、残っている記事に取り掛かった。もう一度その文面を眺める。
 
記事タイトル:「ルチアーニ議員、横領疑惑が晴れる」
問題個所:冤罪であったと判明…
修正:エローレ・ジウディツィアリオであったと判明

 
 アメリカで使う冤罪という言葉とイタリアで使うそれは法的な定義が少し異なるため、イタリアで起きた冤罪に関してはイタリア語で冤罪を意味するエローレ・ジウディツィアリオを使わなければならない。それが新しいルールだ。
 だがロストンはどうも納得がいかなかった。こういうのをいちいち向こうの言葉にしたら、英語を使う国なのに外来語ばかりになってしまうではないか。他国の言語を尊重するあまり、母国語を破壊している。
 彼は、記事の原稿に目を通した。政治資金の横領容疑で告発されていたイタリアのアレッサンドロ・ルチアーニ議員の疑惑が晴れたという記事だった。議員の横領を証言していた秘書の方が嘘をついていたという。
 気になったロストンは、この件に関する他の記事を検索してみた。
 ルチアーニ議員はヨーロッパの政治家として、そして世界市民連合の一員としても立派な働きをしてきたらしい。その軽快な喋り方もあるせいか、メディアでもよく取り上げられ、人々に親しまれてきた。ところが横領疑惑が浮上するや、まだ決定的な証拠が挙がっていないにもかかわらず、メディアは彼を犯人のように扱い、激しく非難するようになった。週刊誌で彼は私生活まで根掘り葉掘り面白おかしく取り上げられ、根拠の怪しい諸々の疑惑を新たに吹っかけられていた。
 そんな中、昨日になって横領を証言していた秘書が、実は横領をしたのは自分だと白状したのだった。政治資金が底をつき始め、自分の横領が発覚してしまうと思って、ルチアーニ氏に罪を擦り付けようとしたのだという。
 秘書が証言を覆すと、昨日まで議員を激しく責めていたメディアは、ルチアーニ氏への謝罪などなしに、今度は彼のことを疑惑に根気強く耐えた英雄と称え始めた。そして不正を暴いた英雄のように描写されてきた秘書を、今度は極悪人として報道し始めた。
 でもメディアは本来、疑惑の段階ではルチアーニ氏を犯罪者のように扱ってはならなかったのだ。疑惑の対象だという理由だけで、私生活に土足で入り込んではいけないはずだった。ところが、読者数を伸ばして収入を増やすために、週刊誌も新聞も競ってセンセーショナルな記事を書いた。競争は会社と会社の間だけでなく、会社の中にもある。このトゥルーニュース社でも、記者たちは、同じ事件を扱う他の記者たちに負けないように、刺激的な表現を散りばめた記事を切磋琢磨して書いている。そして編集長は、その中から一番注目を集めそうなものを選び、さらにもっと注目を浴びるように編集する。
 そのようにして世に出された刺激的で誇張された記事が、消えない記録として永遠に残る。ルチアーニ議員が潔白だったとしても、メディアによって報道された彼のネガティブなイメージや私生活は永遠に残ってしまうのである。
 行き過ぎた記事を出すと訴えられることもあろう。だが、政治家としてメディアを訴えるのが得策でない場合もあるし、芸能人の場合は特にそうである。その弱みにつけ込み、刺激的な表現を使って嘘の情報をでっちあげる雑誌さえある。
 ルチアーニ氏は、昨日まで犯罪者のように扱われていたが、今や英雄になった。一夜で犯罪者が英雄になるとはなんとも奇妙なことだった。だが、もしルチアーニ議員がやはり潔白じゃなかったという疑惑が浮上すれば、再び全ては書き換えられるだろう。たとえば、秘書の自白の方が実は嘘であったと判明する可能性だってある。秘書が誰かに脅され、自分の証言が嘘だったと言わされたかもしれないのだ。そうなればメディアはルチアーニ議員への攻撃を再開するだろう。
 考え過ぎだろうか、とロストンは自問した。だがそういう光景は今までに何度も見てきたし、そのたびに真実は覆され、修正されてきたのだった。





 トゥルーニュース社の三十二階にある天井の高いフードコートは人でいっぱいだった。
 料理が全自動で効率よく作られるため、列に並ぶことはない。ただ、音楽やテレビ番組が流れ、人が大声で話し合うため、音はそれなりにうるさい。オフィスと違って、フードコートのノイズキャンセリング機器の基本設定はオフになっていた。ただ、内密の話をする場合や何かに集中したい場合は、テーブル下のスイッチを入れてオンにすることもできる。
 ガラス越しに見える厨房からはインドカレーやシチューやラーメンの湯気が立ち上っていた。ドリンクバーからはカフェモカとタピオカミルクティーの香りが漂ってくる。異なる料理と飲み物の匂いが混ざり合い、充満していた。
「やあ、ロストン」
 背後で声がした。
 振り向くと、ハイムだった。
 メディア調査部の人で、部署が異なるので仕事で会うことはなかったが、共通の知人とフードコートで何度も一緒に昼食をしているうちに親しくなった人だった。
 彼はロストンより少し年上で、メディア調査部で顧問をしているが、本職はオープンスピーク全国委員会の委員として活躍する著名な言語学者だった。委員会の中でも重要な役割を担っていて、オープンスピーク辞書の編集作業に携わっているらしかった。彼が顧問として招かれたのも、オープンスピーク導入をめぐってトゥルーニュース社が彼を必要としたからだった。大柄で、まだ四十代ながら白髪が目立ち、その奥深い目にはやさしさと好奇心が混在している。立派な肩書きをもっていても権威主義的なところがなく、気さくな口調で話しかけてくる人だった。
 二人はテーブルに座り、メニュー表を広げた。表の上に色々な料理の画像が浮かび上がる。少し眺めたのちに、ロストンはハンバーガーとコーラ、ハイムはチキンカレー、ガーリックナンと、マンゴーラッシーを注文した。
「昨日のフードフェス行ったかい?」ハイムがメニュー表を閉じながら言った。
「他に用事があって……まあ、外国の料理はそこじゃなくてもいっぱいあるし」ロストンが答えた。
「あそこでしか味わえないのがあるのさ」
 そう言うと、ハイムの目がフロアを行き交うロボットの方を向いた。ロボットたちが運ぶ料理をおいしそうに眺めながら、自分の注文した料理を待っている。
 ハイムは生粋の正統派だった。危険思想犯の裁判と自白と転向について、非常に熱を込めて語ることがあった。ロストンはそういう話が出てくるたびに話を切り替え、彼にオープンスピークについて語らせようとした。彼はその方面の権威者なので、正確な情報を聞き出せたし、なによりもその進行状況がロストンは気になっていた。
「いいフェスだったよ」ハイムが改めて思い出したように言った。「アフリカ料理が少なかったのが少し残念だと思うがね。ああいうフェスでは中華、タイ料理、日本食、インド料理、イタリアンが多くて、そっちからの移民が多いから仕方ないんだが、広大なアフリカには上から下まで実に多様な料理があるんだ。北アフリカで使う調味料でハリッサというのがあって、独特のピリ辛さがあるんだが、それが四川料理や韓国料理の辛さともまた違って、いいんだよ」
 その時、可愛い顔の女性型ロボットがロストンたちのテーブルの前で止まった。「ご注文の品です」と言い、料理とドリンクを丁寧に置き、素早く去っていく。
 ハンバーグは、バンズ、レタス、チーズに挟まれた肉がちょうどいい焦げ目をしていて、肉汁を滴らせていた。ハイムの皿を見ると、大きめのチキンの上を赤いカレーが覆い、そこに緑の野菜が丁寧に添えてあり、色鮮やかだった。
 ロストンはコーラを手に取り、少し口にした。そしてハンバーガーにかぶりついた。ふんわりしたバンズとパリっとしたレタスの食感に柔らかいチーズの芳醇な香りとグリルされた肉のジューシーな旨味が合わさって美味しかった。ハイムも手でちぎったナンをカレーにつけ、口に入れると、満足げな顔をした。そしてそれを全部飲み込むと、冷たそうな黄色いマンゴーラッシーをストローで吸いこんだ。
「辞書の進行はどう?」ロストンが切り出した。
「うん、早く進む時もあれば躓いたりもするね」ハイムがストローから口を外しながら言った。「最近は接続詞を扱っているんだが、なかなか面白いよ」
 ハイムはオープンスピークの話が出たとたんに目を光らせた。ゆっくり落ち着いた感じではあったが、マンゴーラッシーのグラスを横にどけ、身を乗り出した。
「今作っているのが辞書の第三版なんだけど、第二版に比べてかなり厚くなるかな。英語に無いものを導入し、英語の中でも使わなくなった古いものを蘇らせようとすると、量がかなり多くなるんだ。これが完成すれば、君のような校閲の仕事をしている人は、増えた単語をいち早く覚えないといけないから、苦労するだろうね」
 彼はロストンを直視しながら言葉を続けた。
「おそらく世間はわれわれ委員会がただ外来語と大昔の英単語を紹介しているだけだと思っているだろう。ところがそう簡単なことではなくてね、今使っている英単語とそれらの単語のニュアンスが異なるのか、ほぼ変わらないのかを慎重に分析して、一致しないものだけを丁寧に選別する必要があるんだ。今使っている英単語が外来語に取って代わられて消えないようにね。あくまでも言葉を豊富にするのが目的なんだから、現代英語と古い英語と外来語の共存が前提だ。もちろん、われわれだけがその役割を担っているわけではなく、数でいうと人々が自然発生的に使い始めた外来語や昔の英単語の方が、そりゃあ、はるかに多い。でもそれを辞書に入れるのはわれわれの仕事だから、なかなかの作業量だよ」
 ハイムの彫りの深い顔は先ほどより真剣な表情になっている。彼はまたカレーをつけたナンを口に入れ、飲み込むと、学者的な情熱に突き動かされたように話を続けた。
「実用的なことなんだよ、単語を増やすというのは。言うまでもなく一番豊富に増えるのは動詞と形容詞だけど、名詞も導入すべきものが数千はあるね。たとえば面白いのが日本語の”I″だ。英語で自分のことを指す単語は”I″しかない。ところが日本語の場合、”ボク″、”オレ″、”ワシ″、”ワタシ″、”アタシ″、”ワタクシ″、”アタイ″などがある。今言ったのは全部”I″だけど、これらは”I″と言っている人の性別や年齢などが表現された”I″なんだ。英語の”You″も日本語では”キミ″、”アナタ″、”アンタ″、”オマエ″、”キサマ″などがあって、これらは相手の歳や性別や話者との関係性が表現された”You″なんだ。古い日本語や方言を入れるともっと豊富になる。もちろん ”I″と”You″自体にそれらの表現を含ませなくても、英語のように年齢や性別の情報を文章の中で追加すればそれらを表現できる。でもね、短い言葉で多くの情報を伝えられるメリットに加えて、”I″は実に男らしく聞こえる”I″になったり、女性らしく聞こえる”I″になったり、年寄りらしく聞こえる”I″になるんだ。その感じは英語の”I″では表現ができない。今までに英語になかった表現を取り入れれば、表現と認識の幅が格段に広がるはずだよ」
 日本語を知らないロストンは実感をもって理解できたわけではないが、理屈はなんとなく分かった。何か返す言葉がないか探っていると、ハイムが間髪を入れずに話を続けた。
「豊富になるのは同義語ばかりじゃない。反義語だって豊富になる。ある単語の反対の意味を持つ反義語が豊富にあることは、実はとんでもなく重要なことなんだ。例えば、生きることの大切さは”生命″や”生″という単語を使うだけでは十分に理解できない。”死″という反義語を知ってこそ、つまり死のもたらす怖さや絶望や儚さを知ってこそ、その反対である”生″の大切さと意味がはっきりと分かってくるんだ。逆も然りで、”死″の意味は”死″という単語を使うだけではちゃんと理解できない。”生″という反義語があって、生の大切さや嬉しさを知ってこそ、その対比として”死″の怖さと虚しさと悲しみがはっきりと理解できるようになるのさ」
 ハイムは喉が渇いたのか、横にどけていたマンゴーラッシーを一口飲んでからまた言葉を続けた。
「それに、”生″の反義語は”死″だけとは限らない。”生″というものが欲望にまみれた卑しいものだと考える人は、その反義語を”死″ではなく”解放″や”解脱″だと言うかもしれないし、”生″を”有限のもの″と捉える人は、その反義語が”無限″や”永遠″だと考えるかもしれない。でもそのような反義語の複数性は”生″の意味をあやふやにするわけじゃないんだ。むしろ、”生″が大切なものであると同時に、欲望にまみれたものでもあり、有限なものでもあることを浮き彫りにし、”生″をより多角的で総合的に捉えることを可能にしてくれる。だけど、英語に限らずどの言語でもそうだが、現在使われている自国の言語だけでは単語の数に限りがあるから、多角的かつ総合的に物事を捉える思考力が限られてしまうんだ。だから現在の言語生活に、他言語の単語や、今はもう使われない古い英単語を取り入れることで、われわれは思考力を高めることができる。オープンスピークがもっと広まれば、言葉と思考の範囲がもっと広くなるはずだ。どうだ、素晴らしいと思わないか? このプロジェクトを連合がサポートしてくれているおかげで、実に速いスピードでオープンスピークが普及しているんだよ」
 連合の名前を耳にした瞬間、ロストンは自分が暗い顔になったのを自覚した。すぐ表情を戻そうとしたが、ハイムはその一瞬を逃さなかった。
「どうしたんだ、その顔は? うん、君はまだオープンスピークの真価を理解していないな。そう言えば、君は校閲の仕事の大半が、クローズドスピークになっているのをオープンスピーク用語に直すことだと言っていたね。それは、クローズドスピークで考える習慣が記事の担当者からまだ完全に抜けていないからなんだ。無意識的にしろ、クローズドスピークを守りたいと、どこかで思っている。その表現できる意味とニュアンスの狭さと限界性にもかかわらずだ。言葉の多様化と豊富さがもたらす素晴らしさを十分に理解していない。他の言語圏でもオープンスピークを採用しているけど、英語が世界で一番早く語彙を増やしている言語なのを知っているかい?」
 英語が一番そうだとは知らなかった。ロストンは首を横に振った。ハイムは肩をすくめ、マンゴーラッシーをもう一度口にし、話を続けた。
「オープンスピークの目的は人々の思考の範囲を広げ、思考のレベルを高めることにあるんだ。一つの効果として、排外主義への傾倒を防ぐ側面もあるだろう。何しろ思考に用いる言葉の多くが外来語になるわけだから。外来語を習得する過程で、その単語を使う国のものの考え方や文化に触れ、人々は他国にもっと親しみを感じるようになる。何も外国に対してだけじゃない。もう使われなくなった古い英単語も言語生活に取り入れられるから、昔の人たちの考え方や感性を学ぶ機会になって、自国の歴史にも親しみを感じやすくなるよ。言語を共有することはアイデンティティー、つまり帰属意識を共有することでもあるんだ。アイデンティティーは重層的なもので、私と君は男でありながら、ここの社員でもあり、白人でもあり、同時にアメリカ人でもある。だから外国の言葉を共有することで、アメリカ人はアメリカ人でありながら、世界人としてのアイデンティティーも芽生えることになる。危険思想を取り締まる法律によって他人種や他宗教をあからさまに差別する人は消えたけど、心の中でひっそりと差別をしている人はきっと多い。だがオープンスピークが広まれば、心の中の差別さえすっかりなくなるだろう。本当の意味での愛と博愛と平和がこの世に実現することになるんだ。言語が広く共有された時こそが、本当の意味での世界市民革命の完成だ。オープンスピークがまさにアメプル、つまりアメリカン・プルーラリズムだし、アメプルがオープンスピークなんだ。想像したことがあるか、ロストン、外来語と古い言葉を生活に取り入れ続けるオープンスピークが定着すれば、千年後も一万年後も、未来の誰もが、今僕たちの交わしている会話を理解できるだろうことを」
 ロストンはハイムの見方に同意しなかった。だが、ここで彼と深い議論をするつもりはなかった。議論をすればするほど自分が異端派であることがバレてしまうだろう。
 だが反論したい気持ちが無意識に出てしまったのか、気が付くと「ただしトラディットは」という言葉が自分の口からポロっと出ていた。
 ロストンは、はっとして口を閉じた。言いかけたのは「ただしトラディットは除いて」という言葉だったが、途中で黙ったのは、異端だと疑われる恐れがあるからだった。
 だがハイムはあまり深い意味で捉えてはいない様だった。
「ああ、トラディショナリストたちのことか」ハイムが言った。「近い将来、クローズドスピークへの偏屈なこだわりはすべて消えるよ。過去の文学、たとえばチョーサー、シェイクスピア、ミルトン、バイロンの古い英語はオープンスピークのおかげで再び生活の中で使われ、身近な言葉に感じられるようになる。それは昔の単語を元の意味のまま活かすというだけに留まらない。昔の単語が現代のそれと共存しつつ、使い分けられるから、現代の単語のニュアンスや意味もよく理解できるようになるんだ。それは世界市民連合の精神とも合致する。古今東西のあらゆる言葉の良さを理解できるようになったときに、”相対は絶対なり″のスローガンは実感を伴うものになるはずだ。狭い思考は存在しなくなる。正統とは、広く、深く、多重的かつ総合的に思考すること、つまり、高次元的な意識のことなんだ」
 ロストンは反論したい気持ちを抑え、静かに頷いてみせた。
 そして確信した。ハイムのような人はきっとこれからも出世して行くだろうと。知的で、スケールが大きく、理想を語りながらもそれを成し遂げるための現実的な方法を心得ている。連合はそういう人を好み、育て、積極的に活用していくだろう。
 ロストンはまだ半分しか食べていないハンバーガーをかじり、コーラに手を伸ばした。
 一口飲み、隣のテーブルを見ると、どこかで見たことのある男が熱心に話している。その前には若い女性がロストンに背を向けて座り、その男の話をじっと聞いていた。男の顔に見覚えがあった。たしか文芸編集部の偉い人だったような気がした。五十歳ぐらいで、テーブルの上に身を乗り出して何かをしゃべっている。まわりの音が邪魔をしてよく聞こえなかったが、一瞬「ストーンズを排除するためには」という言葉が聞こえた。
 それを聞いただけで、どういう会話をしているのか大体想像がついた。危険思想犯の厳しい取り締まりが必要だと言っているのだろう。あのように会社で成功したタイプの人間は、グローバル化を進める企業家やグレート・マザーを褒め称え、自分が生粋の正統派でアメプルの熱心な支持者であることを周囲にアピールする。
 ロストンは再びハイムに視線を戻した。
 彼はフォークに刺さった赤いチキンを口に入れている。ロストンは思った。自分が異端であることを知ったら、おそらくハイムはリベラル・ネットワークに通報するだろう。彼は気さくで優しい性格だが、異端派に対しては排他的なのだ。
「サムだ」ハイムがフォークを下ろしながら言った。
 振り向くと、サム・ドーソンが近づいていた。
 痩せ気味で、細長い犬のような顔をしている。身のこなしは落ち着いていて、どこか年寄りを思わせた。仕事は要領よく進めるが、雰囲気はゆったりしている。そのためか、彼が普通のスーツを着ていても、年寄りが地味なセーターを着た姿を連想してしまうのだった。実際に彼は、プライベートではいつも暗くて地味な色の服を着ていた。
 サムは二人に「よう」と挨拶をしながらテーブル前に着いた。仄かなラベンダーの香りがする。
 ちょうどその時、ハイムは何か仕事の連絡が入ったらしく、二人に向かって「失礼」と断って自分のスマートスクリーンを覗き込んだ。
「何か注文は?」ロストンが言った。
「いや、さっきもう済ませたんだ」サムが座りながら言った。「昨夜はこっちから招待したのに仕事が入ってしまって、すまなかったね。うちの子供たちが一緒に出掛けようって、ずっとねだっていたらしいね」
「いやいや、僕がいたせいで子供たちをフードフェスに連れていけなくなったんだから、こっちこそ申し訳ない気分だよ」
「うちの子らの小学校には移民の子たちが多いみたいでね。その親たちがフェスで屋台を出していたみたいなんだ。そこで友達とも遊びたかったんだろう。この街もすっかり多文化社会になったもんだ」
 そう言うとサムはふと思い出したように顔を顰めた。「そういえば、うちの娘なんだが、学校の人影のないところで、ある教師が移民の子に差別的な発言をしているのを聞いたらしくてね。言われた子はショックで黙り込んでしまったらしいが、娘がその子を連れて警察に行って通報したんだよ」
「小学生が?」急な話の展開にロストンは驚いて訊いた。「その教師はどうなったんだ?」
「うん、娘の証言が証拠となって、逮捕されたよ。その後は、精神病院か刑務所のどっちかだろうね」
「やっかいだな……」ハイムが自分のスマートスクリーンを覗き込んだままつぶやいた。難しい表情をしている。急な仕事でも入ったようだった。
 フードコートは人が大勢で騒がしく、大型スマートスクリーンも大きな音量でニュースを流していた。経済政策研究所の発表によるとアメリカの一人当たりの生活水準が昨年より二パーセント上昇したらしい。
 ロストンは心の中で反論した。平均の生活水準が上昇しても貧富格差は開いているではないか。金持ちが平均を釣り上げているだけだ。現実の実感を反映しない経済指数を並べられて、他の人たちは腹が立たないのだろうか? ハイムの懐事情は分からないが、このフードコートにいる社員たちは幹部を除いてみな庶民で、貧困層に陥る不安を抱えているはずだ。なのに、ニュースを観ている誰も不満な顔をしていない。それどころか、隣のテーブルに座る文芸編集部の男なんか、ニュースを眺めながらむしろ満足げに微笑んでいる。この現状に問題意識を持っているのは自分だけなのだろうか?
 ロストンが気に入らないのはそれだけではなかった。埋まらない現実の格差を、人々が表面的な外見を取り繕うことで埋めようとするところも気に入らなかった。フードコートを見渡すと、男も女もブランド物の服やアクセサリーを身にまとっている。だが着飾ったかれらは、真に裕福な者たち、庶民の手の届かない高級車を乗り回し、大豪邸に住み、本物の宝石を着飾る富める者たちと自分たちを比べざるをえない。テレビではいつもそういう金持ちの暮らしぶりが紹介されている。相対的な剥奪感は、いくら背伸びをして着飾っても消え失せることはないのだ。
 気が付くと、いつの間にかニュースが終わり、大型スマートスクリーンの画面は広告に変わっていた。
 隣のテーブルでは、相変わらず文芸編集部の男が同じテーブルの女に向かって話しかけている。
 ロストンはテーブルの女と髪型が似ているミセス・ドーソンのことがふと思い浮かんだ。ドーソン夫妻の子供たちは、もし自分たちの親が人種差別の発言でもしようものなら、警察に通報するのだろうか? うっかり口がすべったら、自分もこの社会から排除されるのだろうか? サムやハイムのような正統派は、正統派の正しさを心底信じているからうっかり不適切な発言をすることがないかもしれない。だが自分は異端派の価値観が思わず言動に出てしまうかもしれない……
 考えを巡らせていると、ロストンはふとあることに気づき、びくっとした。今まで顔の見えなかった隣のテーブルの女が、振り向いて自分の方を見ているのだった。
 あのファッション系の動画サイトで有名な女だった。
 睨んでいるように見える。だが目が合うと、女は目を逸らし、前を向いた。
 ロストンは動揺した。もしかしたらニュースに不満そうな顔をしているところを見ていたのだろうか? 異端派であると見抜かれたのだろうか? それとも、自分が彼女の方に顔を向けていたから、ずっと見られていると勘違いでもしたのだろうか? 
 ロストンの脳裏に、彼女について以前思ったことが浮かんだ。有名人である彼女が、誰かを性差別主義者だと名指しするだけで、名指しされた男はすべてを失うだろう。同じように、じっと見ていたからという理由で、自分を指してストーカーだと周囲に言いふらしでもしたら、自分は終わりだ。もうこの会社にはいられないだろう。下手したらストーカー容疑で警察に捕まる可能性だってある。女の言うことが優先されて、誰も自分の言うことなど信じてくれないだろう。
 ロストンはぞっとし、慌てて女のいる方向から目を逸らした。そして身体の向きも斜めにずらした。
 ところで彼女はなぜこの社内フードコートに二日続けて来ているのだろうか、とロストンは疑問に思った。同じテーブルの偉い人とオフィスで何かの打ち合わせをし、それが終わって一緒に食事に来たといったところか。動画サイトのファッションリーダーと文芸がどのように繋がるのか思いつかなかったが、何か一緒にプロジェクトを進めているのだろう。
 その時、昼食時間終了の五分前を知らせるチャイムがフードコートに鳴り響いた。
「行きますか」とサムが言い、ハイムは格闘していた自分のスマートスクリーンをカバンに入れた。
 ロストンは二人と一緒に立ち上がり、女と視線が合わないように注意しながらフードコートを後にした。






 ロストンは部屋で投稿画面を開き、音声入力で書き込んでいた。

 三年前、真っ昼間の、とある広場の中央。彼女はそこに立っていた。燦燦と輝く太陽。化粧など一切していない、すっぴんの若い顔。その自然な肌と唇。路上には人がいっぱいで、彼女は集まったホームレスに食料を配っていた。
 
 そこで言葉に詰まった彼は、リクライニングチェアにもたれ、目を閉じ、当時のことを鮮明に思い出そうとした。自分を癒やしてくれる記憶を思い出したかった。
 彼は瞑った目の暗闇の中で思った。重要なのは内面の安静ではないだろうか。内なるものが安らぎを感じると、それは表面にも出てくる。
 ロストンは目を開いて、再び音声入力で書き始めた。

 僕はそこを離れ、道路を渡った。そして振り向き、彼女の姿をもう一度遠くから眺めた。彼女は……

 突然、安らかな気分が乱れ、不快感を覚えた。
 広場の女性のことを思い出そうとしたら、それとは真逆のロズリンのことが浮かんでしまったのだ。かつて結婚まで考えた人だったが、うまくいかなかった。
 気を取り直し、広場の女性をまた思い浮かべようとした。彼女の着ていた、シンプルで清楚な白黒の修道服。世俗の女たちは香水をつけ、厚化粧をするが、修道女は化粧もせず、香水もつけない。その清楚な透明感は、神の愛を万人へと媒介するためのものに思えた。彼女を女として見ているのではなかった。彼女はそういうのとは無縁な、汚れなき存在なのだ。
 貧民たちの居住区には、かれらを助けるために集まったボランティアのクリスチャンが大勢いて、彼女もその一人だった。
 貧民街での宗教活動は、世界市民連合も奨励している。信仰の自由を認めながらも宗教と相性が良いとは言えない連合がそれを奨励するのは、貧民援助というお金のかかる役割を宗教に肩代わりしてもらいたいからだ。その過程で行われる布教は、力のない底辺の人たちを対象にしている限り、連合にとって大した心配事ではないのだろう。それよりかれらが心配するのは、おそらく、自らの組織の中に宗教の影響が入り込むことだ。昔、連合内で宗教的な活動を推進するメンバーが急に増え出し、内部論争の末、それらのメンバー全員が除名されるという事件があった。
 連合は、宗教が絶対的な価値を説く点を内心嫌っている。だがそれだけではない。公言してはいないが、その禁欲的なところも気に入らないのだ。連合は、性の権利や性の多元性の名のもとに、貞操観念を崩してきた。惹かれ合っていれば、愛が無くても、結婚していなくても、男同士でも、女同士でも、性交に及ぶのは個人の自由だというのがかれらの見解だ。価値は相対的だというわけだ。もはや性交は、子を授かるための神聖で厳かな行為ではなく、快楽のためのものに成り下がっている。正統派にとって貞操観念は自由を縛る時代遅れのものでしかない。注意深く観察してみると、誰もが子どもの頃からそのような価値観を刷り込まれている。
 ロストンは、またロズリンのことが思い浮かんだ。
 別れてから十年近くになるだろうか。一緒にいたのはたったの四カ月ほど。彼女はいつもどこか気の抜けたような、隙だらけの人だったが、そこが可愛いところでもあった。しかし、彼女のことを可愛いと思えたのも、実は淫らな女だったと気づくまでのことだった。
 彼女はことあるごとに身体に触れてきた。そのたびに自分はこわばり、顔が引きつった。彼女は硬直してしまう自分の様子に失望して少し身を離したかと思うと、また全力で抱きしめてきて、柔らかい肌を擦り付けた。それでも自分は指一本動かさなかった。しかしそんな時でさえ彼女は、お互いもっと親しくなれば、いずれは誘いに乗ってくれるだろうと期待しているようだった。だからこの誘惑と拒否のやりとりは何度も繰り返された。
 今もそうだが、当時の自分は結婚するまでに性行為に及ぶつもりはなかった。信仰上の理由から、子どもを作る目的以外に性行為に及びたくなかったのだ。最初は我慢していた彼女も、しばらくしてついに諦め、二人は別れた。
 ロストンは気を取り直した。今思い出したいのはロズリンではなく、修道女の姿だった。
 彼は目を瞑り、息を深く吸って、記憶を辿った。そして再び音声入力で書き込んだ。

 彼女は遠くで慈悲深い顔をしていた。そして白黒の清楚な修道服の上で両手を合わせ、目を閉じ、お祈りをはじめた。
 
 ロストンは神の光の中にいる自分の姿を想像した。心が静かに満たされていく。
 だがそれも長続きしなかった。摺り寄せてきたロズリンの白い肌がふと浮かび、心を掻き乱すのだった。
 彼は苛立った。どうして世俗の女たちはあの修道女のようになろうとはしないのか? 人々は自由奔放な性意識を刷り込まれている。早期教育によって、ドラマや映画の淫らな内容によって、貞操観念が奪われているのだ。自分が心から願っているのは、そうではない女性に出会うこと。この淫らな世界で、声高らかに性行為を拒むのは一種の反逆だ。それはもしかしたら危険思想とまで見なされるかもしれない。
 ロストンは、もう少しで修道女の姿が完全な形で思い出せそうな気がした。
 彼は意識を集中させ、音声入力を続けた。

 僕は目を開けた。光の中で見た彼女は……

 その日、太陽の強い光も、なぜか穏やかな日差しのように感じられた。修道女は遠くで貧民たちに食料を配っていた。彼女を眺めていると、安らかで幸せな気分になった。
 だがそれは危険なことでもあった。信仰の自由は保障されているが、法的にはそうだとしても、実際には不利益がある。連合の価値観と宗教は相性があまり良くないのだ。異端派ではないかと、疑いの目で見られる可能性もある……
 いや、今は彼女のことに集中しよう。もう少しで完全に思い出せる……
 ロストンは思い浮かんだことを急いで口にした。
 
 光の中で見た彼女は、聖母マリアだった。ありのままのその素顔は肌が透き通るように白く、髪は明るいブロンドで、唇は慈悲深く微笑んでいた。優しい眼差しで僕を見ている。僕は、ためらいながらも、その胸の中に自分を預けたのだった。

 彼女の姿を思い浮かべながらロストンは目を閉じた。
 これは効果のある治療法かもしれない、と思った。彼は自分の心のなかで渦巻いていた動揺、苛立ち、怒りが少しずつ静まっていくのを感じた。






「トラディットたちにこそ、希望がある」
 ロストンは匿名掲示板に書き込んだ。現状を打破できる唯一の存在はトラディットたちかもしれない、と彼は思い始めていた。
 たしかに、かれらはアメリカの全人口の5パーセントにすぎない。隠れ支持者を入れても10パーセントに満たないと言われている。だが、現体制への現実的な対抗勢力となりうるのは、かれらしかいないのだ。民衆の圧倒的な支持を得ている世界市民連合が組織の内側から崩壊するとは考えにくく、連合を外側から脅かす国もない。あのSS同盟も、連合へのテロ攻撃を行ってきたものの、ゲリラ的なテロだけで体制を覆すのは難しいだろう。だとすれば少数派でありながらも、人口の5パーセントから10パーセントという、社会の一角を占めるトラディットが唯一の希望なのだ。だから……
 ロストンがその時不意に思い出したのは、数年前の、ネットで聞いて駆け付けたトラディットたちの集会のことだった。
 それはある夏の日の夜だった。
 大通りから広場へと、松明と大きな旗をもった何百人の屈強な男たちが行進していた。「移民者は出ていけ!」「異教徒は出ていけ!」「われわれは乗っ取られない!」とかれらはスローガンを連呼し、その怒りと決意に満ちた声は大きなうねりとなって夜空に鳴り響いていた。
 その光景に、ロストンは胸が高鳴った。そして心の中で叫んだ。これはレジスタンスだ! 押さえつけられていた人々の感情がついに爆発した! トラディットたちが勇敢に立ち上がり、連合の支配に立ち向かい始めたのだ! 
 スローガンの連呼は次第に勇ましい行進曲へと変わり、男たちはまるで軍隊のように靴音を立てながら、重低音の力強い声を響かせた。
 少し離れた所で見ていたロストンは、胸がはち切れそうになった。そして確信した。重要なのは、この一体感! 価値観のバラバラになったこの世界で、今必要なのは思想と行動の団結であり、一体感なのだ! 
 そのような思いに至ると、彼は興奮を抑えきれず、我を忘れて行進の中に飛び込もうとした。
 その時だった。
 トラディットたちの前にガスマスクをした数十人の武装警察が立ちはだかった。そして間髪を入れず、手に持った噴射機からガス状のものを発射した。
 瞬時に松明が吹き消され、また数秒と経たないうちに、先ほどまで勇ましく大声を出していた男たちが無言でよろめき、紐が途切れた操り人形のようにバタバタと倒れていった。どうやら睡眠ガスのようだった。
 ロストンも強烈な眠気に襲われたが、その場から少し離れていたのでなんとか逃げることができた。
 途中で振り返ってみると、まるで大量虐殺の現場のように、倒れた数百の男たちが広場を覆っていた。そして警察は倒れた一人一人に手錠を掛けていた。
 勝ち目はない、とその時にロストンは思った。体制側は、数百という人間をたった数秒で制圧することができる。ちょっとしたデモの行進ぐらいでは何も変わらない。
 だがその時を振り返りながら「それでも」と思うところが彼にはあった。トラディットたちの叫びには、たしかに戦慄を覚えるような力がこもっていた。それはたしかにそこにあった。そのような叫びがもし全国で湧き上がれば世の中は変わるかもしれない。数百人は逮捕できても、数十万人や数百万人を逮捕することはできない。トラディットの全人口が力を合わせれば、そして隠れ支持者も勇気を出して加われば、きっとこの現状を打破することができるはずだ……
 当時のことを思い浮かべながら、ロストンは書き込んだ。

 あの集会ははっきりとした抵抗の意志の表れだった。その強い意志がかれらを突き動かしたのだ。新たな革命の機運は確実に高まっている。

 世界市民連合は、自分たちへの抵抗が存在する理由を分かっているだろうか。
 連合はトラディットを含む全人類を戦争と貧困から解放したのが自分たちだと考えている。だから感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないと考えている。連合の息がかかっている歴史書によれば、世界市民革命が起きる前、人々は戦時体制のなかで疲弊し、家族を失い、餓死寸前まで追い込まれていたが、連合が戦争を終わらせ、復興のために尽力した。だから自分たちは解放者だというわけである。
 しかし連合は自らを解放者であると言いながら、トラディットをあからさまに冷遇してきた。一口にトラディットと言っても、かれらの間で共通しているのは伝統的な価値観を優先する点で、具体的な部分においては考えが違うところもある。宗教的な伝統を重んじる者もいれば、宗教以外の伝統を重んじる無神論者もいる。純血、人種的な誇りを重視する人もいれば、革命前の政治体制の復古を望む者もいる。だがいずれにしても、文化多元主義とグローバル化を推し進める連合と価値観が相容れない点では共通している。
 連合はそういうトラディットを転向させたいのが本音だろう。しかし、無理に転向させようとすると対立が激化して体制に悪影響が出るので、連合の理念を公の場で誹謗中傷しない限りは放っておくという態度をとっている。だが他方でそれは、連合への批判がある場合は厳しく取り締まることを意味する。だからリベラル・ネットワークは常に監視の目を光らせてきた。かれらは危険人物とおぼしき者を見つけると、要注意人物としてすぐ警察に通報する。さらに連合は、内面の価値観を放っておくふりをしながら、事あるごとに自分たちの理念をトラディットたちに刷り込もうとしてきた。トラディットのなかには家にスマートスクリーンがない人もいたが、最新のスマートスクリーンを無料で配ってまで連合は刷り込みを試みるのだ。加えて、思想の自由が認められるといっても、トラディットには現実的な不利益がある。価値観が一般社会のそれと合わないため、かれらは正統派の作った社会のレールにうまく乗れず、周囲の人たちと価値観がぶつかり、進学や仕事において不利になる場合が多い。そのため貧困に陥りやすいのだ。
 ふと、ロストンの頭に疑問がよぎった。
 世界市民革命より前の時代は、連合が主張するほど悪い時代ではなかったのではないか? トラディットたちが現体制に抵抗しているということは、かれらにとって以前の時代の方が良かったということではないか? 
 戦時中が大変だったのをロストンは身をもって覚えていたが、戦争の前の時代については幼すぎたためあまり覚えていなかった。たしかに、戦時中と比べれば、革命後の方が人の暮らしは良くなっている。経済指標など見るまでもなく、小さかった頃の自分の経験から分かる。だが戦時中ではなく、戦争の前の時代と比べてはどうか?
 ロストンは、統計を確かめてみようと、デスク上のスマートスクリーンで検索した。
 過去のデータによると、革命後、寿命は確かに延びていた。現在の世界の平均寿命は86歳で、アメリカに限って言えば98歳。革命前のアメリカの平均は72歳だった。平均労働時間も戦後に短縮し、余暇時間が増えている。国によっては平日の平均労働時間が6時間弱のところさえある。教育水準も高くなり、全世界の大学進学率は戦前の5割から8割へと増えた。見渡す限りのデータが全てこうした調子で、終戦と革命後の進歩を示している。
 だが、たとえデータの数字自体に嘘がないとしても、何を取り上げて注目するかに、都合の良いバイアスがかかっているではないか? 体制側は、都合の悪い情報を意図的に無視し、取り上げず、隠してきたのだ。ロストンはその証拠をいくらでも挙げる自信があったが、その中には彼が直接経験したものもあった。
 それは、トゥルーニュース社で働き始めて間もない、15年ほど前の出来事だった。
 当時はのちに”大転向の時代″と呼ばれた時期で、危険思想で逮捕されていた反体制派の主要人物が続々と転向を表明していた。それまでにも反体制派の転向はあったが、その時期にトップの人たちが一斉に転向を表明したことで反体制派は指導層を失い、総崩れになった。かれらは自らの危険思想を告白し、罪を懺悔した。そうすることで社会に復帰することが許されたのだった。
 そのような転向者のなかにラムフォードという男がいた。だが驚くことに、彼は転向から一年ほど経った頃、メディアに出て、その撤回を宣言したのだった。彼は、自分がなぜ以前に転向を表明し、今回はなぜそれを撤回するのかを説明した。つまり、新体制への転向と支持を表明したものの、心の底では転向していなかったこと、転向表明は良い条件で社会に復帰するための妥協であったことを告白したのだ。こうした告白によって彼が再び逮捕されることはなかったが、その後の報道によると、彼は職場で解雇通知書を渡されたという。
 ラムフォードの転向撤回から数カ月後、ロストンは時々通っていた栗の木ティーハウスで彼を目撃したことがある。
 彼はロストンよりもずっと年上で、世界市民連合に政治的に抵抗した最後の世代だった。もともとコメディアンで、その容赦のない風刺と皮肉をもって生み出す笑いは反体制派の士気を高めていた。特に富裕層を面白おかしく風刺して、格差を感じている人たちの気分を爽快にさせていた。
 だがそれも遠い昔のこと。ロストンが彼を見かけた時、その風貌からはかつての抵抗精神を物語るようなところはなかった。特に重い病気を患っているようには見えなかったものの、目力がなく、頭の左右には白髪が生えていて、無気力な印象を受けた。それに、転向を撤回してしまった彼はもはや潜在的な社会の敵、ならず者、近寄ってはいけない人だった。体制側の理念を公に否定した時点で、社会的にはもう死んだのも当然であった。
 その時の栗の木ティーハウスは人で溢れ返っていた。ウェイターがラムフォードのテーブルにエナジードリンクを置いていくのが見えた。その隣のテーブルには囲碁の碁盤が置いてあり、壁掛けのスマートスクリーンからはムーディーな曲が流れていた。
 一つの曲が終わると、まもなく新たな曲が始まった。どこかで聞いたことのある、懐かしく心地よいメロディー。導入部が終わると歌声が響いた。

 おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー遊びましょうー
 おおきな栗の木の下でー

 ラムフォードは耳を傾け、メロディーと歌詞をじっくり噛みしめている様子だった。そして歌が終わると、にこっと微笑んだ。
 それが、ロストンが直接見た彼の素顔だった。
 それからしばらく経って、ラムフォードは再びメディアに出演した。そして驚くことに、また体制への支持を宣言したのだった。
 世間は当然、彼の二転三転する言動に呆れたという反応を見せた。転向をし、その転向を撤回した後、それをまた撤回したのだから無理もなかった。彼は今までの自分の考え方が根底において間違っていたと告白し、転向の撤回もそうした間違いによるものであったと説明した。
 そしてその後の展開は、体制側の情報操作をロストンが疑うきっかけとなった。
 ラムフォードが再び体制への支持を発表して間もない頃、たしか一ヶ月ほど後、ロストンは社内でスクープ記事を目にしていた。校閲のために手元に回ってきたものだった。
 ファイルを開くと、その記事の内容と写真に彼は驚いた。ラムフォードが、ある人物とともに写真に写っていた。人気のなさそうなところで立ち話をしている。記事によると、その人物は反体制派の幹部らしく、ラムフォードが体制への支持を再び表明した後に密会していたとのことだった。彼らの会話内容を盗聴することはできなかったようだが、記者が現場を直撃したところ、反体制派の幹部は足早に逃げ、残されたラムフォードはノーコメントを貫いたという。結局ラムフォードが何のために反体制派の人と会っていたかははっきりしなかったが、大きな話題になりうる記事だった。彼の言動がそれまでにも二転三転していただけに、彼がまた世間を欺いたという印象をもたせるには十分だった。
 だがその記事は不思議なことに、世に出なかった。
 校閲まで終えたが、結局ボツになったようだった。不思議に思ったロストンは、社内の知り合いの記者に理由を聞いてみたが、それは編集部長の決定らしく、特に理由の説明はなかったという。
 もしその記事が世に出ていたら、ラムフォードに対する世間の印象がまた変わったはずだった。社会復帰をした彼は再び職を失っただろうし、再び世間の厳しい批判にさらされただろう。だが記事が出なかったことで彼の印象はそのままだった。
 その時、ロストンは思った。記事が出るか出ないかによって、どのように報道されるかによって、認識される真実は変わってしまう。真実は人の手によっていくらでも書き換えられるのだ。
 ロストンがこの出来事を通して確信したのは、人間の手によって明かされる真実の頼りなさだった。どの情報を発信するかは人為的に取捨選択されるし、たとえ真実の究明に必要な全情報が目の前にあったとしても、人にはそれを神のように誤りなく理解する能力がない。疑いようがないと主張された科学的な見地でさえ、何回も覆されてきているのだ。人は、ある時に何かが真実だと言っては、次の瞬間にはそれと真逆のことを言い、常に二転三転、右往左往する。結局、人間は小さな存在であり、神のように究極の真実を知ることはできない。
 しかしロストンにはすっきりしない部分もあった。過去と真実が常に書き換えられる理由が人間の不完全性にあるのは分かっても、なぜ人々が自らの不完全性を認めず、自分たちが神のようになり得ると思い込めるのかが分からなかった。人間の不完全さは誰の目にも明らかではないか? 世界市民連合は、どうしてトラディットの価値観が間違っていて、自分たちの価値観が正しいと主張できるのか? どうして神の言葉を無視して、自らの言葉を信じ得るのか? 
 ロストンは目の前の画面を覗きながら再び書き込んだ。

 その理由は分かる。だが、その本当の理由が分からない。

 かつては神の存在を信じないことが非正常、愚かさ、狂人のしるしだった。現在ではむしろ、神と聖書の言葉を信じることがそのしるしと見なされる。信仰の自由が保障されているとはいえ、連合側の人達は内心そう思っているはずだ。理性で証明できないことは、表向きはともかく、暗黙のうちに否定される。トラディットの中にさえ無神論者がいるくらいだ。
 ロストンはふと、グレート・マザーのイメージを思い浮かべた。
 彼女はこちらを見て微笑む。一見、心広く全てを受け入れてくれそうな優しい顔だ。だがそれは、異端派の価値観を受け入れる微笑みではない。それは、異端派の価値観を捨てて体制側の価値観を信じるならば受け入れてもいい、という意味の微笑みなのだ。
 二足す二が四であるように、連合は自らの価値観と政策の正しさが自明であるかのように振る舞っている。それに同調しない者は、社会から排除され、隅に追いやられている。そのような排他性が、多様な価値観の共存を謳うかれらの本当の姿なのだ。
 ロストンは心が沈んでいくのを感じた。
 自分が出口のない、果てしない暗闇の中にいるような感覚だった。どこまでも続く、誰もいない暗いトンネル……
 だがそこで彼の脳裏にオフィールドの顔が浮かんだ。
 そう、オフィールドがいるではないか。
 ロストンは自分に言い聞かせた。たとえ少数派でも、味方はいる。スマートスクリーンに向かって書き込んでいるのは全世界の味方たちのためだ。どこかにいる、自分やオフィールドと考えをともにする人達に宛てて書いているのだ。書き残せば、誰かは読んでくれる。まだオフィールド本人とは話せていないが、匿名掲示板への書き込みを通して不特定多数と考えを共有することはできる。
 ロストンはオフィールドに話しかけるような気持ちで掲示板に書き込んだ。

 自由とは、二足す二が四のように当然視される多数派の価値観を拒否できる自由だ。自由は、人によって認められるべきものではない。神によって与えられたものなのだ。






 通りに安物のインスタントコーヒーの匂いが漂っている。ロストンは思わず足を止め、それが子ども時代によく嗅いだ匂いであることを思い出した。この街にはそのような安い飲み物や食べ物の匂いが充満していた。
 彼はもう何キロも移動しているが、こんなところにまで来たのは、十月の澄んだ空気と夕陽のせいだった。勤務時間が終わったらいつも通り帰宅してのんびり過ごすつもりだったが、夕方に会社を出てみると、空が美しいオレンジ色をしていて、家に直行するのがもったいなく思えてきたのだった。そしてその時、掲示板に自分が書き込んだ「トラディットたちにこそ、希望がある」という文章を思い出した。
 それで衝動的にロストンは、何か未知のものを求めるように、今まで行ったことのない方角へと足を向けたのだった。夕陽はすぐに暮れてしまったが、連なる街灯の明かりを眺めながら歩き続けた。
 そして辿り着いたのが、古びたレンガ造りの建物が立ち並ぶ、このトラディット地区だった。トラディットの住むべき地区が法律で指定されているわけではなく、価値観を共有するかれらが自然と集まってできた地区だった。
 今の時代、建物をレンガで建てることはないので、ここの建物は百年以上前に作られたものということになる。歩道は狭く、昔ながらの道といった感じで、敷石で舗装されていた。人はまばらで、若い人は見えず、中年や年寄りが目立った。男たちは質素な服を着ていて、女たちは肌の露出のない服を着ている。
 彼はふと思った。
 こうした場所で人目につくのは、あるいはこうした場所に足を踏み入れること自体、賢明なことではないかもしれない。犯罪防止や犯罪者特定の名目で、一定間隔でスマートスクリーンが設置されているからだ。市販のスマートスクリーンと違い、公道に設置される防犯用のものはすべて警察とつながっている。他の地域に比べれば少ない印象だが、それでもブロックごとにあって、行き交う人々を覗いている。自分の行動もすべて記録されているはずで、もしかしたらこの地区に足を踏み入れただけで、危険思想犯の候補としてタグ付けされ、リベラル・ネットワークや警察による監視の対象になるかもしれない……
 考えを巡らせていると、ロストンは辺りがざわつき始めたのに気づいた。
 建物の窓が開き、「はじまるよ!」という声が聞こえる。人がまばらだった通りに、突然大勢の人が飛び出てきて、夜空を見上げた。
「花火だ!」誰かが叫んだ。
 ロストンはかれらが見ている方へ振り向いた。
 すると爆音とともに大きな花火が夜空を赤く彩り、その下に見える家々を赤に染めた。次は青色の花火が広がり、その次は黄色。どこの地域の、何のための花火かはわからなかったが、打ち上がる場所から結構離れているこの地区からも鮮明に見えた。みな嬉しそうに眺めている。
 ロストンは少し鑑賞した後、人々を後にして、歩き出した。花火は綺麗だったが、せっかく危険を冒してまでこの地区に来たので、街の様子をもっと観察したかった。
 花火の見えない路地裏に入ると、まわりが一気に暗くなった。暗闇のなかで花火の音だけが聞こえる。
 彼は迷路のように曲がりくねったその道を進んでみた。奥へと進むほど道が細くなり、辺りがさらに暗くなった。道の左右を古い建物が囲んでいたが、どこも明かりをつけておらず、人影もなかった。
 だがしばらく歩くと、少し広い空間が出てきて、まるで暗闇の中のロウソクのように、黄色い明かりの灯る建物が現れた。屋根には十字架がある。教会だった。
 ちょうど何かの集いが終わったみたいで、門から人がぞろぞろと出てきた。
 夜の祈祷会だろうか、とロストンは思った。
 おそるおそる近づいてみると、門の前のベンチに三人の男が座っている。真ん中の男が聖書らしきものを開き、左右の二人が肩越しにそれを覗き込んでいた。
 耳を傾けると、左右の男が言い合っていた。
「私の解釈では、七で終わる年に再臨があるとは思えない」
「いや、ある!」
「ないね、絶対ない! 聖書をくまなく読んでも、七で終わる年に起きるという記述はない」
「いや、七で終わる年に違いない! なんなら、その年をはっきり言ってみようか。それは、次に来る七で終わる年だ」
「そんな馬鹿なことがあるか! 聖書のどこを読んだらそうなるんだ。その年は……」
「もうそれくらいにしよう」真ん中の男が、うんざりした顔で言った。
 どうやら聖書の終末予言の話をしているようだった。
 終末、キリストの再臨、救済がいつ訪れるかは一部のトラディットの間では大きな関心事だった。おそらく、今の体制下で少数派であり、弱者であるかれらにとって、苦難の克服と救済を約束する終末論は魅力的に映るのだろう。いつ終末が訪れるかという議論は、かれらにとって現実をしばし忘れさせてくれる鎮痛剤であり、知的興奮剤でもあった。自分なりの算定方式で終末の時期を予想したり、牧師の提示する方法で予想したりしていた。
 なかには、終末の時期を予想するのはキリストの教えに反すると説く者もいて、ロストンもその立場だった。彼もかつて終末論に興味があって色々調べたことがあったが、その時期を人が予想しようとするのは傲慢なことだという結論に至った。再臨の時期は神が決めるのであって、人が予想できるものではない。大事なのは、予想することではなく、それがいつ来ても救われるように日頃正しい行いをすることなのだ。
 考えを巡らせていると、三人の男のうしろで、教会の開いた扉に突然人影が現れた。
 よく見ると、服装や雰囲気からして、牧師のようだった。歳は七十歳前後といったところ。しかし背筋がピンとしていて凛々しい風貌だった。牧師は辺りを見渡した後、ゆっくりと扉を閉めた。
 それを眺めながら、ロストンの頭にある考えがふと浮かんだ。
 あの老人の牧師は、世界市民革命が起きる前、いや、それよりもっと前の戦前に、すでに中年だったのではないか。牧師は戦前の時代のことをよく知っているに違いない。戦前の様子を取り上げた書籍やドキュメンタリーはたくさんあるが、常に旧体制に対して批判的な観点から語っていて、世界市民連合の息が強くかかっているに違いなかった。体制の息のかかったメディアや体制側に属する年寄りではなく、その世代のトラディットに直接聞けば、まったく違う印象を受けるのではないか。
 あの教会に入って、その点についてあの牧師に質問したい、とロストンは衝動的に思った。だが同時に、不安もあった。もしかしたら賢明な判断ではないかもしれない。この瞬間にも道路に設置されたスマートスクリーンが自分を撮影していて、要注意人物としてタグ付けしているかもしれない。
 それでもロストンは自分を抑えることができなかった。ぐずぐずしていると牧師が帰ってしまうかもしれない。もしかしたら門の鍵をもう掛けてしまったかもしれない。そう思うと、彼は居ても立ってもいられなくなり、急いで扉の方へ向かった。
 扉を押してみると、まだ鍵は掛かっていなかった。
 奥の大きな十字架が目に入った。その前には木製の講壇と長椅子が並び、壁にはステンドグラスが見える。そして中には牧師と若い男が二人いて、何かの準備をしているのか、物を移動させながら話し合っていた。おそるおそる足を踏み入れたが、向こうは自分のことにまだ気づいていない。
「明日の聖餐式に使うパンとぶどうジュースは揃っているでしょうか? おそらく二ガロンほど補充する必要があると思いますが」牧師が言った。
「ガロンって何ですか?」若い男が不思議そうな顔で答えた。
「ああ、ガロンを知らない世代なんですね。一ガロンは四クォートで、一クォートは一リットルに少し満たないぐらいだから、一ガロンは……四リットルぐらいですね」
「ガロンなんてはじめて聞きましたよ」
「昔はこういう時はガロンを使いましたけどね。リットルに統一されてから、私のような昔の世代はガロンやクォートをリットルに換算するのが大変です」
「昔の単位をリットルに統一したなんて知りませんでした。なんだか乱暴ですね」
 若い男の言葉を聞いて牧師は頷き、振り向いた。
 そしてその時、牧師の目がロストンの目と合った。若い男もロストンに気付いて、一瞬、動かしていた手を止めた。
 きっと不審者に見えているのに違いなかった。ロストンは慌てて、手の平に何も持っていないのを見せながら、自己紹介をはじめた。
「こんばんは、ロストンと申します。クリスチャンです。この教会ははじめてですが、外から牧師様を見かけて、どうしてもお話がしたくて無断で入ってしまいました」
 そう説明しても、突然現れた見知らぬ他人に警戒心を解くとは思えなかった。
 だが不思議なことに、牧師は何かを理解したような表情になった。
「そうでしたか」牧師はそう言うと、優しく微笑んだ。
「では、四リットルお願いしますね」若い男に向かって彼は言い、「こちらへどうぞ」とロストンを招いた。
 ゆっくりと歩く牧師のうしろをロストンは黙々とついて行った。木製の長椅子と十字架の前を通り過ぎ、演壇の裏側へと進んだ。
 そしてある部屋に通された。
 質素な部屋だった。テーブル一つと椅子四つが置いてあるだけで、スマートスクリーンを含む如何なる電気機器も見当たらない。誰かに盗み聞きされる心配などせずに話せそうだった。
「どうぞお掛けになってください」牧師が椅子に腰を下ろしながら言った。「どのようなお悩みでしょうか」
 先ほど見た、彼の表情の意味が分かった。おそらく信者や住民から悩みの相談を受けることが多いのだろう。個人的な悩みをかかえて訪れたのだと思っているに違いない。彼はロストンの素性すらきいてこなかった。
「悩みというよりも、先ほど、昔使っていたガロンの話をされていましたが、そのような昔の時代のご体験をお聞きしたいと思い、参りました」 
 悩みの相談ではないことを知って、一瞬、牧師の薄青色の目が動揺するように揺らいだ。
「えっと、どのような体験のことでしょう」彼が警戒する様子で答えた。
「はい……」
 ロストンはまず何から話すかを考えて、口を開いた。
「牧師様は戦前の時代を生き、それがどんな様子だったか覚えていらっしゃると思いますが、それは今の時代の本やドキュメンタリーが描くその時代の様子と違うのではないかと思いまして。歴史の本を読むと、戦前が今の時代に比べて全てにおいて劣っていたかのような印象を受けます。今よりも人々は貧しく、平均寿命は短く、労働時間は長かったという具合にです。しかし、劣っていることばかりだとすると、トラディットが現体制に不満を持つ理由を説明できません。歴史書にはあまり書かれない、トラディットが懐かしむ良い部分もたくさんあったのではないでしょうか。それをお聞きしたいのです」
 牧師の顔は曇った。
「私の体験ではどうだったか、ということですね。その時代を生きた人から直接聞きたいという気持ちはわかりました……でも、それを聞いてどうされたいのですか?」
 何か隠れた意図があるのではないかという、警戒心を露わにした言葉だった。
「それを聞いて何かをしようということではないんです」ロストンは信じてもらうために必死になった。「ただ知りたいだけなのです。問題は、戦前の時代がただ古いだけの、守って受け継ぐべきものなどまったくない、そういう時代だったのかということです。もしかしたら、今よりも貧富格差を意識しない、もっと平等で、公平で、心豊かな社会だったのではないでしょうか」
「おっしゃっていることは分かりますが」牧師がゆっくり口を動かした。「でも、私の体験を聞いて、どうされたいのですか?」
 ロストンは話が進まずに堂々巡りになっているのを感じた。
「申し上げましたように、ただ知りたいだけなのです。ではこう質問しましょう。あの頃と比べて、今のほうが自由で平等だと感じますか? 富や権力の差によって人が差別されることなく、公平に扱われていると感じますか?」
「そうですね……」牧師はさらに困った表情をした。「わたしは牧師という立場から、訪れる方々のお悩みを聞いて、それに寄り添って一緒に考えてみることはできますが、わたし自身の政治的な見解を説くことはしておりません。それは立場上ふさわしいことではありません」
 ロストンは無力感に襲われた。牧師はまったく答えようとしない。もしかしたら、自分を体制側の人間だと思って警戒しているのだろうか。確かに、彼の立場で考えてみれば、突然現れたリベラル・ネットワークの人間かもしれない人に、政治的に解釈されうる話を告白するのは憚れるのだろう。
 ロストンはこれが最後だと思い、もう一度だけ尋ねた。
「では質問を変えます。もし選べるとしたら、昔と今と、どちらの時代に暮らしたいですか?」
 牧師は相変わらず困った顔をして口を開いた。「それは年齢の影響がありますから、昔の方が身体は楽だったかもしれません。この歳になると、身体のいたるところが悲鳴をあげますからね。若い頃は健康そのものでした……」 
 年齢の話ではないのに、わざととぼけた返事をしている、とロストンは思った。もはや質問を続けても意味がなかった。
「わかりました。お忙しいところ、ありがとうございました」
 ロストンは立ち上がりながら言った。そして軽く会釈をして、部屋を出た。
 次いで、十字架の前と木製の長椅子を通り過ぎ、若い男に目もくれず、扉を開けて教会を飛び出した。
 ロストンはひどく失望していた。トラディットでさえ、世界市民革命前の暮らしが今よりも良かったかという単純な質問に、通報を恐れて答えることができない。少しでも政治的に解釈される余地があると口を噤んでしまうのだ。どうでもいいことは話せても、本当に大事なことは話せない。そのように大事なことは語られず、記憶は消えて行き、連合の息のかかった歴史書やドキュメンタリーだけが残っていくのだ。
 彼は不意に立ち止まり、見上げた。教会の前の通りにも防犯用スマートスクリーンがある。
 自分は大きな危険を冒したのかもしれない、と思った。すると先ほどまでの勇気はどこかへ消え、突然、不気味な不安に包まれた。監視の対象になる覚悟をしてまで、すべき行為だったのだろうか? 
 ロストンは敷石の舗道を急ぎ足で歩いた。危険だけあって何も得られないのであれば、早くこの街から離れた方が良いと思った。
 だが道が分からなかった。大通りへと抜ける方角が分からず、曲がりくねった道をしばらく彷徨った。辺りが暗いせいなのか、動転しているせいなのか、方向感覚もおかしくなっている。
 ふと、地図アプリを使えばいいことに気づき、ポケットから携帯スマートスクリーンを取り出した。位置情報を見ると、大通りからむしろ逆の方向に来てしまったようだった。ロストンはため息をつきながら向きを変え、しばらく進んだ。
 そして角を曲がった時、突然、眩しいほどに真っ白な明かりが目に飛び込んできた。
 ショーウィンドウがあり、何かの店のようだった。
 明かりに目を慣らしながら近寄ってみると、それはこの街の古風な雰囲気に似つかわしくない電器店だった。最新の家電が四十平方メートルほどの狭い空間にびっしり並べられている。奥の方を覗くと、一人の男が熱心に何かを磨いていた。店主のように見えるその人はおそらく六十歳くらい。身体は細身で、長く曲がった鼻は、ケチな意地悪おじいさんのような印象を与えた。眼鏡越しに冷たい目が垣間見える。髪は黒々としていたが、眉毛は細くて白かった。おそらく髪の方を黒く染めているのだろう。研究者が着るような白衣をまとい、知的な雰囲気を醸し出していた。
 ロストンは、古い建物が立ち並ぶこの地区に似つかわしくないこの電器店とその店主に興味をそそられた。それに、牧師に話しかけたのは危ない行為だったという気持ちから、体制側が問題視しないような場所にはやく身を置きたい、という衝動もあった。電器店もトラディット地区にあるのは変わりなかったが、他とは違う現代的な雰囲気がある。彼は咄嗟に、まるで周りから身を隠すように店の中へと入っていった。
「いらっしゃいませ」来客に気づいて老店主が口を開いた。そしてその鋭い目が、眼鏡越しにロストンを捉えた。「何かお探しのものがありますか」
「通りがかったもので」ロストンは曖昧に答えた。「ちょっと覗いただけなんです。特に何かを探しているわけでは……」
 老店主はにやっと笑った。
「そうですか。では、はじめてのご来店なので説明が必要ですね」そう言うと彼は軽い咳払いをし、言葉を続けた。「この店では、製品の中に監視機能や情報収集機能が密かに組み込まれていないかをチェックし終えたものだけを店頭に並べております。他で購入されたものを持ってきていただいても、少しのサービス料金で検査いたしますよ」
 それを聞いて、なるほど、とロストンは思った。今時、家電を街の小さな電器店で買うことはあまりない。街の電器店は巨大企業のネット通販に価格面や品揃えにおいて太刀打ちできず、ほぼ全滅している。だからこの電器店は、ネット通販や家電量販店にはない付加価値をつけて勝負をしているのだ。体制の監視に特に警戒心を持つこの地区の人達にとって、市販の家電に監視機能が組み込まれていないかを心配する人は多いだろう。でも家電なしに生活するのは大変だ。そこで、監視機能が組み込まれているかをチェックするサービスに需要が生まれる。この地区ならではの電器店だ、とロストンは思った。
 店内は製品が整頓された感じでびっしりと並んであったが、特に自分の興味をそそる製品は見当たらなかった。生活に必要なものはすでに全部揃えてある。
 だがコーナーを曲がった時、一つ不思議なものが目に入った。スノードームのような形だったが、ガラスの中に、雪ではなく、宇宙と銀河を閉じ込めたようなものだった。暗闇のなかを星屑のように輝くものがゆっくりと回っている。 
「これは何ですか」ロストンが指差した。
 老店主は商品を一瞥した。
「ああ、それは、スペースドームですね。家電というよりは、電気を使ったインテリア商品ですが、検査装置で怪しいところがないか、くまなくチェック済みですよ」
「星がキラキラしながら回っていて、きれいですね」
「私も、何も考えずに見惚れている時があります。精神を安定させる効果があるようです。どうですか、ネット通販で購入される価格にほんのちょっと上乗せするだけで、商品とともに安心も買えますよ」
 そう言うと、老店主はにやっと笑った。
 ロストンは自分のスマートスクリーンをポケットから取り出して、スペースドームの方に向けた。すると瞬時に商品説明とともに価格が出てきた。ネットで買うより、十五パーセントほど高い。ほんのちょっとの上乗せではないと思ったが、検査にかかる時間を考えれば、そしてそれで得られる安心感を考えれば、妥当な線かもしれない。
 ロストンは買うことに決めた。レジに置いてある読取用の端末にスマートスクリーンをかざす。
「お買い上げありがとうございます」店主は満足げにお礼を言い、言葉を続けた。「実は二階にもう一室あるんです。よろしかったら、御覧になってみませんか? といっても、ほんの数点の中古品があるだけですが、ついでに家具も売り出し中です」
 特に断る理由もないので行ってみることにした。
 店主の後ろについて急傾斜の階段を上ると、二階には狭い廊下が伸びていて、その先に部屋があった。老店主がドアを開けると、自動で電気がついた。
 部屋の中は、使い古された、ヴィクトリア風の家具とインテリアで飾られた広い空間だった。床にはベージュとピンクを基調とした絨毯が敷いてあり、その上に伝統的な様式のテーブルや箪笥やベッドなど、家具一式がそろってある。壁際には革装丁の本が並ぶ大きな本棚、そしてその隣には埋め込み式の暖炉さえある。
 ロストンは、そこがお店というより、生活の空間だと思った。よく見ると、古い家具の間に現代の家電がところどころ置いてある。それらがおそらく売り物の中古品のようだった。だが中古品とはいえ、パッケージにも入っておらず、むき出しだった。
「実は以前、母がこの部屋で暮らしていたんです」店主が言った。「ここにある検査済み家電は母が使っていましたが、捨てるのも勿体ないので、格安価格で売り払っています。少し売れましたが、ご覧の通りまだ残っています。実は家具も売ろうとしているのですが、母の趣味であって、私の趣味ではないのでね。お気に入りのものがございましたら、安くお譲りしますよ」
 この古風な部屋には独特の魅力があった。どこか懐かしさを感じさせながらも豪華な雰囲気を醸し出すインテリア。我々の先祖たちはこのような空間で暮らしていたのだろう。窓の方に目をやると、部屋は表通りの反対側に位置しているようで、窓からは隣の建物の壁と窓だけが見える。外からはまったく人目につくことのない部屋だった。
 ロストンはこうしたところでの暮らしをふと思い浮かべてみた。誰からも監視される心配なく、上品な家具に囲まれ、ゆったりと時間が流れる暮らし。
 そしてその時、彼の頭に、この地区の地価を考えるとこの部屋を安く借りられるのではないか、という考えがよぎった。
 それは危険な思いつきだった。この地区に住めば、要注意人物としてタグ付けされるだろう。スマートスクリーンの監視の目が常につきまとうことになるかもしれない。
 結局、注意深く見回しても、そこに置いてある中古品を買う気にはならなかった。だがそれでも、彼は魅力的な部屋から立ち去る気になれず、しばらく店主と立ち話を続けた。
 店主の名はアーリントンというらしかった。六十三歳で、この店一階の奥にある部屋でずっと暮らしてきたらしい。ロストンの質問に、店主は近くの教会のこと、亡くなった母のことなどについて話してくれた。
 一通り話し終わると、二人は階段を下りた。そして別れの挨拶をして、ロストンは徐に店を出た。
 店のドアを押しながら彼は思った。少し経ってからまたここを訪れようと。自分を監視しているかも知れない今までの家電を捨て、この店の家電を揃えるのだ。あの部屋もまたじっくり見たい。
 彼の脳裏に、部屋を安く借りられるのではないかという考えがまた浮かんだ。危険なアイデアだったが、わくわくする気持ちにもなる。期待を膨らませながら、ロストンは閑散とした歩道に出た。
 その時だった。
 彼は心臓が止まった気がした。
 三十メートルぐらい離れたところで、知っている顔が通り過ぎて行ったのだ。
 ほんの一瞬だったが、確かにそれは、フードコートで二度ほど見た、動画サイトで有名なあの女だった。女は彼を一瞥したかと思うと、こわばった顔をして通り過ぎていった。
 数秒間、ロストンは全身が固まって頭が真っ白になった。
 そして疑問が湧いた。あの女はこんなところで何をしているのだろう? トラディットの地区に何か用でもあるのだろうか? 
 彼は、フードコートで彼女が自分のことをじっと見ていたのを思い出した。もしかしたらあの女は連合側の監視役なのだろうか? リベラル・ネットワークの一員なのだろうか? ロストンは立ち尽くしたまま、必死に考えを巡らした。もしかしたら、尾行してここまで来たのかもしれない。自分が突然店から出てきたものだから、隠れる暇がなく、ただ通りすがっていたかのように振る舞ったのかもしれない。いや、きっとそうだ。彼女のような人間が訪れるはずのない場所だ。偶然出くわすはずがないのだ。あの女がリベラル・ネットワークの手先であろうが何であろうが、自分を監視していたことは間違いないだろう。教会に入るところも見られていたに違いない……
 するとふと、女とすれ違ってからまだ一分ほどしか経っておらず、走っていけば追いつけるかもしれない、とロストンは思った。彼女をつかまえて、問い質せばいいではないか。どうしてここにいるのかと。なぜ自分を監視しているのかと。
 しかしあれやこれやと迷ううちに、時間は過ぎて行き、その選択肢も徐々に現実味を失っていった。この地区は細い道が入り組んでいて、自分には土地鑑もない。もう彼女を探し出し、つかまえるのは無理だろう、と思えた。
 それに彼は、突然のどうしようもない倦怠感と無力感にとらわれ始めていた。慣れない地区で長時間極度のストレスを感じたせいか、とにかく家に帰って休みたい気分だった。それが現実逃避なのは自覚していたが、身体も心も疲れてしまい、どうにもならなかった。
 
 クタクタになって帰宅すると、夜の十時を過ぎていた。
 ロストンは台所に入り、エナジードリンクを取り出して飲み干した。すぐに効果は出なかったが、次第に安らかな気分になるはずだった。
 リビングを通り、奥の部屋に入ると、壁一面のスクリーンにイタリアの田園風景が映し出された。そしてゆったりとした音楽が流れ始める。彼は椅子に腰を下ろし、デスク上のスマートスクリーンを立ち上げた。
 部屋はのどかな雰囲気でも、気分は一向に落ち着かなかった。警察がいつ訪れてきてもおかしくない、と思った。ロボットの警察もいて、かれらは二十四時間態勢で動いている。取り調べの必要があれば、真夜中でも早朝でも捕まえにくるだろう。そこが家でも、仕事場でも、海外でも、地球上のどこまでも追いかけてくるだろう。世界中にスマートスクリーンの監視網がある限り、どこに隠れようがすぐに捕まってしまう。
 彼は立ち上げた画面をじっと見つめた。何かを書き込みたいという衝動に駆られた。すると自然とオフィールドのことが頭に浮かんだ。そう、彼のために、彼に宛てて自分は投稿するのだ。
 だがそう思った矢先、オフィールドの顔が消え、それと入れ替わるように警察に手を縛られている自分の姿が浮かんだ。そしてイメージが連鎖するように、刑務所で殴られながら罪の告白を強いられる自分の顔が頭をよぎった。
 ロストンは恐ろしくなった。捕まった後、社会に復帰するためには、罪を告白し、懺悔し、更生の意思を公に宣言しなくてはならない。今までの自分を否定する屈辱に耐えなくてはならない。生きて行くためにはそうするしかないのだ。連合は自由な社会を謳っているが、連合の価値観に合わない言動は許されず、徹底的に虐げられ、排除される。
 彼は再び、意識的にオフィールドの姿を思い浮かべようとした。
「自由なところで会おう」とオフィールドは夢の中で言っていた。
 ロストンはその意味がわかる気がした。自由なところとは、すなわち過去、今は失われたが、いつかまた人類が立ち返るべき太古の楽園、そう、エデンなのだ。
 だが次の瞬間、彼はオフィールドではなく、いつの間にかグレート・マザーの顔を心に浮かべていた。
 ロストンはポケットから硬貨を取り出してみた。
 硬貨に刻まれたグレート・マザーは、相変わらず優しい目でこちらを見つめ、両腕を広げている。だが全てを受け入れるかのようなその虚像の裏で、体制側は我々を異端派として排除している。それがかれらの本性なのだ。
 硬貨を裏返しにすると、例の、体制側のスローガンが刻印されていた。

 多様化は一体化なり
 相対は絶対なり
 寛容は不寛容なり




第二部






 昼休み前の時間帯だった。ロストンは自分のオフィスを離れ、地下3階にある資料室で校閲関係の調べ物をしていた。
 デスクに座って資料を読んでいると、本棚と本棚の間から近づいてくる人影を感じ、そちらを向いた。
 あのブロンドの女だった。電器店の前で見かけてから二日が経っていた。
 女はロストンの前を通りながら、無言で紙切れをデスクの上に置き、足早に去って行った。一瞬見えた彼女の顔は蒼白で、その目は何かに怯えているようだった。それはほんの一瞬の出来事で、紙切れの存在がなければ、彼女がただ目の前を通っただけのことにしか見えなかっただろう。だが紙切れは確かにそこにあった。
 ロストンは瞬時に不安な思いに囚われた。あの女はなぜ怯えた目をしていたのだろう。あの女の方こそ、自分を通報するために尾行していたのではなかったのか? 怖いのはむしろこっちの方なのだ。
 彼は息を殺しておそるおそる紙切れを手に取った。何かが書かれてあるに違いない。ここで開いていいのだろうか。
 周囲を見渡してみると、誰もいなかった。
 何が書かれているにせよ、それは何らかの重要なメッセージを含んでいるに違いない、とロストンは思った。でなければ、わざわざ書いて渡す必要などなく、口頭で伝えればいいのだ。
 とっさに頭に浮かんだ一つの可能性は、やはりあの女がリベラル・ネットワークの人間だという可能性。だがそれだと、なぜ紙切れで伝える必要があるのか分からない。
 そこで彼の頭にはもう一つの可能性、いや、突飛な妄想というべきかもしれない考えがよぎった。それは、メッセージがむしろ反体制派の組織からのものだという可能性。もしかしたらあの女はSS同盟の一員かもしれない……
 彼は息を飲んで、紙切れをそっと開いてみた。

 わたしにつきまとわないで

 紙には殴り書きでそう書いてあった。
 数秒間、彼は頭が真っ白になって、身体が固まってしまった。目を疑って何度も読み返した。その言葉が本当にそこにあるのが信じられなかったからだ。だが確かにそう書いてある。
 いや、つきまとっているのはそっちの方ではないか! 
 彼は心の中で叫んだ。こっちがストーカーみたいにフードコートやトラディット地区、そしてこの資料室にまで、あの女を付いて回ったというのか! 濡れ衣もいいところだ! あの女は勘違いしているのだろうか? それともあれはやはりリベラル・ネットワークの人間で、トラディットに共感する自分を貶めようとしているのか? ストーカーだと警察に通報して自分を抹殺するつもりなのか?
 彼は心が激しく動揺し、目眩さえした。もうすぐで昼休みの時間だったが、フードコートに行く気にはなれなかった。あの女がいるかもしれないのだ。
 彼はよろよろとしながら資料室を出て、パンで済ませようと、違う階のグローサリーストアに入った。すると、サム・ドーソンがレジの列に並んでいた。少し立ち話をしたが、話がまったく頭に入って来ない。それからロストンは、人の行き来があまりないベンチに一人で向かい、買ったパンを口にした。しかし何の味かも気づかずに食べ終わった。
 昼休みが過ぎ、午後になっても気分は落ち着かなかった。校閲の仕事があったが、その日は作業量が多くなかったので、仕事に没頭して嫌なことを忘れるという逃げ道もなかった。紙切れに書かれていた言葉と怯えていた女の顔が繰り返し浮かんできては彼の心を掻き乱した。
 そうしている内に勤務時間がやっと終わったが、普段は行かない自分の居住区のボランティア活動にでも参加しようかと思うくらい、一人でいることに耐えられない気分だった。ストーカーや危険思想犯として訴えられる不安が頭を離れず、一人でいるとひどく落ち込んでしまいそうだった。
 帰り道、彼は気を紛らわすため、家の近くの区民のための総合施設に立ち寄った。
 ある部屋では何かの討論が行われていて、体育館では若者たちがバスケットボールをしていた。ある大部屋では”囲碁とアメプル″と題された講演会が開かれている。特に興味はなかったが、そこの席に座ってみた。内容はまったく頭に入って来ず、聞いているふりをしながらあの女のことを考えていた。
 帰宅すると、静けさの中でやはり紙切れのことが浮かんで心を苦しめた。彼はスマートスクリーンをオンにして、煩い音楽を流した。
 具体的な解決策が必要だった。どうやってあの女を避け、偶然にも会わずに済むのか。それともむしろ会いに行って、誤解だと訴えるべきなのだろうか。もしかしたらあの女はわざと濡れ衣を着せようというわけではないかもしれない。確かに、紙切れを置いた時の顔は本当に怯えている人の顔だった。ならば、ちゃんと説明して誤解を解く方が良い。しかし、こっちをストーカーだと思っている女に近づけば、それだけで悲鳴をあげるかも知れない。人前でそうなると、何も疾しいことがなくても一大事になってしまう……
 ロストンはどうすべきかと、必死に考えを巡らした。
 同じ建物の中で仕事をしている限り、どうしても遭遇してしまう可能性はある。もしそこが人影のないところだったら、あの女はパニックを起こし、助けを求めて叫び出すかもしれない。だったら、そうなる前に女のいる文芸編集部に行って直接話した方が良いかもしれない。だが普段行くこともない文芸編集部に自分が現れたら、それだけで余計に目立ってしまう。そこの人達があの女に何事かと尋ね、たちまち根も葉もない噂が広がるかもしれない。会社を出るところを待ち伏せして話しかけたらどうか? いや、待ち伏せしていたというその行為もストーカーのように見えてしまうし、大勢の人が行き交う所で叫ばれでもしたら、警察が来てしまう……
 考えれば考えるほど解決策がないように思えた。
 彼は自分に言い聞かせた。とにかく人影のないところで彼女とばったり遭遇することがないように細心の注意を払うしかない。あの女はここの社員ではないので、文芸編集部とのプロジェクトが終われば自然といなくなるだろう。それまでの辛抱だ、と。
 だがそう心に決めてからも、ロストンはずっと不安の日々を過ごした。
 彼はフードコートに行きたくなかったが、お昼は同僚たちとそこに行くのがお決まりだったし、一日ぐらいならまだしも、毎日断るのも難しかった。それでフードコートに行くと、時々あの女がいるのだった。その度に彼は、目が合わないように背を向けて座るようにした。そこだけでなく、社内ではどこでも、女が急に自分を指差して叫び出したりはしないかと、いつも気が気ではなかった。だが家にいる時でさえ、女のことが脳裏から離れるわけではなかった。自分がこうしている間にあの女は警察に自分を通報しているかもしれない。そう思うと眠りも浅くなり、寝付けなかった。
 ところが、紙切れを渡されてから二週ほど経った頃、ロストンは数日の間、彼女を見かけなくなったのに気づいた。
 もしかしたら文芸編集部とのプロジェクトが終わったのかもしれない、と思った。まだ警戒心を全部解いたわけではなかったが、彼は今までの息苦しさが少し和らぐのを感じ、ほっとした。
 だがそれは淡い期待だった。女は再びフードコートに現れたのだった。
 その日は悪天候で、外に出かけず社内で昼食を済ませようとする人が増えたせいか、いつもよりだいぶ混んでいた。
 女は他の女性三人と来ていて、四人分の空いているテーブルを探している様子だった。だが見つけられず、別々に座ることにしたらしい。それぞれ離れた席に向かっていた。
 ロストンも校閲部の二人の同僚と来ていたが、まとまった空席がなかったので、各自空いたところに座ることにした。同僚たちはさっさと空席に向かって行ったが、出遅れたロストンはいくら辺りを見渡しても空席を見つけることができなかった。
 たった一箇所、あの女の座っている二人用のテーブルを除いて。
 誰かが彼女の前に座っていたが、食べ終わって席を立ったところだった。ロストンは一瞬どうすべきか迷った。ある意味、話しかけて誤解を解く絶好のチャンスかもしれない、という考えが頭をよぎった。
 その時、視線の先に校閲部のグリフィスが見えた。相変わらず髪を七三分けにしている。もし自分の姿を見かけたら話しかけてくるかもしれなかった。話しかけてきたら、彼をおいて自分だけこの席に座るわけにもいかなくなる…… だがもう怯えた日々を送るのはごめんだった。あの女が紙切れを置いてから半月が経つ。もうこれ以上は耐えられない。
 ロストンは勇気を振り絞り、女のいるテーブルに近づいた。そして椅子をひっぱり、そこに腰かけた。
 メニューを見ていた女が顔を上げた。そして目の前に座ったのがロストンであることが分かると、瞬時に顔を引き攣らせ、目を大きく見開いた。
 大声で叫び出す前に説明しなければならない。
 ロストンは慌てて、大急ぎで口を動かした。
「あの、つきまとっているというのは、誤解なんです。よく遭遇しますが、あの……」
 急に話しかけたため、口がうまく動かなかった。
 女は驚いた顔のままで直視している。早く次の言葉を探さなければならない。彼は必死に言葉を足した。
「あの、あなたと目が合ったり、遭遇したりしますが、すべて、全部、偶然なんです。つきまとっていません。誤解なんです」
 女は疑いの目を向けながら徐に口を開いた。
「でも……トラディットの地区にいたのも偶然だって言うの?」
「ええ、そうです。たまたまそこにいたのです」
 信じられない、といった表情を浮かべ、女は切り返した。
「トラディットじゃないかぎり、普通そんなところ行かないでしょ」
「確かにそうですが……」
 彼はどう返事すべきか迷った。あの地区に自分がいたもっともらしい理由、つまり自分がトラディットに親近感をもっていることを告白すれば、異端派であることがバレてしまう。噂が広まれば、会社を辞めざるをえなくなるかもしれない。しかしもっともらしい理由を言わなければ、信じてもらえない。彼は何も思い浮かばず、あやふやに答えた。
「ちょっとした用事があったのです」
 女は相変わらず信じられないといった表情をした。
「古いものしかないあの地区に何の用事が?」
「ええ……」
 何か適当にそれらしい用事をでっち上げればよかったが、とっさには何も浮かばない。だが彼はふと、嘘ではないが、異端であることもバレないような言い訳を思いついた。
「私はトラディットたちがどのような暮らしをしているのか興味があります。暮らしの様子を観察するためにあそこにいたのです」
 その答えに女は、今度は不思議そうな表情を浮かべた。
「なぜそんなことに興味があるんですか? あの人たちの生き方に共感しているんですか? それとも、観察というより、本当は監視でしょ? リベラル・ネットワークの人ですよね?」
 ロストンは口籠ってしまった。好きじゃない人たちの暮らしに興味を持つのも不自然な話なので、共感していると答えれば女も納得がいくだろう。だがそうすると自分の異端性が知られてしまう。しかし共感していないと答えるのも憚れた。共感していないのに観察しに行くというのは、女が言うように、トラディットを監視するリベラル・ネットワーク側の人間のように見えてしまう。
 でも、よりによって自分がリベラル・ネットワークの人だと?
 彼は苛立ちをおぼえた。自分は人を貶めようと監視したり、付け回したり、通報したりする人間なんかじゃない。そんな権力の犬ではないんだ!
「いや、共感しているんです。リベラル・ネットワークなんかじゃありませんよ!」
 一瞬カッとなって答えた直後、ロストンは自分の口が滑ってしまったことに気づいた。
 女を見ると、驚いた表情をしている。
 とんでもない失言をしてしまった、と彼は思った。噂が広まればもうおしまいだ。会社にいられなくなる。ロストンは慌てて、付け足すべき言葉を必死に探した。そしてふと、反撃の一手を思いついた。
「そういうあなたは、なぜあんなところにいたのでしょうか? あなたこそ、トラディットたちとつながりがあるのでは?」
 驚いた表情で彼を直視していた女の目が、下の方を向いた。そしてテーブルをしばらく無言で見続けた後、口を開いた。
「今日の退社時間は?」
 なぜそんなことを訊くのか分からなかった。
「18時ですが、どうして?」
「退社したらピース広場に来てください。理由はあとで教えます。私はサングラスとマスクをかけているから、見つけたら付いてきてください。でも近寄り過ぎないで」
 話がよくのみ込めなかったが、ロストンは首を縦に振った。彼女は若い女性たちの間では有名だから、外では顔を隠しているのだろう。少し離れてついて来るようにというのも、パパラッチに写真を撮られて男と密会しているなどと嘘の記事を書かれないように注意しているのかもしれない。
 だが一体どこに自分を連れていくつもりなのだろうか。彼は不安になった。もしやあの女はまだ自分をストーカーだと疑っていて、外におびき寄せてから警察に引き渡そうという魂胆ではないだろうか。それとも……
 ロストンが次の言葉を探っていると、女は料理も注文せず、無言で立ち上がり、その場を去っていった。
 その後ろ姿を見ながら、彼はハッと気づいた。
 ここは大勢の人が行き交うフードコートだった。彼女は有名人だから、二人の様子を見ていた人は多いだろう。切迫した表情で話しているのをみて、何事かと不審に思ったはずだ。実際、何人かが自分の方を見ていた。
 馬鹿なことをしてしまったのかもしれない。
 ロストンはそう思いながら、何事もないように平然を装い、メニュー表に手を伸ばした。
 
 午後6時、いつもより長く感じた午後の勤務を終え、ロストンはピース広場へと向かっていた。
 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、かなり多くの人が行き交っている。この広場は、前は違う名称だったが、諸国間で平和条約が締結されたのを祝って、ピース広場と改名されていた。
 女はまだいなかった。代わりに、警察服の人が何人かいた。
 またしても不安がロストンを襲った。あの女は来ないのではないか。それどころか、女の通報を受けた警察が自分を捕まえに来たのではないか……
 しかし警察は近づいてくることもなく、誰かを探している様子でもなかった。ロストンは警戒しながら周りをうろついた。
 しばらくすると、女の姿が目に入った。
 サングラスとマスクをしていて顔が見えなかったが、髪型、服装、背丈からしてあの女に違いなかった。彼女はこっちを見て、頷く仕草をした。付いてこいという合図のようだ。どこに行くのだろう、と思いながらロストンはゆっくり歩き始めた。
 だがその時、思いがけないことが起きた。
 広場は普段は車が入れない空間だったが、広場とつながっている大通りから、大型トラックと大きめのワゴン車が入ってきたのだ。
 何事かと人々が注目する中、大型トラックの荷台部分が開いた。すると一瞬の沈黙の後、広場の各所から突然悲鳴のような歓声が聞こえ、大勢の人間がトラックに向かって走り出した。荷台は即席ステージになっていて、その上に派手な服を着たアジア人の男が立っていた。
 どうやらゲリラライブが始まるようだった。ロストンは最近の歌手に疎かったが、歓声の大きさからして、有名な人のようだった。
 広場の端っこや外側からも群衆が押し寄せはじめ、人をよけながら前に進むのが難しくなった。前方を見ると、女も人波に飲み込まれそうになっている。離れたところから付いてこいと言われてはいたが、連絡先も知らないので、ここで見失うと面倒なことになる。ロストンは人混みを掻き分けながら必死に女の方へと進んで行った。
 ほどなくして手を伸ばせば届くくらいにまで近づいたが、人の壁に阻まれた。圧迫してくる人達に息が詰まりそうになりながら、なんとかそれを突破して、女の隣に立った。だがそこから身動きが取れなかった。他の人達が顔を向けている方へ振り向いてみると、トラックの周りには警備の人達が立っていて、押し寄せる観衆がステージに登らないように目を光らせている。すると軽快な音楽が始まり、アジア人の歌手が踊り始めた。
 その時、人混みに押されて、女の肩がロストンの胸にぶつかった。大音量で音楽が流れる中、彼女はマスクをした口を彼の耳に近づけ、話しかけてきた。だが音楽と歓声にかき消され、辛うじて聞こえるほどだった。
「前に見える黄色い店の、あの通りの方に来て」
 先を眺めると、広場の端っこに黄色く塗られた店があり、その店の横に細い道があった。
 女はその方角に向かって、人混みを必死に掻き分けながら進んでいった。間を置いて付いていく必要があったので、ロストンはしばらくその場に立ち尽くした。
 周りを見渡すと、人々はステージに見惚れている。はじめは驚きの歓声だったのが、ほどなくして熱狂に変わっていた。
 数十年前はこの国でアジア人の歌手が人気者になるのは珍しかったが、今では普通のこと。アメリカ育ちのアジア系アメリカ人ならまだしも、アジアで生まれ育った人ですらここで活躍している。アフリカやアラブ出身の歌手や俳優も多かった。大抵、かれらは拙い英語しかしゃべれなかったが、その芸能活動と贅沢な日常がソーシャル・ネットワークを通じて随時発信され、人気を博していた。誰もが異国のスターたちを良く知っていて、それが視聴率やサイトの訪問者数を上げ、かれらの懐を潤していた。アメリカ国籍でもないのに、かれらはアメリカの庶民たちを見下ろす丘の上に豪邸を建てている。
 ステージの上でもアジア人歌手は観衆を見下ろしながら歌っていた。
 そして女性の観客たちは、驚きと喜びの宿った目を輝かせ、ため息の混じった大きな歓声をあげていた。






 ロストンは薄暗い照明と影が交錯するトラディット地区の路地裏を進んでいた。左手に並ぶ家々の下には、無造作に生えた雑草がしなだれている。十月末の肌寒い空気が漂い、どこか離れたところから夫婦喧嘩の声が聞こえた。
 彼は黙ったまま女の後ろを付いて歩いていた。もう三十分以上歩いている。
 どこへ行くのか不安だったし、この地区を再び訪れるのも安全な行為ではなかった。スマートスクリーンが一定間隔で設置されていて、こちらの行動と声を常に記録しているはずだった。巡回する警察に職務質問される可能性もある。夜道を歩いただけで捕まるはずはなかったが、この地区では警察にさえ何をされるかわからない。危険思想犯を炙り出そうと厄介な質問をし、言いがかりをつけて思想犯に仕立てあげようとするかもしれない。
 ロストンは疑問に思った。あの女も、トラディット地区に来ていることがマスコミに取り上げられでもしたら、世間に疑いの目で見られ、イメージに傷がつくはずだが……
 ロストンは警察が尾行していないかを確かめようと何度も振り返りながら歩いた。時々見えるトラディットたちが、薄暗闇のなかで幽霊のように見える。
 気が付くと、いつの間にか道幅が狭まっていた。
 そこからまたしばらく歩き、広いところに出ると、あっちこっちにスクラップの山が見えた。リサイクルのために集められたスクラップ集積場のようだった。
 なぜこんなところに来るのだろうとロストンは不安に思った。
 彼女と距離を保ちながら集積場の中へ入って行くと、左右が鉄屑だらけになった。足元にはゴミが散乱していて、注意深く避けないと靴が汚れてしまう。臭いもひどい。だが月明かりしかないため薄暗く、うまく避けられなかった。
 ロストンはゴミを拾って女に投げつけたい気分だった。こんなところに誘き寄せて何をするつもりなのか。
 その時、女が振り返った。サングラスを外していた。緊張した目でこちらを見つめる。ちゃんと付いてきているのか確認したかったようだ。
 女は再び前を向いてスクラップの山の合間をどんどん進んで行った。ここが彼女にとって初めての場所でないことは明らかだった。早い足取りで迷路のようなスクラップの山々を左右に曲がりながら進んだ。
 不安を覚えながらその後ろ姿を眺めていたロストンは、あることに気づいた。
 女の服装は社内で見たのとは違って、肌の露出がないものだった。肌寒いからか、全身をすっぽりと覆う、黒いコートを着ている。
 彼は妙な気分になった。その姿になんだか親近感を覚えた。同時に、錆びついた鉄屑に囲まれた薄暗闇が、自分の中に危ない衝動を芽生えさせるのを感じた。
 その時だった。突然目の前に、土地の開けた空間が現れた。
 見渡すと、草しか生えていない廃墟に、ぼろくて汚らしい掘っ建て小屋がぽつんと立っている。電気も点いていない。トラディットの中でも最極貧層の住むような家だ。
 女が立ち止まって振り返った。そして手招きをした。
 言われた通り、そちらに向って歩いた。
 そして小声が届く距離になった時、「着いたわ」と女は言った。
「着いた?」意味が分からず、ロストンが訊き返した。
「私の実家よ」
 予想もしなかった言葉にロストンは驚いて目を見開いた。
「そんなに驚く? 私はここで生まれ育ったの」
 その言葉に彼はもっと驚いた。彼女の外見からは想像もできないことだった。
 社内で見る彼女は裕福に見えたし、いつもトラディットの価値観とは相容れないような派手な服装だった。動画サイトのファンたちもきっと、彼女をトラディットとは程遠い最先端な女性の象徴として見ているはずだった。
「この辺はスマートスクリーンがないから、思ったことを自由に話していいわよ」
 ロストンは何を自由に話していいのか分からなかったが、最初に思い浮かぶ疑問をぶつけた。
「どうしてここへ?」
 彼女は言葉を選ぶかのように黙り、少し経ってから答えた。
「あなたはトラディットに共感しているって言ったでしょ。そして私がトラディットとどういう関係なのか訊いてきた。これが答えよ」
 そう言うと、少し照れたような表情をした。
「あの日、この地区であなたとすれ違った時、私を尾行していると思ったわ。フードコートで私の方を見ていたから顔に見覚えがあった。ストーカーなのか、トラディット地区にいる私の写真や動画を撮ってどこかに売ろうとしているのか、目的は分からなかったけど。でもあなたの話を聞いて、そうじゃないと分かった」
 ロストンは彼女の方が自分を尾行していると思っていたが、彼女は逆のことを思っていたようだ。
 いずれにせよ誤解が解けて良かった、と彼は思った。これでストーカーの濡れ衣を着せられて警察に捕まる心配はなくなった。だがすぐに他の疑問が湧いてきた。
「でもそれを伝えるために何故わざわざここまで来る必要が?」
 彼女はにこっとして、答えた。
「そうね、会社の周りだと、どこにいたってスマートスクリーンがあるから、誰かに盗聴されているかもしれないでしょ。メディア会社だから記者とかも多いし。それに、見せたくなったの。この地区の外の世界で、つまり正統派たちに囲まれた社会生活の中でトラディットに共感する人に会うことはないわ。私と同じように、外では正統派のように振る舞っていて、でも本当はトラディット側の人間……あなたの出身は知らないけど、少なくてもトラディットに共感してくれている。リベラル・ネットワークなんかじゃないって怒っていたし。そんな人に会ったことがないから、なんだか嬉しくて、自分の素性を見せたくなったの」
 状況がようやく理解できた。そしてロストンも、つい先ほどまで憎しみの対象であった彼女に少し親近感を覚え始めていた。
 だが、それでもやはり納得しきれないところがあった。
「出身はトラディットかもしれないけど、君自身はどうなんだ? はだけた服を着たりするから、親はトラディットだけど自身は連合側に立っているんじゃないのか?」
「ファッションは好きだけど、露出の多い服を着るのは、生きていくためにやっているだけ。生きるためには稼がないといけないし、稼ぐためには多数派の価値観に合わせないと。あそこのボロ家は親と妹と弟が住んでいたけど、引っ越したの。私が新しい家を買ってあげたのよ」
 彼女は誇らしげな表情をした。
 自分と同じだ、とロストンは思った。自分も生活のために自分の価値観を押し殺して働いている。連合側のメディアなんかで本当は働きたくなかった。他に道があれば辞めたかった。だが生活していくにはお金が必要だ。それに、自分も彼女と同じく、会社のように正統派しかいないような空間で非正統派の人と出会ったことがなかった。オフィールドがいたが、まだ話し合ったことはない。
 そこに考えが至ると、ロストンもなんだか嬉しくなった。
「今まで僕は君のことを誤解していた」
「私もそう。ごめんね」
「そういえば名前を言ってなかった。僕はロストン」
「ロストン・リバーズでしょ。尾行していると疑っていた時に調べたわ。私はジェーン」
 その時に彼は、自分がいつも彼女のことを”あの女″と心の中で呼んでいたことに気づいた。名前がジェーンであることは調べて知ってはいたが、敵に名前など要らなかった。
 特に行き先はなかったが、二人は話を続けようと、掘っ建て小屋の立っている空き地を後にして鉄屑の合間へと引き返した。
 二人は歩きながら、お互いの肩が触れるか触れないかの距離で話し合った。足元のゴミをよけながら歩いていると、お互いの肩に軽くぶつかることもあった。秘密を打ち明かして心を開いたからか、ジェーンは話し方が気さくで、愛想が良く、親しみを持ちやすい性格に思えた。さっきまで敵だと思っていた彼女が、まるで昔からの友人のようだった。
「ねえ、あの紙切れを読んだ時に私のことをどう思った?」
 彼女が申し訳なさそうな表情で訊いた。
「冗談じゃない、つきまとっているのはそっちだろ、って心の中で叫んだよ。警察に通報するんじゃないかってヒヤヒヤした。君がリベラル・ネットワークの一員だろうと思った」
 彼女は自分の偽装の巧みさを褒めてもらったと受け取ったのか、嬉しそうに笑った。
「リベラル・ネットワークだなんて! 本当にそう見えた?」
「そうだな、君の普段の活動や服装からして、きっとそうだろうと思った」
「私のことを立派な体制側の人間って思ったわけね。でもあなたが本当にストーカーだったら、通報してたわ」
「誤解が解けてよかった」
 彼女は何かを思い出したように、突然立ち止まって自分のバッグの中を覗いた。そして透明な袋に包まれた四等分にスライスされた黒いパンを取り出すと、一枚を袋から出してロストンに渡した。
「お腹空いてるでしょ? ライ麦パンよ」
 彼は一瞥しただけでそれが普通のものと違うと分かった。市販のものはもう少し明るい茶色で、柔らかい。ところが渡されたそれは、もっと黒くて、表面が非常に硬かった。
「これは売り物?」
「この地区の小さなパン屋さんのものよ。家庭の味がするから、私はこれが好きなの」
 ロストンはもらった一枚をちぎって口に入れてみた。強い酸味がする。とても懐かしい味だった。
「どう?」
「うん、美味しい。なんか懐かしい味がする」
 いや、懐かしいというのは正しい表現ではないかもしれない。昔よく食べていた味ではあったが、当時の不安や寂しさなど、複雑な感情を呼び起こすような味と匂いだった。でも今それを考えるのは止めよう……
 ロストンは気を取り直して言った。
「ところで僕は四十歳だけど、君は? 世代が違うというか、ずっと下だよね」
「二十八歳。でもわたしたちはきっと親友になれると思う。価値観を共有しているし、共通の敵がいるからね」
 共通の敵というのは世界市民連合のことだった。ジェーンは会話のなかでしばしば連合への批判を挟んだ。ロストンは、スマートスクリーンが声を拾ったら大変だと少し不安になったが、この場所をよく知る彼女が気にしていないので、おそらく大丈夫だろうと思った。確かにこの辺りはスクラップだらけの機械の墓場で、舗装された道路も照明もなく、スマートスクリーンらしきものは見当たらない。誰も気にも留めないような街の辺境だった。
 だがそこで彼は、この廃れた環境と不釣り合いな彼女の上品さを、ふと疑問に思った。
 彼女の言葉遣いや仕草を見ていると、極貧の環境で育ったとは到底思えなかったし、今どきの若者の言葉遣いや仕草とはどこか違っていた。彼女は世界市民連合について何かを言うとき、批判的な強い口調ではあったが、汚い言葉を使ったり、言葉遣いが荒くなったりするわけではなかった。
 その、気さくな話し方の中に感じられる上品さのようなものが、もしかしたら彼女が女性たちの憧れの的になっている要因なのかもしれない、とロストンは思った。彼女がどこでその上品さを身につけたのかは分からなかったが、それが彼女の大きな魅力であり、力だった。
 歩きながら話していると、ほどなくして二人は掘っ建て小屋と反対側にあるスクラップ集積場の端まで来た。入ってきた時とは別のところだった。
「ここまでが安全な場所。ここを曲がると、外からも見える空き地になっているから、警察やスマートスクリーンが通り過ぎていないか確認しないといけないの。出てからそのまままっすぐ行くと、十分ぐらいして駅が出てくるわ」
 二人が今いるのはスクラップ山の陰だった。差し込む照明もなく、月明かりで周りが仄かに見えるだけ。明かりにうっすらと浮かぶ彼女の顔が美しかった。
 視界の開けた空間を少し覗いてみると、空き地があった。そこには外の人工的な照明が射し込み、何もない空間を白く照らしている。
 するとロストンは、啓示を受けたような奇妙な感覚に襲われた。どこか見覚えのある光景だった。そしてどこからか、人工的な轟音が聞こえてきた。少しずつ大きくなっていく。
「この近くに工場があるのかな?」ロストンが言った。
「うん、鉄屑を溶かすための電気炉があるわ。大きい爆発音と炎と火花が出るの。鉄が真っ赤に溶けるのよ」
「地獄か……」彼は眩いた。
「地獄?」
「ごめん、ここで育った人の前で言うことじゃなかったね。でも、ときどき夢で見る風景と似ているんだ。僕はそこを地獄と呼んでいる」
「気を付けて!」
 突然、大きなカラスが二人の頭上を掠めた。
 そしてそれは、スクラップの山の上にとまり、月明かりに向かって目を光らせた。すると今度は頭を下げて二人の方を向き、カーカーと鳴き始めるのだった。夜の静けさの中、それはとても大きい鳴き声に聞こえた。
 驚いた二人は思わず腕を組んでいた。
 彼はそのことに気づいて、少しの興奮を覚えたが、それを抑えて自分の意識をなんとかカラスに向けようとした。
 あのカラスは何のために鳴いているのだろう? 食べ物もない、殺伐としたスクラップの山にとまり、暗闇に向かって鳴くのはなぜか? 
 もしや、カラスの目にスマートスクリーンが内蔵されているのではないか、という考えが頭をよぎった。カラスの鳴き声は、撮った映像を発信したり警察を呼んだりするためのシグナルではないだろうか? 
 だが、カラスが鳴き止んでからくちばしでスクラップを突っつくのを見て、それは他愛ない妄想にすぎないように思えてきた。そしてカラスについて考えるのを止めると、また腕の感触の方に意識が向いた。
 コートに阻まれてはいたが、彼女の腕と胸の温もりがかすかに感じられた。顔をちらっと覗くと、彼女は少し怯えた表情をしている。
 抱きしめたい、とロストンは思った。
 でも彼女を女性として意識していいものか。それは大それたことではないか。自分から抱きしめたら、襲われたと訴えられないだろうか……
 だが彼の身体は勝手に動き、気がつくとその腕は彼女を抱きしめていた。
 彼自身も自分の暴走にびっくりしたが、彼女も肩をびくっとした後、凍ったように固まった。
 怖がらせてしまった、とロストンは焦った。衝動的に軽率なことをしてしまった。
 慌てて身体を離すと、彼女が我慢していた息をハッとはいた。
「ごめん、つい……」ロストンが謝った。
 ジェーンは首を振りながら答えた。「ううん……ちょっと驚いたけど」
 そう言うと彼女は、少し間を置いた後、意外な言葉を付け加えた。
「空き家の方に戻りましょう。あっちの方が人に気付かれずに話せるわ」
 ロストンは無言で頷いた。
 そして二人はゆっくりと掘っ建て小屋の方へと引き返した。
 歩く間、二人は無言のままだった。緊張した沈黙の中でゴミや鉄屑を踏む音だけが鳴り響いていた。
 しばらくして小屋の前に着くと、彼女は「どうぞ」と言って、雑草に囲まれたかつての実家の中に入って行った。
 中は暗かった。窓から月明りが射し込むだけ。もう誰も住んでいないので電気がつかないようだった。彼女は玄関の棚を開けて何かを取り出した。ロウソクとライターだった。
 火をつけて、部屋を見渡しながら歩くと、そこには生活の痕跡がまだ残っていた。古くて脆そうな椅子やテーブル、そしてベッド。少し寒くて、変な臭いがしたが、耐えられないほどではなかった。
 彼女はテーブルの椅子をロストンにすすめ、自分も向かい側の椅子に座った。
 座るとまた沈黙が続いた。抱きしめた時の興奮はすでにどこかに消え、気まずい空気が流れていた。彼女の顔も緊張しているように見える。
「さっきは軽率だったかもしれない。ごめん」ロストンが口を開いた。「でも怖くないのかい? 二人っきりで家の中にいたら、また僕が変なことを……」
 こわばっていた彼女の表情が少し和らいだ。
「大丈夫よ。今日話してみて分かったわ。あなたは襲ったりする人じゃないでしょ?」
 そう言うと、にこっと笑い、付け加えた。「それとも、未経験の女に手を出して責任とる度胸がある?」
 その言葉にロストンは驚いた。
「経験が」一瞬、不適切な質問かもしれないと思って口籠ったが、言い出したのは彼女だと思い、言葉を続けた。「……ない?」
「そうよ。結婚する前はしないって決めてる」 
「好きな人でも?」
「ええ、たとえどんな人でも」
「それだと別れると言われても?」
「ええ、道徳観がしっかりしている人じゃないとお付き合いしない」
 彼女は処女だった。
 ロウソクの明かりに照らされたジェーンは、肌を全て覆い隠す黒いコートを着ていて、その首元からはコートの中の黒いセーターが垣間見えた。まるで脱げないように何重にも重ねられた鎧のようだった。
 彼は思った。その鎧の服には、現代の淫らな風潮と価値観をあざ笑う、堂々たる気高さが宿っている。その真っ黒な服の上で光る彼女の白い顔からは、神々しささえ感じられた。
 ロストンは胸が躍った。心が希望で満ちていく気がした。
 誰も気づいていないのだろうか? 世界市民連合は、自由の名のもとに淫らな価値観をばらまき、この世界を穢れたものにしている。自由の神聖化は、淫らな欲望を隠すためのごまかしだ。
 彼は興奮を抑え切れず、胸の内を明かした。
「結婚するまで純潔を守るのは素晴らしいことだと思う。僕は君の考えを尊重するし、君のことが好きだ」
 ロストンは、今度は自分の腕ではなく、口が暴走しているのに気づいた。思ったことをそのまま口に出していた。
 彼女は突然の告白にまた驚いたらしく、目を見開いた。
 だが彼は興奮して言葉が止まらなかった。
「淫らな風潮には嫌悪感すら覚えるんだ。悪徳は一掃すべきだ。君は今の風潮をどう思う? 恥じらいもなく、むき出しの性欲を自由の名で肯定する今の風潮を?」
 彼女は静かに呟いた。「うん……私も好きじゃない」
 それは何にもまして彼の聞きたかった言葉だった。そう、動物的な本能、むき出しの欲望ではなく、性欲を超越した深い愛情こそが世界市民連合を粉砕する力だ!
 ロストンはテーブル越しの彼女をじっと眺めた。彼女も少し恥ずかしそうに見つめ返している。
 ロストンは身を乗り出して彼女に軽いキスをした。彼の中で、それは性的な含みを持った行為ではなく、純粋な好意の証だった。
 彼女はまた驚いた表情をした。そして少し経って、今度は笑った。
 二人の距離がさらに縮まる瞬間だった。
 それから二人は、時間が過ぎるのを忘れて色々なことについて話し合った。お互いの生い立ち、連合、リベラル・ネットワーク、好きな料理、趣味など。
 そして夜遅くなっていたのに気づき、ロウソクの火を消して、掘っ立て小屋を出た。
 外は、仄かな月明かりが差していた。
 歩きながらロストンは彼女の横顔を見つめた。豊かなブロンドの髪が柔らかく波打っている。きりっとした端正な顔のライン、透けるような白い肌、エメラルドの瞳。
 彼は顔を前に向き直し、考えた。彼女は尊敬の対象であって、性的な対象ではない。昔は男女がお互いに惹かれ合っても、永遠の愛を誓って結婚するまで純潔のままでいた。ところが今では欲望赴くままに性行為が行われる。どんな感情も、すべてが情欲と混じり合って不潔になっている……
 彼は心の中で叫んだ。惹かれあう二人が一線を越えないのは精神の勝利だ。それは世界市民連合に対する崇高なる抵抗であり、不服従なのだ、と。






 先ほどまで和らいでいたジェーンの表情に再び緊張感が漂っていた。彼女は二人の帰り道をどうすべきか説明した。有名人なだけあって、週刊誌記者や一般人の目撃者を避けるためのノウハウを持っているようだった。特にこの地区とその周辺の道については、ここで生まれ育っているので正確な土地鑑があった。
「お互い距離を置いて歩くだけじゃなくて、来た時と同じ道を通らないのが大事なの」と彼女は言うと、すぐに飲み込めない彼のために丁寧に付け加えた。「来た時に目撃されてネットで発信された場合、帰る時に誰かがそこで待ち伏せしているかもしれないから」
 ジェーンが先に出発し、ロストンは十分ほど時間をおいて別のルートで帰ることにした。彼女は別れの言葉を言うと、早足でどんどん遠くの方へと消えて行った。
 そういえば彼女の住所を知らない、とロストンは消えていく後ろ姿を眺めながら思った。
 
 二人はその後しばらく、じっくり会う機会をもうけられなかった。
 空き家でまた話す時間を持てたのは、あの日から翌月の十一月にかけて、結局一度だけだった。よい隠れ場所ではあったが、たどり着くまでの距離が長くて人目につく危険性があったし、もし誰かに尾行されたら逃げ場がなかった。
 そのため二人は、街中で距離をおいて他人のふりをしながら歩くという方法をとることにした。お互いに遠く離れたところを歩きながら電話で会話をし、たまに遠くから目を合わせたりする。二人はそれを”遠距離デート″と呼んだ。
 そんな二人が再びキスを交わしたのは、十二月に入ってからのことだった。
 人影のない坂道を降りていると、突然頭上に花火が打ち上がり、爆発音とともに白い輪が広がった。それを見上げながら歩くジェーンの歩幅が小さくなり、気がつけば、同じく花火を見上げながら歩いていたロストンが彼女に追いついていた。
 もうすぐのところに彼女がいた。彼が慌てて離れようとすると、彼女が振り向いてマスクを外し、唇を重ねてきたのだった。すると次の瞬間に彼女はまたマスクをして、何事もなかったかのように前を歩き始めた。
 そういうこともあれば、お互いが見えなくなるまで遠く離れないといけないことも何度かあった。彼女の前にパパラッチが現れたり、ファンが群がって動画撮影をし出したりする時などだった。
 それでも、会えるだけでも良い方で、彼女が多忙な時期には、隙間時間を見つけることさえ難しかった。ジェーンは毎日の動画投稿やトゥルーニュース社との仕事、他のメディアへの出演やインタビューなどをこなしていて、多忙だった。だがそれは彼女にとって必要なことでもあった。電話越しに彼女は、社会が求める仕事をすることで本当の自分を守るための資金を手に入れることができる、と疲れた声でつぶやいていた。  
 会えない日々を過ごすうちに、またスクラップ山のふもとで二人が落ち合う機会が訪れた。
 長らく放置された掘っ立て小屋は、臭い空気が淀んでいて、埃が溜まっていた。ロストンは窓を開けて換気したが、寒いのですぐに閉めた。そしてソファの埃を拭き取って座り、二人はお互いの肩に寄り添った。
 会話の内容はいつも電話越しで話すのと同じで、他愛もない日常的なことだったが、ぴったりと肩を寄せ合い、見つめ合いながら話せるのが嬉しかった。前に聞いた話でも、直接会って聞くと何だか新しく感じた。
 彼女の話によると、文芸編集部に以前よく来ていたのは、文芸誌に彼女のフォトエッセイの連載が決まったからだった。今は頻度が減ったが、はじめの頃は打ち合わせが多かったらしい。連載の仕事は面白いらしく、主な作業内容は、彼女がコーディネートした服をモデルが着て、それをカメラマンが撮影し、その写真にファッションにまつわる二ページほどのエッセイを添えるというものだった。
 二人はお互いの生い立ちの話もした。彼女は世界市民革命の後に生まれた世代だったが、その前の時代について親や祖父からよく話を聞いていたらしい。だから革命前の時代について自分なりの意見を持っていた。趣味の面では、小さい頃からファッションが好きで、成人するとアルバイトで貯めたお金で服を買い、彼女独自の組み合わせを見つけていったという。そしてそれを動画サイトで発信して少しずつファンを増やし、今ではそれがメインの仕事になった。
 トゥルーニュース社とはファッション誌を手掛ける部署とも新しい企画が進んでいるようだった。十代向けのファッションコーデの本を作っているという。そこの部署の人達は、十代向けであっても可愛らしさよりセクシーさを前面に出すべきだと考えていて、もっと控え目なものが良いと考えるジェーンはどう折り合いをつけるべきか悩んでいた。
「あの部署は自由奔放な女性ばかりよ」と彼女は不満そうに言った。「だから、あの人たちから仕事をもらうために、私も会社に行く時はなるべく彼女たちのセンスに合わせた服装をしているの」
 ロストンはようやく理解した。本当は保守的な彼女が、社内でボディーラインを強調した、ぴったりした服を着ていたのはそのためだった。社内に限らず、彼女は状況に応じて服を選んでいるらしかったが、ファッションリーダーとして人の注目を引くには、大抵は露出度の高い服を選ぶ必要があるようだった。そしてそのビジネス用のはだけた服装のせいか、彼女は今まで何人かの世界市民連合のメンバーに言い寄られたこともあるという。なかには妻子持ちもいたらしい。その話をする時の彼女は嫌悪感を露わにしていた。
 ジェーンは連合のあり方全般に批判的で、ある意味、言動が徹底していた。振り返ってみると、彼女はオープンスピーク用語をまったく使わなかったし、SS同盟の活動も支持していた。心の中では連合の価値観を嫌っていても、生きて行くためにはうまく振る舞わなければならない、という現実的な感覚も持っていた。
 ロストンはふと考えた。世界市民革命が済んだ後の世界で生まれ育ち、連合の示す価値観が空気のように受け入れられているこの世界で、その洗脳に気づき、密かに対抗している彼女のような人が、はたしてどれだけいるだろう。トラディットの家庭で生まれなければ、洗脳に気づくのは難しいかもしれない。
 二人は結婚の話に触れることもあった。今は若年層のファッションリーダーという路線だが、もし結婚をして子供ができたら、主婦向けのファッションに路線変更すると彼女は言った。それを聞いて、収入は彼女よりはるかに少ないが、自分も一応働いているし、結婚はそれほど非現実的なものではないように思えた。
 ところが、結婚の話の流れで、気まずいことが起きた。
 今までに結婚を意識した人はいたかという話になり、ロストンはつい、一度あったと口が滑ってしまったのだ。
「どんな人だったの?」
 その時ジェーンは、平静を装う複雑な表情をして訊いてきた。
 昔の女について話すのは賢いことではなかった。だが口が滑ってしまったからにはロズリンのことを褒めず、駄目になった理由を強調するしかなかった。実際、彼にとってロズリンはもはや胸が苦しくなる思い出ではなく、とっくの昔に整理のついた過去の記憶に過ぎなかった。
「彼女は肉体関係を持てないことが耐えられなかった。精神的な関係では物足りず、それを何回も求めてきたんだ。僕が女性はそんなことをあからさまに求めるべきじゃないと言うと、彼女は体制のスローガンめいたことをよく口にしていたよ」
 ジェーンは首を一瞬傾げると、何かを思い出したかのように言った。
「もしかして、性の解放かな」
「そう、それ。どうして分かった?」
「学校で習わなかった? 女性や同性愛者が性の自由を抑圧されてきた歴史とか。その中に出てくる表現よ」
 彼女はこの話題に意外なこだわりを見せ、話し続けた。性の解放は、彼女の見解では、体制の仕組みと深く関わるものらしかった。
「性的行為は人を快楽に浸らせるし、エネルギーを消耗させるでしょ。連合は民衆をそうした状態にしておきたいのよ。体制への反対デモがなかったり、批判の声が上がらなかったりするのは、皆が自分の欲を満たす方に気が向いているから。連合は、民衆の欲求不満を解消させて、体制に不満をぶつけないようにしているの」
 言われて見れば、たしかにその通りだ、と彼は思った。性の解放によって世界は連合にとってコントロールしやすいものになる。性的自由は人々の関心を個人的な快楽に向かわせ、個人的な快楽の追求は愛国心や宗教を解体するのだ。性の本能は連合にとって都合の良いもの……
 その時、ロストンは再びロズリンのことをふと思い出した。そしてジェーンにロズリンと別れた経緯を正直に説明した。
 それは交際して四カ月近く経ったころだった。
 数人の友人ととともに二人がハイキングに出かけた冬の日、自分とロズリンだけ道に迷ってしまった。最初は皆から少し遅れただけだったが、間違ったところを曲がってしまい、気がつけば二人は人気のまったくないところにいた。目の前に、廃れて鍵も掛かっていない小屋があったので、そこで少しだけ休憩をとってから、分かれ道のところまで引き返すことにした。
 だが小屋の中で、ロズリンが突然抱き付いてきたのだった。野外で二人きりになったのが彼女を変に興奮させたみたいだった。外から小屋の中は見えず、周りには人影もスマートスクリーンもない。
 彼はその時、皆が心配しているから早く引き返そう、と彼女言い聞かせた。だが彼女は聞かずに身体をまさぐってきた。晩秋の寒い空気のなかでも、その身体は興奮して火照っていた。そしてロストンは、その淫らな姿が我慢ならず、つい、彼女を突き飛ばしたのだった。
「本当に嫌だったのね」
 話を聞いていたジェーンが言った。
「何度言い聞かせても離れようとしなかった。でもそれくらいのことをしないと、たぶん、本当に嫌がっているのを理解してもらえなかった」
「相手の辛さになかなか気づかない人っているからね……仕方ないよ」
 その時、ロストンはジェーンの手をそっと握った。
 彼女は若いが物事の本質をよく知っている、と彼は思った。普通の女なら、女性を突き飛ばしたことを非難するだろう。でも彼女は、相手に優しく言葉で言い聞かせても通用しない場合があることをよく知っている。
「体制側の人間たちにも言えることだな。言葉で説得しようとしても無駄だろう。こっちがどれだけ必死に訴えたって、向こうは痛くも痒くもない。こっちが力で圧倒しないと、聞いてもらえない」
 賛成の言葉の代わりに、ジェーンは肩を密着させてきた。
 ロストンは思った。すでに人格が固まった大人を話し合いで教化しようとしても無駄なことだ。そんなことをしても、下手をしたら、ただリベラル・ネットワークに通報されて終わりだ。話し合っても人の根っこを変えるのは不可能に近い。ならば力を見せつけて従わせるしかない。
「生き延びるためには力が一番重要だと思うんだ」彼は言った。
「どういう力?」
「まずは精神的に屈しない力が必要だけど、その次は物理的な力。その二つがそろえば、きっと世界は変わる」
「うん、そうかもしれないね」
 ジェーンは頷くと、つないだ手をもっと強く握ってきた。
 ロストンは彼女の方を向いて、見つめた。黒いコートの上で白い顔が輝いている。
 彼女のその神々しさ、健気さ、賢さ、力強い精神に、ロストンは自分が強く勇気づけられているのを感じた。






 ロストンは電器店の二階の部屋を見渡した。窓際にダブルベッドがあり、その上には花模様の毛布と長枕が用意されている。木製テーブルの上には、彼が前回訪れたときに購入したスペースドームが置いてあり、壁には埋め込み式の暖炉があった。そしてその傍らには”エタノール″と書かれたジェリ缶がある。薪を入れる古いタイプではなく、エタノールを使う暖炉だった。彼は使い方がわからなかったので、あとでミスター・アーリントンに教えてもらおう、と思った。部屋の片隅には小さなキッチンと収納もある。時刻は夜の七時二十分。あともう少しで彼女が来ることになっている。
 これは賢明な方法だ、とロストンは考えていた。彼女を守るために必要なやり方のように思われた。これは、二人の関係を世間から隠すための一番よい方法ではないか。
 予想通り、ミスター・アーリントンは部屋を貸すことに積極的だった。家賃の交渉が難しかったが、大きな負担にならない程度で折り合いがついた。住居としてではなく、友達をたまに呼んで短い時間を過ごすために借りたいのだと説明すると、ミスター・アーリントンは変な詮索をせず、「プライバシーには関与しないのでご自由に使ってください」とだけ答えたのだった。
 ロストンの考えはこうだった。彼女と外で会うのは、いくら注意をしてもリスクが高い。実際、外にいる間、彼女がサングラスとマスクをしているにも関わらず、佇まいや雰囲気だけで彼女だとわかるのか、声をかけてくるファンが何人もいた。”遠距離デート″で離れたところにいたから大丈夫だったが、もし声もかけずに尾行するファンや記者がいたら、いつも彼女の周辺にいる自分の存在に気づくかもしれなかった。
 彼女の家で会うのも駄目だった。彼女の家をファンやパパラッチはすでに把握しているので、自分が行くとすぐバレてしまうだろう。自分の家に彼女が来るようにしても、尾行されていたら終わりだ。ホテルで会う場合も従業員たちの目がある。高級なホテルでも芸能人の密会がリークされることはよくある話だった。
 だが、ミスター・アーリントンの電器店ならば、二階に借家があるなんて誰も想像しない。電器店に入るところを目撃されてもただ家電製品を買うために入ったようにしか見えない。また、二人の部屋は表通りの反対側に位置していて、部屋の窓も通りからは見えない。もし彼女が店に入ったまま出て来なくなったのを怪しむ者がいたら、尾行に気づいて裏口から出ていったのだとミスター・アーリントンに口を合わせてもらえばいい。
 一つの問題点は、彼女がトラディット地区に出没することで正統派ではないと人々に疑われる危険性だった。だがそれに関しても、ミスター・アーリントンの店は製品に組み込まれた監視機能の検査を売りにしているので、有名人である彼女は盗撮と盗聴を恐れてこの店で製品を購入したのだ、と言い訳することができる。
 あともう一つ気をつけるべきなのは、ミスター・アーリントンの口が滑って彼女のことを周囲に漏らす危険性だった。でも、二階に通してもらう時に常にマスクを着用していれば彼女が誰だかおそらく気づかないだろう。それに、建物の周りに人が完全にいない時は、店の中の階段からではなく店の横の非常階段を使えばミスター・アーリントンと会わずに二階に上れる。
 色々シミュレーションをして考えを巡らせていると、ロストンはふと、窓の外で誰かが歌っているのに気づいた。カーテンの陰に隠れながら外を覗いてみると、隣の建物の二階の窓が開いていて、そこから中年の女性が見える。普通はロボットに任せるような拭き掃除を自らやっていた。しかも歌いながら。

 思いは叶うはず 恋の予感がするから
 二人の瞬間は 永遠につづく
 あの目 あの言葉 あの夢が
 わたしの心を いつも満たしてくれる

 知らない曲だったが、最近のヒット曲とはどこか掛け離れている感じがした。最近の曲の大半は作曲、作詞、歌のすべてが人工知能によるものだった。人工知能が現時点での人々の好みを分析し、それを反映したメロディーと歌詞と歌声を算出するのだ。歌うのが機械とはいえ、ボーカロイドの進化によって、本物の人間のような綺麗な声が再現可能だった。
 しかし隣の建物から聞こえてくるあの歌は、今の流行をまったく反映しない、時代遅れのメロディーだったし、声も素人の中年女性のものだった。
 でも、いや、だからこそ、ロストンはそれをとても美しく感じた。部屋にはノイズキャンセリング機器が備わっていないので、その歌声に加え、近くで遊びまわる子どもたちの叫び声、遠くから響いてくる飛行機の音など、色々な音が混ざり合っていた。
 賢明な選択だ、と彼は改めて思った。ここでなら誰にも知られずに彼女と過ごすことができる。
 ただ、時間が問題だった。ここ二週間は二人とも仕事が多く、なかなか会えない日々が続いていた。それが今夜ようやく、二人してじっくり過ごす時間をもうけられたのだ。
 ロストンは、今日の約束をした何日か前のことを思い出した。
 年末のショッピングシーズンということもあって街道は普段より多くの人でごった返していた。いつも通りジェーンと少し離れたところにいた彼は、人混みに遮られて彼女の姿をほとんど見ることができなかった。近くにいるのにその姿を見ることが出来ないことに彼はもどかしさを感じていた。
 その時、彼女が電話越しに囁いた。
「時間がとれそうよ、来週」
「仕事が入っていたんじゃなかった?」
「取り消しになったの」
 ロストンは突然の朗報に喜んだ。ジェーンと出会って数週間、彼女に対する彼の気持ちは深まっていた。いつしか彼女は自分にとって必要不可欠な存在になっていた。だから電話越しに一緒に過ごせると言われたと時、心から嬉しかった。
 だがちょうどその瞬間、道端の人混みに遮られ、二人はお互いの姿がしばらく見えなくなった。その時にロストンは、二人だけで過ごせる安全な場所がもしあればこうしたもどかしさを繰り返し味わわなくて済むのに、と思ったのだった。同時に、それまでになかった彼女への深い執着心のようなものが自分の中で湧き上がるのを感じた。
 そしてミスター・アーリントンの部屋を借りてみてはどうか、と思いついたのだった。
 さっそくそれについて話してみると、ジェーンも意外とすんなり同意してくれた。彼女ももどかしさを感じていたし、その方が安全だと考えたようだった。
 ここ数日間のことを振り返っているうちに、ロストンの頭にふと、博愛園のことが思い浮かんだ。考えないようにしようとしても、いつも意識にのぼってしまう。
 もしかしたら将来、連中に監禁されてしまうのではないかという不安が彼にはあった。有名人の恋人であることが知られれば、自分のことがファンやメディアに徹底的に調べ上げられ、匿名掲示板に投稿した内容が暴露されるのではないか、と。今までの投稿を消しても、そのキャッシュ情報はどこかに残っていて、永遠に消えない……
 その時だった。メッセージが携帯スマートスクリーンに入った。近くまで来たらしい。
 彼女には、店の横の非常階段をのぼれば二階への入り口があると伝えてある。
 少し経つと、階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。
 ロストンが部屋のドアを開けると、ジェーンが廊下から現れた。外の寒さでほっぺと鼻が赤くなっている。二人は思いっきりハグをした。
 彼女は中を見渡すと、驚いた表情をした。しばらくヴィクトリア風の家具を見て回り、好奇心で目を輝かせた。すると、何かに気づいたかのように振り返り、手に持っていた、随分と大きめの紙袋を持ち上げた。
「何を持って来たかわかる? たぶんあなたが好きなんじゃないかと思って」
 彼女は開けた袋に手を入れて、中のものを取り出した。最初に取り出したのは、パックに入ったローストビーフ。次はパンとジャム、そして最後に小さいプラスチック容器。彼女がその蓋を開けるとなんだか懐かしい香りがした。彼はすぐにその正体を思い出した。
「コーヒーだ。小さい頃に売っていた安物のインスタントコーヒー!」
「もう普通のお店では売ってないものよ。みんな高級志向になっちゃったから」
「どうやって手に入れたんだ?」
「これを作っていた会社がむかし倒産して、工場にあった機械を安値で売り払ったみたいなんだけど、それがこの地区に流れ着いたの。でもこういうコーヒーはもうそんなに売れないから、この地区のなかで小規模で売っている。あと、紅茶も買ってきたわ」
 ロストンは、彼女が取り出した紅茶を眺めた。
「それは、なんだか本場のやつみたいだね」
「うん。最近は本場の紅茶が安くなったから。関税を撤廃したからだとかニュースで言ってた」
 そう言うと、彼女は何かを思い出したような表情をした。
「そうだ、ちょっと後ろ向いてて。そのベッドの向こう側がいいかな。声をかけるまで振り向かないでね」
 ロストンは言われた通り、彼女に背を向けてベッドに座った。そしてカーテンの隙間からぼんやりと外を眺めた。
 隣の建物の部屋では、中年の女性が相変わらず家事をやりながら歌っている。窓を閉めているのであまりよくは聞こえなかったが、耳を澄ますと、寒い冬の大気を伝ってこの部屋にも微かに聞こえてくるのだった。

 心地よさに つつまれて
 いつまでも きっと忘れないわ
 今感じている 嬉しさと切なさは
 時とともに 消え去っていく

 甘酸っぱくて、嬉しいけど切ない、という矛盾した気持ちを歌っていた。歌詞だけでなく、メロディーも軽快さの中に寂しい旋律が混ざっていた。矛盾しているが、それが人間らしい心なのかもしれない。最近の流行歌が決まって人工知能が作った歌であるということを思い出して、彼は不思議な気がした。だがそれはもう世間では不思議なことではなく、自然に受け入れられていることだった。
 部屋の隅にある小さな洗面台から水が出る音がしばらくしては、止まった。そして「もういいよ」という声がした。
 彼は振り向いた。予想していたのは、何かに着替えたジェーンの姿だったが、そうではなかった。化粧をきれいに落として、髪をうしろに結んでいたのだ。
 いつもより唇の色は薄く、チークの紅色も消えていて、少しだけそばかすが見える。くっきりメイクだった目は、黒々としたマスカラが落ちて、落ち着いた自然な目になっていた。
 おそらく彼女は素の自分の姿を見せたかったに違いない。化粧をしている時も綺麗だったが、すっぴんの姿には人工的ではない在りのままの美しさがあった。化粧を落とすだけで、彼女は大人の女性から少女に様変わりした気がした。うしろに結んだ髪も、少女らしさを際だたせていた。
「自然体だね」彼がにやけながら言った。
「うん。この部屋では自分の本当の姿を見せようと思って。ばっちりメイク、ばっちりきめた服装じゃなくて。どう? 化粧を落としたら、失望した?」
「ううん、むしろこっちの方が好きかもしれない」
 彼女は嬉しそうな顔をした。
 それから二人は、夕食をしながら楽しいひと時を過ごした。飾り気のない彼女は笑ったり、仕事のことで愚痴ったり、寛いだ表情をした。
 カーテンの隙間から月が見え、辺りは静まり返っていた。
 彼はぼんやりと考えた。こうして隠れ家で過ごすのは彼女が有名人だからというのもあったが、二人がトラディットに共感する非正統派なのを隠すため、という理由も大きい。過去には、それを隠すために怯えたり、正統派のように装って自分の心を偽ったりしなくても良い時代があったはずだ。
「コーヒーいれようか」
 ジェーンが、考え事をしているロストンの顔を覗き込むようにして言った。
「うん、ほしい。ありがとう」
「今日は帰らずにゆっくりできるからね」彼女はそう言うと、また何かを思い出したような表情をして「あ、そうだ、ちょっと待ってて!」と付け加えた。
 彼女は立ち上がって、バッグから自分のスマートスクリーンを取り出した。そしてロストンと自分の顔がスクリーンの中におさまるように持ち上げ、シャッターを押した。
「なに?」ロストンが驚いてきいた。
「記念写真よ。ここではじめて過ごす日だから」
 その言葉に、彼は嬉しかったが、なんだか複雑な気分になった。そしてまた考え込むような表情をした。
「どうしたの?」
「うん、そう言われてみれば、この部屋は僕たちの記念の場所になるんだね」
「二人で撮ればどこでだって記念写真だよ」ジェーンが椅子に座りながら言った。「今は、外で二人の写真を撮るのは難しいけどね」
「そうか……」ロストンは自分の顔が少し緩むのを感じた。
「どうしたの? 難しい顔をしたり、優しい顔をしたり」
「うん……」彼は少し黙ってから、恥ずかしそうに口を開いた。「昔から記念写真っていうものに少し憧れていたんだ」
 彼女は不思議そうな顔をした。
「今まであまり記念写真を撮らなかったの?」
 ロストンは返す言葉を探った。
 その時に彼が感じたのは、それまでにも時折感じたことのある、自分が何か大事なことを忘れているという感覚だった。記憶の壁の向こう側に何かがあるのだが、壁を打ち破ることができず、思い出せない。いくら過去を辿っても、明るみに出すことができない。その感覚が再び湧き上がってきたのだった。
「ごめん」彼が言った。「何でもないんだ。記念写真が撮れて嬉しいってことさ」
「だったら、これからいっぱい撮ろうよ。二人の思い出をいっぱい作ろう」そう言って、彼女は微笑んだ。
 二人は再びテーブルに戻り、沸いたコーヒーをいれた。
 ロストンがそれを口にすると、懐かしい味がした。安くて健康に悪そうなコーヒー粉と粉末のプリム、そして人工甘味料のサッカリンが混ざった、忘れかけていた味と匂い。
 その時、彼女が突然立ち上がって歩いた。そしてデスクのペンスタンドの後ろに隠れていたものを手にした。
「これはなに?」
 スペースドームだった。
「ああ、インテリア雑貨っていうのかな、観賞用のものだよ。部屋において常に想起させる宇宙空間というか、眺めていると、永遠の時間や空間を感じて心が癒やされるよ」
「星が渦巻きのように回転しながら輝いているね」彼女が囁いた。「とてもきれい……ずっと見ていられる」
 だがしばらく眺めていると、彼女は眠くなったみたいだった。「綺麗だけど、ぐるぐる回って、催眠術みたいに、なんだか眠くなるかも……そろそろ時間だし、片付けようか」
 二人はプレートとコーヒーカップを運んで食洗器の中に入れ、部屋の隅にある小さな洗面台の前に並んで歯磨きをした。
 それから数分後、二人はベッドの中にいた。
 事前に約束した通り、添い寝をするだけだったが、それでも隣にいる彼女を意識して、彼はなかなか眠りにつけなかった。
 ロストンは身体の向きを変え、デスクの上で仄かに光るスペースドームをしげしげと見つめた。深淵のように真っ黒なドームの中を、輝くダイヤモンドの星屑が絶え間なく回転している。ドームのガラスがまるでこの世の境界線のように、全宇宙を包んでいるかのように見えた。じっと眺めていると、その内側に吸い込まれそうな気になる。
 そして彼は、自分が既にその内側に入っている気がした。ヴィクトリア風のベッドと木製のテーブル、ジェーン、その他の全てのものと一緒に。






 ハイムが会社を辞めることになった。ある日、彼はフードコートでロストンに近づき、そう話したのだった。オープンスピーク全国委員会でオープンスピーク辞書の編集作業に携わってきたが、今度その総責任者になったそうだ。それでそちらが忙しくなり、トゥルーニュース社での顧問の仕事からいったん離れることになったらしい。送別会をする暇もなく、「すぐ戻ってくるかもしれないよ」と言って、ハイムは去った。
 そして十二月中旬には、大雪と凍るような寒さが続いた。
 舗道や建物の表面から微熱が出るため雪は積もらなかったが、その技術のなかった昔だったらとんでもない積雪量になり、生活と交通が麻痺していたかもしれない。
 暖房のよくきいた社内ではクリスマス・ホリデー前の仕事納めのために、どの社員も普段より忙しくしていた。このシーズンには芸能、スポーツ、政治経済、アートなど全ての方面においてクリスマス・イベントがたくさんあり、メディアは取材や撮影や記事の作成などで慌ただしかった。ジェーンがエッセイを寄稿している文芸編集部でも、他国の文学について特集を組んでいて忙しいらしかった。
 社内で書かれる記事の量が増えた分、ロストンの校閲の仕事も自然と増えた。人工知能から絶え間なく送られてくる用語修正のダブルチェックを彼は黙々とこなした。外では、クリスマスに向けて花火が頻繁に上がっていた。何のイベントで打ち上げられたものかは分からなかったが、窓からとてつもなく大きい花火が見えたりした。
 街の大通りでは、スマートスクリーンから絶え間なくクリスマスソングが流れていた。軽やかなリズムで、鈴が鳴ったり、合唱になったりする。サムによると、彼の子どもたちもクリスマスソングを煩く歌っているらしい。ミセス・ドーソンは、居住区のボランティア活動で、体の不自由な人たちの住居にクリスマスの装飾を施しているらしかった。
 都心部の街頭に浮かぶ多くのスマートスクリーンには最近、新しい映像が流れていた。アラブ系の歌手がステージ上のスピーカーに片足をのせ、ギターを弾きながら歌っている映像だ。それは3Dになっていて、どの角度からも立体的に見えて臨場感があった。
 そうした多文化的な街の雰囲気と調和するように、川沿いでは中国式やロシア式の噴水ショーが頻繁に行われていた。外で見物するには寒い季節だったが、多くの人は建物の中から眺めていた。この時期のイベントに参加する観光客のおかげで外国人たちの営む各国料理のレストランも繁盛し、賑わっていた。ニュースではストーンズによるテロ行為を防ぐために街中の警備が強化されたと報道されていた。
 そういった都心の喧騒を離れ、ロストンとジェーンは時々、電器店の二階の部屋で過ごした。廊下まではとても寒かったが、部屋の中は暖炉の火で暖かかった。
 特になにか目新しいことをするわけでもなく、二人は部屋を綺麗に掃除したり、食材を買ってきて料理して食べたり、最近あった出来事について話し合ったりして、自然に過ごした。部屋は二人にとって神聖な場所であると同時に、ゆったりとした日常を過ごす空間だった。手をつなぎ、軽いキスはしたが、それ以上のことはしなかった。それに、背景はいつも同じ室内だったが、角度や表情を変えながらツーショットの記念写真をいっぱい撮った。
 気が付くとロストンはエナジードリンクをあまり飲まなくなっていた。彼女と会うだけで落ち着くので、飲む必要性を体が感じなくなったようだった。会えても一度に数時間だけの場合がほとんどだったが、重要なのは、二人のための安全な部屋が存在するという事実。電器店の二階にヴィクトリア風の部屋があるとは誰も想像できないだろう。
 彼はいつまでもこの状態が続くことを願っていた。カーテンの隙間から射し込む光の中に幸福の予感を抱くこともあった。そんな時には、安らかな気持ちになって、ジェーンの手を強く握ったりした。
 しかしまた、二人のこうした状態は週刊誌や彼女のファンに発覚され、突然終わってしまうのではないかという不安も頻繁に頭をよぎった。そんな時は、この部屋は一時的に過ごすだけの、すぐに失ってしまう脆いものに思えてくるのだった。輝く星屑が延々と回転するスペースドームも、ドームのガラスが割れればたちまち台無しになってしまう。二人の今の状態はそのようなものではないか。ガラスの内側で永遠の夢想に浸っても、ガラスは次の瞬間にはあっけなく割れて、二人は会えなくなるのではないか。
 或いは、そのうちジェーンが有名人ではなくなって、誰の関心も引かなくなったら、もしかしたら二人はひっそりと結婚をして静かな暮らしができるかもしれない。トラディットたちに紛れ、この地区の小さな工場で職を見つけ、小さな幸せを噛みしめながら過ごすのだ。彼は時々そのような妄想をした。
 だが同時に自覚もしていた。そうしたことは結局、惨めな逃避でしかないと。ひっそりと隠れて暮らすというのは、体制側に屈することであると。それは、隠れて暮らすことを強いられるということであった。連合が正義の味方のように振る舞う中、自分たちは隠れて、怯えながら生きなければならない。理不尽なこの状況を打破するためには逃げるのではなく、根本的な解決が必要だった。発覚を恐れて縮こまるだけでは何の解決にもならない。
 ロストンは思った。たしかに、下手をして二人が異端派であることが発覚すれば、ジェーンは人気と収入を失うし、自分も危険思想犯として捕まって、社会生活ができなくなるだろう。それは大きな不幸だ。だが、じっとしていても、ビクビクして暮らす不安な状況は変わらない。捕まらないための工夫をしながらも、根本的な打開策を探らなければ、いつまでたっても惨めな状況は変わらないのだ。
 ジェーンも考えは一緒だった。だから二人は、トラディットやSS同盟などの、世界市民連合の対抗勢力について話し合うことが度々あった。ただし、現実的にどうすれば自分たちが対抗活動に貢献できるのか分からなかった。
 そこで彼は、自分とオフィールドとの間には不思議な親密感が存在する、もしくは存在するように思われることを彼女に話した。時々衝動に駆られ、オフィールドの前に進み出て、自分は世界市民連合に反対しており、彼の協力を必要としていると打ち明けたくなるということも。
 ジェーンはもっと慎重に接近した方が良いという意見だったが、オフィールドがそのような人物であっても不思議はないとも考えているようだった。彼女は、実は多くの人間が密かに世界市民連合に反感を持っているが、危険思想犯、異端派という烙印を押されないようにただ支持するふりをしているだけ、と推測していた。だから何らかのきっかけさえあれば、すぐにでも広範囲な反対勢力が組織化されるだろうと考えているのだった。
 たとえばある時、彼女はこう言った。
「連合にとって、ストーンズと彼の地下組織は脅威だと思う。トラディットは動かないでいるけど、SS同盟が先頭を切って道を開けば、トラディットも立ち上がると思うの。かつては連合の内部でもイデオロギー闘争があったし、連合に対抗する政治運動もそれなりにあったわけでしょ。連合も人間が作った組織に過ぎないわ。皆が沈黙を破って一斉に反対の声をあげれば、崩れるはずよ」
 ロストンは、連合の転覆について彼女の方が自分よりも楽観的であり、連合による洗脳にも影響されていないと思った。たとえば、アメリカとヨーロッパ諸国の平和条約と自由貿易が話題にのぼった時、彼女は、諸国が平和条約を結んで自由貿易をしているのはお互いの平和や経済のためではなく、世界中のエリート層が連携して世界中の庶民を支配するためなのだと言った。それは彼がまったく思ってもみなかったことだった。だが、大いにあり得る話に思えた。彼女は物事を俯瞰で見るところがあり、思っていた以上に興味分野が広く、歴史や科学など、自分を超えた大きなものに思いを巡らせていた。
 歴史が話題になった時、彼女はアメリカが数年前までヨーロッパ諸国よりもアジア諸国ともっと緊密な協力関係にあり、ヨーロッパの一部の国々と非難し合っていたのをよく覚えていた。そして、国家関係が変わるたびに歴史の中でスポットライトを当てられる部分が変わったことも見抜いていた。スポットライトの当て方で国家間の関係を良く見せたり、悪く見せたりしていることを、誰に教わるまでもなく、自然と見抜いていたのだ。
 その話の流れでロストンは、自分が校閲部で目の当たりにした真実の隠蔽、つまり、ラムフォードの体制支持宣言が嘘であったことを示す、ボツになったスクープ記事について話した。
「その人たち、その後どうなったの?」
 話を聞き終えると、彼女が訊いた。
「わからない。転向したとはいえ、危険思想犯の烙印を一度押されたわけだから、今も人々に警戒されて遠ざけられたり、監視されたりして暮らしているんじゃないかな」
「そういう隠蔽はよくあることなの?」
「隠蔽もあるし、書き換えもよくある。過去は常に覆されるんだ。過去がどこかで生き延びるとしたら、言葉の存在しない閉じ込められた空間の中だろうね。例えば、そこにあるスペースドームのようなものの中とか。記録は色々な仕方でつなぎ合わせられ、組み合わせられ、新しく解釈され続けている。その作業は毎日、めまぐるしく進行していて、歴史は常に塗り替えられているんだ。過去も現在も確固たるものはない。確固たる唯一のものは、過去を常に解釈し直そうとする世界市民連合の意志だけ。悔しいけど、それを僕のような個人が止めることはできない。証拠を手元に置いていながら、その流れを止める力がないんだ」
「皆が協力して立ち上がるべきだわ」彼女が言った。「みんなが一斉に声をあげれば、何かが変わるはずよ」
「君は僕よりずっと楽観的だね。そうなればいいとは思う。勇気を振り絞って誰かが声をあげれば、意外にもすぐに大きなうねりとなるかもしれない。でもね、皆の声が集まる前に逮捕されて終わりになる可能性だって高い」
「でも、そうなる前に皆が一斉に動き出すことも可能だと思うの。革命ってそういうものでしょ? 体制側だって押し寄せる何百万人を逮捕することはできない。まずは誰かがスタートを切らないといけないけど」
 ジェーンの真剣な表情は彼を強く突き動かした。彼女はどんな時でも、どんな状況でも悲観せず、物事を楽観的に捉え、困難に立ち向かう芯の強さがあった。彼女のように、他のトラディットたちもそういう強さを胸に秘めているのだろうか。
 ロストンは考えた。もしかしたら、連合からの押し付けは、それに反対するトラディットに強い反骨精神を生じさせたのかもしれない。世界がどう変わろうと、覆されない自分の信念を持つことでわれわれは自分自身を保つことができる。連合が意図的に過去を覆しても、体制側の主張を鵜呑みにしなければいい。そう、毒は、飲まなければ死なないのだ。





 
 突然、思いもしなかったことが起きた。だがロストンはいつかこの時が来るのを予感し、ずっと待っていた。
 クリスマス・ホリデーまであと一週間という時期だった。ロストンは社内の資料室で仕事に必要な調べ物をしていた。参考になりそうなファイルを取り出して、ジェーンが以前メモを置いて行った思い出のデスクで読んでいると、斜め向かいの席に誰かが座った。
 顔を上げると、オフィールドだった。
 ロストンは一瞬驚いて、自分の鼓動が激しく打つのを感じた。ついに二人で話し合う機会が回ってきたのだ。
 だが、いざ待ち望んでいたその時が訪れると、頭が真っ白になり、身体が固まって、どうすべきか分からなかった。周りには誰もいない。声をかけるべきか。
 彼を見つめながら迷っていると、ふと、二人の目が合った。
 目を逸らすのも不自然だ、と思い、ロストンは勇気を出して話しかけた。
「あの、失礼ですが……」
 突然の声掛けにオフィールドが少し驚いた表情をした。
「はい、なにか?」
「たしか、社外取締役でいらっしゃるミスター・オフィールドですよね。わたしは校閲部のロストン・リバーズと申します」
 彼は静かに答えた。「はい、オフィールドですが」
 緊張のあまりロストンは一瞬言葉につまった。オフィールドが自分を直視しながら次の言葉を待っている。
 ロストンは急いで、会った時に話の糸口にしようと準備していた話題を振った。
「先日、ここでオープンスピーク関連のあなたの報告書を読みました。大変興味深い内容でした」
「あ、あれですか……」話しかけられた理由が分かったからか、オフィールドの顔が少しだけ和らいだ。「思いついた点を少しまとめたぐらいのものですが」
 だがまだ少し警戒心が見て取れる。ロストンは急いで言葉をつないだ。
「いや、オープンスピークのメリットと問題点を的確にご指摘されていると思いました。わたしだけの意見ではありません。先日、お知り合いだと思いますが、最近までメディア調査部にいた友人のハイムも、その報告書が素晴らしく、とても的を射ていると言っていました」
 ハイムと友人であることを示せば、自分を信頼してもらい、警戒心がほぐれるのではないかとロストンは考えた。社外取締役であるオフィールドは、会社の顧問であったハイムと近い間柄であるはずだった。
 案の定、共通の知人がいることを知って安心したのか、オフィールドの表情がもっと和らいだ。
「ハイムとお知り合いでしたか。彼がそう言ってくれたとは、嬉しいですね。その分野の第一人者ですからね。あなたもオープンスピークに高いご関心をお持ちのようですね」
「はい、校閲部の仕事と密接に関わりますから……」
 ロストンは、次の言葉を探した。そして、かねてから報告書に対して持っていた疑問をぶつけてみることにした。オフィールドの本当の姿を知るヒントになるかもしれないと思えたからだ。
「実は一つ気になったところがありまして、報告書を注意深く読むと、文章のなかでオープンスピーク用語に変換されていない単語がいくつかあったのです。どの単語だったのか今すぐには思い出せないのですが、あれは意図されたものなのでしょうか?」
 オフィールドの報告書は、オープンスピーク用語の導入をめぐる課題を淡々と指摘する内容で、オープンスピークそのものを肯定も否定もしないものだった。だが、内心否定的であったとしても、それを露わにすれば異端の烙印を押されるので、あからさまには否定できないだろう。だから、導入をめぐる問題点を指摘しながら自らもオープンスピークの使用を拒むことで、間接的にオープンスピークを否定したのではないか、とロストンは踏んでいた。
「いや、気づきませんでした」オフィールドが答えた。「昔から使っていた言葉遣いが無意識的に出てしまったのかもしれません。オープンスピーク辞書の第二版が出版されて間もないのに、すでに第三版の編纂も進んでいますし、ついて行くのが大変です」
 オフィールドはそう言うと、何かを思いついたような表情で付け加えた。
「校閲部でお仕事をされているのだから、細かいところまで熟知されていると思いますが、今は時間がないので、よろしければ今度、どの単語だったのか教えて頂けますでしょうか?」
「はい、是非とも」とロストンは答えながら、また改めて会う口実ができたと思った。
 ただし、今のオフィールドの言い方からは彼が異端かどうかを判断できなかった。たしかに、知り合って間もない人に自分が異端だと言うわけはない。だがお互いが仲間であることを言葉ではっきり確認しなければ話は進まない。まずはこちらから自分のことを打ち明けないと、やはり向こうも打ち明けてはくれないだろう。でも自分から打ち明けるとしたら……  
 考えを巡らせていると、オフィールドが言葉を続けた。
「そういえば、未完なので出版される前に修正加筆があるかもしれませんが、ハイムを通して第三版の一部分をコピーでもらっているので、よかったらご覧になりますか? 動詞の数がかなり増えていますが、事前に目を通しておけば、出版後の校閲の仕事にいち早く活かせると思います。私の間違いをご指摘して頂くお礼ということで、お見せしますよ」
 そして、また何かを思いついたような表情で付け加えた。
「そうそう、出版前に世間に情報が出回ると混乱が起きるので、ファイルで送信するとかコピーを取ることはルール違反になっています。あくまでも管理職がオープンスピークの動向を確認するためだけに内密に配られたものですから。お礼のつもりだったのに申し訳ないですが、コピーはお送りできないので、現物を見にお越し頂く形になってしまいますね」
 ロストンは彼の厚意を嬉しく思った。
「いいえ、構いません。では、最上階の役員のオフィスに行けばよろしいでしょうか。先ほど申し上げた単語を確認してからご都合の宜しい時にお伺いします」
「ええ、オフィスは最上階にあります。スケジュールを確認してから、あとで秘書室を通して校閲部にお伝えしましょう」
「はい」
 そう答えた直後、ロストンは、お互いが異端であるのを確かめるためにはもっと長い話し合いの時間が必要であり、その点を予め匂わせておく必要があるのではないかと思った。彼は急いで言葉を足した。
「あと……オープンスピークの問題点とも関係しますが、今のメディア業界のあり方について私は疑問をもっています。せっかくの機会なので、この業界のトップの一人である貴方に、その点についても話を聞いて頂けたら嬉しいです」
 オフィールドは少し不思議そうな顔をした。
「いいですよ、わたしでよろしければ」と彼は答えたが、何かを考えるように少し黙り、また口を開いた。
「先ほどは上のオフィスで、という話でしたが、私は社外取締役なので会社に常駐しているわけではありませんし、ここのオフィスもあまり広々とはしていません。それに、オフィスに隣接する秘書室の人達も未完のオープンスピーク辞書が門外不出の資料であることを知っていますから、あまり人目のあるところでお見せしない方が良いかもしれません。そこでですが、せっかくですから、私の家でゆっくり話しませんか? 私は社員たちの会社や仕事に対する率直な意見を聞きたくて、家によく招待しているんですよ。まず私の書斎でじっくり資料を見て頂いて、その後、私の単語の誤用について教えて下さい。それから、食事でもしながら、メディア業界の在り方について話しましょう」
 思ってもみなかった突然の提案に、ロストンは驚いた。だが同時に、絶好のチャンスだと思った。
「ご迷惑にならないのであれば、是非お伺いしたいと思います」
「一番近い日だと……今週の土曜はどうですか?」
「空いています」
「待ってください、住所をお渡ししましょう」
 オフィールドは自分の手首に巻いているスマートスクリーンに向かい「半径二メートル内に連絡先送信」と告げた。すると、デスクの上に置いてあったロストンのスマートスクリーンにオフィールドの住所と電話番号とメールアドレスが浮かび上がった。
「午後のご都合のよろしい時間にお越しください。では、そろそろ次の仕事があるので、失礼します」
 オフィールドは別れの会釈をすると、デスクの上に置いてあった自身の資料をとり、資料室から出て行った。
 おそらく彼も何かを読むつもりで資料室に来たはずだった。邪魔をしてしまった、とロストンは思った。でも自分にとっては大きな収穫だった。
 だがそこでロストンはふと疑問に思った。資料を見せるために家に招待するのは何だか不自然ではないだろうか? 他にも場所はあるはずだ。ならば、もしかしたら資料を見せるというのは建前であって、オフィールドは他の理由で自分を自宅に招こうとしたのではないか? もっと内密の話をしましょう、という間接的なメッセージではないだろうか? 報告書の中でオープンスピークを使わなかったのを指摘した自分の真意を汲み取って、「お察しのように、私は反体制派ですよ」と間接的に伝えてくれたのではないだろうか?
 不思議な展開だった。ロストンは今までの人生とは違う何かが起きているのを感じた。今まで自分がしてきたのは体制に対する精神面での反抗だったが、自分は今、それを超え、具体的な行動に踏み出そうとしている。
 この先に何があるのかまったく予想できず、不安な気持ちが彼の中で頭をもたげていた。だが同時に、湧き上がる喜びのようなものもある。いや、より正確に言うなら、生まれ変わったような、生命力が漲るような感覚だ。オフィールドと話している時、自分は緊張感と同時に、生き生きとした心の躍動を感じたのだ。
 まるで、分娩室で生まれてくる赤子を見る時のように。





 
 ロストンは涙を堪えようと目を閉じた。
「大丈夫?」ジェーンがテーブルの向こうで言った。
「うん、ちょっと思い出してね」
 ロストンはスペースドームを眺めているうちに、まるで占い師が水晶の中を覗き込む時のように、記憶の風景をその中に浮かばせていた。それは薄暗い光景で、自分の生涯が視界不良の雨の日のように映っていた。じっと眺めていると、その暗闇は、数カ月前に行った映画館の中の暗闇を連想させもした。家族の愛がテーマだと謳いながら、伝統的な家族観とはまったく相容れない映画だった。
「実はね」ロストンは目を開けながら言った。「僕は母親に捨てられたんだ」
 ジェーンは驚いた表情をし、少し黙ってから口を開いた。「何があったの?」
「さあね。僕のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 彼はドームの中に、最後に母親を見た時の姿を思い浮かべていた。なるべく意識から追い払おうとしてきた記憶だった。
 自分が十歳ぐらいの時、まず母が去り、その後に父も姿を消した。だがその前の、家族が一緒に過ごしていた頃の記憶もわずかながらあった。
 たとえば、戦争が始まった時のこと。覚えているのは、不安感、空襲の度に鳴り響いた警報、地下の防空壕、ニュースで伝えられる被害状況だった。でもその中で何よりも覚えているのは、食糧不足だったこと。たまに配給があったが、お腹を満たすには足りなかった。だからロストンはよく道端のゴミ箱を漁り、林に入って草を毟り取って煮たり、蛙やバッタを焼いて食べたりしていた。だが、地下の防空壕に避難している時はそれすら出来ず、飢えにひたすら耐えていた。
 終戦後も辛いことは続いた。母親が妹を連れて他の男のところに行った時、父は動揺し、ひどく落ち込んだ。そしてまるで別人になった。何事にも無関心になったのだ。何もかもどうでもいいという態度だった。まず仕事をしなかったし、生活に必要なことを全部おろそかにした。掃除や洗濯などの家事を一切しようとしなかったので、自然と全ての家事はロストンの担当になった。父はよくソファにだらしなく横たわってテレビを観ていた。  
 母と妹がいなくなる直前の記憶もあった。当時二歳か三歳だった妹は、鳴き声のうるさい子だった。そんな妹を母はよく抱きしめてあやしていた。だがロストン自身は、母に抱きしめられた記憶がなかった。彼はまだ幼くて物事の分別がついていなかったが、母が自分にだけ冷たいのは何か変だと感じていたし、寂しさを覚えていた。母が家を去った時は、それが自分と何か関係しているのではないか、それが自分のせいなのではないかと悩んだ。
 彼は家族で暮らしていた部屋も覚えていた。日当たりも風通しも良い部屋で、それほど狭くなく、壁は白塗りだった。ただ、棚には食料がなかった。母がとても痩せていたのを覚えている。ロストンもいつもお腹をすかせていた。それに、母はいつも彼の取り分を少なくし、妹により多くを与えていた。食事のたびに、妹はまだ小さくて弱いからもっと食べないといけない、と母は言った。だから彼は自分の取り分がどんなに少なくても、妹のためにじっと耐えたのだった。抑え切れない空腹感が襲ったが、妹のために我慢しなければいけないと自分に言い聞かせた。  
 そんなある日、二日ぶりにどうにか手に入れた食料は、一家四人に対して小さいライ麦パンが一本だった。母はそれを四等分したが、妹は自分の分をすぐに平らげると、ロストンの分も欲しがって大声で泣き出した。彼もすでに半分を口に入れていたが、母は口に入れていない半分をあげなさいとたしなめた。もじもじしていると、母が無理やり取り上げ、妹に渡した。小さな妹はそれを手にすると、すかさず口の中に入れた。ロストンは静かにその場を離れ、玄関のドアに向かった。振り返ると、母は妹の方を見ていて、彼がどこに向かうのか気にもとめていなかった。それどころか、母は妹を抱きかかえると、ぎゅっと胸に押し当てたのだった。その姿を見て、妹は愛されていて自分はそうではないのだと分かった。
 その後、母と妹の姿を見ることはなかった。ロストンが街のゴミ箱を漁ったり、林の中に入って食べられる草を探したりと、数時間うろついた後に戻ると、母と妹はもういなかった。
 最初はどういうことか分からなかった。よその男のところに行ったというのを、後日父から聞いた。具体的にどこかは詳しく聞かなかったが、外国らしかった。
 その時にロストンは思った。もしかしたら、もっと豊かで安全な国なのかも知れない。相手の男が金持ちなのかもしれない。だからそっちに行ったんだ。荷物でしかない自分を捨てて。
 ロストンの中でその記憶は未だに強く残っていた。そしてそれは形を変えて、夢にも度々出てきた。夢の中で、船に乗った母と妹は少しずつ遠ざかっていた。彼はただ立ち尽くして、二人が向き合って笑っているのを見ていた。
 話を聞いていたジェーンは、彼の顔をじっと見つめ、肩を撫でた。
「辛い思いをしたんだね」
「もう昔のことだから。ただ……」
 彼は母の話を続けようとして、黙ってしまった。
 思い返してみると、母はどこか安っぽい、軽薄な雰囲気を漂わせていた。母の感情は常にころころと変わり、自由気ままに行動するところがあった。しかし愛に関してだけはなぜか実用的で、誰かを愛するならそれは条件付きの愛だったし、条件を満たさないなら愛を与えなかった。それが後から振り返ってみた時の彼女の印象だった。母は父に対してもそうだったし、自分が彼女の何を満たしていないのかは分からなかったが、自分に対しても恐らくそうだった。もしかしたら自分は父の連れ子で、母の実の息子ではないかもしれない、と疑ってもみた。しかしそれも憶測でしかなく、もはや確かめようもない。
 当時の貧しさを思い浮かべていると、ロストンはその後の目まぐるしい時代の変化にも考えが及んだ。
 終戦後、それまで我慢を強いられていた人々の欲求は、復興とともに徐々に満たされていった。世界市民連合は、その状況を巧みに利用した。当初、反体制派の運動が湧き上がっていたが、連合は、政治的な闘争よりも個人の欲求こそ人生で最優先すべきものだという価値観を人々に刷り込ませた。大衆の関心を経済的な豊かさと消費に向かわせ、反体制派の影響力を封じ込めようとしたのだった。そして連合はそれに成功した。経済が回復し、発展するにつれ、民衆による抗議デモや社会運動は徐々に廃れていった。連合が支配する今では、何らかの高潔な社会的使命感を持つのはトラディットしかいない。
 でも、トラディットしかいないということは、見方を変えれば、トラディットにこそ希望があるということではないか? 
 ロストンの頭に突然そのような考えが浮かんだ。それは前にも考えてみたことだった。
 彼は状況を楽観的に捉えてみようとした。トラディットは世界市民連合やその理念に洗脳されていない。現代のライフスタイルを一部取り入れながらも、価値観は洗脳されていないのだ。先祖から受け継いできた伝統的な価値観への敬意を、かれらは捨てずにいる。今は弾圧を恐れて縮こまっているが、潜在的に連合の最も大きな反対勢力だ。共同体意識を保ってきたかれらは、大きな団結力を秘めているはずだ。
 彼はふと、数週前のことを思い出した。遠くで打ち上がる花火を見ていたトラディットたちは、楽しそうな表情をしていた。
 彼は隣のジェーンの手をそっと握り、口を開いた。
「時に考えることがあるんだ。自分の生きる意味は何だろうって。ただ生きていればいいのかって。自分が大事だと思う何かのために頑張らないといけないんじゃないかって」
「その何かって何?」彼女が手を握り返した。
「ちっぽけな自分を超えた、もっと大きいもの。先祖からぼくたちが引き継いだ大切なもの。ぼくたちの文化、信仰心、人種、国……連合がそれらを破壊するのを見ながら、ぼくは具体的な行動に踏み出せなかった。でも逃げ続けても状況は変わらない。警察に捕まる可能性もあるけど、挑んでみたいんだ」
「捕まるのは困るわ」ジェーンが心配そうな目をした。
「そうならないように細心の注意を払うつもりだよ。でも最悪の場合、そういうこともあり得る」
「何をするつもりなの?」
 ロストンは、資料室での出来事をジェーンに説明した。そしてオフィールドが異端派であるかを確認するつもりであることも打ち明けた。
「彼がもし異端派だったら、一緒に何をするの?」
 彼女が不安な目で訊いてきた。
「それはまだ分からない。彼が地下組織とつながっていれば、何か手伝えるかもしれない」
 彼女は首を傾げた。「もし彼が異端派でも、こっちから異端派だと告白しなければ、向こうも言わないんじゃない?」
「そうかもしれない」
 ジェーンは真剣な表情で彼の顔をじっと見つめ、口を開いた。
「わかった。じゃあこうしよう。こっちからは異端派だと告白しないで、彼に訊く。それで向こうが告白しなければそれで終わり。引き返して」
 今度はロストンが首を傾げた。
「うん……その方が安全だとは思うけど、その場合は、君が言った通り、異端派じゃないって答えるだろうね。こっちからも異端派だと告白しないと、向こうも言わないだろう」
 ジェーンは彼の顔をまたじっと見つめた。
「私ね、あなたの考え方に共感している。だから一緒にいるの。体制が強いる価値観に屈しないところとか、伝統的な価値観を大事にするところとか、婚前の純潔を守るところとか。私だって体制側の暴挙を止めたいし、だからあなたを応援したい。私にできることがあったらサポートする。でも、捕まったら元も子もないわ。全部おしまいよ」
 ロストンは一瞬黙った。彼女が心配するのは当然のことだと思った。彼女を守るためにも、軽率なことはできない。
「わかった。じゃあこっちからは言わないで訊いてみるよ」
「私も行くわ」
「え?」突然のことに、ロストンは一瞬、耳を疑った。
「あなたの口がうっかり滑らないか心配だし、それに、私のように一見自由奔放に見える人と一緒にいた方が異端派だって疑われないでしょ? 友人だって言えばいいわ。それにトゥルーニュース社と一緒にプロジェクトをしているから、私も一応、会社の関係者よ」
「でも……もし、予想もしなかったことが起きたりして、何かの間違いで、僕たちが異端派だと通報されるようなことがあったら、どうする? もしかしたら、僕が逮捕されるだけじゃなく、君も取り調べを受けることになるかもしれない」
「そうならないように十分気を付けないとね」
「万が一の話だよ。そうなったら、君も全てを失う。でも僕一人だけで行けば、君に被害は及ばない。僕はたとえ拷問をされたって、君についてしゃべったりしないよ」
「ありがとう。でもスマートスクリーンから撮った記録を調べればわたしたちの関係はすぐ分かるわ。それに、かれらなら、あなたがどんなに強い信念を持っていたって、必要なことをしゃべらせることができるかもしれない。最新の脳科学や生理学の技術を使えば人の感情もコントロールできるの。だから、捕まったら終わり。一人で行っても二人で行っても同じだわ」
 彼は、死角がないように街中に設置され、全ての映像と音を記録している防犯用スマートスクリーンを思い浮かべた。誰かがスクリーンの向こうで常に監視しているわけではないにしても、何かがあればすぐに記録を取り出して確認できる。その監視網は国中に張り巡らされていて、誰も逃れることはできない。その抜け目のない監視網を構築しただけでなく、かれらは他人の頭のなかを覗き込む術、さらにはそれを操作する術さえ持っている可能性がある。
 実際にかれらに捕まったらどうなるのか、博愛園の内部で何が行われるのか、彼は知らなかった。だがなんとなく見当はついた。心理テスト、薬物投与、懐柔、脅し、現実生活から隔離させることによる精神の衰弱化と洗脳が待ち受けているのだろう。信念を失わないように踏ん張っても、かれらはこちらの信念そのものをコントロールできるかもしれない。こちらの行ったこと、口にしたこと、考えたことをすべて自白させるのみならず、心の奥底の部分さえも入れ替えることができるかもしれない。
 ロストンは思った。
 だから自分の内面を守るためには、まず捕まらないようにしなければならない。かれらに捕まらないための情報と力、武装が必要なのだ。






 

 やはり引き返すべきだろうか。
 ロボットのメイドに案内されながら踏み入った応接間はとても広く、大きな窓から午後の日差しが降り注いでいた。床はタイル型のスマートスクリーンになっていて、まるで本物の高級絨毯がそこにあるように映っている。その絨毯の上を、窓を背景にして、人のシルエットがこちらに向かってくるのが見えた。オフィールドだった。
 ロストンはここに来るまで、引き返すべきだろうかと何度も自問した。ここに来ることはそれなりの決断だったし、二人でやってくることはもっと重大な決断だった。気後れする高級住宅街なのも、不安な気持ちになる理由の一つだった。普段、富裕層の住んでいるこの地区に足を踏み入れることはない。大きな街路樹が立ち並び、道路の幅もゆったりと広めで、大豪邸や高級な低層マンションが点在していた。彼はオフィールドに招かれたという立派な理由があったにもかかわらず、この街に庶民の自分がいることを場違いのように感じた。すぐにでも、どこからか警備用のスマートスクリーンが現れ、見慣れない顔を疑って呼び止めるかもしれない、と不安だった。根掘り葉掘り聞かれたあげく、怪しい者と判断され、連行されるかもしれないと。
 しかし心配を払拭するように、マンションの前で待機していたメイド・ロボットは笑顔で二人を迎えたのだった。そのロボットは、髪を結んだ中肉中背の女性型で、肌が白く塗装されたものだった。二人が通されたマンションのエントランスホールや廊下は大理石でできていて、壁紙やらオブジェやら照明やら何もかも高級感を醸し出していた。ロストンが住むところも清潔で快適ではあったが、大きさや漂う豪華さがまるで違っていた。
 気が付くと、こちらに向かってくるオフィールドは何かを話していた。どこの言語かは分からなかったが、外国語を使っている。彼の背後の窓から差し込む光で表情がよく見えなかったが、電話をしているらしかった。役員なので週末も忙しいに違いない。
 近くまで来ると、逆光のなかでオフィールドの表情が浮かび上がった。彼は電話を切ると、二人を歓迎する穏やかな表情に切り替わった。その表情を見て、ロストンはそれまでに感じていた不安が和らぐのを感じた。
「ようこそ」オフィールドがジェーンを見て微笑んだ。「一緒にくる仲間とはあなたのことだったのですね」
 オフィールドとジェーンは短い自己紹介をした。会社で話し合ったことはないが、オフィールドは彼女がトゥルーニュース社の雑誌に寄稿しているのを知っていた。
「どうぞこちらへ」と二人を大部屋へ招き入れながら、彼は傍にいたロボットに言った。「部屋のスマートスクリーンを全部オンにして」
 ロボットが頷くと、上下左右の色が変わり始めた。その部屋は床だけでなく、壁と天井も全てスマートスクリーンになっていた。
 ジェーンが驚きの声をあげた。ロストンも驚いて息を飲み込んだ。部屋全体が銀河を映し出す宇宙空間に切り替わっていた。
「迫力ありますね」ロストンが言った。
「そうでしょう。自慢の全方位スクリーンでね、ついつい披露したくなるんです」
 オフィールドの顔は得意げだった。
 宇宙空間を横切り、廊下に出ると、今度は日差しに照らされた広いバルコニーが見えた。植物がいっぱいある。それもこの家の自慢らしく、バルコニーは全自動ガーデニングシステムになっていて、各植物の特徴に合わせた温度調整と水やりが全自動で行われるらしかった。観賞用の植物だけでなく、野菜の栽培と収穫も全自動で行われていて、今日の食事にもそれで育てたジャガイモとニンジンが出るという。その他にもミニトマトやナスやブロッコリーなど、色々な野菜を育てているようだった。
 そこからもう少し歩くと、ある部屋が現れた。オフィールドの後を追って入ると、壁一面が本で埋め尽くされた書斎だった。他の部屋と違って、落ち着いた感じだった。間接照明は控えめの明るさだったし、窓も小さめで、仄かな日差しを招き入れていた。
 オフィールドは、部屋の奥の大きなデスクに回り込み、両手で本棚から何かを取り出した。そしてそれを重たそうに運んで来て、ロストンのすぐ前の丸テーブルに置いた。
「未完のオープンスピーク辞書第三版です」
 厚い紙の束だった。
「結構な量ですね」
「片面のコピーだから余計分厚く見えます。ですが、第二版を修正追加したところが青色に色付けされていて、そこだけ見れば良いので、見た目よりも読むべき量は少ないです。それでももし時間が足りなかったら、またいつでも家にいらしてください」
「はい……」
「では、私は食事時間の前に戻ってきますので、ごゆっくりどうぞ。不便なことなどありましたら、うちのロボットに命令してください。もうすぐお茶を運んでくると思いますが、それが済んだら部屋の外で待機するように言ってあります」
 コピーを受け取ったロストンは、辞書に興味が湧きながらも、例の話をどのタイミングで切り出すべきか考えていた。やはり会ってすぐよりも、計画通り、別のことを話し合ってから切り出す方が自然だろうか。だが実際にここまで来てみると、むしろ時間が経つほど話を切り出しにくくなるような心理的圧迫感を感じた。
 悩んでいると、真剣な表情をしているロストンを見て何かを察したのか、オフィールドの穏やかだった顔が不思議そうな表情に変わった。
「どうされたのですか? 何か問題がありますか? 遠慮せずにおっしゃってください」
 もっと後で切り出す方が自然かもしれなかったが、もうオフィールドはこっちの様子を見て疑問に思っている。ロストンがジェーンの方を見ると、彼女は覚悟をしたような顔で小さく頷いた。今切り出してしまおうと彼は決心がついた。
「のちに、と思っていたのですが」ロストンはゆっくりと口を開いた。「実は、お話ししたいことがありまして……」
「ああ」オフィールドが思い出したように言った。「おっしゃっていた、メディア業界についてでしょうか?」
「それとも関わりはありますが……」
「ふむ」オフィールドが肩をすくめた。「では先にその話をしましょう。そちらにお掛けになって下さい」
 三人は丸テーブルを囲むように椅子に座った。ロストンとジェーンが並んで座り、オフィールドが向かい側に座った。
「では、どういったことでしょう?」オフィールドが訊いた。
 ロストンは膝の上で手を動かしながら言葉を探した。ここに来た動機ははっきりしているが、うまく伝えなければならない。自分たちが異端派だと言ってはいけないが、正統派だと思わせてもいけない。異端派だと思ってもらわなければオフィールドも自分が異端派であると打ち明けてくれるはずがないからだ。つまり、こちらからは自分たちが異端派だと明言しないが、オフィールドがそれをそれとなく察してくれなければならない。ロストンは自分の言葉のニュアンスに注意しながら口を開いた。
「実はわたし達は……あなたが世界市民連合に対して疑念をお持ちなのではないかと思っています。アメプルの原理やオープンスピークなど、連合の価値観に対して健全な批判精神をお持ちなのではないかと。今までのあなたの言動を見て、そうだと思いました。実はわたし達も社会の一員として疑念を持つ部分があるのです。そういう問題意識をお互いに共有しているのではないかと思っています」
「えっと」オフィールドがまた不思議そうな表情を浮かべて言った。「連合にも色々な問題はありますから、その在り方に対して疑問に思うことは多々あります。ですが、あなた方が訊いているのは……」
 その時、書斎の自動ドアが開いて、女性型のロボットが部屋に入ってきていた。手に持ったトレーの上には飲み物があった。
「えっと、紹介を忘れていました、うちのメイドのマリーです」オフィールドが少しそわそわした声で言った。「マリー、それをテーブルの上に」
 そう言うと、オフィールドは突然ポケットからスマートスクリーンを取り出し、仕事の連絡が入ったようだとつぶやいた。そして立ち上がり、「すぐ戻りますので、お茶を召し上がっていてください」と言って部屋を後にした。
 その様子を見て、ロストンは急に不安になった。もしかしたら自分はオフィールドのことを誤解していたのではないか? もしかしたら、彼は異端派ではなく、やはり正統派だったのではないか? 話の意図を察して、困惑し、仕事を理由にして逃げたのではないか? もしかしたら今、自分たちを警察に通報しているのではないだろうか? 色々な不安な考えが頭をよぎった。
 だがまだ何もはっきりしてはいなかった。そわそわした様子だったからといって、困惑していたとは限らない。気持ちが高ぶってそうなったのかもしれない。仕事の連絡も変なタイミングで来ただけで、自分の会社を経営し、トゥルーニュース社の社外取締役でもあるオフィールドは、当然いつも忙しいのだ。自分たちがこの家に着いた時だって彼は仕事の電話をしていたではないか。ロストンは自分にそう言い聞かせた。
 ロボットは三人分のお茶をこぼさないように丁寧に置き、次にミルクと砂糖とビスケットを置いた。そのテキパキとした動きは、まさにメイドであった。安い電気代で奉仕してくれる従者。
 それを見ながらロストンは思った。このロボットは自分の信念に基づいて振る舞うことができない。高度な機能を持っていても、ただ命令に従っている操り人形でしかない。だが、自分たちはそうではない。自由な意志を持った人間だ。だから、ここで捕まるわけにはいかない……
 ジェーンの方を見ると、緊張した様子でずっと黙っていた。
 二人の間で沈黙の時間が流れた。お茶は紅く輝いていて、徐々にフルーティーな香りが漂ってきたが、二人とも手をつけなかった。
 十分ほどすると、ようやくオフィールドが戻ってきた。
「仕事の電話が入ってしまい、大変失礼しました」そう言うとオフィールドはテーブルの上のお茶を見て言った。「まだ召し上がっていなかったようですね。お待たせして本当に申し訳ない。冷めないうちにどうぞ、ルイボスティーです」
 ロストンはそのお茶の色を見て紅茶だと思っていたが、間違いだった。輸入品のルイボスティーは、最近よく見かける飲み物だったが、彼は飲んだことがなかった。イメージでは紅茶と同じくらい苦味があり、カフェインを含むものだと思っていたが、一口飲んでみると、さっぱりしていた。
「さっきの話に戻りましょう」オフィールドが咄嗟に言った。「単刀直入にお聞きしますが、あなた方は異端派でしょうか?」
 その瞬間、ロストンは心臓が止まった気がした。ジェーンを横目で見ると、彼女も目が泳いでいる。
「それは、いや、そういうわけでは……」ロストンがおどおどしながら答えた。
「そうではない? ではなぜそんなに思いつめた表情で私に訊いたのですか? ただ連合の問題点を指摘したいだけには見えませんでしたが」
 ロストンは返す言葉が見つからず黙ってしまった。ジェーンも強張った表情で硬直している。
 その様子を見ながら、オフィールドが口を開いた。
「ご存知でしょうか。ルイボスティーは、味に癖はありますが、健康に良い飲み物です。特にこの産地のものは私のおすすめです。産地はどこだと思いますか?」
 なぜ突然お茶の話をし出したのかロストンは理解できなかった。
「わかりません」ロストンは、お茶のことなんてどうでもいい、と思いながら答えた。
 オフィールドがにっこりした。
「わかりませんか。実はこれは、数ヵ月前に南アフリカから私宛に送られたものでして……」
 オフィールドはしばらく黙った後、言葉を続けた。
 「送り主は、ソル・ストーンズです」
 ロストンはその瞬間、先ほどまでの重い緊張感と不安が、身体から一気に蒸発するのを感じた。そして歓喜のあまり飛び上がって叫びたい気分になった。ジェーンも驚いた表情になっている。
 やはり自分の観察は正しかった! 彼は異端派なのだ! 
「それではストーンズを直接ご存知なのですね?」ロストンが興奮を抑え、冷静を装いながら訊いた。
「そうです。潜伏先がすぐ変わるので、今どこにいるかは分かりませんが」
「では、彼の地下組織ともあなたは繋がっているのですか?」
「ええ、そうです。私はSS同盟の一員です。安全のため、私についてこれ以上のことはお話しできませんが」オフィールドはそう言うと、ジェーンの方を向いた。「安全と言えば、あなたは有名人なので、特に注意が必要でしょう」
 彼女は目を大きく見開いたまま、黙って頷いた。
「では私のことをお話ししたので、あなた方についてもお聞かせ下さい。あなた方は、私と同じく、異端派ということで合っていますよね?」
「はい」ロストンが答えた。
「それでどうしたいのでしょうか? SS同盟に加わりたいのでしょうか?」
「はい、そうです」
 その言葉に、オフィールドは身体の向きを少し変えて、ロストンと完全に向き合った。
 オフィールドはどのような質問をすべきか考えているようで、瞬きもせずにじっと前を見ていた。そして口を開いた。
「SS同盟に加われば、色々な活動をすることが要請されます。世界市民連合を弱体化させるためなら何でも行う覚悟がありますか?」
「あります」ロストンが答えた。
「逮捕される可能性があるとしても?」
「逮捕されるのは、正直嫌ですが、でも覚悟はあります」
「破壊活動をする覚悟は?」
「あります」
「死傷者が出るようなテロ行為でも?」
「それは……」ロストンが悩むように言った。「誰が対象かにもよりますが」
「子どもや女性の死者を出すことが我々の目的のために必要だとしたら?」
 ロストンは言葉に詰まった。そして考えた。それは一見、正しいことには見えないかもしれない。世間はそう考えるだろう。だが、体制側が移民を多く受け入れたことで、移民によるテロが起き、罪のない女性と子供が死ぬこともあるではないか? そのような犠牲の拡大を防ぐためには、それより小さな犠牲を払うことも必要になる。より良い、正しい世の中を実現するためには、犠牲が伴うのだ。
 彼は心を決め、答えた。
「もしそれが国を救うことになり、結果的にもっと多くの子供と女性を救うことにつながるのであれば、そのために私の身を捧げる覚悟はあります」
「ほう、そうですか……」オフィールドは感心したような表情をした。そして付け加えた。「では、お二人が離ればなれになって、二度と会えなくなっても構わないという覚悟は?」
「それはないわ」突然、ジェーンが沈黙を破って割り込んできた。真剣な顔だった。
 ロストンは一瞬黙ったが、彼女を見つめ、「同じです」と答えた。
「質問によく答えてくれました」オフィールドが言った。「任務を行う上で、すべてを知っておく必要がありますから」
 テーブルの上にはクリーム色のアロマキャンドルが一つ置いてあった。オフィールドが「キャンドル点火」と言うと、芯に火がつき、薄暗かった部屋が少しだけ明るくなった。するとオフィールドは、何か考え事をする顔で椅子から立ち上がり、部屋をゆっくりと回り始めた。次第に、気分を落ち着かせるようないい匂いが部屋に漂った。
「マリー」オフィールドは立ち止まると、ロボットを呼んだ。「あとでストーンズの本を手配しておくように」
 女性型ロボットは「はい」と答えると、玄関で会った時と同じようにほほ笑んだ。さっきまで人工的だと思っていた表情がどこか親近感のある表情になっていた。まるで何か本当の感情を抱いているかのように。人工的に作られた顔は人の心に訴えかける表情を上手く選べるのかもしれない、とロストンは思った。オフィールドの方を見ると、立ったまま、左手を右腕の脇に挟み、右手を頬に当てている。
「もう少し詳しく説明しましょう」
 オフィールドが再び口を開いた。
「組織の正式な一員になるには、そのための心得が必要です。あとで本をお送りしますが、それを読めばこの社会の本質が、そしてそれを克服しようとするわれわれの戦略が分かるでしょう。本を読み終え、その思想を自分のものにできた時、あなた方はSS同盟の中心メンバーとして生まれ変わる。とはいえ、SS同盟のメンバーたちがどこのだれかについては、セキュリティー上の理由でお教えできない。個人的に接触するのはおそらく私が最後でしょう。今後、直接的な接触があるとしたら、それはロボットを通してです。我々があなた方に連絡する必要がある時は、マリーを通して行います」
 そう言うと、オフィールドは再び部屋の中をゆっくり歩き始めた。
 背丈は普通だが、彼にはどこかとても大きい存在感があった。今見せている、左手を右腕の脇に挟み、右手を頬に当てる仕草にさえ、それが表れている。彼の目からは鋭い知性が感じられたが、その話し方からは胸の奥に秘めた熱意のようなものが感じられた。
 ロストンのなかで、オフィールドに対する尊敬の念が膨らんだ。オフィールドが先ほどまで見せていた気さくな表情だけを見ると、彼が体制に挑むような人だとは誰も気づかないだろう。だが重要なのは表面的な見た目ではなく、内に秘めたものなのだ。
 オフィールドは歩みを止め、小さな窓の向こうを眺めた。空にオレンジ色がかかり始めていた。
「もうこんな時間でしたか」彼は二人の方を向いて言った。「私から食事にお招きしておいて大変申し訳ないですが、実は先ほどの電話で急な仕事が入りまして、そちらに行かなければなりません。残念ながら私は一緒にできませんが、ロボットたちに指示すればすぐに食事の準備ができるので、どうぞ召し上がっていってください」 
 ロストンはどうすべきか迷い、ジェーンと目を合わせた。
 彼女が答えた。
「いいえ、家主がいないところで食事をしても何だか変ですし、わたしたちも出ることにします」
「そうですか。申し訳ない」オフィールドは残念そうな表情をした。
「いいえ、こちらこそ報告書のオープンスピーク用語のこともお話しするつもりが、先に違う話をしてしまって、機を逸してしまいました」
 そう言ってロストンは自分のカバンから一枚の紙を取り出した。
「これは報告書についての私の意見をまとめたものですが、お渡しします」
 渡されたA4用紙一枚をオフィールドは上から下へと一瞥した。
「ありがとう。あとで熟読します」そう言うと彼は、用紙をテーブルの上に置いた。テーブルの三人のティーカップにはルイボスティーがまだ残っていた。
「これから仕事なのでアルコールは飲めませんが、今日を祝って代わりにこれで乾杯しましょう」オフィールドがティーカップに手を伸ばして言った。「何に乾杯しましょうか。リベラル・ネットワークの崩壊を祈って? 連合の転覆に? それとも未来に?」
「過去に」ロストンが言った。
「戦前のことですね?」オフィールドが納得したように頷いた。
 三人はカップを持ち上げ、「過去に乾杯」とつぶやき、一気に飲み干した。
 そしてカップをテーブルに戻すと、ドアの横にいたメイド・ロボットが近づいてきて、手を前に差し出した。オフィールドはその手の平からリストバンドらしきものを取り、ジェーンに渡した。
「手首に巻いてください。防犯用スマートスクリーンがあなたたちを認識できないようにする装置です。これからは任務を行う時に必ず巻いてください」
 SS同盟はこういう装置を使ってスマートスクリーンの監視網を潜り抜けてきたのか、とロストンは驚いた。
 だがその装置は、スマートスクリーンは騙せるとしても、道を行き交う人の目は騙せない。だからまずジェーンが出発し、時間をずらしてロストンが出ることにした。
 オフィールドとロストンは部屋の玄関でジェーンを見送った。それから二人は広いリビングに移り、テーブルを挟んで座った。
「今後のために予め細かい点を確認しておきましょう」オフィールドが口を開いた。「どこかに隠れ場所をお持ちですか?」
 ロストンはミスター・アーリントンの店の部屋のことを説明した。
「なるほど、わかりました」と頷くと、オフィールドは言葉を続けた。
「ところで、ストーンズの本のことですが、所持しているだけで危険思想犯の罪になりますから、私もいま手元には置いていません。リベラル・ネットワークが出回っているコピーを見つけては発信元を辿って警察に通報したりしていますから、我々もあの本の扱いには細心の注意を払っているのです。そのうちお届けするので、しばらく待っていてください。そうだ、普段カバンを持ち歩いていますか?」
「外出時はいつもそうしています」
「よろしい。近いうちに、社内便でメッセージを送ります。読んだらシュレッダーにかけて下さい。そして帰宅時、メッセージに書いてあるルートを通ってください。その時、顔を変えたマリーがあなたに小包を渡すでしょう。あの本が入ったものです。あなたは自分のカバンにそれを入れて持ち帰ってください。数日内に読み終えて、自分の頭に叩き込んだと思ったら即破棄して下さい」
「はい」ロストンはそれについてもっと訊こうと思ったが、即座には頭の整理ができなかった。
「今後も社内ですれ違うことはあるでしょうが、これからはお互いに話しかけない方がよいでしょう。どちらかが捕まった時に、ややこしくなりますから。いつか、そんなことを恐れずに会える世界になればいいのですが」
 ロストンは夢の中で聞いた声のことが思い浮かんだ。
「それは、自由なところ……でしょうか」ロストンが自信なさげに訊いた。
 オフィールドが静かに頷いた。そして自分の腕時計を一瞥して口を開いた。
「さて、お帰りになる前に何か他に質問はありますか?」
 ロストンは考えてみたが、すぐに頭に浮かぶ質問はなかった。オフィールドやSS同盟に関係する質問の代わりに彼の心にふと浮かんだのは、なぜか、遠い昔に自分が親と一緒に暮らした白塗りの部屋、ミスター・アーリントンの店の隠し部屋、そしてあのスペースドームだった。
「さて、あなたにもこの装置を差し上げましょう」
 オフィールドはリストバンドの装置をロストンの手首に巻いた。そして二人は玄関で軽い握手をし、別れの言葉を交わした。
 玄関から十歩ほど歩いたところでロストンが振り返ると、オフィールドはまだドアを開けたまま見届けてくれていた。
 優しい顔だった。





 
 年末年始のホリデーシーズン中、ほとんどの社員は家族と一緒に過ごすが、家族のいないロストンは一人で過ごしていた。ジェーンも家族と合流するために他の州へ行ってしまい、クリスマス以降は会えない日々が続いた。だがホリデーシーズンもようやく終わり、彼女は二日後に帰ってくる。もうすぐ会えると思うとロストンは嬉しかった。
 年末年始の休みを挟んだ一週間ぶりの仕事は、処理すべき業務がたくさんあったものの、ロストンは精神的な苦痛も身体の疲れもあまり感じなかった。むしろ活力が溢れ出ていた。オフィールド邸での出来事によって、生きる意義を探し当てたからだった。自分には成し遂げるべき使命がある。そう思うと、力が漲り、身体の隅々まで活力が行き届く感じがした。
 退社後、寒い夜の中、ロストンは周りを見渡しながら歩いていた。
 いつも使っている道ではなく、社内便で送られてきたメモに書いてあったルートだった。シュレッダーにかける前に、書かれたルートを頭に叩き込んだつもりだったが、進んでいくうちに正しい道なのか不安になった。
 会社の外に出るまで彼は忘れていたが、世間では世界首脳会談が行われていて、昨日からは大規模な軍事パレードも行われていた。それは、世界の数十カ国から来た軍人が、市内で自国の軍事パレードを披露するというものだった。ロストンは街頭に浮いている中型スマートスクリーン越しにその様子を見ながら歩いていたが、メモに書かれていたルートの行き着く先は、正にその軍事パレードが行われている大通りだった。
 ロストンが目的地に着いたのは、ちょうどパレードが盛り上がりを見せている時だった。目の前を各国の将兵たちが足並みを揃えて行進し、それに次いで様々な種類の戦車と移動式ミサイル発射台が通り、頭上では戦闘機や爆撃機やヘリコプターの編隊が飛び交っていた。
 多くの観衆たちは小さな国旗を振って各国の軍人たちを熱心に歓迎していた。アイドルを応援しているかのような表情の女性たちもいた。
 しばらくするとパレードが終わり、まるでスーパーボウルのハーフタイムショーのようなものが始まった。大通りの向かい側にあるステージに歌手が現れ、派手に踊り、歌い始めた。その圧倒的なパフォーマンスに観衆は最高潮に盛り上がった。夜だったが、ステージの強い照明を受け、音楽に合わせて身体を揺らす数千人の観衆の輪郭がくっきりと浮かび上がった。
 ショーが終わると、音が静まり、世界市民連合の一員として知られている男のタレントがステージに現れた。司会役のようだった。
 その男は嬉しそうな顔をし、片手でマイクをつかみ、もう一方の手を胸に当てていた。ステージ前列の報道陣のカメラがその様子を捉えている。彼は感情を込めた声で、その場の人達と、カメラ越しの全世界の人々に向けて語り始めた。
 それは、世界平和の維持に諸国の軍隊が中心的な役割をしてきたことを称える内容だった。人権擁護、難民支援、紛争防止、インフラ復旧、治安維持、地雷除去作業、非武装化の監視、そして停戦監視などの活動を、彼は次から次へと称えた。そしてその言葉に合わせて、ステージのバックスクリーンに、汗だくになって人を助けている軍人たちの映像が映った。その献身的な姿は、司会者の言葉と相俟って、見る側の心を熱くさせるところがあった。観客のなかには、感動して涙を浮かべる者さえいた。
 それが五分ほど過ぎた頃、男は演説を締めくくった。そして彼がステージの隅にはけると、バックスクリーンの映像が切り替わった。ある会場の中継映像だった。
 中央に世界市民連合のバッジをつけた人がいて、その後ろに各国の首脳が並んで立っている。そしてまたその後ろには、お互い異なるデザインの軍服を着た、地位の高そうな人たちが立っていた。かなり大きい会場だった。
 ほどなくして中央の人が数歩前に出てくると、演壇に立ち、紙を広げ、宣言文らしきものを読み始めた。ショータイムの時の騒ぎが嘘だったかのように、群衆は静まり返って耳を傾けている。注意深く聞いていると、それは重大発表だった。
 驚くべきことに、アメリカ大陸、ヨーロッパ、中東、アジア、オセアニアの諸国が協力して世界軍を創設するという内容だった。
 以前からそのための交渉が国家間で行われていたのをロストンも知っていたが、その早期実現性については専門家たちも悲観的だったし、彼も懐疑的だった。しかし予想をはるかに超えたスピードでそれは実現したのだった。アフリカ諸国を束ねているアフリカ連合だけは、欧米や中国などの意図を疑って加わらなかったようだが、今回加わった国だけでも世界の軍事力の七割を占めるとのことだった。
 発表の全貌が明らかになると、観衆の中から喜びの声が一斉に沸き上がり、大通り一帯は瞬く間に大歓声に包まれた。ロストンの近くで「ついに世界軍が創設された!」と誰かが叫び、「テロリストを一掃せよ!」と叫ぶ声も聞こえた。司会の男もまたステージの中央に出てきて、「もう大国間の戦争は不可能になりました! 各国の軍隊に対する指揮権は各国政府から世界市民連合に委譲されたのです!」と興奮気味に叫んだ。
 スクリーンの中で世界軍創設の宣言文が読み終わると、ステージの傍からキャノン砲が発射され、大通りの上にきらきらとした紙吹雪が舞い降りた。祝賀ムードの中、人々は喜びのあまり抱き合ったり、頬にキスを交わしたり、涙を流したりした。
 その時だった。
 誰かがまるで恋人のようにロストンの腕に身体を密着させ、「これを落とされましたよ」と言った。
 マリーだった。違う女性の顔になっていたが、一瞬でそうだと分かった。周りの雰囲気に合わせるかのように満面の笑みを浮かべている。
 ロストンは咄嗟に我に返った。そう、これを受け取るために自分はここに来たのだ。彼は黙って小包を受け取った。そして体を引き離して、背負っていたカバンをおろし、その中に小包を入れた。
 顔を上げると、マリーはすでに歓喜する人々の中へと遠ざかっていた。
 お祭り騒ぎが少し収まり始めた頃、再び司会の男がマイクを握り、世界軍の創設を祝福するスピーチを始めた。
 ロストンはその内容が少し気になったが、最後まで聞かずにその場を離れた。小包を持ったまま外にいるのが不安だったのもあるが、会社の上司から職場に戻るようにとの緊急メッセージが届いたからだった。予期しなかった世界軍創設のサプライズ発表を受けて、やるべき仕事が沢山できたらしい。ロストンだけでなく、ニュース関連部署の全社員に連絡が行ったはずだった。
 会社へ向かいながら彼は考えた。前の戦争が終わってから、国家間の戦争はすでに起きなくなってはいたが、各国が自前の軍隊を持つ以上、何かをきっかけに戦争が起きる可能性もゼロではなかった。だが今日の出来事によって、アフリカ連合だけは参加しなかったものの、少なくとも世界戦争が起きる可能性は無くなったのだ。そしてそれにより、国家間の関係は今までとまったく違うものに変わってしまうように思えた。
 新しい関係の構築には新しい歴史が必要だ。実際、三十年ほど前、戦時中に対戦国を痛烈に批判していた新聞や本やドラマや映画は、戦後には手のひらを返し、両国の歴史に存在した幾つかの友好の証を大きく取り上げるようになった。同じようなことがこれからも起きるだろう。一昔前はいがみ合っていた関係なのに、これからは親しみのある国に感じられるように、イメージの塗り替え作業が大急ぎで行われるはずだ。
 事実、会社に呼び戻されたのは、そのためだった。
 時刻は午後8時を過ぎていたが、社員たちは準備しておいた翌日のニュースや翌週発売予定の週刊誌と月刊誌の記事を、不意打ちで発表された世界軍創設の記事に差し替える必要があった。そして新たな記事は、続々と校閲部に回ってきた。
 それらを読みながらロストンは、他国のイメージが塗り替えられていく瞬間に自分が立ち会っていることを実感した。たとえば来週発売予定の週刊誌には中国を叩く記事が載るはずだったが、差し替えられた記事は、世界軍創設において中国が果たした役割を称えるものになっていた。
 そのような差し替えを何十の記事に対して行うために、その日は社員の誰もが徹夜で残業せざるを得なかった。ロストンも殺到してくる記事を相手に、眠気と戦いながら用語のダブルチェックを続けた。
 休憩なしに夜通し働き、ようやく朝の四時ごろになって当日発信する記事の差し替えが終わった。だが、全てが一段落したわけではなかった。次の日の新聞記事と、週刊誌の対応は済んでいなかった。そのためロストンを含めた多くの社員は帰宅せずに、時々仮眠をとりながら、作業を続けた。大変な仕事量で、社員たちは昼休みなどの休憩なしに働いた。
 そして夕方になる頃、ようやく校閲部に回ってくる記事の量が少なくなり、夜七時になって全ての差し替えが終わった。社員を総動員した丸一日の作業の末、新たな状況に合わせてイメージを塗り替えるというメディアの使命は達成されたのだ。
 ロストンは重労働から解放されると、小包の入ったカバンを背負い、身体を引きずるようにして会社を出た。仕事が忙しかったため、小包の中を覗く暇もなかった。
 彼は、ミスター・アーリントンの店の部屋へと向かった。そこでジェーンと会う約束をしていた。眠気が襲ってきたので交通機関の中で仮眠をとった。
 しばらくして着いた店は、営業時間が過ぎて正面の入り口はもう閉まっていたので、彼は横の非常階段から二階に上がった。
 さっそく部屋のすぐ隣の浴室で体を洗って、身体の汚れと臭いをきれいに落とした。
 疲れているはずだったが、いつの間にか眠気が吹き飛び、眼が覚めていた。交通機関の中で仮眠をとり、シャワーを浴びてさっぱりしたせいもあるが、もう少しで彼女に会えることに、そしてやっとあの本を読めることに、徐々に興奮してきたのだった。
 彼は、以前ミスター・アーリントンに教えてもらった通りに、暖炉の給油口にエタノールを注入し、火をつけた。暖炉のなかで黄色い炎が広がり、静かに揺れる。
 彼は窓を開けて換気をし、暫くしてまた閉めた。胸が高鳴っていた。ようやくあの本が読めるのだ。彼は部屋に残ってあったインスタントコーヒーの粉末をお湯に入れ、椅子に腰を下ろした。
 カバンから小包を取り出し、開いてみると、中にあったのは白色カバーの薄い本だった。色あせや汚れがまったくなく、使用感がなかった。
 彼は思い出した。そういえば、オフィールドはこの本の扱いに細心の注意を払っていると言っていた。回し読みをすると指紋が付いてしまうので、人に渡す時は、新しくプリントしてから渡すのかもしれない。
 カバーには何も書いていなかったが、それをめくると、中表紙にタイトルと著者名が書いてあった。

 グローバル民主資本主義の本質

ソル・ストーンズ

 ロストンはページをめくり、読み始めた。

第一章 

寛容は不寛容なり

 物事には明確な上下関係があり、その上下関係の秩序が世界を安定させてきた。昔の社会では上が下を賢明に統治し、下が上に従うことで混乱が避けられていた。古くから上に位置するのは白人、西洋文明、キリスト教であり、下に位置するのは有色人種、非西洋文明、邪教であった。たしかに、過去において有色人種が白人を打ち負かしたり、非西洋文明が栄えたりした時代もあった。だがそれらは例外でしかない。総じて白人や西洋文明の方が優越であるという本質は決して変わらず、平時においても激動の時代においても、それは常に明らかであった。これらの上と下は、いくら強くかき混ぜたところで、まるで下に沈む水と上に浮かぶ油のように上下がはっきりと分かれるものである。
 
 ロストンは本から目を離して、コーヒーに手を伸ばした。今この本を読んでいるという事実に自分が舞い上がっているのを感じ、心を少し落ち着かせるためであった。誰かに通報される心配のない隠れ家で、社会でタブー視される禁書を密かに読んでいることに彼は興奮を覚えた。
 街は静まり返っていて、外からは微かな音さえ聞こえない。暖炉で暖まった空気が心地よく部屋を包み始めていた。彼はコーヒーを一口含み、その味と香りをじっくり味わった。そして再び本に目を落とした。だが不意に本の全体の流れが気になり、後ろの方のページを開いてみた。ちょうど第三章の始まりだった。タイトルが気になり、順序は逆だが読み進めてみることにした。

第三章

多様化は一体化なり

 前世紀から、世界のさらなるグローバル化は予見されていた。アメリカ大陸、アジア、中東、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカの間では、すでに人と物の移動が拡大していたのである。国家間の国境、地理上の境界線は意味を失いつつあった。戦争によってグローバル化の潮流が一度中断した時期もあるが、終戦とともにそれは再び勢いを取り戻した。
 グローバル化は、単なる国家間交流の拡大だけを意味するものではなかった。それは、大資本家たちが国境を越えて物理的かつ精神的に人々を操り、従わせるための道具であった。だが、かれらが表に出てグローバル化を唱えたわけではない。それを積極的に唱えたのは大衆であった。大資本家たちは巧みに大衆を洗脳し、大衆が自主的にグローバル化を推し進めるように誘導したのである。人々は信じ切っている。グローバル化は、経済成長率と生活水準を高めるので、庶民にとっても望ましいことであると。そして大衆がそれを信じ切った結果、グローバル化の潮流は揺るぎないものになった。自国でテロが起きて数多くの死傷者が出ても、諸国の政府と国民はグローバル化と多文化主義への支持を止めようとしなかった。
 現代におけるグローバル化の本質を理解しようとするならば、まず、それが大資本家たちに決定的な勝利をもたらした点を理解しなければならない。グローバル化の名のもとに広がる、国境を越えた企業や個人の横のつながりは、各国の持っていた政治的・経済的な自主権と独立性を崩してしまった。国家間で生産が分業化され、資本移動が増えて、経済的な相互依存性が高まり、もはや各国民は自らの運命を自力で決められなくなった。労働資源も然りで、先進諸国の企業は、自国民の労働者を賃金が高いという理由で雇わず、南アジアやアフリカの安い労働力を使っている。そのため諸国は、たとえ国益のために外国人を締め出す必要性が出てきても、もはやそうすることができない。このように、大資本家たちは人と物と資本の移動をめぐる規制を撤廃させ、国家間の相互依存性を高めることで、国家の自主権を崩した。そして、国家が弱体化したところでかれらがこの世界を乗っ取り、支配するようになったのである。もはやこの地球上において、大資本家たちの資本に支配されていない領域は存在しない。
 メディア・企業家・政治家・学者の口を利用した印象操作は、大資本家たちの支配手段の一つである。かれらがよく口にするのは、グローバル化が物と労働者の供給を効率化するという主張である。国家間の取引が自由で関税が低いほど、物が余って安くなっている場所から物が足りず価格が高くなっている場所へと物が売られ、前者では無駄な在庫が減り、後者では物不足が解消されるという。労働力も同じで、国家間の行き来が自由であれば、失業率が高い国の失業者が労働力不足の国に移って働くことになる。それによって、失業率が高い国は失業者増加による貧困と、社会保障費や犯罪の増加を回避でき、労働力不足だった国は労働者が増えて生産を増やせるというわけである。また、かれらは、途上国労働者の安い賃金のおかげで製品が安く生産できるようになり、世界の生活水準が向上したと主張する。途上国に仕事を奪われた先進国の労働者もそのおかげで物を安く買えるのだから、実はグローバル化の恩恵を受けているというわけである。
 だが、かれらがいくら正当化しようと、先進諸国の中流層と下流層が没落しつつある事実は疑いようがない。一握りの例外を除いて、経済的不平等は拡大しているのだ。
 大資本家たちは労働者を搾取の対象として見ており、労働者を働かせるために、労働者が目先の欲求に夢中になるように仕向けている。グローバル化はそのための方法でもある。昔の社会は、食糧不足が大きな問題であったため、食料以外のものに対する消費欲は緊急課題ではなかった。だが、グローバル化によって世界中の安い食料の輸出入が拡大した現在、昔と比べて食事にありつける人が多くなり、人々の意識はお腹を満たすこと以外に向かっている。飢えていた人間が満腹になれば、意識はもっと別の欲求に向かうのである。物が溢れる環境で、大衆は基本的な衣食住の欲求を満たした後でも消費欲を募らせていくが、そのように物足りなさを感じ続けさせるのが大資本家たちの意図である。もはや、飢えるか飢えないかの問題ではない。問題は、隣の人より高級な料理を食べているか、もっと良い家に住んでいるか、もっと良い車に乗っているかである。ほんの僅かな収入の違いをもって人々はお互いを比較して嫉妬心や優越感を覚える。下にいる者は上にいる者に追いつくために必死に働き、上にいる者はさらに上にいくために、そして下にいる者に追いつかれないために、必死に働く。そのように消費欲と競争心を持たせることで、大資本家たちは人々をさらに働かせ、物やサービスの生産が拡大するように仕向けているのだ。
 もちろん、働いた分がそのまま労働者の収入になるのであれば問題はない。だが実際のところ、途上国の労働者か先進国の労働者かに関わらず、労働者が生み出す富の大きな割合は、大資本家の取り分になる。大資本家は労働者たちが働いている企業そのもの、労働者たちが使う設備、労働者たちが賃料を支払う土地や建物、労働者たちが依存する金融機関、労働者たちが住む地域、これらの全てを所有しているからである。直接的な所有者は何百万人といるため、一見、所有者は少数の大資本家たちではなく、大勢の富裕層のように見える。だが、大資本家たちはその大勢の所有者たちの所有物を、株・社債・公債の保有という形で所有しているのである。つまり、労働者の取り分になるはずだったものは、まず企業、土地と建物の所有者、金融機関、政府へと流れ、次にそれらを所有する大資本家へと流れていく。大資本家の下には、富裕層、準富裕層、アッパーマス層、マス層、貧民層があるが、これらの層はいくら懸命に働き、大成功を収めても、もはや大資本家の資産規模に追いつくことができず、むしろ大資本家の富を増やすことに貢献してしまう。なぜなら、これらの層の生み出した価値の大半が最終的には大資本家に吸い取られるからである。
 しかし労働者を搾取する力があるからといって、労働者の取り分を減らしすぎてもならないことを大資本家たちは心得ている。不満が募ると、共産主義が台頭した時のように、革命が起きてしまうからである。したがって大資本家たちは、労働者の所得をほんの少しずつ増加させることで、不満を少しずつガス抜きし、働かせ続けるという方法を取っている。また、格差への不満を抑えるために、庶民たちも成功してのし上がれる環境を整えている。資本力のない者がそれを持つ者に勝つのは難しいため、庶民が実際に富豪にまでなるのは稀だが、まったく不可能なわけではない。つまり、どうにかすれば自分も成功できるかもしれないと期待を持たせることで、かれらは庶民の不満を抑え込んできたのだ。自らの努力で状況が変えられるかもしれないという希望が、人々を従順にさせるのである。そして、格差への不満を抑えるもう一つの方法は、格差を克服できずにいる境遇を自分のせいだと思わせることである。大衆に義務教育の機会を与え、複数の道を提示し、道とは自分が切り開くもの、全ては自分の努力次第であると教育する。そうすれば失敗した場合も、それは他人のせいではなく自分のせいだと自ら納得する。支配されている側が自らの意志で支配者に対する不満を抑え込むのである。
 革命家と大衆が決起して大資本家の支配を覆した事例がないわけではない。過去には共産主義が台頭して、階級の撤廃を推進したこともあった。だが共産主義による階級の撤廃は、格差問題の解決にはつながらなかった。階級の撤廃は、人々がすでに味わってしまった物欲と両立しないものだった。物欲に囚われた党員たちは、共産党を頂点とする新たな階級社会を作った。階級を撤廃しても、新たな階級が生まれるだけなのだ。そして共産主義の国々も結局、民衆が蜂起して崩壊するか、または、そうなる前に資本主義を採用するようになった。
 だが共産主義の失敗は一つの大きな教訓を残した。それは、消費欲と所有欲を否定するのではなく、それらを利用した方が、支配が安定するということだった。物の生産が増えて贅沢品が溢れるようになれば、大衆は常に物足りなさを感じるようになる。するとかれらはそれを満たすことに気が向いて、物を買うための収入を得ようと自発的にあくせくと働く。無論、そのように人々を意欲的に働かせる方法は、資本主義の初期段階である19世紀には一部の国ですでに確立していた。だがほとんどの共産圏が崩壊した20世紀後半以降になって、さらに広範囲で、全面的に実践されるようになったのだ。そして物足りなさと物欲を感じる大衆は、物をもっと安く豊富に手に入れるために、貿易障壁の撤廃を積極的に支持するようになった。
 グローバル化を力強く推進するためには、大衆だけでなく、世界市民連合の中心メンバーたちもその積極的な支持者となる必要があった。かれらこそが、世界の経済的・法律的・政治的な制度を整備する実務家だからである。かれらは一般大衆とは違い、背後で物事を操る大資本家たちの存在を認知している。中心メンバーに選ばれると、仕事をする上で知る必要があるからと、連合側から極秘情報としてその存在を知らされるのだ。ただし存在を知るだけであって、接触があるわけではない。実のところ、大資本家たちはかれらを操るために直接指令を出す必要もない。なぜなら、そもそも連合の中心メンバー達は、大資本家たちが作り上げた価値観と制度の中で生まれ育ち、それに適合しているがために社会的な成功を収め、連合の中心メンバーになれたからである。かれらは、疑いをもって事実を検証する冷静な側面を持つ反面、グローバル化とそれがもたらす多文化主義の正義を無条件に信仰する。生まれた時からそう洗脳されているからである。誰かの指令を受けなくても、かれらは自らの信念にしたがって自発的に率先してグローバル化を推進するのだ。
 たしかに、ごく稀にではあるが、グローバル化の恩恵の多くが大資本家たちの取り分になっていることに気付いた連合の中心メンバーが、グローバル化への支持を止め、異端派へと転向するケースはある。その一人が、この私、ソル・ストーンズである。だがほとんどのメンバーは、それを知った後でもグローバル化への支持を続ける。グローバル化が富と共に搾取も生んでいるという矛盾は、かれらの得意な”現実の多面性″の視点によって解消されてしまうのだ。つまりかれらは、グローバル化には悪い側面もあるが、良い側面もあり、総合的にみて人々の暮らしを良くするから望ましいものであると自らを納得させるのである。
 もっとも、グローバル化を推進すると同時に大資本家のグローバル資本を規制することはできないため、連合がグローバル化を推し進める限りは、現状に疑問を持ったところで大資本家に制約をかける方法はない。大資本家を引き摺り下ろす方法があるとすれば、それはグローバル化を断ち切ること以外にない。すなわち、グローバル化を推進する体制を転覆するしかないのだ。
 世界市民連合と大資本家たちにより、グローバル化は様々な方面で推進されてきた。国境を越えた人々の交流拡大もその一つである。観光客の増加、移民の流出入、文化の輸出入によっても国境を越えた交流は拡大しているが、連合がもっとも力を入れているものの一つが科学面での交流である。つまり、国籍や民族や宗教の異なる科学者や技術者たちが現在、あらゆる分野で知的交流と共同研究を行い、新たな技術を絶え間なく開発している。連合が科学面での交流を強く推し進める理由は、単に科学と技術の進歩のためだけではない。もう一つの目的は、国・宗教・文化・民族・人種の異なる人々を科学という共通の価値観で繋ぎ止めて一体化させるためである。科学的進歩という旗のもとに宗教や文化の異なる人々を結集させようとしているのだ。つまり、国・宗教・文化・民族・人種に基づく人々の帰属意識を解体し、それに代わる”科学的な共同体″という新たな帰属意識をかれらは作り上げている。そうすることで、人々のグローバル化への支持はさらに強まっていくのだ。
 戦後、科学は飛躍的に発展し、科学的な思考法も普及した。英語の”サイエンス″は実験と実証を通した事実や理論の検証というニュアンスがあるが、そのような意味での科学を推進するために、英語の”サイエンス″は非英語圏のオープンスピーク用語になっている。今や、科学的な方法論と価値観はあらゆる領域に適用されるようになった。人々は神や観念論が科学的に検証できないものだとして語ることを止め、実験によって検証されるものだけを信じるようになった。愛や道徳まで科学的な検証の対象として扱われ、計量的に分析される始末である。理系の科学のみならず、政治・社会・経済を扱う社会科学においても、哲学・宗教・文学を扱う人文科学においても、実験と計量分析による検証が行われ、それがグローバル・スタンダードな学問の方法論と見なされるようになった。
 グローバル化は他の方面でも推進されてきた。軍縮もその一つである。つまり、大資本家たちと連合は各国の軍備縮小を推し進め、軍事費を削り、軍事費にあてられていた予算が国際的な人・物・サービスの移動のために使われるように仕向けた。国家間の戦争はグローバル化を中断させるため、軍縮によって戦争勃発の可能性を低くすることは、グローバル化を推し進める上でも重要となる。
 国家間の制度的な壁を取り崩すのもグローバル化の一環である。連合は国家間に存在する制度の壁を壊し続けており、たとえば、世界のどこかで作られた物は、国境に阻まれることなく地球全土に速やかに伝搬するようになった。以前は、特に医療やバイオテクノロジーの分野において、各国の官庁と該当機関が新技術の安全性などを検証してからそれを受け入れていた。それは自国を守るために必要な過程である。見境なく受け入れるのではなく、自国にどのような好影響と悪影響をもたらすのかをしっかり検証しなければならない。にもかかわらず連合は、グローバル化の妨げになるという理由で、国家間の壁を乱暴に壊してしまった。結果、今では何もかもが筒抜けで、各国は自らの判断で他国のものを取捨選択することができない。
 技術だけでなく、文化の面においても同じことが言える。今では異国文化も外国人も如何なる制限もなしに自国に入ってくる。一つの国の中で異なる文化が入り混じり、積み上げてきた固有文化が汚され、破壊されている。街は外国人で溢れ、人々は自国語を読み書きする能力すらままならないうちに外国語を学び、外国人の子供を産んで、固有の民族性を失いつつある。そしてその現象は全ての国で起きているため、結果的に全ての国がみな同じような多文化的な雰囲気になってしまう。アメリカにいようが、フランスにいようが、オーストラリアにいようが、街中でムスリムが頭にヒジャブを着用しているし、中国人がジーンズを穿いて歩いているし、人々はお昼にインドのナンを口に入れている。文化の混合を推進する多文化主義は、むしろ文化を均一化させるのだ。つまり、グローバル化は人の移動と文化の伝搬を自由にすることで世界を開かれた空間にしているように見えて、実は、全てが同じになってしまうような閉じた世界を作り上げている。違う色の絵の具を全部混ぜれば一つの同じ色になってしまうのと同じである。
 文化だけでなく、思想(政治思想・経済思想・社会思想)についても同じことが言える。世界には違う名前のついた思想が幾つもあるが、大まかには同じような思想になってしまっている。たとえばアメリカでは”アメリカン・プルーラリズム″が、ヨーロッパやオセアニアでは”グローバル・デモクラティック・キャピタリズム″が、アジアや中東やアフリカでは”ネオ・リベラル・デモクラシー″が主流だが、これらの政治経済思想は、お互いにニュアンスの違いはあるものの、内容において大きな違いはない。これらの思想はいずれも、多文化主義を支持し、グローバル化が全ての人と国に大きな利益をもたらすと論じてそれを擁護するのだ。だが、これらの思想は、グローバル化によって国そのものが解体されていることには触れない。世界市民連合も、自らが推し進めるグローバル化がむしろ世界を閉じたものにしている矛盾について、見て見ぬふりをしている。グローバル化が極端に推し進められることでグローバル化はその性質を変えてしまったが、連合はそれを認めようとしないのだ。
 ここでもう一度強調せねばなるまい。社会の多様化を推し進めるグローバル化は、むしろ社会を均一化してしまう。一見、様々なものが混ざって多様化するように見えるが、多様化の感じがどこも同じになるのだ。どの国に行っても、同じようにアラブ人とアジア人と黒人が行き交い、人々は同じように多種多様なデザインの服を着て、同じように多種多様な料理を食べる。全ては同じような感じで多様化され、個性が効率よく大量生産される。グローバル化が完成した世界は閉じられた空間であり、いかなる異質なものも、特有のものも、神秘的なものも存在しなくなるのである。
 過去において諸国は、お互いの独立性を保つ範囲で、自国の利益になる範囲を見極めながら、慎重にグローバル化を行ったものだ。だが今では、維持すべき国家の独立性というものは存在しない。もはやどの国も、グローバル化の波に逆らう自主的な法律や政策を実施することができない。現在のグローバル化は、国の独立性や固有性を保つためではなく、むしろ独自の制度・文化・政策を無くすためのものになっている。グローバル化によって、全てはグローバル・スタンダードに合わせた均一化したものになっているのだ。これこそが、「多様化は一体化なり」という世界市民連合のスローガンの隠れた本当の意味である。人々はそれを、「多様性の容認が社会に調和をもたらす」という意味で教わっているが、そこに隠された本当の意味は、多様性の名の下に全てを均一化すれば、世界をコントロールしやすくなるというものだ。

 
 ロストンは本から目を離した。
 部屋は静穏に包まれている。彼は秘密の隠れ家で禁書をこっそり読んでいるという非日常的な感覚に浸っていた。
 本の内容は魅力的で、彼を興奮させた。書かれていることの多くがはじめて知ることで、未知の世界からの贈り物のように感じられた。自分で突き止めることのできなかった隠れた真実を詳細に説明してくれているのだ。ストーンズはかつて世界市民連合の中心メンバーだったので、色々な内部情報を得ていたに違いない。
 本を最初から読むために彼は再び第一章へとページをめくった。
 だがその時だった。非常階段を駆け上る足音が聞こえた。
 彼ははっとして、椅子から立ちあがり、部屋のドアを開いた。間もなく向こうからジェーンが現れ、彼に飛び込んできた。
 二人は抱き合い、軽い口づけをした。久しぶりの再会だった。
「おかえり」唇を離しながらロストンが言った。「今、あの本を読んでいたんだ」
「わたしもはやく読んでみたい」彼女はそう言うと、自分のバッグを下に置き、暖炉に歩み寄って、両手を前に出しながら冷えた身体を温めた。外は相当寒いらしかった。
 白い結露ができている窓の隙間から、聞こえるか聞こえないかぐらいの微かな歌声が入ってきていた。おそらく例の、隣の建物の女性だ。窓から覗き込みはしなかったが、いつものように家事をしながら歌っているのだろうと思われた。
 二人が本の話題に戻ったのは、彼が見た軍事パレードのこと、仕事で二日間缶詰になっていたこと、ホリデーシーズン中に彼女の家族に起きたことなどを話し終えてからだった。
 ジェーンは、デスクの上に置いてあった本を手にした。
「これがその本?」
「うん。一緒に読もうか。僕が後でもいいけど」
「密着して座らないと一緒に読めない」彼女が笑いながら言った。
 二人はソファにもたれて肩を寄せ合った。ロストンの膝で本を支え、二人はページを眺めた。

第一章 

寛容は不寛容なり

 物事には明確な上下関係があり、その上下関係の秩序が世界を安定させてきた。昔の社会では上が下を賢明に統治し、下が上に従うことで混乱が避けられていた。古くから上に位置するのは白人、西洋文明、キリスト教であり、下に位置するのは有色人種、非西洋文明、邪教であった。たしかに、過去において有色人種が白人を打ち負かしたり、非西洋文明が栄えたりした時代もあった。だがそれらは例外でしかない。総じて白人や西洋文明の方が優越であるという本質は決して変わらず、平時においても激動の時代においても、それは常に明らかであった。これらの上と下は、いくら強くかき混ぜたところで、まるで下に沈む水と上に浮かぶ油のように上下がはっきりと分かれるものである。

「ページめくっていい?」ロストンが言った。
「うん、読んだ」
 彼はページをめくり、またじっくり黙読し始めた。

 古くから、上と下にいる者たちのそれぞれの目的は完全に一致していた。すなわち、社会の秩序を保ち、それを安定化することであった。つまり上層は、下層の人々を保護し、悪しき言動は厳しく罰して、秩序が保たれるように統治した。下層は保護を受ける見返りに上層に忠誠を誓った。上層は治める者としての使命感と責任を、下層は保護を受ける側としての義務をしっかり認識し、各自の位置で各自が果たすべき役割に忠実であった。それが古くから受け継がれてきた社会の自然な姿であった。
 ところが、民主主義と資本主義の理念が普及すると、状況が一変した。歴史とは人類がより大きな自由・平等へと向かう過程であるという歴史観・世界観が広まり、人々は上層階級の命令に従わなくなった。反乱と革命が起き、多くの国が民主資本主義の体制へと移行していった。
 そしてその展開を積極的にサポートし、利用したのが資本家たちであった。過去に教皇、皇帝、貴族、高級軍人などの特権階級に振り回され、自由な経済活動を制限されていた資本家たちは、民衆の怒りを利用してそれまでの特権階級を追放した。そして自らの手に富と権力を集中させたのだった。民主資本主義の下、新たな特権階級となった資本家たちは際限なく資本を展開することが可能になり、かつての特権階級をはるかに超える富と権力を手に入れた。かれらは思想さえ自由に操った。現代の正統派思想であるアメリカン・プルーラリズム(所謂アメプル)とそれが肯定するグローバル化は、国境や宗教や人種の違いに阻まれない自由な資本展開を促進し、資本家たちを潤わせるものであった。そして、その資本家の中で最も成功したのが大資本家たちである。
 無論、資本家・大資本家が台頭する前にも、上層と下層の間に経済的不平等はあった。たとえば王族・貴族と平民の間には大きな格差があった。しかしながら、いくら差があると言っても、両者の所得差が数十万倍も開いているということはなかった。それが今や、大資本家と庶民の間では、それだけの格差が存在するのである。大資本家ほどではないが、富裕層と庶民の間にも千倍以上の所得格差がある。今の世界は、表面的には平等な社会のように見えるが、実際のところは、未だかつてない不平等社会である。
 問題は貧富格差だけではない。人種も民族も宗教も性別も国籍もまちまちである大資本家たちは、如何なる既存のコミュニティーにも帰属意識を待たない。したがって、かつての上層が持っていた下層に対する使命感や責任感などあるはずもなく、かれらは庶民を単なる搾取の対象としてしか見ていない。
 歴史を振り返ると、アメプルなどの正統派思想が台頭したのは、先の戦争の最中からであった。正統派思想は、戦前から”自由主義″や”民主資本主義″という名で呼ばれていた価値観を下敷きにしており、その推進役は世界中に散らばっていた。各国の弁護士、科学者、企業の経営者、メディア業界の幹部、銀行の重役、労働組合の代表、医者、大学教授、ジャーナリスト、各種市民団体の代表などが主な推進者で、かれらのイニシアティブの下に世界人口の四分の一にあたる三十億人以上の市民が立ち上がって生まれたのが世界市民連合であった。メンバーの大多数は普通の社会人や学生だったが、より影響力を持つ先述の職業の人達が自然と中心メンバーになっていった。全体的な傾向として、中心メンバーは中流層の少し上の方から準富裕層の間に属するグループで、民主制と資本主義の波に乗って身分を上昇させた者たちだった。
 かれらは、権力に対して多面的な姿勢を持っていた。すなわち、戦後、連合の中心メンバーたちは既得権益を倒すために自らの手に権力を集中させたが、そうすることで自分たちが新たな上層階級になったと見なされることに強い警戒心を抱いていた。故に、かれらは選挙制度を導入し、世界中の市民たちに投票で連合の中心メンバーを選んでもらうようにした。そうすることで、不正を犯したり権力を乱用したりするメンバーが連合に残れないようにし、公正で有能なメンバーが残るようにしたのだ。
 それは一見、自らの権力を制限することのように見える。だがそうすることで連合は、人々の不満を和らげ、人々に問題解決への希望を持たせ、自らの支配をさらに強固なものにしたのだった。そのやり方は、昔の民主制と同じではあるが、違いは、連合がそれを世界規模で行った点である。周知のように、連合の一般メンバーは各国の中心メンバーを選出するための投票権を持ち、かれらの投票により各国で選ばれた者たちが中心メンバーとなる。だが政治家とは違い、中心メンバーはその国の政府に属するのではなく、世界市民連合に属し、その中で諸案件を多数決で決め、権限の範囲内で各国政府にその実行を命ずる。そのように、国家主権が連合に委譲された範囲において、連合は国家の上に立っているのである。
 連合は、スマートスクリーンを通しても、自らの力を制限するように見せかけながらむしろ勢力を拡大した。すなわち連合は、まるで自らの権力を制限するかのように、防犯用スマートスクリーンが撮った記録を第三者機関の同意なしには確認できないという法律を作った。だがそれと引き換えに、連合はスマートスクリーンを世界中に普及させることに成功したのだ。昔の権力者たちは、人々を常に監視することが権力を維持する上で必要不可欠と考え、人々の表面的な言動はもちろんのこと、人々の心の中までも知ろうとして、隣人にスパイを紛れ込ませたり、罪状なしに捕まえて拷問で自白させたりした。そのような多大な労力が必要だった理由は、昔は効率の良い監視技術が無かったからであった。常に誰かが現場にいて尾行しないと、人々の活動を確認できなかったのだ。だが街中に設置されたスマートスクリーンが周りの状況を二十四時間記録し続けるようになって、以前のような監視体制は不要になった。警察やスパイが常に目を光らせなくても、道を歩く人々の顔、動き、話す内容、脳波、持ち物などが一秒の漏れもなく記録され、中央コンピューターに送信され、数十年間保管される。全てはくまなく記録されているため、何か問題が生じた時にだけ記録を確認すれば事足りるのである。監視の目を常に光らせる人間がいなくなったので、一見、監視が緩くなったように見えるが、実質的には以前よりはるかに効率よく、はるかに広い範囲で監視が行われている。
 もう一つ、連合が自らの力を拡大するために行ったのは、大衆が本能的な欲を満たすことに熱中させることだった。私欲・所有欲に目が向けば、社会全体の格差問題などという大きな問題には目が向かなくなり、反体制運動が起きにくくなるのである。したがって連合は、政治的混乱や制度的不備などによって所有権が十分に保護されていなかった途上国でも、それが徹底的に保護される環境を作った。それにより、貧しい地域でも蓄財で裕福になる人が増加し、かれらは連合の強固な支持基盤となった。さらに連合は、政府の無駄遣いや非効率性を強調し、国営企業の民営化を促して、国の所有物を減らすと同時に民間の私有財産を増やした。それで私有財産を増やした民間の人々も、連合の強力な支持基盤となった。
 連合が自らの力を拡大するために行ったのはそれだけではなかった。連合は、体制にとって脅威となる内部と外部の敵の排除にも乗り出した。まず連合は、全世界を自身の影響下に置き、全てを内部化し、外部そのものをなくすことで外部の敵を除去した。それにより、全ての国家は連合の許可なしに自由に行動することができず、もはやこの世界で連合の目と手が届かないところはない。次に連合は、大衆の注意が連合ではなく、大衆自身に向くように仕向けることで内部の敵を除去した。つまり、人々の関心をお互いへの比較に向かわせた。結果、大衆は他人と自分の差を大きく気にし、お互いに対して嫉妬や優越感を抱いて、他人の上に立つことに熱心になった。個人レベルの競争が第一の関心事になったため、かれらの注意は社会的・政治的なことに向かず、体制への批判は限定的なものとなった。
 連合が敵の台頭を防ぐために使っているのは経済的な方法だけではない。イメージ作りにも力を入れている。連合は自分たちに親近感を持たせるためのイメージを作り、そのイメージを人々の意識に刷り込んできた。その代表的なものがグレート・マザーである。それは連合のイメージキャラクターであるが、連合が自分たちの宣伝広告を流す際には必ず登場させている。人のあらゆる欠点、あらゆる失敗、あらゆる敗北、あらゆる間違い、あらゆる無知、あらゆる愚かさ、あらゆる不幸、あらゆる罪を、優しい包容力で暖かく包み込むというのがグレート・マザーのコンセプトである。グレート・マザーは連合のメンバーだけでなく、体制に反感を持つ異端派やトラディショナリスト(通称トラディット)さえも暖かく受け入れる存在とされている。敵や味方を分けずに全てを包み込むというわけである。だが、それは言い換えれば、外部の敵を内部へと取り込んだ挙げ句、無力化させるということだ。グレート・マザーは反対勢力を完全に封じ込めるために作られたイメージなのである。
 内部の敵をなくすには、イメージを刷り込むだけでなく、現実の境遇の違いに人々が不満を持たないようにする必要もある。その方法の一つが、選択の自由の幻想を植え付けることである。たとえば、連合の中心メンバーと一般メンバーとトラディットのどれに属すかは、原則として個人の選択であり、強制されたり世襲されたりするものではないと連合は主張する。一般メンバーや中心メンバーになる上で人種差別も宗教差別もなく、連合の活動に参加して投票権を獲得すれば一般メンバーになれるし、選挙で当選すれば中心メンバーになれる、というわけである。また、たとえ親がトラディットでも子供がそれに従わずに正統派の価値観を持っていれば中心メンバーになり得るし、大都会に住んでいなくても連合の支部は各地域にあり、中央と同等の機能を持っているため、地域格差もないとかれらは主張する。世界のどこに住んでいてもメンバーになるかトラディットになるかを自分で決められるので、自分の境遇に不満を持つ必要がないというわけだ。
 しかし、それは欺瞞である。表面上は機会の平等があっても、実際は世界共通語である英語とオープンスピークの両方が堪能でないと国を超えた仕事ができない。したがって、オープンスピークを拒否するトラディットの家庭で育った者が連合の一般メンバーになれる可能性は、実際のところ皆無である。また、連合の一般メンバーも、オープンスピークと英語が上手にできなければ連合の中で責任のあるポジションに就くことができない。そのため、英語圏の人間が自ずと中心メンバーや影響力のある一般メンバーになる。そして英語圏の人たちは、当然ながら英語圏で流行る文化を共有する。選挙によって中心メンバーが激しく入れ替わってはいるが、その中の多数派が常に同じ言語圏と文化圏の人間である事に変わりはないのだ。また、トラディットを親に持つ子供は、親の価値観に大きく影響されるので、正統派の価値観に基づく義務教育に馴染めず、オープンスピークに接する機会も少ない。義務教育に馴染めないので落第しやすく、低賃金労働者になりやすい。
 つまり、現実の世界では、自分の道を自分で選べるわけではなく、生まれた環境が自分の道を決めているのだ。連合は、不平等を撤廃すると言いながら、結果的には特定の価値観・言語・文化を持つ人々が生きやすく、そうでない人々が不平等な扱いを受ける世界を作り上げている。裕福で、正統派の思想を持ち、英語を話し、西洋文化を共有する子供たちが、親から地位と富を受け継いでいる。一見、黒人やアラブ人やアジア人の中心メンバーがいるという事実が、機会の平等を証明しているように見えるが、それらの成功した有色人種は例外なく上記の裕福で、正統派の思想を持ち、英語を話し、西洋文化を共有するという属性を持っている。
 以上のように、世界市民連合が作り出す世界は、表面上は公平に見えるが、実質的には世襲制である。昔の権力者たちは、いかなる体制も世襲でなければ長く続かないことを見抜いていた。体制を維持するには血のつながりが必要であることをかれらはよく知っていたし、だから王族は王族同士で、貴族は貴族同士で婚姻関係を結んだのだった。教皇を投票で選出するコンクラーヴェでさえも、表面的には民主的な選挙制度のように見えて、権力者たちが賄賂で枢機卿たちの票を買い、自分たちの親族を教皇にすることが多々あった。つまりあらゆる体制は、本質的に、思想や価値観を継承することで維持されるのではなく、親が子に権力と富を受け継がせることで存続するのである。思想と価値観はそのための道具に過ぎない。世界市民連合も例外ではなく、むしろもっとも巧妙な形でそうである。表では誰にでも機会があると謳いながら、裏では自分の子だけに機会を与えているのである。かれらは自由と平等の名の下に、特権を相続しているのだ。
 以上からも分かるように、連合の作り上げた体制は、その表向きの印象と違って、自由と平等を体現したものではない。一見、表現の自由は認められているかのように見え、連合が自分達への批判に対してオープンな態度を持っているかのように見える。たしかに、連合に対する批判や抗議活動を大衆は自由に行うことができる。トラディットさえも、危険思想に該当する主張でない限り、体制を自由に批判することが許されているし、実際かれらは危険思想にならない範囲で抗議デモを行うことがある。だが、危険思想に該当しない範囲で表現の自由を許すということは、危険思想に該当するものは許さないということであり、その危険思想が何であるかは連合側が決めているのだ。何が危険思想であるかの基準は法律によって定められ、細かく定義されており、定義に当てはまる言動を行った場合は法律で罰せられる。つまり、表現の自由を保障しているかのように見えて、実際は、連合にとって都合の悪い意見は全て危険思想に含められ、罰せられているのだ。したがって、本当の意味での批判の自由は許されていない。
 連合とリベラル・ネットワークは、大衆の見解の中に危険思想が混ざっていないかを目を光らせて観察している。リベラル・ネットワークの一員であるからといって連合のメンバーとは限らないが、連合のメンバーはほとんどがリベラル・ネットワークの一員である。世界中に広まっているリベラル・ネットワークは、いつも周りやネット上での出来事にアンテナを張り、人の言葉の端々から危険思想の片鱗を見出しては、構成員のネットワークを利用した捜索と情報交換を行い、危険思想に該当すると判断すれば警察に通報している。
 だが、それだけではない。連合は、人々が表面的に正統派の意見を述べているかだけでなく、心の中も正統派であるかを注意深く観察している。内面にいわゆる危険思想を秘めていた場合、それがいつ表に出てくるか分からないからである。だから連合は、アメプルの理念を用いて人々を内面から教化しようとする。義務教育を受けた人なら誰しも、オープンスピークで言う”普遍的良識″や”陰陽″や”対立の統合″について学んでいて、正統派の理念が何であるかをよく心得ている。そのため人々は、何に対しても正統派の思考法と価値観に照らして良し悪しを判断するようになっている。正統派になるように内面から教化されているのだ。人々は、学校や会社のお昼休みに他人がうっかり口にしてしまう危険思想の小さな証拠も見逃さない。自分自身に対しても、他人に対しても、義務教育で刷り込まれた価値観に基づいて評価をし、それに沿った言動をするのが人として当然のことだと思い込んでいる。それは小さい頃から刷り込まれるもので、”普遍的良識″と呼ばれる。”普遍的良識″とは、何事にも条件反射的に正統派の判断基準、つまり正統派の良識を適用し、その基準に沿った言動をすることを指す。その言動には、無条件にアメプルを支持し、それを批判する意見を危険思想や異端であると毛嫌いすることも含まれる。
 しかし人は、自分の置かれた環境にふと疑問を持ったり、反抗心をおぼえたりすることがある。したがって正統派であり続けるためには、心の中で湧き上がるそのような感情さえ解消しなければならない。そこで連合が利用しているのが、すべての過ちを赦して受け入れてくれるというグレート・マザーのイメージである。そのイメージを通して連合は、自らの体制が人間的な反抗や葛藤や過ちをも優しく包み込むものであると人々の頭に刷り込んで、湧き上がる敵対の感情を武装解除させるのだ。
 連合が利用するのはビジュアルなイメージだけではない。反抗・敵対する者をも受け入れるというイメージは、オープンスピーク用語の”陰陽″を通しても概念化されている。それは陰と陽という、お互い矛盾し合う対義語の組み合わせだが、オープンスピーク辞書によると、陰と陽は対立すると同時に結合した関係でもある。つまり陰陽思想とは、陰のなかに陽の側面があり、陽のなかに陰の側面があるのを認識し、相互破壊的な対立を調和的な対立へと変換する姿勢を指す。これは、同じくオープンスピーク用語である”対立の統合″に通ずる概念である。
 しかし、対立するものを調和させる”陰陽″や”対立の統合″の観点に基づくならば、連合は、いわゆる危険思想や異端を排斥してはならないはずである。正統派と異端派が対立しながらも、共存しなければならないはずなのだ。ところが現実において連合の体制は、危険思想を厳しく罰している。連合は、全てを包み込むと言いながら、気に入らないものを排除するという自己矛盾をおかしているのだ。
 連合は、宗教的な歴史観や国家主義的な歴史観を排除している。対立する歴史観が共存するように努めるのではなく、古くから受け継がれてきた歴史認識を異端であると嘲り、切り捨てる。そして連合は、自らが望む歴史観をもって、過去を自分好みに塗り替えている。かれらが過去の塗り替えに熱心な理由は二つある。一つは、現体制以外の選択肢はないと思わせるためである。要するに、過去が技術も生活も所得も文化も今に比べて劣っていたと強調し、現在への不満を和らげるのだ。連合が過去の上書きに熱心なもう一つの理由は、連合の過ちについて言い訳をするためである。連合が公にしてきた過去の認識は、新事実の発見と新たな分析手法の登場によって度々覆されてきた。例えば、表面上は友好関係にあった国が、実は裏では裏切っていたことが後になって判明したりする。そのような事実の誤認は、体制の信用に傷をつける。そこで連合は、そもそも事実というものは新たな発見によって常に捉え直されるものであると主張し、体制側の認識や判断の間違いが批判されないように仕向けているのだ。ただし、その過去の塗り替え・再解釈の作業は、連合自らの手ではなく、その影響下にある政府や民間研究所やメディアなどによって行われる。連合は自分の手を汚していないので、たとえ事実の誤認に対して批判があったとしても、それは政府や研究所やメディアに向けられることになる。
 過去は新たに発見されるもの、というのはアメプルの考え方でもある。連合は、客観的な過去は存在するものの、人間によるその記録と記憶と解釈にはバイアスがあり、過去は歪められやすいと主張する。たとえ記録と記憶と解釈が一致していても、それらが一つの価値観ないしパラダイムに影響されたものであるならば、それらが描写する過去はバイアスのかかったものになると言う。そして連合は、既存の価値観と歴史観には大きなバイアスが含まれているとし、それらを否定する。だが否定すると言っても、それらを消去する形で否定するのではない。価値観と歴史観の変遷過程を並べ、解釈とは進化するものであると強調する形で、古いものを否定するのだ。つまり、物事の解釈は、原始的で宗教的なものから科学的でバイアスの少ないものへと変遷してきたとかれらは説明する。そして連合こそが、科学的な解釈の推進者であり、貢献者であると言う。
 歴史観に限らず、連合は既存の価値観がバイアスだらけだと主張し、その除去をサポートしている。バイアスを除去することで様々な差別が無くなると同時に、物事の多面的な事実関係が明らかになるのだと言う。昔の人たちによる物事の解釈は、物事がそうあって欲しいという願望が強く反映されたもので、一面的であったと連合は主張する。そのようなバイアスや一面性を回避するために、事実を再解釈する際には自らの希望やバイアスを投影していないか、自分に都合の悪い面を無視していないかを常に警戒しなければならないと言う。この観点は”現実の多面性″と呼ばれ、オープンスピーク用語では”対立の統合″と呼ばれている。”対立の統合″とは、対立しているものは同時にお互いに依存しているという意味である。それはまた、対立している両者に利益をもたらす、調和的な対立を可能にする仕組みをも意味する。その観点から、対立する相手を排除しようとせず、その対立がむしろ自分を利するように工夫することを人々は期待されている。
 この”対立の統合″は体制側の中心的な概念であるが、なぜなら、それによってもたらされる人々の精神分裂が、連合の意図するところだからである。そもそも人というのは、自分や自分の共同体と対立するものが目の前に現れた時、自分をその対立するものから守ろうとするものである。それが自然な本能である。自我や共同体というのは、自らを最優先し、依怙贔屓して、外部から己を守るものなのである。ところが連合は、対立するものが自分を征服しようとしているかも知れない時に、相手を排除せずに、むしろ自分を利するものとして受け入れ、調和的な関係を構築せよと言う。だが、対立しながら調和をするというのは、言語矛盾であり、詭弁にすぎない。それを実践しようとすると、人々は自我を保てずに分裂してしまうだろう。だが実はそれこそが連合の隠れた狙いである。人々が自我と共同体のアイデンティティーを自ら解体するように仕向け、それが解体したところでかれらを支配下に置くというのが連合の狙いなのだ。
 かつて存在した体制は全て、対立する内外の敵との戦いに敗れて崩壊した。そこで連合は、過去の体制とは異なる戦略をとった。つまり、対立するものは実はお互いを利する側面があり、したがって対立するもの同士は率先して譲歩し合うべきだという考え方を広めた。対立するものの受け入れと自我の保全が同時に可能だという思想を広め、対立が過激化するのを未然に防ぎ、体制の支配を強化したのだ。支配のための詭弁なので、当然ながら”対立の統合″の原則を最も破っているのは、それを提唱する連合側である。つまりかれらは、正統派と対立する異端派の思想を受け入れるどころか、徹底的に排除しているのだ。その過激な排他性に比べれば、かれらが危険視するトラディットの方が、むしろ対立する相手に対して柔軟な姿勢を持っていると言えよう。力を持たぬ下層の人々は現実の様々な圧力と妥協し、不本意なものを受け入れなければならない。対立するものと調和的でなければならないのだ。それとは対照的に、連合はグローバル化を強引に進め、立ちはだかるものを徹底的に排除している。
 連合は各国の自主性と独立性を尊重すると公言しているが、本当にそれらを尊重しているわけではない。小国の自主性と独立性を守るためという大義名分で、小国に対する大国の影響力を小さくし、大国に代わって連合が世界をコントロール下に置こうというのが本当の意図である。各国の独立性・自主性を支持すると言いながらそれを奪うという矛盾した言動を行っているのである。だが矛盾はそれだけではない。連合は、社会に存在するあらゆる既得権益を潰しながらも、自分たちが既得権益になっていることを認めない。連合の中心メンバーたちは自らを大衆の公僕であると公言しながら、自らが望む通りに大衆を動かしている。さらに、家族愛のような伝統的な価値観の重要性を強調しながらも、他方では伝統的な家族観を否定するような価値観をメディア経由で刷り込ませている。これらの矛盾した言動は”対立の統合″をかれら自身は実践していないこと、その本当の意図は別にあることを表している。その意図とは、連合に対立しようとする相手を無力化させ、連合の支配を強固にすることである。
 このように、かれらの本当の意図は自由や平等や”対立の統合″の推進ではなく、それらの理念を用いた世界の支配にある。しかし、かれらが世界を支配しようとするさらに根本的な動機は……

 
 ロストンは肩に重みを感じた。
 横を向くと、ジェーンが自分の肩にもたれかかっている。本に集中して気づかなかったが、いつの間にか寝てしまったようだ。だいぶ疲れていたのだろう。外出用のセーターを着たままで、髪も後ろに束ねたままだった。
「ジェーン」と呼んでみた。
 微動だにしない。
「ベッドで寝ないと疲れがとれないよ」
 やはり起きない。
 ぐっすり寝ているのを無理に起こすのも可哀想なので、起きるまで待つことにした。
 ロストンは本の内容を反芻した。
 第一章も第三章と同じで、知らなかった情報が詳しく説明されていた。自分が世界に対して感じ続けてきた違和感と不満には、やはりしっかりとした根拠があったのだと分かった。自分は少数派で、少数派は異端派とされているが、少数派だから間違いであるというわけではない。もし全世界が賛同してくれなくても、正しいものは正しいのだ。
 部屋を見渡すと、先ほどより少しだけ暗くなっていた。暖炉の火が弱くなったのだ。彼女の方をもう一度見ると、寄りかかった彼女の顔と身体に、くっきりとした影ができている。
 自分たちは危ないことをしていて、捕まるかもしれない。でもそれは、自分たちの意思で自ら選び取った道だった。正しさは多数決で決まるものではない。全世界が賛同してくれなくても正しいものは正しいのだ。彼は心の中でそう呟いた。




10

 眠気に襲われ、ロストンもいつの間にか寝ていた。でも短い間だったようで、時計は夜の十時を指していた。
 隣の建物からいつもの歌声が聞こえてくる。

 思いは叶うはず 恋の予感がするから
 二人の瞬間は 永遠につづく
 あの目 あの言葉 あの夢が
 わたしの心を いつも満たしてくれる

 歌を聴いていると、ジェーンが起きてきた。そして目をこすりながら部屋の時計を見た。
「寝ちゃったみたい」
「疲れてたんだね。僕も少し寝てた」
「火が消えそう」そう言うと、彼女は徐に立ち上がって、暖炉に近づき、ジェリ缶を手に取った。
「軽い。缶のなかが空だわ」
「ミスター・アーリントンが持っているかもしれないけど、もう夜遅いから電気暖房に切り替えるよ」
「うん、そうしよう。私、着替えるから後ろ向いてくれる?」彼女が少し恥ずかしそうに言った。
「分かった」ロストンは彼女に背を向け、窓のカーテンの方を眺めた。相変わらず、隣の建物から女性の歌声が聞こえてくる。

 心地よさに つつまれて
 いつまでも きっと忘れないわ
 今感じている 嬉しさと切なさは
 時とともに 消え去っていく
 
 彼は窓に近寄り、カーテンを少しだけ開けて、隣の建物からこぼれ出る明かりを眺めた。掃除をしている女性のシルエットが見える。ふと、ずっと家事をしているあの女性は、あの部屋に住む住人ではなく、もしかしたら家政婦かもしれない、と思った。それとも、住人ではあるが、家族が多くてやるべき家事が多いのだろうか。
 そう考えていると、ジェーンが彼の横に来て、こっそり覗き見る仕草をした。人の家の中をじろじろ見るのはいけないことだったが、その忙しく働くシルエットには目を引き付ける何かがあった。顔の表情や着ている服などは影で見えないが、動きが機敏で逞しい。今まで彼は人があれほど懸命に家事をする姿を見たことがなかった。今の時代、掃除と料理はもちろんのこと、服を洗濯機と乾燥機に入れたり、取り出して畳んで収納したりする作業も、全てをロボットがやってくれる。人が直接やらなければならない家事はほぼないのだ。ところがあの女性は手足を一心不乱に動かして自分の力だけでそれをやっている。その姿には人間としての美しさのようなものがあった。
「頑張ってるね」ロストンが言った。
「運動にもなりそうだわ」
「たしかに、シルエットを見るかぎり、太ってはいないね」
 彼はそっとジェーンの手をつないだ。彼女も彼に寄り添った。
 いつか二人が結婚をして、子供を産んだら、ジェーンはあの女性のようになるだろうか、と彼は思った。ロボットに任せれば苦労はしないが、家事は昔から女性がやってきたものだからか、家事をする姿の中に女性らしさというか、女性の理想像みたいなものがある。ロボットに頼らないあの女性には人としての心、女性らしい心がある。
 ふと見上げると、建物の間から夜空が見えた。星は一つもない。空も、グローバル化と同じで、ヨーロッパ、アジア、アフリカなどの区切り無しにつながっている。そして夜空と同じく、全世界も暗闇に覆われている。しかし暗闇の下で、人としての尊厳と心を失っていない、あのような女性もいる。よく探せばきっと、そういう人たちが世界中にいるはずだ。世界中に点在しているかれらが、現状を覆す潜在力を秘めている。
 そう、と彼は頷いた。希望はトラディットたちの中にあるのだ。まだ読み終えていないが、ストーンズの書いたあの本の結論もそうであるに違いない。点在するかれらの力が結集すれば、未来は変わるはずだ。かれらの作る新たな世界において、今の異端派は正統派となり、今の正統派は異端派となるだろう。我々は不当な扱いを受けなくて済むだろう。いつか世界中のトラディットが立ち上がる日がきっと来る。それまでにかれらは、正統派が蔑ろにする伝統的な価値観と人間の尊厳をしっかりと受け継いでいくのだ。
「覚えてる?」ロストンが言った。「あの日、スクラップの山のところで突然カラスが鳴いたこと」
「うん、覚えている。それで私がびっくりしてあなたの腕に抱き付いた。わたしたちのために鳴いたのかもしれないね」
 そう、カラスは僕たちのために鳴く。トラディットは生きている証を歌う。世間ではボーカロイドが歌う曲が流行っているが、トラディット地区には自分の声で歌い、人の歌声に耳を傾ける人たちがいる。かれらの歌声はいずれ大きな合唱となり、世界中に響き渡るだろう。もしかしたらそれはずっと先の事かも知れない。だが、僕たちは今を生きている。今ここで出来ることがある。それは、二足す二が四のように当然視される正統派の価値観を拒み続けることだ。かれらの思想に洗脳されず、伝統的な価値観を保ち続け、僕たちは未来の革命を準備する。  
「ぼくたちは今を生きている」ロストンが言った。
「そう、わたしたちは生きている」ジェーンが答えた。
「そう、あなた方はこれからも長く生きるでしょう」
 突然、背後から知らない声が聞こえた。
 二人は驚いてドアの方へ振り向いた。
「この先も長いから、ちゃんと教育を受けた方がいい」同じ声が聞こえた。
「どなた?」ジェーンが緊張した声で訊いた。
「警察です。令状が出ているので、開けますよ」
 二人は身体が固まり、まったく動けなかった。ロストンは状況を把握できずにいた。令状ということは、逮捕されるということなのだろうか? 危険思想犯ということだろうか?
 二人で窓から逃げ出そうかという考えが一瞬彼の頭をよぎったが、たとえここで逃げられたとしても、捕まるのは時間の問題だった。目をつけられたが最後、体制側の監視網に長期間ひっかからずにいるのは無理なことだ。オフィールドからもらったリストバンドを巻いていれば、とロストンは悔やんだ。
 その時、ドアが開いた。
 警察の制服を着た大柄の男が片手に警察手帳をかざしている。その後ろにも男女の警察官がいた。
「お二人が危険思想犯である証拠が挙がっているので令状が出ています。これから逮捕します」と大柄の警官が言うと、後ろにいた男女の警官が前に出てきて、ロストンとジェーンの後ろに回り込み、手錠をかけた。
 突然のことに、二人はなされるがままだった。窓の外からは依然としてあの女性の歌が聞こえてくる。だが、さっきまでの印象と違い、なぜか少し、人工的な声のような気がした。
「あなた達には黙秘権があります。あなた達の話すことは法廷で不利な証拠として用いられる場合があります。弁護士の立ち会いを求める権利がありますが、もし経済的に自分で弁護士に依頼することができないのであれば、公選弁護人を付けてもらう権利があります」
 大柄の男がそう言い終えると、他の二人の警官がそれぞれロストンとジェーンの腕を強く掴んだ。
 その時、ロストンは咄嗟に、腕を激しく動かした。意識的にではなく、反射的なものだった。だが動きが激し過ぎたのか、腕を掴んでいた男の警官がよろめき、その手がデスクの上のスペースドームに当たった。そしてそれは床に落ち、大きな音とともに割れ、中のものが飛び散った。
 即座に、大柄の男がロストンの両腕を強く取り押さえた。
「罪を重ねずに、じっとしているんだ!」彼はそう言って、よろめいた警官が姿勢を回復するのを待った。
 床には、ドームの中で星屑のように輝いていたものが、光を失って砂のように散らばっているのが見えた。
 よろめいていた警官が姿勢を回復し、ロストンは二人の男の警官に両腕をしっかりロックされた。ジェーンは女性警官の横で思い詰めた表情をしている。
「また会えるよね」ジェーンが言った。
「うん……きっとまた会える」ロストンが小声で答えた。
 部屋を出ると、廊下にはミスター・アーリントンが立っていた。こっちに目を合わせず、緊張しているように見えた。彼は外から部屋の中を一瞥して、割れたスペースドームを確認した。
「どうやら掃除が必要のようですね。あとで私がやりましょう」
 そう話す彼は、どこか、いつもと印象が違っていた。トラディットの話す英語のイントネーションではなく、まるでグローバル企業で働く都会人のようなイントネーションだった。またその風貌も、黒く染めていた髪が色落ちして白くなっており、普段とはまるで違う印象を与えた。
 ふとロストンの頭に、この人は実はトラディットではなく、体制側の人間なのではないかという疑問がよぎった。家電製品の中に監視機能が密かに組み込まれているかを調べているというのは実は真っ赤な嘘で、むしろ彼がそれを組み込んで売っていたのではないだろうか? 本当のところは、この地区を監視するためにトラディットに成り済まして潜伏していたリベラル・ネットワークの一員なのではないか? 
 そこに考えが及ぶと、ロストンは震えあがると同時に、怒りが込み上げてきた。
「わたしたちを売ったのですか!」ロストンが睨みながら言った。
「そんな、私は通報していませんよ」と彼はびっくりしたような声で答えた。「警察が来て危険思想犯を逮捕すると言ったので、道を通しただけです」 
 嘘だ、とロストンは思った。だがもはや誰のせいであろうと、捕まってしまったことに変わりはなかった。自分たちはとうとう捕まってしまったのだ。
 驚いた表情のミスター・アーリントンを後にして、二人は警官たちに腕を引っ張られながら階段を下りていった。




第三部






 ロストンは校外にある博愛園の関連施設にいた。
 施設は複数の建物と公園から成るが、いま彼がいるのは天井がガラスのドームになっている大きな建物で、中は野球場ぐらいの広さがあった。その広々とした空間に太陽の明るい光が降り注ぎ、ドームの形に合わせて円筒状になっているベージュの壁にも大きな窓が多くついていて、外の明かりと景色を招き入れている。そして窓の向こうには自然公園が見え、小鳥の囀りが微かに聞こえていた。床の中心には円が描いてあり、その中心に向かって、椅子がまばらに置いてある。
 逮捕後、留置場を経てこちらに移送されてから、ロストンはゆったりとした時間を過ごしていた。忙しいことは何もなく、一人でいたい時は隣接する建物の個室で休めたし、たまに対話プログラムがある時にはこのドームに来て参加した。食堂の給食も、栄養バランスが良く、美味しかった。スマートスクリーンらしきものも見当たらない。
 先ほど昼食を食べて満腹になったロストンは、運動で消化させようと、白い病衣を着たまま、ドームの中をゆっくり歩き回っていた。ドームの中だけでなく、施設の敷地内であればどこでも自由に歩くことが許されており、実際に誰も邪魔をしなかった。
「こんにちは、ミスター・リバーズ」と、ある女性が声をかけると、笑顔を浮かばせて通り過ぎた。ここで勤めている看護婦だった。
 彼はドームの中をゆっくりと回り続けながら、今までの一週間を振り返った。
 はじめに連れて行かれたのは、こことは環境のまったく違う、警察の留置場だった。収監された人たちはみな同じ鼠色の服を着て、同じものを食べ、同じサイズの檻に入り、同じスケジュールで動いていた。だが、それまで自分の持っていたイメージと違って、檻の中の簡易ベッド、トイレ、床は清潔だった。配備された小型ロボットが常に掃除をしているからだった。試しに壁にペンで落書きをしてみたが、起きた時には綺麗に消えていた。留置場は音も静かで、セキュリティーのためか、所々にノイズキャンセリング機器が設置されているようだった。斜め向かいの檻の中で何かを叫ぶように口をパクパクと動かす人がいたが、一体何を叫んでいるのかまったく聞こえなかった。おそらく暴言を吐いているのだと推測できたが、看守も聞こえないらしく、無視して通り過ぎていた。
 留置場にはあらゆる風貌の人達が収監されていた。おそらく刑事犯も危険思想犯も区別なく収監されているように思えた。ギャングのような人もいれば、平凡な人、インテリのように見える人もいた。
 ロストンのところから五メートルぐらい離れた真向かいの檻には、初老の女性がいた。斜め向かいの人の声はまったく聞こえなかったが、真向かいの女性が立てる音はなぜかよく聞こえた。おそらく、ノイズキャンセリング機器は部屋ごとではなく、列ごとに設置してあるようだった。六十過ぎに見える彼女は、やせ細っていて、薄い髪をきちんと整えていた。彼女はロボットが食事を運んでくるたびに、ロボットに向かってお礼を言い、食べ物をゆっくりと口に運んだ。礼儀正しそうにみえる人がいったいどんな犯罪をおかしたのだろうか、と彼は気になった。
「あの……」突然、女性がロストンの方を見て口を開いた。「そんなにじっと見られると食べ物が喉を通ら……」
 そこで彼女は急に胸を押さえ、ひどい咳を続けた。風邪で出るような咳ではなく、深刻な病を持っている感じがした。
 しばらくして落ち着くと、女性は短い吐息をついた。そしてロストンの方を見て、檻の鉄棒に顔を近づけた。
「失礼しました。持病で咳が出てしまうのです。うるさくてご迷惑をおかけしますが、お許しください」
 女性はそう言うと、背を向けて檻の奥の方へ歩いて行った。後ろ姿も痩せ細っていて、腕は特に細かった。
「おいくつかしら?」後ろ向きのまま女性が言った。
「四十です」ロストンが答えた。
「そうですか」と彼女は言うと、どこか寂しそうな口調で付け加えた。「あなたとちょうど同じ歳の息子がいます。長い間会っていませんが」
 その言葉を聞いて、ロストンは一瞬動揺した。
 もしかして、この女性が自分の母である可能性はないだろうか? 彼は思った。おそらく母と同じくらいの歳だ。風貌は似ていないが、記憶の中の母は遥か昔の姿。三十年近く過ぎれば、人の見た目は大きく変わる。
 だが冷静に考えてみると、やはり別人に違いなかった。風貌がまるっきり違う。それでも訊いてみたいことはあったが、女性はずっと咳をしていて話を続けるのが難しかった。
 結局、その直後に彼女は他のところへ移送された。
 その後に真向いの檻には誰も入らなかったので、ロストンは誰とも話さずにいた。看守二人がロストンの檻の前を通る時に話し合う声が少し聞こえたぐらいだった。彼らは”ゼロ号室″が云々と言っていた。不思議な響きなので、何を指しているのか気になった。
 留置場で四日間を過ごした後、ロストンは今の施設に移送された。そしてそれからまた三日が経っていた。
 留置場とは違い、博愛園の施設では広い空間を自由に歩き回ることができた。公園の自然に囲まれ、温度もちょうどよく、快適な空間になっている。
 ただ、社会から離れている今の状況が不安になり、早く社会復帰しなければ、という焦りを感じることもあった。これから自分に何が起きるだろうかという不安もあった。もしかしたら自分は既に洗脳されはじめているのだろうか、それともこれからそのためのプログラムが始まるのだろうか。自分が徹底的に洗脳され、高揚感と喜びに満ちた顔で体制への忠誠を叫ぶ姿が頭をよぎったりもした。
 ジェーンのことも心配だった。外部との接触が禁じられているので連絡が取れなかったが、彼女もおそらく留置場のあと、他の博愛園施設に移っているはずだった。
 ロストンは事あるごとに彼女のことを思い浮かべていた。体制側に何をされても、二人を結び付け、二人が大事にしてきた価値観を捨てることなんてしない、と心を決めていた。今までの自分の価値観を捨てることは今までの自分を否定することであり、死に値する。彼女を愛おしく思う気持ちも絶対に変わらない。今この瞬間にも、彼女は無事だろうか、乱暴な扱いをされていないだろうか、と心配でならなかった。
 彼はオフィールドのことも気になっていた。すでに家の近隣住民や職場の人達は自分が危険思想犯として捕まったことを知っているだろう。オフィールドとSS同盟は自分の逮捕を知って、どう動いているのだろうか。まさかオフィールドも捕まるようなことがあるのだろうか。
 ロストンは考えを巡らせた。もしかしたら、自分がオフィールドのことをしゃべったり、体制側に洗脳されたりするのを防ぐために、SS同盟が小型脳神経装置なんかを予想外の方法でここに送ってくるかもしれない。以前どこかで、気分や思考を調整するための脳神経装置が開発されたと聞いたことがある。それがあれば自白や正統派への転向を回避できるのではないだろうか。
 ロストンは上を向いてドームを眺めた。ドームは一枚の円いガラスで出来ている。
 この建物にいると、彼は自分が時間と空間を強く意識してしまうのを感じた。真上に視野を遮るものがないため、空の色の移り変わりを常に意識せざるを得ないし、壁の窓からも外の風景がよく見え、横の空間の広がりも意識せざるを得ない。
 ある意味、博愛園には境界がなかった。ドームの建物は多くの部分がガラスでできていて、外から中が見え、中からも外が見渡せるし、建物を出て自然公園を進んでいくと施設の境界線が出てくるが、境界線が地面に引いてあるだけで、壁はない。もちろん、線を越えればおそらく警告が出て、無視してさらに進めば警報が鳴り、ロボットたちが出動するはずだった。だから実際には閉じ込められている。だが、少なくとも視野を遮る壁はない。自然公園の端からは、地平線に向かって緩やかに波打つ地形の上に、川や森や畑や家々が点在しているのが見える。それらを見渡していると、ここが自由な場所で、さらには世界の中心のようにさえ思えてくるのだった。
 窓を眺めながら考えを巡らせていると、入り口の方から話し声が聞こえた。自動ドアが開いて、中年の看護婦がゆっくりと入ってくる。白い地味なシューズを履き、白とピンクのナース服を着て、丸々とした優しい顔をしていた。
「新しく入って来られた方です。どうぞ温かく迎えてくださいね」看護婦はドームの中の人達にそう言うと、自動ドアに向かって首を縦に振った。
 ドアがまた開き、まばらな拍手とともに徐に入ってきたのは、どこか馴染みのある顔だった。
 ロストンはその瞬間、驚いてビクッとした。よく見るとそれは、同じ部署で科学関連記事の校閲を担当するグリフィスだった。
 グリフィスはドーム内の人達に向かって軽く会釈をしたが、それは不特定多数に対するもので、ロストンがいることにまだ気付いていなかった。良く磨かれた革靴を履いていて、髪もいつも通り七三分けにしている。小柄だが、どこか堂々としていて、知的な雰囲気が漂っている。彼は、始めてここに入ってきた人が自然とそうするように、ドームを見上げた。
 ロストンは声をかけようと近づいた。近くで看護婦が微笑みながら見ている。
 歩み寄る人の気配を感じたのか、グリフィスはロストンの方を向いた。すると、驚いた様子も見せず、納得したような表情で口を開いた。
「ロストン、捕まったとは聞いていたが、ここにいたのか」
「君は何で捕まったんだ?」
「まあ……」彼は近くに置いてある椅子に座った。「危険思想らしい」
「君が危険思想犯?」
「そうみたいだ」
 彼は強がっているのか、平然とした表情で答えた。そしてロストンの顔を見ずに言葉を続けた。
「君は、私が本業の他にも、ペンネームで科学関連の記事を書いているのを噂で聞いているよね」
「うん」
「先日、僕がある雑誌に投稿した記事があるんだが、そこで、宗教が科学的な思考を阻害する有害なものだと批判したんだ。その批判が排他的な危険思想だと見なされ、掲載されるどころか、雑誌の担当者にむしろ通報されてしまった」
「それは……」
「だが宗教と正統派の価値観が相容れないのは一目瞭然だし、だから正統派の価値観を普及させるには宗教を葬り去らなければならない。いくら妥協点を考えても、宗教を排除することなしに正統派の価値観を徹底的に広めることはできないし、だから私はその本質を突いた記事を書いたんだ」
 話し終えると、グリフィスの表情から余裕が消え、別の表情が浮かんだ。自分の知的な試みが社会に認められなかった知識人の苦悩とでも言おうか。一瞬にして、失望感がにじみ出るような暗い表情になった。
「君もよく知っていると思うが」彼は続けて言った。「科学の歴史とは、宗教的で魔術的な考え方を駆逐してきた歴史なんだ」
 ロストンはそのような考え方があることをよく知っていた。そして反感を持っていた。だがここで彼と口論をするつもりはなく、彼の愚痴をまるでカウンセリングをするようにじっと聞き続けた。
 十分ほど経っただろうか。また自動ドアが開いた。
 今度は別の看護婦が入ってきた。そしてロストンとグリフィスを見守っていた看護婦に近寄り、「ゼロ号室にお通ししましょう」と告げた。
 留置場で耳にしたゼロ号室はここにあるのか、とロストンは驚いた。
 二人の看護婦に案内され、グリフィスは会釈しながらドームの外へと出て行った。平然な顔をしていたが、平然を装った強がりのようにも見えた。彼はゼロ号室が何なのかを知っているのだろうか。
 ロストンは再び一人になり、特にやることもないので、ドーム内を歩き回りながら考えを巡らした。窓の外を眺めて安からな気持ちになったり、オフィールドやジェーンのことを考えて不安になったりを繰り返した。だが辿り着く結論というものはなく、いつも堂々巡りだった。
 空に薄いオレンジ色がかかり始めた頃、看護婦がまた別の病衣の人をドーム内に連れてきた。
 どこか見覚えのある顔だと思った瞬間、ロストンはそれがサム・ドーソンだと分かって仰天した。サムもロストンを見て驚いた顔をした。
 立て続けに会社の同僚が二人も入ってくるようなことが起き得るのだろうか、と彼は不安になった。これは偶然ではなく、もしかしたら自分のせいで会社にも調査が入り、それで同僚たちもボロが出て次々と捕まったのではないだろうか。
 二人は近くの椅子に座り込み、話し始めた。
 聞いていると、どうやらサムも危険思想で捕まったらしかった。彼は意識的に声を小さく抑えている様子だったが、その言葉選びから、有罪にされたことへの不満、憤り、絶望感が滲み出ていた。
「わざとやったわけではないのに、捕まるのは不公平だ。かれらの判断は間違っているし、まったく信頼できない。私の経歴からして、わざとやったわけがないじゃないか。ここからすぐ出られるだろうか」サムが不満を漏らした。
「いったい何をやったんだ?」
 サムは、少し離れたところにいる看護婦を一瞥して、再びロストンに視線を注いだ。
「これは間違った逮捕だ。危険思想は適用範囲が広すぎる。わざと犯したわけでなくても、不快な思いをして精神的なダメージを受けたと主張する者がいれば、捕まってしまう。私は確かに有色人種に対する差別用語を使ったが、その時は周りに誰もいないと思っていたんだ。ところが気づかないうちに、黒人の子供がすぐ後ろにいた。でもそこにいるとは本当に知らなかった。相手がいると思っていない時に放った言葉が罪になるのか? ここから出たら法廷で徹底的に戦うつもりさ」
「じゃあ、その黒人の子供に通報されたのか?」
「いや、その時に一緒にいたうちの娘にだよ」
 サムの浮かべていた憤りの表情が、瞬時に呆れた表情に変わった。
「うちの娘はその子と遊んでいたんだ。その子は差別用語の意味をはっきり分かっていない様子だったが、うちの娘がそのことを友達の親に話し、その親が警察に通報した。娘は前にも同じようなシチュエーションで他の人を通報したことがあったから、慣れたものさ。正義感の強いしっかりした娘と言うべきか、父親がどうなるか考えもしない馬鹿者と言うべきか。社会と親の価値観がぶつかったら、社会じゃなくて親の方を選びなさいと教育すべきだった」
 そう話す間、彼の額にうっすらと汗が浮かび、汗の匂いがした。
 その様子を、少し離れたところで笑顔の看護婦が見ている。
 しばらくするとまた自動ドアが開いて、他の看護婦が入ってきた。サムを迎えにきたようだった。「案内します」と言って彼をドームの外へ連れ出していった。
 出て行くサムに手を振りながらロストンは不思議に思った。自分の方が何日も前に入ったのに、看護婦に案内されて場所を移るということはなかった。もしかしたら、一人一人に対して違う段取りが用意されているのだろうか。
 ドームを見渡すと、今ドームの中にいるのは六人だった。男も女もいたが、誰もが外を眺めたり、歩いたりしながら、ゆっくりとした時間を過ごしている。
 その中で一人目立つのがいた。がっしりした顎を持ち、終始口をかたく閉じている男だった。どこか虎のような顔で、そのオレンジ色のかかった目はじっと窓の向こうを見つめている。
 その男をなんとなく眺めていると、また自動ドアが開いた。そして看護婦と一緒にまた新入りが現れた。
 ロストンは思わず笑いそうになったが、意識的に自分の表情を引き締めた。
 新入りの男はびっくりするくらい太っていた。太り過ぎて、口と目が肉に埋もれて小さく見えるほどだった。
 その男は自動ドアに一番近い椅子に近づき、腰を下ろした。満腹感に浸っているような、安らかな顔をしている。ついさっきまで食事をしていたのかもしれない。
 だがそこで突然、滑稽なことが起きた。
 その近くに、顎のがっしりした虎顔の男が座っていたのだが、太った男をちらっと見ると、自分の横に置いてあったビスケットを彼の見えない方に移したのだった。まるで欲しいと言われるのを避けるかのように。
 それを見た一人の看護婦が虎顔の男に近づき、優しい声で話しかけた。
「ミスター・ハンプステッド……」そして彼の肩にそっと手を置いた。
 その時、自動ドアが開いて、中年の看護婦と華奢な看護婦が入ってきた。そして二人は虎顔男の方に歩み寄り、膝と腰を少し曲げて、座っていた彼の目線に自分たちの目線を合わせた。華奢な看護婦が両手を伸ばし、彼の右手を包んだ。
 すると虎のようだった彼の顔が緩み、突然涙と鼻水が溢れ出た。中年の看護婦はティッシュでそれを丁寧に拭き、もう一人の看護婦は彼の背中を優しくさすった。
 ドーム内の他の人達は、それをただ茫然と眺めていた。
 しばらくすると、また自動ドアが開いた。
 新たな看護婦が入り、太った男に近づいて「ゼロ号室に戻りますが、今準備中なので、もう少しお待ちくださいね」と言った。
 太った男は嬉しそうな表情で椅子にもたれ、両手を軽く結んだ。
「看護婦さん」と彼は口を開いた。「わたしは早く戻りたいです。自分をもう全部曝け出したい。今までよりも、もっと先があるのを感じるのです。そこに達することができるのなら……」
「わかります。もう少しだけお待ちになれば戻れますからね」看護婦が言った。
 喜びの表情を浮かべていた太った男の顔が、さらに高揚した表情になった。
「待ち遠しいですね。お腹もいっぱいですし、身体も心もエネルギーが漲っている気がします。このまま私を最後まで連れて行って、生まれ変わらせてください。他人のために自分の命をも惜しまないような立派な人間になりたい」
 彼は、希望に満ちた目で、他の人達を見まわした。そして顎のがっしりした虎顔の男にその目がとまった。
「あの人も早く楽にさせてあげてほしい」指をさして太った男が言った。「あれだけ泣くというのは、変わろうとしている証拠です。彼は今まさに生まれ変わるために葛藤している。以前の私と同じように」
 看護婦が静かに頷いた。
 それを見て男は言葉を続けた。「なんなら、私より先に彼を行かせてもいいですよ。私もいち早く戻りたいですが、一度に一人しかできないのであれば、彼のために譲歩してもいい」
 すると看護婦が腕時計を見てから、「でももう準備ができましたので、戻りましょう」と言った。
 それを聞いて、太った男は自力で立ち上がろうとしたが、難しそうだった。そこで看護婦は、虎顔の男のところにいる三人の看護婦たちに合図をした。そのうち二人が来て、男の両腕を掴み、立ち上がるのを助けた。
 そしてかれらはゆっくりと外へ出て行った。太った男は重い身体を引き摺りながらも、首をまっすぐにし、何かに挑むような姿勢になっていた。  
 窓の外を見ると、空はいつの間にか夕焼けの色だった。
 一連の出来事の後、皆どこかに出て行った。看護婦もいなくなった。ドームの中はロストン一人だった。
 彼は円を描くように歩きはじめ、時々、端っこに置いてあるウォーターサーバーから浄水を飲んで喉を潤した。
 静謐さと空に広がる夕焼けの色に包まれ、彼は安らかな気分になったり、不安な気持ちになったりした。オフィールドのことが自然と頭をよぎり、ジェーンの姿もありありと浮かんだ。彼女は大丈夫だろうか、乱暴な扱いを受けていないだろうか、と常に心配だった。
 彼女のことを心配するのは、偽善ではないかという気持ちもあった。今ジェーンが苦痛を味わっているとして、自分にできることはなかった。言葉だけなら身代わりになるだの、命を捧げるだの、何とでも言える。だが捕まってからでは、もう自分に出来ることは何もない。
 その時だった。
 外から慌ただしい足音が聞こえ、自動ドアが開いた。看護婦たちがぞろぞろと入ってきて道を空けると、その間から見覚えのある顔が現れた。
 オフィールドだった。
 ロストンは仰天して目を見開いた。「あなたも捕まったのですか!」
 看護婦たちがいるのも気にせずに大声で叫んだ。
 すると、オフィールドが淡々とした口調で答えた。
「いいえ、わたしは捕まる方ではありません。私はこの精神病院の経営者であり、同時に精神科医でもあります。トゥルーニュース社では社外取締役をしていますが、私が医師なのはご存知でしょう。ロストン、いや、ミスター・リバーズ、こうなることはあなたにとって想定外だったと思いますが……」オフィールドは少し間を置くと、呆れた表情になって言った。「私について何か誤解をされていたようだ。あなたは自分の直観に素直というか、思い込みが激しいというか……」
 ロストンはその時に気づいた。
 自分がまったくの勘違いをしていたことに。
 ロストンは身体から力が抜けて、よろめき、椅子に腰を下ろした。呆然とし、打ちひしがれ、身体が震え始めた。
 そこに一人の看護婦が近づいてきて、肩にそっと手をのせた。とても暖かく、触れるだけで身体をほぐし、癒やしてくれるような、そんな感触だった。すぐにでも身体の震えが収まり、心が少し落ち着くような感じがした。
 いつの間にか他の看護婦二人も目の前でしゃがんで、自分を見上げている。彼女たちは優しく両手をとった。その感触も柔らかく、とても暖かかった。






 ロストンは、ふかふかのベッドに横たわっていた。天井には落ち着いた仄かな明かりが点いている。ベッドの傍で一人の女性が立ちながら何かの機器を操作しており、その隣ではオフィールドが回転椅子に座ってカルテのようなものを覗いている。
 目を閉じ、頭のなかで状況を整理した。自分は眠りに落ちていたのだ。この部屋で、しばらく夢の世界に迷い込んでいた。おそらく数分、いや、数十分だったのかもしれない。少し寝たためか、すっきりした気分だ。
 思い返せば、看護婦たちが肩と手に優しく触れてきたのが始まりだった。あの時の彼女たちの優しい態度は、実はルーティン化したプログラムの一部なのではないか、とロストンは疑った。身体を心地よくさせることで自分の心を開かせ、自分の思想や過去の行為など、心に秘めたものを洗いざらい打ち明けるように仕向けているのではないか、と。本当にそうなのかは分からないが、とにかくその時から何かが始まったのははっきりしていた。
 ロストンはこの部屋に移ってきてから、物理療法の一環だと言われ、白人の女性セラピストに何度も身体を揉みほぐしてもらっていた。時には女性二人が同時に取り掛かってほぐしてくれることもあった。それはほとんど素手によるものだったが、時に肘や膝を使ったり、マッサージ用の棒や機具を使ったりしていた。
 途中で、気を引き締めて冷静な気持ちになろうとしたこともあった。だが結局、肩、首、背中、手足、頭皮に施されるマッサージの気持ち良さに身を任せ、心も緩んでしまうのだった。
 そう簡単に心を許すものかと、マッサージの最中に何か不快なことを考えてみたりもした。身体が気持ちいいのはセラピストたちが揉み解してくれるからではなく、自分がそれに身を任せてしまうからだと考えてみたりもした。ところが、いつの間にか身体がとろけ落ちる気分になり、もうどうでもいい、と思ってしまうのだった。
 たびたび、気持よくベッドの上で爆睡することがあった。すると、起きた直後からまた程よいマッサージが始まった。お腹が空くと、一時休憩して、隣の広々とした部屋で美味しいサラダやスープやパンなどを食べられたし、そのまた隣には最新式のシャワールームがあり、温水に浸って身体をすっきりさせることもできた。
 次の日になると、マッサージが中断している合間に、白衣を着た白人の女医が入ってきてカウンセリングを始めるようになった。
 カウンセリングはいつも長く続かず、少し経ったところで中断し、次の機会に持ち越された。おそらく、身体が気持ち良い状態になっているうちに素直な言葉を引き出そうとしているのだろうと思えた。
 女医は背がすらっとしていて、表情と口調は優しく、対応が丁寧だった。威圧的な態度はまったく見せず、連合への忠誠を要求するようなことを言わないのはもちろんのこと、”アメプル″や”グレート・マザー″といった正統派の言葉さえ一切口にしなかった。むしろ向き合う相手を一人の人間として尊重し、異を唱えることなくそっと耳を傾けるといった感じだった。彼女は話を頷きながら聞き、時に相槌を打っては、全て共感できるといった表情を見せた。
 その配慮にロストンは好感を持ったが、実はセラピストのマッサージ以上に、彼女のそうした優しさが彼の心を落ち着かせるところがあった。
 質問にどう答えていいか分からず、言葉に詰まって話が途切れる時も、彼女は急かさなかった。そのような時は、すぐさまセラピストによるマッサージの時間に切り替わり、それが終わるとまたゆっくりとカウンセリングが始まった。
 こっちから話さずとも、すでに体制側は家宅捜査や匿名掲示板の調査やオフィールドの証言を通して自分についてかなり把握しているはずだった。だから自分の思想について隠しておくことに大きな意味はない。単に話す気になるかどうかの問題だった。相手がすでに把握している情報ならば、いっそのこと、内に秘めたものをさらけ出して楽になってしまいたい、という気持ちもあった。
 だから女医に少しだけ心を開いた彼は、思っていることを少しずつ語った。グローバル化や外国人が嫌いなこと、キリスト教以外は全て邪教であること、同性愛を嫌悪していること、婚前の性行為が非倫理的であることなど。さらに、オフィールドを通してすでに体制側に伝わっているはずなので、彼の家で自分がストーンズに忠誠を誓い、国を救うためならば死傷者を出すテロ行為をも辞さないと誓ったことも告白した。当然これは危ない考えだと思われるはずだった。ただ、テロ行為を実際にすることと考えることの間には大きな差があるから、それを言葉で誓っただけでは大きな罪にならないはずだった。ならば、向こうがすでに知っていることを素直に白状した方がいい印象を与え、施設を出る時期が早まるかもしれない、と考えた。
 カウンセリングが終わると、しばらくして女性のセラピストが入ってきたが、前とは違う人だった。白人ではあるが、かなり日焼けをしていて、茶色い肌だった。使う道具も今までと違い、今度は金色のポットとオイルがあり、専用のベッドも入ってきた。どうやらオイルマッサージをするようだった。
 セラピストは、ロストンの頭皮に温めたオイルを垂らし、前頭部、頭頂部、つむじ、側頭部、こめかみ、後頭部、うなじ、耳を両手でゆっくり揉みほぐしていった。揉んでもらっている最中、彼は徐々に眠くなったが、耳のマッサージが終わる頃にはむしろ頭がすっきりして、目が覚めるような感じだった。次にセラピストは、仰向けになった彼の額の上に金色のポットを傾け、その小さい穴から糸のような細いオイルを垂らした。それは、彼女によるとシロダーラと呼ばれるアーユルヴェーダの施術らしかった。温められたオイルがトロトロと流れ、額を優しく撫でていった。まるでオイルが頭の中まで染み込み、脳の疲れをほぐしてくれるような、全ての煩悩を溶かして洗い流してくれるような気分になった。ロストンは次第にうっとりし、夢心地になって、いつの間にか寝てしまった。
 起きると、ちょうど脚のオイルマッサージが終わる頃だった。全身をタオルで拭いてもらったが、オイルを全部落とすために隣のシャワールームに行くように言われた。
 ロストンはシャワーを浴び、身体のオイルと汗をきれいに流した。そして用意された服に着替えてから、部屋に戻った。
 シャワーのおかげで身体はさっぱりしていたが、リラックスし過ぎたためか、まだ強い眠気があった。
 彼はふかふかのベッドに身を投げた。ブラインドの隙間から見えた外は、夕焼けの色だった。ベッドの横では、脳波などを計るための遠隔測定器がチカチカと光っている。次第に瞼が重くなり、目の前が暗くなって、意識が沈んで行った。
 目が覚めると、同じベッドの上だった。
 ブラインドは隙間なく閉められ、白衣の女医が測定器の数値を確かめている。ドアの近くには中年の看護婦と二人の若い看護婦が笑顔で立っていた。女医は、ロストンが起きたのを確認すると、笑顔で彼を見つめた。そして三人の看護婦の方を向いて頷いた。
 すると、中年の看護婦が彼に向かって「ゼロ号室までご案内します」と告げた。
 
 それから数分後、彼は狭い廊下を歩いていた。
 出口の見えないトンネルのような、小さい間接照明が延々と続く仄暗い廊下。前を中年の看護婦が歩き、後ろに二人の若い看護婦が付いてきている。誰も言葉を発しなかった。ロストンも自分から何かを言う気にはなれなかった。話すべきことはカウンセリング中にもう全部話した。
 薄暗闇の中でジェーン、オフィールド、ミスター・アーリントンの顔が浮かんだ。かれらも沈黙している。もしかしたら想像もしない恐ろしいことがこの先に待っているのではないか。今までの自分が全否定され、壊され、まったくの別人に作り変えられてしまうのではないか。徐々に近づく出口の明かりを眺めながら、ロストンは思った。その光は、眩しく、目眩のする、朦朧とした光だった。
 
 ふと気が付くと、ロストンは白い部屋の中にいた。
 大きいリクライニングチェアの上で仰向けになっている。
 どうやってこの部屋に来たのか記憶がなかった。廊下の出口の前で睡眠ガスでも吸わされたのだろうか。
 近くにオフィールドが座っていた。だがどこか遠くにいるような感じがする。
 意識が朦朧とする中で、色々な考えが頭をよぎった。
 オフィールドはどういう人なのだろう。彼はこの施設で何をどこまで決めているのだろう。看護婦やセラピストや白衣の女医に指示を出しているのも彼だろうか。どのようなマッサージを施すのか、どのようなカウンセリングをするのかを決めるのも彼だろうか。彼は人を治療する医者のように見えながら、収監者を見張る監視者のようにも見える。彼はとても理解しにくい、捉えがたい人だった。
 朦朧としていると、どこか遠くから聞こえてくるようにオフィールドの声が聞こえてきた。
「あなたのことが心配です、ミスター・リバーズ。あなたは手に負えないところがある。私のところに来ては、突然自分が異端だと告白しましたね。私はこれを自分の使命だと思い、あなたの担当医になりました。人は不完全なものですから、まずは自分の問題点に気づくのが大事です」
 その声は、きっと自由なところで会うことになるだろう、と言っていた夢の中の声と同じだった。
 続けてオフィールドは、ここに来てからの体調などについて質問した。ロストンは適当に答えたが、自分が何を言ったのかすぐ忘れた。徐々に目が覚めてきてはいたが、まだ朦朧としていた。部屋は目眩がするほど明るく、見渡す限り全てが白だった。
 ロストンはいつの間にか自分の身体が軽くなり、浮いているような感じがした。空気によって優しく、そっと抱き上げられているような感覚。
 オフィールドもいつの間にか優しい、そしてどこか嬉しそうな笑顔になっていた。その顔は肌がつやつやで、皺もなく、引き締まっている。彼は思っていたより若いのかもしれない、とロストンは思った。
 オフィールドの手には中型のスマートスクリーンがあり、彼はそれをテーブルのスタンドにのせた。画面には数字やメーターやボタンが映っている。
「また会うのは自由なところでですか、とあなたは私の家で訊きましたね。ここであなたは自由になるでしょう」
 そう言うと彼は、スマートスクリーンを押した。
 突然、ロストンの身体にじわっとした快感が広まった。刺激的なものではなく、内側からじっくり満たされていくような感じ。その感覚が何によって引き起こされたのかは分からなかったが、自分の全身を癒やしてくれる何かではあった。少しずつ、身体の形が消えていくような、意識だけが浮遊していくような感覚。シロダーラの施術を受ける時も似たようなものを感じたが、これはそれを遥かに超えるものだった。ロストンは、あまりの心地よさに目を瞑った。
「幸せな気分でしょう」オフィールドの声が聞こえた。「身体が軽くなって浮かび上がる感じがすると思います。意識が身体の殻を抜け出て、空へと広がっていくような」
 ロストンは快感に浸って、答えられなかった。
 しばらくすると「ではレベルを落とします」というオフィールドの声が聞こえた。
 すると、浮遊していたロストンの意識が一瞬にして身体の中へと舞い戻った。
 目を開けてみると、どうやらオフィールドはスマートスクリーンを押して快感の度合いを操作しているらしかった。元に戻っただけなのに、ロストンは自分の身体を非常に重く感じた。
「先ほどの解放度はレベル四です」オフィールドがスクリーンを指差しながら言った。「御覧の通り、レベルは十まであります。これを押すと、あなたが寝ている間に体内に注入しておいた数百機の極小ナノマシーンが、あなたの細胞にシグナルを発信し、解放感をもたらすホルモンを分泌させます。必要と思われるタイミングとレベルで私はあなたに解放感を与えたり、元に戻したりできます。麻薬と違い、中毒性はないので副作用の心配はありません。あと、ナノマシーンは脳波と脈拍も計測でき、嘘発見器の機能も備わっているので、自分が本当に思っていることを素直に答えてください。嘘をつくと治療が進みません。正直に答えれば大きなご褒美があることでしょう」
 ロストンはオフィールドの言っていることがすぐに飲み込めず、しばし考えた。自分の身体の中に小さい機械がいっぱい入っていて、それが身体に快感を味わわせているということは分かった。だがそれは、血流の中を回っているということなのだろうか? それとも血管の外なのだろうか? 動き回ることで細胞を傷つけたりしないだろうか? 色々な疑問が湧いてきたが、ついさっきまで快感に浸っていたからか、口がうまく開かなかった。
 気が付くと、和らいでいたオフィールドの表情は、いつの間にか引き締まっていた。じっとロストンを見つめている。医者として、この施設の経営者として、必ず成し遂げねばならない、といった意気込みのようなものの表れかもしれない。
「あなたには真摯に向き合うつもりです、ミスター・リバーズ」オフィールドが言った。「あなたはご自身の問題が何かをまだ十分に理解していません。無自覚なのです。実はこれは一種の精神病で、あなたの病状は、物事の変化に対して過剰な拒否反応を起こすというものです。変化を忌み嫌い、変化してしまうようなものは正しくない、真実ではないと思い込んでいる。変化しないものだけが真実であると思い込んでいます。幸いなことに、これは治療可能です。でも今までに治らなかったのは、あなたのせいではなく、我々の注意が隅々まで行き届いていなかったからでしょう。もっと早くあなたの悩みに気付き、手を差し伸べるべきだった。でもこのように、もう私たちがついていますから、大丈夫です。一緒に治していきましょう」
 ロストンは耳を疑った。異端派の価値観は精神病だと言うのか? 自分が狂っているから捕まったと言うのか? 
「では、具体的な質問から始めましょう」オフィールドはテーブルの上のカルテのようなものをめくりながら言った。「世界軍の創設について、どう思われますか?」
 ロストンは先ほど感じた怒りで、朦朧としていた意識が少し覚めた気がした。だがまだ十分に冴えているわけではない。彼はまず、状況を整理しようと努めた。
 いったいオフィールドは質問を通して何を引き出そうとしているのだろうか? 答えを聞いて治療をしようとしているのか? それとも、これは治療を装っているが、実は取り調べで、危険思想を自白させ、罪状を確定させようといるのだろうか? だが、自分がどういう思想を持っているかについて、オフィールドは既によく知っているはずだ。もう警察が家宅捜査をして匿名掲示板のことが割れているだろうし、自分は彼の家でストーンズとSS同盟に忠誠を誓うと言った。女医にもすでに色々と話している。すでに隠していることなど何もない。だからこのようなやり取りは自分の罪状を増やしたり、精神病を直したりするための情報収集ではないように思えた。
 そこでロストンはハッとし、確信した。
 そう、この診療時間は、自分が精神病だと受け入れさせるためのものなのだ。精神病患者として扱うことで、異端派の価値観が単に正統派と異なる価値観なのではなく、精神病だと思わせるためのものなのだ。ならば、はっきりと主張しておかねばならない。自分は精神病ではないと。異端派の思想は精神病なんかではなく、しっかり理屈の通ったものであると。
 ロストンは意識が少しはっきりしてきたので、理屈で対抗することにし、質問に答えた。
「世界軍の創設は間違った選択です。自国の軍人が世界のことを優先し、自国を守るために動けないのは、おかしい。自国の軍隊は自国のために存在するのであって、他国や世界のためにあるのではない」
 その言葉に、オフィールドが不思議そうな顔をした。
「では世界軍を作るよりも、過去のように国家間で戦争が勃発する可能性を抱えたままの方が良いということですか? それが結局は、自国の破壊につながるとしても?」
「そうならないように、自国の軍隊が自国をしっかりと守るべきなのです」
 オフィールドが無言で頷いた。だが、おそらく同意を意味する頷きではなかった。彼はカルテに何かを書き、ページをめくった。
「では次の質問をしましょう。結構前の話になりますが、ラムフォードという反体制派だった人が体制派に転向した後、暫くしてそれを撤回し、その後また体制派になったのをご存知ですよね。そして転向後もかれが反体制派の幹部と会っていたことを示す写真と記事をあなたは目にした。えっと、これですね」
 写真と記事の切り抜きがスマートスクリーンに映った。ロストンは上体を起こしてそれを眺めた。社内で見たのと同じものだった。どうして自分がそれを目にしたのを知っているのだろうか、とロストンは驚いた。あの写真と記事は社内で目にしただけで、ダウンロードして所持していたわけでもない。自分がそのことについて尋ねた記者から聞き出したのだろうか。それともその話をしたジェーンを尋問して……
「ところがその記事はなぜか雑誌に載らなかった」オフィールドが続けた。「そのことについてどう思いますか?」
 ロストンは再び後ろにもたれ、答えた。「記事が掲載されていたら、ラムフォードに対する世間の印象は変わっていたでしょう。でも掲載されなかったので何も変わらなかった。マスコミの選択によって、物事の印象はかなり影響されることを知りました。過去を隠したり、何度も書き換えたりと、マスコミのやることはまったく信頼できない」
「記事が彼の安全を脅かす可能性を配慮して、掲載が取り消しになった可能性は考えましたか? また、記事が誤解に基づくものだった可能性は?」
「写真がちゃんとあるじゃないですか」ロストンが反論した。
「反体制派の人と一緒に映っていたからといって、反体制派と結託しているということになるのでしょうか。ラムフォードがその幹部に転向を撤回するよう脅迫されていた可能性もあるのでは?」
「それは都合のいい解釈だ」
「写真だけを見て結託していると考えるのも都合のいい解釈なのでは?」
「普通に見たらそう見えるでしょう。そもそも……」一瞬、言葉に詰まった後、ロストンは続けた。「たとえ違う解釈の余地があるとしても、掲載するか掲載しないか、内容をどのように書くかによって、印象が変わるのは間違いない。マスコミが真実というものをコントロールしているのは変わらない」
「そういう側面はあるかもしれませんね」オフィールドが答えた。「しかし、その時に事実と思われることを信じ、新たな事実が明るみに出たら、それまでの認識を撤回し、間違いを認め、新たな情報に基づいて事実を捉え直すというやり方以外に、真実に辿りつく方法があるでしょうか。事実関係が複雑な場合は、何が本当か最初から明らかではありませんから、仮説と検証、新たな事実の発見に基づく再検証というプロセスを経る以外に、真実に近づくことはできないのです」
 ロストンは苛立ちを覚えた。
 今オフィールドの言っていることは、オープンスピークでいう”対立の統合″だった。事実をめぐる相反する証拠がある場合は、両者をお互いの良き検証材料として使い、事実の認識をより多面的なものへと統合するというものだ。
 しかし、常に新しい情報を取り入れて事実を捉え直すというのは、終わりのない過程だ。今の時点で正しいとされているものも、常に後で覆されることになる。そしてそれは正統派の価値観だって同じはずだ。今は正統派が正しいとされているが、それは後で覆され得る。なのに、なぜ正統派の見解を自分は強いられなければならないのだ? なぜそんな不確かなものを自分は押し付けられ、自分の考えは間違いだと排除されなければならない? 
 ロストンは自分の中で強い敵対心が湧き上がるのを感じた。
 顔を上げてオフィールドを睨みつけると、彼もこちらを直視している。医師として、そしてこの施設の経営者として、自分を転向させてみせるという意気込みが滲み出ている。
 オフィールドが口を開いた。
「ご存知のように、世界市民連合のスローガンにこのようなものがあります。過去の多面性を明らかにすれば未来も多面的なものとして開かれ、現在の多面性を明らかにすれば過去の多面性も明らかになる」
 ロストンは義務教育で習ったその意味を思い出そうとした。過去に対する一面的な認識を捨て、過去を多面的なものと捉えれば、未来に向けての姿勢も多面的なものになるという意味だ。また、現在に対する一面的な認識を捨て、それを多面的なものと捉えれば、現在の原因である過去も多面的に捉えられるという意味だった。
「このスローガンについてはどう思われますか、ミスター・リバーズ。過去は多面的だと思いますか?」
 ロストンは再び苛立ちを覚えた。答えははっきりしている。
 だが口を開こうとしたその瞬間、スマートスクリーンが目に入った。
 ふと、ここで「はい」と言えば、解放感のレベルを上げてくれるのではないか、という考えが頭をよぎった。
 オフィールドは一瞬言葉に詰まったロストンを見て、話を続けた。
「質問が少し難しかったかもしれませんね。では質問の言葉を少し変えましょう。不変なものとしての過去はどうやって知ることができますか? 自明で確固とした、揺るぎのない過去というものがあるのでしょうか?」
 ずっとスマートスクリーンが目に入ったが、ロストンは誘惑を撥ね退けて答えた。「もちろんあります」
「そのような過去はどこに存在するのですか?」
「聖書です。神の御言葉にです」
「聖書の中の歴史記録ですか。他には?」
「過去から引き継いできた人種、民族、文化、宗教、国家の特性」
「昔からあった特性ですか。なるほど。今言及された人種、民族、文化、宗教、国家の特性は、はじめから今までずっと同じだったのではなく、時代とともに大きく変わってきたことを多くの研究が明らかにしています。また、同じ時代、同じ地域内でも多様な特性とアイデンティティーが混在していたことが明らかになっています。ならば、過去はやはり多面的なものではないでしょうか?」
 オフィールドの挑発的な言葉に、ロストンは気を引き締め、反論に乗り出した。
「多面性を発掘しようとすれば、そりゃ何かしら多面的な部分は見つかるでしょう。いつの時代だって例外はあります。しかし例外があるからといって、全体としての特徴が無くなるわけではない。多面性を強調しすぎると、全体の特徴や特性を無視することになる。連合はそれを無視している」
 その言葉に、オフィールドは不思議そうな顔をした。「それなら同じく、一面性を強調しすぎると、多面性を無視することになりませんか?」
 ロストンは一瞬たじろいだが、すぐ反論の言葉を見つけた。
「それは例外の数にもよるでしょう。正統派は、ほんのちょっとの例外をもって全体の特徴を無視しているんですよ。それに、人は、揺るぎない確固たるアイデンティティーを求めるもの。それは自分を精神的に支えるための本能のようなものです。なのに正統派は、今までのアイデンティティーを解体して、それを多面的に捉え直せという。それは自己分裂でしょう。精神病なのは正統派の方ですよ」 
 ロストンのその言葉にオフィールドは呆れたような表情をした。そして身を乗り出しながら口を開いた。
「アイデンティティーは、一つに絞らなければ確固たるものにならないのでしょうか。確固たる多面的なアイデンティティーも可能です。人はキリスト教徒でありながらユダヤ人の親友を持つことができるし、白人でありながら黒人の文化をこよなく愛することができ、男性でありながら自分を女性のように感じることができます。あなたはそれを理解していない。そして正にそれだからこそ、あなたはここにいるのです。あなたは、自分の信じるものしか認めず、それ以外をこの世から排除しようとする。善良な市民として受け入れるべき宗教や文化や人種の多様性を拒むだけでなく、それをテロ行為で攻撃するとさえ誓った。あなたは精神医学の観点で言えば精神障害であり、社会的な観点で言えば異端派です。しかし、元々持っている精神の柔軟性を取り戻せば、現実の多面性を認識できるようになるはずです。あなたは勘違いをしていて、現実を内面的な直観で捉えられる何かだと信じている。言い換えれば、自分がそうであると信じたことがそのまま現実だと思い込む傾向があります。自分の目に明らかなことは、他人による検証など必要ないと考えているのです。しかし、ミスター・リバーズ、現実は内省で捉えきれるものではない。現実は個人の精神の中で完結するものではなく、客観的なものとして存在します。ただし、現実は複雑です。はじめから自明ではないので、多くの人が様々な視点、手段、理論をもって観察、分析、検証、修正をし、少しずつ明らかにして行くものです。ですから現実とは、誤認と修正を繰り返しながら徐々に積み上げて行く共通認識と言えます。時には天動説のように、大多数の人が信じていた共通認識さえもまったく見当違いだった場合がある。しかしそれでも、修正を繰り返しながら新たな共通認識を積み上げる以外に方法はありません。あなたが理解すべきなのは正にこの点です、ミスター・リバーズ。人は間違うことがある。間違い得るからこそ、多様な観点にオープンな姿勢が必要なのです。多様な社会の構成員として、排他的な姿勢を捨てなければならないのです」
 立て続けにそう言うと、オフィールドは口を閉じた。しかしそれは次の言葉を見つけるための一瞬の沈黙でしかなかった。
「警察があなたの家を調査済みです。あなたはスクリーンに向かって書きましたね。自由とは、二足す二が四のように当然視される価値観を拒否できる自由だと」
「ええ……」ロストンは困惑しながら答えた。
 オフィールドが親指以外の四本の指をまっすぐ伸ばして見せた。
「二足す二が四であるように、多様性を認めることで自由が可能になることは、自明ではありませんか?」
 ロストンは反論の言葉を探した。
「そのような価値観を押しつければ、それは自由ではなく、強制です。自由を奪っている」
「では、多様性を拒否する自由も許されるべきだと?」
「そうです」
 その時、突然、ロストンの全身にじわっとした快感が広がった。
 薄目でスクリーンを見ると、レベルが五を指している。
 ああ、気持ちいい……
 全身が徐々に、宙に浮かび上る感覚になっていった。そして吸い込んだ息が、歓喜の声となって漏れ出た。頭の片隅で自制しようと思っても、声が出るのを止めることができない。
 しばらくしてオフィールドがスクリーンを押し、レベルを落とした。すると快感が突然収まった。
「質問の表現を少し変えましょう」オフィールドが言った。「多様性を拒否する自由だけでなく、多様性を拒否する価値観を広める自由も許されるべきだと思いますか?」
 快感は収まったが、その余韻はまだ残っていた。朦朧とし、質問の意味を理解するまで時間がかかったが、ロストンは何とか気を取り直して答えた。
「そうです……」
 その時だった。
 突然、爆発的な快感が全身に広がった。スクリーンのレベルは六を指している。気がつけば、自分はいつの間にか身体をよじらせ、喘ぎ声のようなものを出している。羞恥心を感じながらも、止めることができない。
「もう一度聞きます。排他的な思想は許されるべきですか、ミスター・リバーズ?」
 快感に浸りながらも、自分の信念を曲げるものか、とロストンは自分に言い聞かせた。そして喘ぎ声を必死で抑えながら答えた。
「は……い……」
 その時、レベルがさらに上がったのを彼は感じた。レベルの数字を確認したわけではない。もう自分の意思で目を開けることができなかった。果てしなく解き放たれる解放感の中、瞑った瞼の向こうに夜の雲が見え、そのまた向こうに無限の宇宙空間が広がり始めていた。   
「あなたの答え次第でレベルを変えることができます」オフィールドが近くで囁いた。「ではもう一度聞きます。危険思想は許されるべきですか?」
「ああ……」
 ロストンはもう考えることができず、ただただ快感に浸っていられるだけだった。
「答えないとレベルが下がりますよ、ミスター・リバーズ。本心を言ってください。危険思想を広める自由は許されるべきでしょうか?」
 ロストンは遠のく意識の中で答えた。
「わかりません……考えることができないんです……」

 ふと目を開けると、オフィールドがいた。厳しい目で自分を眺めている。
 気持ち良さのあまり、眠ってしまったようだった。あるいは、失神だったのかもしれない。
 快感は、もうすっかり消えていた。しかし全身から微熱が出ていて、暑く感じた。
 オフィールドは無言でこちらを見続けている。
 ロストンはオフィールドが自分を治療する精神科医ではなく、尋問者なのだと確信した。ただし、彼は心身を苦しめて白状させる尋問者ではなく、快楽を餌にして転向を迫る尋問者だった。
「自分の気持ちに素直になってください、ミスター・リバーズ」オフィールドが厳しい口調で言った。
「ずっと素直ですよ」ロストンが答えた。「わたしには押し付けられた価値観を拒否し、自分の信じる価値観を貫く自由があります。それが本心です」
 その言葉に、オフィールドは再び呆れた表情をした。
「まったく理解が進みませんね。あなたの主張する危険思想の自由は、他人の持っている自由を侵すのです。それがお分かりにならないのですか。あなたは、他人の自由を奪って良いという自由を主張しているのです。自由を守るためには、禁止されるべき自由もあります。立派な社会の構成員、善良な市民に生まれ変わるためには、自分が言っていることをもっと真剣に顧みないといけない」
 ロストンは言い返す言葉を探した。すでに快感も安らかさも消え、苛立ちだけが芽生えていた。
 だがオフィールドは言い返す間も与えず、「もう一度お聞きしますよ!」と言い、スクリーンを押した。
 その瞬間、ロストンの体中に今までを超える恍惚とした快感が広まった。
 目の前が真っ白になり、どこか遠くから、歓喜の声を上げている自分の声が聞こえてきた。全ての神経がほどけ、溶けていくようだった。この解放感がずっと続いて欲しい。頭に浮かぶのはただそれだけだった。
 だがしばらくして快感が一瞬にして収まった。オフィールドがレベルを下げたのだ。
「危険思想を広めるのは自由ですか、ミスター・リバーズ?」
 ロストンは言葉が出なかった。信念を曲げるものか、と心の中で自分に言い聞かせたが、先ほどの解放感が忘れられない。
「自分の気持ちに素直になって答えて下さい。危険思想を広めるのは自由ですか、それとも自由ではないですか?」
 ロストンはなんとか妥協点を探して、言葉を絞り出した。「お互いの自由がぶつかることもあると思います……」
 それを聞いて、オフィールドが叫んだ。
「もっとはっきりと、素直に答えなさい!」
 その時、レベルが八か九に上ったのかもしれない。身体の感覚を失う解放感の中、ロストンは自分が今どういう状態にあるのか認識できなかった。泣いているのか、笑っているのか、それとも叫んでいるのか。ただ、目の前には広大な宇宙が広がっていて、そこに浮かぶ自分の身体が、光を超えるスピードで無数の星々を通り抜けていた。横切る星々は徐々に線となり、時間とともに丸く曲がって、時空のトンネルを形成している。それは二足す二が四にも五にもなりうる異次元の空間だった。しばらくその光景をうっとりして眺めていると、意識の向こう、どこか遠くから自分の大きな喘ぎ声が聞こえてきた。まるで知らない他人の声を聞くようだった。
 気がつけば、声が消え、目の前にオフィールドがいた。
 レベルを下げたのだろう。彼は手を広げ、四本の指を見せている。
「二足す二が四であるように、多様性を認めることで自由が保障されるのは、自明ではありませんか、ミスター・リバーズ?」
「それは……」まだ快感の余韻が強く残っていたが、ロストンは朦朧としながら答えた。「四でしょうか……もういいでしょう……四でも五でも何でもいいんです」
 オフィールドは無表情で「わかりました」と言い、カルテに何かを書き込んだ。
 それを見ながら、ロストンは自分の身体を重く感じた。神経が張り詰めていて、緊張感と不安感のようなものが心に圧し掛かっている。いや、もしかしたら、レベルを上げた時と比べてそう感じるだけで、これが普通の状態なのかもしれなかった。
 そしてそこに考えが至ると、彼は自分がモルモットにされていることを強く実感した。
 オフィールドは自分を実験用の動物のように扱っている。治療の名目で自分に快楽を与え、飼いならそうとしている。自分を言葉で通じ合える人間として見ていない。対等な人間としてなんか見ていないのだ。そう思うと、抑えきれない怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 ロストンはオフィールドを睨みつけた。
 近くでよく見ると、皺ひとつ見当たらない、苦労を知らない顔だった。自分よりはるかに年上だと思っていたが、もしかしたら年下ではないのだろうか、という気さえした。自分よりも年下の若造に身体をもって遊ばれたのかと思うと、さらに悔しい気持ちがこみ上げてきた。もし気力が残っているなら、身体を起こして殴りかかりたいぐらいだった。オフィールドこそが最大の敵だ、とロストンは確信した。そう、自分は親近感を持って近づいたのに、彼は仲間のふりをして自分を騙し、罠に嵌めたのだ!
「ミスター・リバーズ、聞いていると思いますが、ここがゼロ号室です。どうしてあなたはここに連れられて来たと思いますか?」
 睨みつけられていることなどお構いなしにオフィールドが訊いてきた。
「それは、転向させるため……」ロストンは意識がしっかりしてきてはいたが、快感の余韻が残って、声に力が入らなかった。
「違います。もう一度よく考えてみてください」
「従順にさせるため……」
「違いますね」オフィールドは真剣な表情で語気を強めた。「まったく違います。体制に従わせることが目的ではありません。あなたがここにいるのは、あなたが他人に危害を加えるのを止めさせるためです。その精神障害を治療し、言葉や行動で人を攻撃したり傷つけたりしない、健全な市民に生まれ変わらせるためです。つまり、あなたの精神障害は、危険思想を持つこと自体にではなく、他者を傷つける思想を公にしようとするところ、より多くの人がそれを共有すべきだと考えているところにある。分かりやすく言うと、ミスター・リバーズ、あなたの内面の思想はあなたのもので、我々はそれを別の何かに変えようとしているのではありません。問題は、あなたが内面の危険思想を表面に出して広めようとすることにあります。表面に出してしまうと、それはもう私的ではなく公的な行為ですから、社会のルールが適用されます。我々の関心事はあなたの内面ではなく、外に向けた表現と行為なのです。私の言っていることがお分かりですか?」
 そう話すオフィールドの顔はやはり、とても若く見えた。苦労を知らない、皺ひとつない顔。こちらをじっと見ている。
 ロストンはまたしても強い憤りを感じた。どうしてこんな若造に身体を弄り回されなければならないのだ? これからも、言いなりになるまでプログラム通りに解放感のレベルを上下させるに違いない。
「身体の感覚を変えられて、もしかしたら不愉快に思われているかもしれません」
 全てをお見通しであるかのように、オフィールドが言った。
「しかしミスター・リバーズ、これは正式に認可されている治療方法です。まず安心して頂きたいのは、治療に苦痛はまったく伴わないことです。歴史上、支配階級は暴力、苦痛、恐怖を利用して人々を従わせてきました。白人は黒人奴隷に鞭を打ち、教会は逆らう者を異端者として火刑に処し、独裁者は民衆を拷問し、帝国は被支配民族を虐殺した。監禁、拷問、強姦、凌辱、強制労働など、あらゆる手段で人々を脅かし、苦しませ、従わせた。そうすることで自分たちの支配を確固たるものにしようとしたのです。しかしながら、そのやり方では支配はせいぜい数十年、数百年と、長く持たなかった。なぜなら、人々の心に深い復讐心を芽生えさせたからです。従わせるための暴力が大きければ大きいほど、復讐心もそれに比例して大きくなる。抑えつけられた怒りは、いつしか爆発し、革命につながります。しかし、永遠の安定を志向する世界市民連合は、そのようなことはしません。まず、法の前で皆が平等に扱われ、基本的な人権が尊重されます。そして、努力と工夫をした者が金銭面でも地位の面でも必ず報われる仕組みを作っています。だから体制に対する大きな不満や復讐心が生まれません。暴力や強制ではなく、報酬や幸福感を用いた社会安定を実現しているのです。そして、ミスター・リバーズ、あなたもその仕組みの中にいるのです。あなたがここで頑張って精神障害を克服し、社会に危害を加えることを止め、正統派に生まれ変わったことを公に宣言すれば、それが社会安定への一助となる。そのためなら、我々は支援を惜しみません。まず、数ヵ月分の生活費を賄える社会復帰支援の補助金が出ますし、良い職場で働けるように我々が全力でサポートします。それに、あなたは精神障害の困難を乗り越えたサクセスストーリーの主人公としてメディアで報道されることになります。周囲の仕事仲間や住民が、あなたの努力を褒め称えるでしょう」
 ロストンは疑問に思った。先ほどオフィールドは、内面の思想を変えようとしているのではないと言っていた。だが今言ったのは、正統派に転向すればサポートするという話。矛盾しているではないか。正統派になれば支援をするが、異端派のままなら支援しないというのは、結局、正統派の思想を信じるように誘導することだ。そしてもう一つ疑問なのは、かれらが何故そこまでしようとするのか、という点。自分は反体制派の重要人物でも何でもない。なぜ連合はそこまでして、影響力のない一般人の転向にこだわり、一人一人にこんなプログラムを実施したり、復帰後のサポートをしたりと、多大な時間と労力を費やすのだろうか。そこまでしなくても数少ない異端派はもう体制にとってそれほど脅威ではないはずだ……
「あなたが今思っているのは、おそらく」
 オフィールドが全てを察しているかのようにロストンを見つめ、口を開いた。
「あなたのために、我々がそこまでサポートをして得られるメリットは何か、ということですね? ここに来る患者さんたちによく質問されることです。公に転向の宣言をしただけで、そんなに全てがうまく行くわけがない、何か裏があるはずだと」
 ロストンは考えを見透かされたことに困惑しながら「そうです」と答えた。
 オフィールドは真剣な顔でさらに身を乗り出した。
「ミスター・リバーズ、あなたはダイヤモンドの原石なのです。磨くほど綺麗に輝く原石です。先ほどもご説明したように、我々は昔の体制と違って、苦痛を加えて人々を従わせるようなことはしない。人々が自らの自由意志で、自ら進んで体制を積極的に支持してくれなければ、長期的な社会安定は望めないのです。ですから我々は異端派に正統派の思想をお勧めはするけれど、強要はしません。心の中に秘めた危険思想を取り締まりはしない。そんなことをすれば復讐心が生まれてしまいますから。我々が取り締まるのは、危険思想を表に出して公にする行為に限られます。ただし、万が一、自らの自由意志で正統派への支持を公表した場合には、先ほどもご説明したように、大きなご褒美があります。支持を表明しない場合は、特に何もありません。あと数日間ここで気持ちよく過ごした後、外の世界に戻るだけ。選ぶのはあくまであなたです。そう言えば、反体制派とつながっているとあなたが疑っていたラムフォードですが、彼もかつてこの施設で過ごしました。彼はここで転向を表明した後、外の世界でそれを撤回すると宣言し、そしてまたその撤回宣言を撤回するという、二転三転した様子を見せましたが、あれは反体制派からの脅迫があったからです。脅迫に屈して転向を一度撤回したのです。ここにいる間は幸せそうな顔でしたよ。はじめの頃はいつも不機嫌そうだった顔が、解放感を得て次第に穏やかになり、よく声を上げて笑うようになりました。治療が終わる頃には充実感に満ちた表情で、それまでの考え方を懺悔して、グレート・マザーの愛を実感したと語っていました。その更生ぶりは著しく、この施設から出たらまた心が汚れてしまうのではないかと本人が心配していたほどです」
 美しい思い出を振り返る時のような、いきいきとした声だった。オフィールドの顔にはいつの間にか優しさが戻っていた。
 だがロストンは表面的な姿や言葉に騙されるものか、と気を引き締めた。そもそもオフィールドは本当のことを言っているのだろうか。全ては自分を思い通りに操るための、緻密に練られた言葉なのかもしれない。はたして彼は精神科医としてもしっかりしているのだろうか。カウンセリングをした女医と違い、自分がこれまでに考えを重ねて辿りついた見解を彼がちゃんと吟味しているとは思えない。はなっから間違えたもの、精神障害だと決めつけている。思い込みが激しいのは自分ではない。彼の方なのだ。
「治療が終われば、ミスター・リバーズ、あなたは新しく生まれ変わるでしょう」
 オフィールドが優しい声で言った。
「どのような異端派にも我々は救いの手を差し伸べます。巣立ちができるようにサポートしますし、ここでの特別な経験は今後の人生の糧になるでしょう。どうかご安心ください。我々はあなたを別のものに改造しようとしているのではなく、あなたが持っている本来の人間性を回復しようとしているのです。人として持っている自然な感情を呼び覚まそうとしているのです。本当の愛や思いやりや慈しみなど、心の中に埋もれていた感情が蘇り、あなたは満たされるでしょう。あなたが自立して飛び立てるように、我々は最大の努力を注ぐつもりです」
 彼はそこで口を閉じ、自分の座っている椅子を少し高く調整した。そしてスマートスクリーンへと手を伸ばした。
「これから、前のとは違うタイプのシグナルを使います」
 突然の言葉に、ロストンは意味が理解できなかった。違うタイプ?
 オフィールドが見下ろしながら言った。「では、目を閉じてください」
 その瞬間、ロストンの身体と心に安らかな静謐が訪れた。
 目の前が徐々に白になった後、意識が今度は宇宙ではなく海へと向かい、気がつけば、暖かい日差しの中、仰向けになった自分がエメラルドの海に浮かんでいた。今度は快感ではなく、安らぎをもたらすナノマシーンのシグナルのようだった。自分の背中に広大な海、そしてそれを抱きかかえるさらに広大な地球の地殻を感じた。
「質問しますが、目は瞑ったままでも結構です」オフィールドが言った。「世界軍の創設についてどう思いますか?」
 ロストンは後ろに凭れたまま「間違った選択です」と即答した。気持ちは落ち着いていたが、なぜか頭の回転は速くなっている気がした。
「世界軍によって永遠の平和が実現してもですか?」
「見せかけの平和に過ぎません。自国の軍がなければ自国を守れません」
「戦争が勃発して多くの死傷者が出てもいいのですか?」
「見せかけの平和によって人々は搾取され、奴隷にされているのです」
 そう、世界軍の創設は、国境を無力化して世界を征服しようとする大資本家の企みであり、形を変えた戦争なのだ。ロストンは心の中でそう付け加えた。
「ラムフォードが反体制派と結託しているという記事が掲載されなかったのを、どう思いますか?」
「マスコミによる情報操作です」
「社会を維持するために危険思想の表現を禁じるべきなのは、二足す二は四のように自明ではありませんか?」
「自明ではありません」
「本当にそう思っていますか?」
「はい」
 ロストンにとって、自分の答えは全て自明なものだった。オフィールドが同じ質問を繰り返しても、変えるべき答えは何一つない。おそらく、ナノマシーンが細胞に発信するシグナルの種類を変えて、同じ質問をした場合に答えが変わるのかを確かめたいのだろう。だが何度訊いてきても、正統派の価値観は自明ではないのだ。
「なるほど」オフィールドが言った。「もう目を開けて良いですよ」
 目を開けると、頭が冴えきっているような感覚はなくなった。
 オフィールドが暗い表情でカルテに何かを書き込んでいる。それが終わると、彼は椅子を回して再びロストンの方を向いた。
「あなたが掲示板に書き込んだものを読みましたが、私に親近感を覚えていたようですね。私もあなたと本当に親しくなりたいです。今日の治療プログラムはこれまでにしますが、何か要望や質問などありますか?」
 ロストンは少し考えた後、気になっていたことを訊いた。
「ジェーンはどうしていますか?」
 オフィールドは一瞬スマートスクリーンを確認し、またロストンの方を向いた。
「そうですね、他の施設にいて私の担当ではないのですが、彼女もあなたと同じく、治療中に拒否反応を示しているそうです。体制への反抗心など、今のところ何も変わらず、そのままだと聞いています。まだ治療の最中なので今後どうなるか分かりませんが」
「彼女にもシグナルを使ったのですか?」
「さて、どうでしょう。私の管轄ではないので詳細はわかりませんが、人によって治療方法は少しずつ異なります。他の質問は?」
 ロストンはジェーンのこと以外はそれほど切実に知りたいことなどなかった。だが咄嗟にあることが思い浮かんだ。オフィールドの地位なら何か知っているかもしれない。
「グレート・マザーには実在のモデルがいますか? 連合の後ろで全てを操っている人物だという噂があります」
「いいえ、連合の理念を視覚的に表現するために作ったイメージキャラクターです。モデルにした実在の人物などいません」
「参考にした人物がまったくいないのですか?」
「死んだり、空間に制限されたりする有限なものをモデルにはしません」
 オフィールドの言葉をそのまま鵜呑みにするつもりはなかった。何もないところに噂は立たない。裏に何かがあるかもしれない。しかしここで同じ疑問を何度ぶつけても返ってくる言葉は変わらないだろう。
「SS同盟は存在するのですか?」ロストンはもう一つ気になっていたことを訊いた。
 その質問に、オフィールドが呆れた顔をした。
「ニュースでいつも報道されているではありませんか。存在しますよ。自明のことだと思いますが、なぜそんなことまで嘘かもしれないと思ったのでしょうか?」
 ロストンは押し黙り、信じていたあなたに騙されたせいだ、と心の中で叫んだ。ストーンズもSS同盟も、すべて異端派を騙すための連合のでっち上げではないかとさえ思えた。
 だがオフィールドに言い返そうとした瞬間、ロストンは今の自分にもっと直接的に関係する別の質問が浮かんだ。
「このゼロ号室では、これからもずっとシグナルを使うのでしょうか?」
 オフィールドの口元に笑みが浮かんだ。
「ここでどのような治療が行われるかは、経過観察をしながら決めて行くことになります。あなたの心の状況によって変わるので、あなた次第ということになります」
 そう言うと彼はスマートスクリーンに映る時間を確かめた。
「ではミスター・リバーズ、そろそろ次の予定がありますので。看護婦が案内に来るのを待っていてください」
 オフィールドは椅子から立ち上がると、軽く会釈をして部屋を出て行った。






 ロストンは大きなリクライニングチェアにまた身を任せていた。背もたれが後ろまで倒してあり、寝かされているような姿勢だった。
 毎回二時間ほどのこの治療プログラムも、もう三回目で、慣れてきたためか、始まる前の不安は無くなっていた。むしろ、シグナルによる解放感を待ち遠しく感じることさえあった。シグナルのレベルを上げれば通常は感じることのない、至福の感覚に浸れるのだ。
 だが同時に、ロストンは自分の信念を曲げるつもりはなかった。快感は待ち遠しいが、それと何が正しいかは彼の中では別のことだった。
「では始めましょうか」
 近くに座るオフィールドが口を開いた。
「以前もお話しましたが、なぜ一個人に我々がこれほどの時間と手間をかけて治療を行い、社会復帰のためのサポートを準備するのか、あなたは疑問に思いましたよね。しかし、この施設に入る前もあなたはそれと似たような疑問を持っていたと思います。自宅で掲示板に向かってこう書き込んでいましたね。その理由は分かるが本当の理由が分からない、と。文脈なしにそれだけが書いてありましたが、おそらく、連合の活動の本当の意図が分からないという意味なのでしょう。その本当の意図や理由について、あのストーンズの本から何か得たことはありましたか?」
 ロストンの頭にはストーンズが説明した大資本家たちのことが浮かんだが、全部を読んではいなかった。
「本には色々書いてありましたが、逮捕されて最後まで読めていません」ロストンはそう答えると、その本について気になっていたことを思い出した。「そういえば、あなたはSS同盟の人間ではなく、私をSS同盟に入れたいわけでもないのに、なぜあの本を私に送ったのですか?」
 オフィールドは肩をすくめ、答えた。
「あなたが克服しなければならない精神病の特徴が何かを知ってもらうためです。あれは同じ精神病を持った人が書いたものですから」
「どこが精神病だというんですか」ロストンは咄嗟にこみ上げる怒りを抑えながら言った。
「そうですね……自分の頭の中で作り上げた妄想を、客観的な事実だと信じてしまうところです。要するにあの本は、確固たる証拠なしに憶測で諸事例を繋ぎ合わせた陰謀論です。陰謀論による扇動でもあります。事実の検証や論理的思考を放棄している。反知性主義とも、フェイク情報とも表現できますが、要するに知性の放棄です。もっとも、それでも共感する人はいるでしょう。自分の価値観に沿うものにしか耳を傾けない人は大勢いますからね」
 オフィールドは座ったまま少し前に乗り出し、話を続けた。
「ミスター・リバーズ、あなたが疑問に思っていた、本当の理由というものについて一緒に考えてみましょう。この社会で過去と事実の書き直しが繰り返される本当の理由は何だと思いますか? 同じことの言い換えになりますが、連合が一面的な記述を多面的なものに書き直すことを奨励する本当の意図は何でしょう?」
 ロストンは言葉に詰まった。自分は答えが分からないから匿名掲示板に分からないと書き込んだのだ。だがオフィールドが聞きたがっている答えは察しがついた。連合は世界を支配下に置くためではなく、世界全体の安定のためにそうしている、というのが彼の期待している答えだろう。世界中の個々人が各自直面している現実と向き合って各自の観点から見えたものを発信すれば、多面的な側面が明らかになり、一面的な視点による偏見と排他性と暴力が無くなる、というのが連合の主張だ。表現の自由と社会の安定は深く結びついているとかれらは言う。オフィールドが望んでいる答えをこのように容易に予想できるのは、小さい頃からの義務教育とマスメディアの宣伝のせいだが、結局全ては連合を正当化するための情報操作にすぎない。連合の中心メンバーであるオフィールドはその欺瞞を重々知っているはずだ。経済的不平等はどんどん拡大していて、中間層が崩れ、庶民の間では剥奪感が広まっている。見せかけの自由のもとで、人々は経済的な奴隷と化している。たとえ報酬が若干増えた人がいても、本来得るべき分け前の大きな部分が大資本家に吸い取られている。オフィールドはその点をよく知った上でそれを肯定しているのだ。人々の奴隷化を正当化しているのだ。
 ロストンの中で再び強い怒りがこみ上げてきた。
「あなた達の本当の意図は、世界を支配することでしょう。社会安定や人々の幸せのためではない!」ロストンが声を荒げた。「連合は、個々人の自由と自立を謳いながら、実は貧富格差をひろげ……」
 その時、彼はつい、喘ぎ声を出しそうになった。身体中に快感が走ったのだ。スマートスクリーンを見ると、オフィールドがレベルを四に上げていた。
「少し落ち着いた方が良さそうですね、ミスター・リバーズ。感情をコントロールできなくなっています。頭が冷静な状態になるまで、少し待ちましょう」
 しばらくしてロストンが落ち着いたのを確認すると、オフィールドはレベルをゼロに下げた。そしてスクリーンをスワイプして何かを押すと、ロストンの方に向き直って言葉を続けた。
「誤解があるようなので、説明しましょう。世界市民連合の意図は、世界の平和と繁栄にあります。意図はそれだけで、見せかけの意図も裏側の本当の意図というものもありません。我々はただただ、世界の平和と繁栄を熱望している。過去のあらゆる体制も平和と繁栄を標榜していましたが、実際は支配者の富と権力を拡大するための体制だった。我々がそれらと異なるのは、世界の平和と繁栄がこの体制の本当の意図であり、その意図が変質しないための仕組みを作っている点です。つまり、昔の権力者たちは権力を自らの手に集中させましたが、今の体制において権力は連合それ自体にではなく、世界市民の投票権にあるのです。市民の選択によって連合メンバーの当落が決まる。そしてその市民たちが求めているのは平和と繁栄です。グローバル総選挙に基づくグローバル民主制が平和と繁栄を実現しています。偽善でも理想論でもない」
 ロストンは熱弁するオフィールドの顔に若々しさを感じた。この前に見た時よりもさらに若返った感じがした。その顔はどこか成熟した老練な知性を醸し出していたが、肌の状態はなぜかとても若々しいのだ。張りがあって、皺ひとつない。
 彼はロストンの視線に気づいたのか、顔を少し傾げた。
「あなたは今、私の話を聞いているのではなく、私の顔を見ていますね?」オフィールドが言った。「自分で言うのもなんですが、よく見てください、肌が五十代の割に若いと思いませんか? それも先ほどから説明している世界の繁栄と関係していますよ。医療技術の発展も繁栄の表れですから」
 ロストンはその言葉が信じられなかった。医療技術で人の顔をそこまで若返らせることなど、できるはずがない。五十代と言うが、どう見ても三十代前半にしか見えなかった。
 オフィールドはロストンの疑いの視線などお構いなしに言葉を続けた。
「話を戻して、あなたは連合について何か誤解をされているようですが、もう一度強調しましょう。連合のメンバーは市民のしもべです。すなわち公僕です。様々な権限を市民から預かっているだけで、権力の源は市民側にあります。もっとも、一言で市民と言っても、それは一つの総体的な意志として存在しているのではなく、多様な意志を持った人々で構成されています。市民を一つのまとまったもの、総体として捉えると、市民の間の意見の違いを無視して、一つの主張を議論なしに推し進めてしまうことになります。それは市民の名を振りかざした独裁につながりかねません。ですから権力は、一括りにした市民概念に基づくのではなく、市民一人一人のその時その時の選択、つまり投票によって発生しなければならない。”相対は絶対なり″という連合のスローガンをご存知でしょう。実はその逆も然りです。つまり”絶対は相対なり″ということです。絶対権力は必ず腐敗し、社会を貧困と戦争に陥れる。だから絶対権力や絶対真理というものは必ず相対化し、常に捉え直すべきなのです。それが”絶対は相対なり″および”相対は絶対なり″の意味です。その実践によって、我々は永遠の平和と繁栄を享受できるでしょう」
 オフィールドはそこで軽く咳をすると、言葉を続けた。
「ついでにもう一つ強調したいのは、先ほど格差について言及されましたが、確かに、先進国の斜陽産業で働いている人は格差を感じているかもしれません。しかし他方で、途上国でそれらの産業は著しく発展し、途上国の人達の所得は格段に増えました。それに、諸先進国は不得意になった一部の産業を途上国に任せることで、自身の得意分野に資源を集中させることができ、それが成長につながっています。ですから、世界全体を見ると、世の中はどんどん豊かになっている。そのような物質的な繁栄は、社会および世界の安定に貢献する一番の要因です。もちろん心も大事ですが、物質環境は精神に大きな影響を与えるので、物質環境が安定すると、精神も安定しやすい。ですから今の繁栄は、心の幸せを実現する上でも重要な働きをしています」
 オフィールドの畳みかけるような言葉の勢いにロストンは圧倒された。だが、何とか反論の言葉を絞り出した。
「でも、物質的な環境を整えるだけで精神をコントロールできますか? このようなプログラムを何回も実施してさえ、私一人の心すら変えられないじゃないですか。何をされても私の信念は変わりませんよ」
 オフィールドは肩をすくめながら答えた。
「ミスター・リバーズ、今の私たちに出来ないことが多くあるのは事実です。まだ私たちはこの社会から様々な精神障害、たとえば対人恐怖症やうつ病などを一掃することができないでいる。ですが、取り組み続ければ、一つ一つ克服していけるでしょう。物質世界を上手く操る技術が発達するほど、幸福感の実現や精神障害の治療が確かなものになるのは間違いありません。心は物理の法則から自由ではありませんから」
 その言葉に、ロストンは再び、こみ上げる怒りを感じた。
「心の病気は治せるようになるかもしれないが、あなたたちが否定する信仰心や異端派の思想は心の病ではない! それらは物理的な環境を変えることで操れるようなものでないんだ! クリスチャンは歴史上、暴君たちによって何度迫害されても、信仰心を保ち続けたのです!」  
「信仰心を病だなんて私は一言も言っていませんよ」オフィールドは少し驚いた表情で答えた。そして言葉を続けた。
「ですが、もし信仰心をなくそうとするならば、迫害する人達は、やり方が間違っていたと言えるでしょうね。物理的な力で心を抑圧しようとしてはなりません。暴力と恐怖で相手の心を操るのは、短期的にはともかく、長続きしませんから。以前申し上げた通り、復讐心を芽生えさせてしまうのです。だから、むしろ安らぎを与える方が良い」
 ロストンは震える声を抑えながら言い返した。
「物理的な刺激で快感を味わわせても、敬虔な信仰心は揺るぎませんよ。恐怖や快楽に負けない気高い精神こそが人間を特徴づけるのです。本能の赴くままに生きていたら、世界は変わらない。環境と妥協しない気高い精神がこの世界と社会を作ったのであって、環境が精神を作ったのではない」
「なるほど、精神が世界を形作る側面はもちろんあると思います」オフィールドが言った。「それを否定しているのではありません。私が言っているのは、その不屈の精神や信仰心も物理的な環境の影響を強く受けて形成される側面があるということです。つまり精神と物理環境はお互い影響し合っているのであって、どちらがどちらのより根本的な原因になっているわけではありません」
「それは違う!」ロストンは怒りを抑えきれずに叫んだ。「一番はじめに存在したのは、物理的な制約を超えた精神なのです! まず神の意志があり、次に神に自由意志を与えられた人間の意志がある。精神がこの世の中を作ったのであって、その逆ではない!」
「ほう、なるほど」オフィールドが笑みを浮かべた。「ミスター・リバーズ、そのような信仰心をお持ちになるのはあなたの自由ですが、科学的な見地から言えば、証明できる話ではありませんね。そういえば、肖像画のイエスの肌色がアフリカでは黒く描かれることがあり、ヨーロッパでは例外なく白く描かれていますね。でもイエスは黒人でも白人でもありませんでした。仏像も、ヘレニズムの影響を受けた西アジアではギリシャ人のような顔立ちで作られ、東アジアでは東アジア人の顔立ちになっていますね。しかしゴータマ・シッダールタは南ヨーロッパ人でも東アジア人でもなかった。ですから、信仰の対象も環境に強い影響を受けてイメージが形作られると言えます。その観点から考えると、神が人間と世界を作ったのではなく、人間と世界の方が神という概念を作った可能性の方が高い。もっとも、これは情況証拠であり、証明ではありませんが」
「そうだ」ロストンは震えながら言った。「あなた達がいくら科学を振りかざして否定しようとしても神が存在しないという証明にはならない。地球上の環境を少し操れるようになったからって、自分たちが創造主であるかのように傲慢になっているが、まだ地震や台風を食い止めることもできなければ、地球から遠く離れて旅をすることもできない。地球のことも宇宙のこともまだ分からないことだらけなのに、自らが神や世界を作ったなどと自惚れている」
「神というのは人間の言葉で描写されていますよね」オフィールドがまた笑みを浮かべて言った。「神がこう言い、ああ行動したと。しかしその描写が人間によるものならば、神の言葉というのは結局、神の名を利用した人間の言葉ではないでしょうか。もちろんどの宗教でも、神の言葉を記した聖典は、たとえ直接的には人間の手によって書かれたものでも、神が人間を媒介して書いたものであると説明しています。ですがそれは、聖典の言葉が人間の言葉だと思われるのを避けるための方便ではないでしょうか。つまり、本当のところは人間が神の名を利用して語っているのに、逆に神が人間を媒介して語っているという、倒錯した説明を人々に刷り込んでいるのではないでしょうか」
 ロストンは震えが収まらなくなった。とうとうオフィールドが本性を露わにしたと思った。やはりこれがかれらの本性なのだ! 連合の連中はやはり、表では信仰の自由を唱えながら、心の中ではそれを否定しているのだ! 
 だが怒りをぶつけるだけでは勝てないこともロストンは分かっていた。勝つためには矛盾を突くような反論が必要だ。
「あなたは科学的証明が必要だと言いながら、自身も憶測で語っているじゃないですか。科学的証明だって、所詮は不完全な人間が編み出した不完全なものに過ぎない。証明などしなくても神の存在は明らかだ。宇宙から細胞まで全てはうまく出来過ぎている。その美しい秩序と調和が、カオスの中から自然と出来上がったと考えるのは、それこそ確率的にあり得ない非科学的な思考で、創造主が存在すると考えた方がよっぽど理に適う」
 その言葉に、オフィールドは再び呆れたような表情をした。
「前にも言いましたが、ミスター・リバーズ、あなたは物事を実証的ではなく、形而上学的に捉える傾向が強いようです。観念論とも言えます。ですが、この話はもういいでしょう。少し脱線しました」
 ロストンはオフィールドが議論から逃げたと感じた。矛盾を突かれたから、反論できずに逃げたのだ。形而上学? 観念論? 難しい言葉を並べて煙に巻いているにすぎない。世にいうインテリたちは不利になるといつもそういう風に逃げる。
 オフィールドはカルテに何かを黙々と書き込み、それが終わると再び口を開いた。
「連合の意図が何かという話に戻りましょう。我々は、人々を抑圧して支配するような権力は、持続可能な真の権力だと思っていません。人々の自由な選択の中にこそ、真の権力があると考えています。ではミスター・リバーズ、人々は自らの自由意志でどのようなものを選ぶと思いますか?」
「あなた方の考え方だと、快感をもたらすものでしょう」ロストンが即答した。
「ほう、良いですね、近いです。より正確な表現を使えば、自分にとって不快なものを避けるように、より大きな満足感を得られるように人々は行動します。誰かに強制されなくても人々は自然とそのような選択をする。生への意志と言いましょうか、そのような本能は揺るぎないものであり、だからこそ、そこから発生する権力も揺るぎないものになるのです。抑圧されない自由な選択のうちに権力はある。そろそろ、我々が今まで作ってきたものを理解できたのではないでしょうか。それは過去の独裁者たちが作り上げた抑圧の世界とは対極にあるものです。安らぎと信頼と快適さがあり、人々が助け合って、幸せが増幅する世界です。過去の支配者たちは暴力を体制の基礎にしていましたが、我々の基礎には愛がある。たとえば、結婚して幸せな家族を持ちたいという願いが叶うように、婚活と出産と子育てに我々は巨額の手当を支給してきました。また、自己表現の欲求も満たせるように音楽、文学、美術の振興に力を注いできましたし、その他にも映画やスポーツ観戦や遊園地など、人々があらゆるエンターテインメントを満喫できるように資金面と制度面でサポートしています。まさにここが重要なところです、ミスター・リバーズ。つまり、誰かが誰かを弾圧するのではなく、人々がお互いの自由を侵害しないように気遣いながら自分の自由を享受できる環境が必要なのです。それによって人々の幸せは増幅し、社会はより安定的なものになる。イメージしてみてください。手をつなぎ合い、肩を組んだ人の輪が世界中に広がっていくい姿を」
 オフィールドはそこで話を中断すると、反応を待つかのように、ロストンをじっと見つめた。
 ロストンは彼の説明に強い違和感を覚えた。何かが矛盾していて、欺瞞に思えるのは確かだったが、その理由をすぐには言葉で表せなかった。
 ロストンの反応がないのを確認すると、オフィールドは再び話を続けた。
「人々が手を取り合うのが大事です。反対勢力はなくならないでしょうが、我々は繰り返しかれらを抱擁し、宥め、治癒していくつもりです。あなたもきっと、ここでの経験が治癒につながるでしょう。世界はもっと強い信頼関係で結ばれ、開放的で、快適で、健康的になるはずです。ストーンズの唱えるような危険思想が完全に無くなることはないでしょうが、今あなたに対してそうしているように、我々は異端派に対しても寛容な姿勢で辛抱強く向き合ってきました。ここに来た人たちは、治療によって心身を癒やされ、未来への希望と高い自己肯定感を持つようになります。そして善良な市民として巣立っていくのです。それこそがこの施設が目指していることです。手を取り合える仲間のいる、安定した社会。お互いを受け入れる社会。これでご理解頂けたでしょうか、我々の意図を。あなたにはそれを理解し、納得した上で治療に取り組んでもらいたいのです」
 オフィールドの話を聞きながら、ロストンは自分が何を矛盾と感じたのか分かってきた。そして口を開いた。
「そんなもが成り立つはずがない」
「どうしてですか、ミスター・リバーズ?」
「あなたが言っていることが矛盾しているからです」
「矛盾?」
「快楽と欲を基礎にした社会安定なんて不可能です。矛盾している」
「それはどうしてでしょう?」
「人がみな自分の本能と欲求の赴くまま好き勝手に行動すれば、無秩序になるからですよ。道徳も規律もなく、下品な性欲と物欲だけが残る。実際、人々はすでに昔の倫理観を捨て、性の乱れも深刻だ。自由と自由、欲と欲が激しく衝突するから、混乱と争いが生まれるのは必至です」
「なるほど。社会の安定化には自由よりも規律、道徳、そして秩序を乱す者の取り締まりの方が大事だとお考えなのですね」オフィールドは軽く頷き、言葉を続けた。「ですが、あなたが見逃しているのは、我々がその問題にも以前からずっと真剣に取り組んできたことです。社会の規律と道徳に従わずに秩序を乱す者というのが、まさに異端派、あなたご自身だと考えたことはないですか? 我々は個人と社会の自由を守ろうと、他者を排除しようとする危険思想を取り締まってきたのです」
「それは違う!」ロストンは再び強い怒りを覚えた。「あなたたちが悪意をもって危険思想と名付けたものは、人を排除するためではなく、人を守るためのものだ。脅かされている我が国、文化、宗教と、それに根差した個人のアイデンティティーを守るためのもの。我々を脅かすものを排除せずに我々がどうやって生き残ることができる? 我々には自らを守る権利がある。我々の生活圏を守る権利がある。それを許さないあなた達こそが自由と秩序の破壊者だ!」 
 オフィールドは呆れた表情で答えた。
「確かに、人々がただ自分の自由を主張するだけで終われば秩序が乱れるでしょう。しかし、選択によって生まれる利害関係の衝突が、話し合いや裁判で緩和され、今後の衝突を避けるためのルール作りにつながれば、秩序は保たれます。現体制で、人々の自由な選択が無秩序ではなく秩序をもたらしている理由はそこにあります。つまり自由な選択には、それに対する責任がついて来なければならない。自分の選択によって衝突してしまう相手と話し合ったり、譲り合ったり、ルール作りをする責任が伴わなければならないのです。ところがミスター・リバーズ、あなたのような危険思想犯は、相手と話し合いをして衝突を解決しようとするのではなく、相手を排除し、根絶することで衝突を解決しようとする。つまり、自分のことしか考えない、わがままな自由を主張している。その態度が、秩序と社会の破壊につながるのです。大抵のトラディットのように不満をただ心に秘めているだけなら問題になりませんが、危険思想を公にするのは許されません。それが連合の考える、人類が調和した社会を築く方法です」
「違う!」ロストンは叫んだ。「話し合いに応じてないのはあなた達だ! 話し合いが必要と言いながら、連合に都合の悪いことを言えば、話し合いなんかせずに危険思想の罪名で即逮捕しているじゃないか。そんな理不尽なことを続ければ、トラディットたちはいつか立ち上がりますよ。表に出さなくても、心の中では大きな不満が募っている。抑えられた分、大きな圧力となって爆発するはずだ」
 オフィールドは不思議そうな顔をした。
「ミスター・リバーズ、トラディットの表に出ていない心の中の不満をあなたはどうやって知っているのですか? 無記名のアンケート調査や脳波測定をしましたか? それに、どれほどの不満が募れば爆発するのでしょう? それに、不満のはけ口が体制への反乱であるだろうと考える根拠はありますか?」
「いや、そんなのは要らない。見ればわかる。あなた達は頭でっかちで、もっと謙虚になるべきだ。世の中にはあなた達にも絶対に変えられないものがある」
「先ほど言っていた、神や人間の精神のことですか?」
「他にもある。昔から続いてきた共同体の文化、宗教、民族性。それらは何千年、何万年にわたって形成され、定着したものだから、変わらないものだ。黒人やアジア人は白人のようにはなれないし、イスラム教の国は自力でキリスト教の国にはなれない。本質が変わることのない異質な人たちが同じ社会に混在するような多文化社会がうまくいくはずがない。そんなものはいずれ崩壊する」
「なるほど、相変わらずあなたは、自分のアイデンティティーが不変の確固たるものだと主張するのですね?」
「主張ではなく、実際にそうだ」
「ミスター・リバーズ、あなたはご自身のことを道徳的だとお考えのようですが、その道徳観が正しいとされたのは国境を超えた人の移動が少なかった昔の話で、今ではそれは非道徳的なものです。共同体に新たに加わる人たちに対してひどい態度をとっているわけですから」
「では、よそ者たちを守るために自分たちが苦しむのが道徳的だとでも?」ロストンが反論した。
 オフィールドは質問に答えず、手を伸ばしてスマートスクリーンを操作した。だが今度はシグナルの操作ではないようで、解放感は訪れなかった。
「どうぞ降りて下さい」オフィールドが言った。
 すると突然、リクライニングチェアが自動的に前倒しになった。ロストンは困惑しながらも、身体を起こし、床に降りた。
「あなたの一面的なアイデンティティーは多面的なものに生まれ変わることができます」オフィールドが部屋の隅にある壁掛けの鏡を指差して言った。「あなたはこの物質文明の体現者であり、一員です。そんな自分の姿を確認してください」
 ロストンは何のことか疑問に思いながらも、言われたとおり鏡の方に足を進めた。だが鏡に近づくにつれ、自分の姿がくっきり見えてくるにつれ、歩幅が徐々に小さくなった。そして間もなく立ち止まった。彼は驚きのあまり、目を大きく見開いた。
 鏡の中には自分の知っている自分の姿がなかった。
 そこには、みずみずしい若者がいた。
 鏡にもっと近づき、まじまじと見つめると、鏡の中の若者は、肌がつやつやで、顔のたるみなど一切なく、目は澄み渡る青空のように輝いていた。体も、病衣に隠れて分かりにくくはあったが、全体的に引き締まっていた。
 そこにいたのは、間違いなく、若い頃の自分だった。
「あなたは先ほど私の顔をじっと見ていましたね」オフィールドが言った。「年齢の割に、そして以前見た時よりも若く見える、と思ったはずです」
 彼はロストンのすぐ隣に立って一緒に鏡の中を覗いた。
「これが今のあなたの姿です。若々しくて美しいでしょう。全身に潤いがあって、異性を引き付けるような良い香りさえする。以前よりもさらに筋肉がついて、強靭な体つきになっています。髪の毛にハリが戻り、歯だって前より頑丈です」
 鏡の中のオフィールドは横を向いてロストンの顔を見た。
「あなたは若々しく生まれ変わったのです。ナノマシーンは、解放感を高めるシグナルだけでなく、他にも様々なシグナルを出し、細胞に働きかけることができます。肌を潤わせたり、ウィルスを退治したり、がんを治したりできる。商用化はしていますが、まだ製造コストと運用コストが高いので、超富裕層の間でしか普及しておりません。ですがそんな高額なものでも、我々はあなたのために惜しみなく使うつもりです。鏡の中を見て下さい。あれが新たな人類の姿。いつまでも若々しく、強靭で、柔軟で、新しいことを受け入れる、高いチャレンジ精神を持つ新人類です」
 ロストンは今日を振り返ってみた。今朝、自分の顔を見た時はいつもと同じだったのに、短時間にこれだけ変わるものだろうか。短い間に人の容姿を二十年近く若返らせられるほど、体制側は物質世界をコントロールしているというのか。
 しかし驚きの感情よりももっと強くこみ上げてきたのは、正直、若返りへの喜びだった。思わず笑みがこぼれ出てしまうほどの喜び。気がつけば、鏡の中の自分が満面の笑みになっている。若さがどれほど美しいことか、どれほど希望に満ち溢れ、わくわくすることかを、全身で感じた。それを震えるほどに感じ取った。エネルギーの漲る自分の身体が嬉しさのあまり思わず飛び跳ねそうになるのを必死で堪えなければならないほどだった。
「このような心と身体の状態をずっと保つことができます」オフィールドが囁いた。「止めることもできれば、続けることもできる。どちらにするかはあなた次第です」
「続けたい」反射的にロストンは言った。自分の即答に自分もびっくりしたが、口が勝手に動いた。「若いままでいたい」
「そうでしょう。それが自然です、ミスター・リバーズ」
 オフィールドはそう言うと、少し厳しい表情に切り替わって言葉を続けた。
「ただ、誤解しないで欲しいのですが、あなたはどちらかを選べますが、選択肢を提供しているのは我々です。あなたの意志によってではなく、医療技術の発展によってこのような選択肢が生まれたのです。そもそも物質的な環境が整っていなければ、このような選択はできない」
 オフィールドは自分の手をロストンの肩に乗せ、話を続けた。
「ミスター・リバーズ、我々はあなたを蘇らせました。再生させたのです。身体もそうですが、心もそうでしょう。あなたは今、内側から湧き上がる希望でいっぱいになっているはずです。心地良いマッサージとシグナルで我々はあなたを隅々まで癒やしました。あなたは解放感のあまり歓喜の声を上げ、宙の中を浮遊した気分になった。胸の内を明かすほどに、心も少しずつ開き始めました。それでもまだあなたを悩ますものがありますか? あなたのために私たちは最善を尽くすつもりです」
 悩ますもの、という言葉を聞いた瞬間、ロストンはふと思いだした。
「ジェーンを道連れにしてしまった」
 オフィールドは当然のことを耳にしたかのようにロストンを見つめた。
「そうですね、確かに、あなたと出会ったことで彼女はあぶない行動に出るようになり、結局は逮捕された」
 瞬時に、喜びの感情が後退し、ロストンはオフィールドに対する苛立ちを覚えた。やはりこの人間とは分かり合えないという気がした。
 自分が言ったことに対して彼がただ頷いただけ、とも言えるが、状況をよく理解した上でそうしているとは思えなかった。確かに自分は彼女を道連れにはしたが、彼女を守りたい気持ちは強かったし、今でもそうだ。治療の最中もどこかでずっと彼女のことを心配していた。でも捕まってからではもう遅いし、自分にはもう何もできない。心の中では分かっていた。彼女を守れなかった自分は彼女を愛する資格がないのだと。もう彼女の傍にはいられないのだと。そんな辛い気持ちをオフィールドはまったく分かっていない。
 だがここでその思いを彼にぶつけてもしょうがなかった。ロストンは反論の言葉を呑み、代わりに質問をすることにした。
「いつか、ジェーンとわたしは社会に復帰できるのでしょうか」
「それほど先のことではないかもしれません」オフィールドが答えた。「あなたの症状はよくある症例です。しかし油断してはいけない。しっかり取り組まないと完治はできません。真剣に取り組めば、最後には救われることでしょう」
 そう告げるオフィールドは、強い決意の表情を浮かべていた。






 ロストンの身体は再び元の状態に戻りつつあった。時間が経つほど肌のハリと潤いがなくなり、体中にみなぎっていたエネルギーも感じられなくなった。
 ゼロ号室にいる時以外、彼は暖かい日差しの入る個室によくいた。部屋にはふかふかの枕とベッド、ソファがあり、広い机の上にはタブレット型のスマートスクリーンもあった。奥には小さい浴槽があって身体をあたためられたし、備え付けの洗濯機もあって頻繁に病衣と下着を洗うことができた。建物内はどこも禁煙で、外の自然公園のフレッシュな空気を取り込んで換気していた。食事も、質素だが栄養バランスがとれていて、ロストンはそれなりに美味しいと感じた。生活の面で特に不便なところはなかった。
 しかしなぜか、悪夢を見ることが多くなっていた。地獄の中で苦しむこともあれば、凍り付いた未来の空間で母親やジェーンやオフィールドに自分の過ちを責められることもあった。目が覚めた後は、明るい気持ちを保つために、夢について考えるのを意識的に避けた。それでも、時には部屋の机の前に座ったり、歩いたりしながら、色々なことに考えを巡らしてしまうのだった。そんな時には心が落ち込んでしまい、治療の時間が来るのを待ち望んだりもした。
 それに、ロストンは徐々に睡眠時間が長くなり、ベッドの上で横になることが多くなっていた。以前と同じ速さで歩けたし、腹筋運動と腕立て伏せもそれなりにできたので、シグナルを受ける前より体力が弱くなったわけではなさそうだった。どこかが痛いわけでもない。だから客観的には治療を受ける前と体は同じだった。だが若返りしていた状態と比較をしてしまうせいか、ロストンは自分の体力に自信を失くし、顔がひどく老けたように感じた。満ち溢れていた希望は薄まり、考え事をすればするほど悲観的な気持ちになった。
 しかし心が折れたり、心の中の抵抗を止めたりしたわけではなかった。博愛園に着いてから、彼は心の中でずっと抵抗していた。いや、厳密にはもっと前、警察に捕まった瞬間から、世界市民連合の圧力には屈しないと固く決心していた。確かに、連合は手ごわい相手だった。かれらは全てを把握している。思想犯捜査の名目でかれらは街中のスマートスクリーンの録画記録を調べ上げ、今までの二人の言動を隅々まで知ることができる。スクリーンを通して連合は時空を支配しているのだ。
 しかしそれでも彼は屈するつもりがなかった。転向なんかするものかと心を引き締めた。多数派で正統派だからといって正しいとは限らない。時にかれらの主張が正しく見えてしまうのは、正しさの基準そのものをかれらが作っているからにすぎないのだ。
 ロストンは、連合の主張を理解してみようと、物質環境を重視する観点に立って考えてみたりもした。たしかに、身体が若返りした時に自分がそれまでにない喜びを感じたのは事実だった。だが、だからといって物質によって全てが決まるわけではない。オフィールドも自分たちが対人恐怖症やうつ病を完全に克服できないでいると認めたではないか。物質的な現実が精神に影響を与える部分があるのを、かれらは拡大解釈して、物質が精神を規定しているとまで主張する。言葉では違う風に言っていても、本心では物質が精神より先に存在すると信じている。だが、たとえば宇宙という物質世界の始まりは、その観点では説明できない。物質世界の始まりの前に物質の変化があるという話になり、矛盾になるのだ。だから神の意志が物質に先行すると考えた方が、矛盾がない。神の精神のなかに物質世界はあるのだ。それは理屈に合うことであり、だから太古の昔から人々はそう考えてきた。しかし物欲にまみれ、物質を重視する今の社会では、神の存在は物理的に証明できる問題ではないと無視され、すべてがもっぱら物質的な観点から捉えられている。そのような唯物論が現代人の持つべき当然の常識、オープンスピークでいう”普遍的良識″と呼ばれるものだ。
 ロストンは連合が広めてきた”普遍的良識″を振り返ってみた。宇宙の始まりを物理的に説明する科学者の解説をオンライン上で読み、進化論の立場から創造論を否定する人達の文章を読んだ。しかし、二足す二は四のように自明なものとは思えなかった。論理的な検証を行っているものの、証明されていない幾つもの前提の上にかれらの理屈は成り立っている。前提と言えば科学的な響きがして聞こえはいいが、つまるところ何かがそうであると信じるということだ。正統派は、証明できないものを非科学的だとあざ笑うが、科学や普遍的良識も証明されるものだけで出来ているのではなく、かれらが信じるものの上に成り立っている。信じているものが間違っていた場合、科学と普遍的良識も間違いだったことになる。結局、多数派で正統派だからといって正しいとは限らない。正しさの基準そのものをかれらが決めるから、一見、かれらの主張が正しく見えてしまうだけなのだ。
 だが同時にロストンは、頭の中で体制の主張を拒否できても、それを口に出して拒むのは簡単ではないと感じていた。社会復帰ができなくなってしまうからだ。
 彼の頭の片隅には、色々と考えを巡らせている間も、ずっと社会復帰への不安があった。オフィールドは「それほど先のことではないかもしれません」と言っていたが、その通り、自分の取り組み方によっては復帰の時期を早められるかもしれない。異端であることを懺悔し、転向を表明すればすぐに復帰できるだろう。今まで目にしたテレビのニュースがそれを裏付けていた。転向者がプレスルームのようなところで体制側の人達と握手する姿を何度も観たことがある。
 不安に思っているからか、そのような場面は夢にさえ出てきた。
 夢の中で、ロストンは暗い廊下を歩きながらプレスルームへと向かっていた。心はまだ葛藤し、矛盾を抱え、納得できずにいた。疑念と、敵対心と、敗北感に包まれていた。身体だけが健康的で若々しくなっている。重い足取りで、心苦しさを噛みしめながら、暗闇の中を延々と歩く。気が付くとそこは、プレスルームへと向かう廊下ではなく、博愛園の狭くて仄暗い廊下だった。そして次の瞬間、自分は”地獄″の中にいた。何もない空き地が続き、それを人工的な照明が白く照らしている。そしてその向こうにはスクラップの山があり、その下を溶解した真っ赤な鉄が流れていた。隣には……
 夢から覚めた時、彼は瞬時に現実世界に舞い戻った。
 そして思い出したのだった。自分は捕まってここに入れられているのだと。自分は社会から遠く隔離された施設の中にいて、精神障害の患者として扱われ、実験用動物のように弄繰り回されていることを。そしてジェーンもまた連合によって隔離され、精神病の患者にされ、心と身体を弄ばれているであろうことを。
 ロストンはベッドの上で身体を丸め、「会いたいよ」とつぶやいた。
 自分は彼女を不幸にさせたのだから彼女のことを忘れないといけない。何度もそう自分に言い聞かせた。彼女も自分を必要としない新しい人生を歩み始めた方がいい。他人として別々の道を歩いた方がいい。そう必死に自分を納得させた。
 だが同時にロストンは思った。自分のせいではあるものの、元を辿れば思想犯のレッテルを貼って捕まえた連合側に非がある。人を隔離して心身を弄ぶかれらに問題がある。連合が全ての元凶なのだ。
 絶対に屈するものか、と彼は心に決めた。脳波は測定できても、感情の中身までは分かるはずがない。表面的なことをいくら把握していても、心の奥底まで知ることはできないのだ。自分はオフィールドに向けて何度も反論したが、そうやって考えをぶつけること自体が心を開き始めた証拠だと彼は言っていた。だがそれは違う。自分の考えは少しも曲げていない。自分が正しいことは分かっている。正しいことを貫く人間でいたいのだ。だから……
 ロストンは大きな覚悟をもって、机の上の電子ペンを握った。そしてそこに置いてあるスマートスクリーンに書き込んだ。

 相対は絶対ではない。

 そしてその下にゆっくりと書き足した。

 正統派の価値観は、二足す二は四のような当然のものではない。

 すると、自分の中で心理的な障壁が取り払われた気がした。そして、次に何を書くべきかがはっきりと見えてきた。理屈なしに頭の中に自然と浮かんだものだった。それを続けて書いた。

 権力は、人ではなく、神から生まれる。

 これで自分は連合の一切を拒む心の準備ができた、とロストンは思った。
 体制側の主張を拒むのは簡単なことではない。社会復帰ができなくなってしまう。だから今まで心の中では抵抗し続けてきたものの、治療プログラム自体を拒んだりはしなかった。しかしもう従順になるのを止めて、全てを拒否する決心がついたのだ。もうかれらの言いなりになったりはしない。
 ふと、鏡に映る自分が目に入った。身体が再び若々しくなっている。
 ロストンは疑問に思った。かれらはナノマシーンを遠隔操作しているのか、それとも自動で動くようにプログラミングされているのだろうか。
 彼は鏡に映る自分の若い顔を撫でてみた。肌が弾力的になり、頬や額の小皺が無くなっている。全体的に引き締まって、以前より顔立ちがはっきりしている。そして身体全体に力が漲り始めていた。
 若返った自分の顔を眺めていると、ロストンは不意に笑いがこぼれてしまった。
 堪えようとした。でも、どうしても笑ってしまうのを止めることが出来ない。
 コントロールできないのは表情だけではなかった。嬉しくなって、心も躍っている。
 ロストンはこの時、心に秘めたものを守るためには、それを強く意識しなければならないことに気付いた。無意識的に連合に屈してしまわないように、自分の心の状態を常に意識する必要がある。洗脳されないためには、常に疑う姿勢を持ち、連合への憎しみの感情を前面に出して、うっかり丸め込まれないようにしなければならない。
 おそらく、社会復帰を意識させるのも、連合側の策略なのだろう。開けた未来は自分の意思で決められるとかれらは言う。転向の意思を伝え、廊下を歩いて、プレスルームに入る、ただそれだけのことだ。だがその短い間に、自分の本心と連合への憎しみは、自分にも見えない胸の奥底へと押し込まれ、堅く閉ざされることになる。自分の本当の感情と考えに蓋をすることになる。そして連合側の人間と握手をした瞬間、今までの自分は崩れ去るだろう。危険思想を懺悔し、体制への支持を誓い、かれらの作っている世界を補強する一つのブロックになるのだ。かれらを称賛しながら生きること、それは奴隷に成り下がることを意味する。
 ロストンは鏡の中の自分を見ながら思った。肉体的に楽になるよりも、精神の方がはるかに重要であると。身体がいくら若々しく強くなっても、信念を捨てることは本当の自分を殺すことなのだと。
 ふと、彼の頭にグレート・マザーの姿が浮かんだ。あの優しい顔と、迎え入れるように広げた両腕は、全ての人を抱きしめ、受け入れるという連合の理念をイメージ化したものだった。だが、かれらが実際にやっていることは、それとまったく違う。かれらは異端派を受け入れるどころか、徹底的に排除し、隔離し、信念を捨てさせようと全力で圧力をかけているのだ。
 その時、ノックが聞こえた。
 ドアを開けると、そこには中年の看護婦と若い看護婦が笑顔で立っていた。そしてその後ろに無表情のオフィールドがいた。
 ロストンは三人を部屋に招き入れた。椅子をすすめようとしたが、一つしかないので、一脚をオフィールドにすすめ、自分はベッドの上に座った。看護婦二人は立ったままでいる。
「調子はいかがですか?」オフィールドが座りながら訊いた。
 ロストンはどう答えていいか分からず、一瞬黙り込んだ。
「ミスター・リバーズ、最近は胸の内を明かしてくれるようになり、嬉しく思っています」
 そう言うとオフィールドは机の上を一瞥し、また口を開いた。
「症状はだいぶ良くなってきています。まだ自覚していないかもしれませんが、あなたは自分の観点とは違う観点があり得ることに気づき始めている。ただ、感情の面ではまだ納得していない。そこで一つお聞きしたいのですが、正直に答えてください。正直な答えでないと治療方法も間違ってしまいますから。改めてお聞きしますが、あなたはグレート・マザーをどう思っていますか?」
 ロストンは頭の中で適切な言葉を探り、答えた。
「偽善的です」
「偽善ですか」オフィールドが肩をすくめて言った。「分かりました。では次の治療に入り、グレート・マザーの愛について一緒に考えてみましょう。あなたがそれに愛着を持つ義務はありませんが、あなたはもっと愛されるべき人ですから」
 彼が看護婦たちに合図をすると、若い看護婦が笑顔でロストンに声をかけた。
「では、ゼロ号室にご案内いたしますね」






 いつも治療を受けているゼロ号室が、いったい建物の中のどのあたりにあるのか、ロストンはまったく見当がつかなかった。そこに辿りつくまでの通路に窓は一切なく、仄暗い廊下が曲がりくねっていて、方向感覚を狂わせるのだった。傾斜もかかって緩やかに上下しており、何階かも分からない。
 到着するとそこはいつものゼロ号室だった。見渡す限り全てが眩しい真っ白な部屋。
 ただ、いつも使っているリクライニングチェアがなくなり、それがあった場所には一つの大きな白テーブルと、それを挟んで向かい合う二脚の椅子があった。
 ロストンは手前の椅子に座り、テーブルの上に両肘をつけた。すると一緒に部屋に入っていた二人の看護婦が外に出て行き、入れ替わるようにオフィールドが入ってきた。
 オフィールドは奥の椅子に腰かけ、徐に口を開いた。
「以前、質問されたことがありましたね。ゼロ号室ではずっとシグナルを使うのか、と。経過観察をしながら決めて行くものだと私はお答えしました。あなたの心の状態によって変わるので、あなた次第で治療方法は変わると」
 ドアがまた開き、一人の看護婦が入ってきた。その手にはタブレット型のスマートスクリーンがある。看護婦はそれをオフィールドの前に置き、軽く会釈をして出て行った。スクリーン上には何かが映っていたが、ロストンの角度からは見えなかった。
「ミスター・リバーズ、あなたにとってこの世で最も大切なものは何ですか?」オフィールドが訊いた。「自分の命だと言う人もいれば、自分の家族や友人やペットだと言う人もいるでしょう。なかには人や動物ではなく、特定の物や理念だと考える人もいます」 
 そう言うと、オフィールドはスマートスクリーンに触れた。そのスマートスクリーンはプロジェクターと繋がっているようで、二人の間を遮るようにテーブルの中央から透明な膜が浮かび上がった。大きさは五十インチ以上で、かなり大きい。
 手元のスマートスクリーンに映っているであろうものがそこにも映し出された。何かの表紙が上下左右に並べてある。週刊誌の表紙だった。数は十ぐらいある。
「あなたにとって」オフィールドが言った。「この世で最も大切なのは、彼女ではないでしょうか」
 それまではプロジェクターの透明な膜を見ても、並んでいる雑誌を見ても、ロストンはそれらが何を意味するのか気づかなかった。しかしオフィールドの言葉を耳にすると同時に、表紙の内容が目に入ってきて、彼はすべてを理解した。そして自分の鼓動が激しく打ち始めるのを感じた。
「そんな」ロストンは声を押し殺すようにつぶやいた。「こんなにも……」
「これを覚えているでしょう」オフィールドが真ん中の週刊誌を押すと、ページが開いた。「借家で彼女が撮ったあなたとのツーショット写真です。あなたにとっては人生はじめての記念写真だったようですね。家族との写真がないわけですから。小さかった頃、あなたの母が出て行き、その後、父もあなたを置いてどこかへ行ってしまった。家族との思い出の写真は一枚も残っていない」
「どうして」ロストンは声が震えた。「どうしてこんなプライベートの写真が許可なく……どうしてこんなことをするんですか!」
 透明な膜の向こう側にいるオフィールドは肩をすくめ、それは週刊誌の問題であって自分の責任ではないという表情をした。
 しかし次の瞬間には、まるで親身になって相談に乗るような表情に切り替わり、身を乗り出してロストンに語りかけた。
「大切なものだと口では言っても、実際のところ、人間は生きていくために色々なものを諦めることができます。だが人によっては、本当に諦めることのできない、本当に大切な、かけがえのない存在というものがある。自分の命がその一つですが、それだけではない。親はわが子を助けるためなら線路や洪水の中へ躊躇なく飛び込むでしょう。理屈とは関係ありません。本能的にそうするのです。あなたにとって彼女はそういう存在でしょうか? それとも、大切だと口では言っても、諦めて忘れることのできるぐらいの存在でしょうか? 彼女のためにあなたは何をしますか?」
 ロストンは何も思い浮かばなかった。彼女はさらし者にされてしまって、それはもう起きてしまったことだった。何をしたってもう取り返しがつかない。
「何ができると言うのです? いまさら私が何をしたって、すでに記事はこんなにも出てしまったし、彼女はさらし者になってしまった……」
 オフィールドは再びスマートスクリーンを手にすると、雑誌を並べた元の画面に戻り、別の雑誌をクリックしてその表紙を拡大させた。
 その表紙を目にして、ロストンは自分の鼓動がさらに激しくなるのを感じた。そこにはジェーンの写真があり、その真下に”裏の顔″や”同棲生活″といった刺激的な見出しが書いてある。
「このような証拠写真付きの週刊誌は」オフィールドが言った。「ゴシップ誌とはいえ、影響力が大きい。あなたもメディア業界で働いてきたのでよくご存知でしょう。かれらに目をつけられ、暴露記事を書かれた有名人たちは一瞬にしてイメージダウンし、仕事や友人や家族を失い、どん底に突き落とされる。社会的に望ましい暴露の場合もあれば、そうでない場合もある。いずれにせよ、ゴシップ誌に弱みを握られたが最後、社会的な死は避けられません」
 ロストンは記事の中身を確認したかったが、見たくない気持ちもあった。見出しを読んだだけでも過激なことが書いてあるだろうと分かった。表紙には自分とは無関係の見出しもある。政治家や芸能人の顔写真の上下にセンセーショナルな表現が散りばめられていた。だが、写真と見出しの大きさから言って、ジェーンの記事がメインであることは一目瞭然だった。まるで脳内に直接訴えかけるような、大きく真っ赤な文字だ。
 オフィールドはスマートスクリーンに人差し指を置き、表紙画面をスワイプした。するとページが静かにめくられていった。ロストンは凍り付くようにじっと見ていた。しかし見なくて済むのなら、見なくて済ませることができるなら、逃げたい気持ちでいっぱいだった。
 しばらくめくると、オフィールドがあるページで指を止めた。それから二本の指の間を広げるように動かし、彼女の写真を拡大した。
「ここからが彼女の記事です」オフィールドが言った。「先ほどの週刊誌はまだ上品で裏付けがしっかりしていますが、こちらの週刊誌はかなり下品な表現を使い、裏づけの弱い記事を乱発する雑誌として有名です。そのせいで訴えられることもありますが、大抵の芸能人は事実無根の中傷であっても騒いで問題を大きくする方がイメージダウンにつながると心配し、泣き寝入りを選ぶ。そのような弱みにつけこんでこの週刊誌は刺激的な記事を書き、芸能人たちを食い物にし、売り上げを伸ばしている。そしてジェーンもそのターゲットになったのです」
 オフィールドは指を動かし、記事の文章が見えるように画面を移動させた。
 文字が静かに意識の中へと入ってくる。”思想犯カップルの大量殺人計画″やら、”一般男性を誘惑″やら”トラディット地区の隠れ家でセックス″やら”淫乱な裏の顔″やらと、事実無根の誹謗中傷が続いていた。ロストンは徐々に喉を抑え込まれるような息苦しさを感じた。次第に身体が震え、目の前が真っ白になった。何かを叫びたかったが、喉が詰まって声が出なかった。彼女がこの記事を目にすると思うと、胸が締め付けられた。彼女を守るために何か方法はないか考えようとしたが、頭がまるで麻痺したように何も思い浮かばない。
 オフィールドはロストンの様子を一瞥し、またページをめくった。
 すると今度は、画面全体が写真で埋め尽くされた。左上の写真は、スクラップ集積場で自分とジェーンが驚いた表情で腕を組んでいるものだった。見下ろすような角度で撮られている。左下にあるのは、同じところで自分が目をつぶった彼女に抱き付いている写真だった。自分が彼女に惹かれ、彼女がそれを受け入れてくれた二人の大切な瞬間だった。右側にある写真は、別のところで二人がキスをしているのを撮ったもの。確か十二月ぐらいに坂道を歩いている時のことだった。空に広がる花火を背景に、彼女がマスクを外して自分に唇を重ねている。そして画面の真ん中には、先ほどの雑誌にも載っていた、借家で撮った記念写真があった。不意に撮られた自分はびっくりした顔をし、その横で彼女は満面の笑みを浮かべている。あの時ジェーンは、これから二人の思い出をいっぱい作って、記念写真もいっぱい撮ろう、と言ってくれた。でも、それはもう叶わない。
 ロストンの頭に彼女との日々が走馬灯のように浮かんだ。自分は彼女を守ると言いながら、彼女を道連れにしてしまった。もう彼女は後ろ指をさされずに外を歩くことができない。淫乱な女だと蔑まれずに人前に立つことができない。犯罪者だと世間に気味悪がられずに生きることができない。全部自分のせいだった。自分が彼女を貶め、地獄に突き落としたのだ。
 浮かんでいた彼女との日々が頭の中で過ぎ去ると、瞑った目の前には空き地だけが残った。スクラップ集積場の隣にあった空き地。掘っ立て小屋だけが立っていた空き地。そこには、希望のかけらも、すがるものも、何もない。ただ絶望だけが果てしなく広がっている。もう助かる方法はなかった。もう何をやっても世に出てしまった記事は消えない。消えないばかりか、繰り返しコピーされ、脚色され、歪められ、でっち上げられ、増殖されていくだろう。それを止める方法はない。もう終わりなのだ。
 しかし、見渡す限り何一つすがるものの無い荒涼とした空間の中で、彼はふと、そこに立っている誰かに気づいた。彼女の身代わりとして差し出せるかもしれない小さな存在、もう手遅れかも知れないが、もしかしたら彼女を救えるかもしれない唯一の存在。それに気がつくと、涙がいつの間にかロストンの頬を伝っていた。
 彼は椅子から立ち上がり、両ひざを崩して床につけた。そしてオフィールドに向かって深くひれ伏し、涙声を振り絞って叫んだ。
「ジェーンは何も悪いことをしていない、全部私がやったのです! どうかお願いですから、もう彼女を苦しめないでください! 自分が彼女を騙して悪い道に引きずり込んだのです。彼女はただ僕に騙されただけなんだ!」
 ロストンは同じ言葉を何度も何度も繰り返し叫んだ。両腕と顔を地面にうずめ、声が枯れるまで叫んだ。
 瞑った目の暗闇の中で、オフィールドの姿は消えていた。自分の姿も消えていた。そこにはただ、ジェーンの優しい笑顔だけが浮かんでいた。
 
 





 栗の木ティーハウスは人で溢れかえっていた。週末の午後二時という、人のよく集まる時間帯だった。仄かな間接照明が壁と円い天井を照らしていて、壁掛けのスマートスクリーンからはムーディーな音楽が流れている。
 ロストンは窓際の席に座り、アイスティーのグラスを手に取った。窓の外を無心に眺めると、店に面した広場の向かい側に両腕を広げたグレート・マザーが立っている。映像ではなく、本物の人間のように作られたロボットだった。その足元の台座には”あなたを受け入れます″と書いてある。
 何かの気配を感じて視線を店内に戻すと、ロボットのウェイターが、注文したエナジードリンクをテーブルに置き、キューブシュガーを補充した。
 ロストンは壁掛けのスマートスクリーンを眺めた。今はそこから音楽に合わせた映像しか流れてこなかったが、そろそろ平和アソシエーションから交渉の結果が発表されてもいい時間帯だった。
 彼は数日間、そのことが気になっていた。以前、世界軍が創設された際にアフリカ諸国を束ねるアフリカ連合は欧米の意図を警戒して世界軍の創設に加わらず、平和協定にも署名しなかった。欧米諸国が平和のためという名目で自分たちの軍事力を骨抜きにし、支配しようとしているのではないかと警戒したのだ。植民地だった経験があるので、無理もないことだった。だが実はその後もアフリカ連合を加入させるための交渉は続いていたようで、その結果が交渉の期限である今週中に発表される予定だった。ニュースによると、アフリカの中でも北部と南部は世界軍への参加に賛成する国が多かったものの、中部と東海岸と西海岸の国々は反対が根強く、それがアフリカ連合全体としての不参加につながっているらしかった。世界軍と名前を付けたところでアフリカ大陸が参加しなければ本当の意味での世界軍ではない。だから世界市民連合にとっては、アフリカ連合の加盟が決定的に重要だった。
 ロストンはアフリカ諸国の参加可能性についてしばらく考えを巡らせた。そしてアイスレモンティーの入ったグラスにエナジードリンクを半分だけ注ぎ、キューブシュガーを一つ入れた。少し飲んでみると、口のなかでレモンの香りが広がり、エナジードリンクの作用で身体が一気にリラックスした気分になった。
 その心地良い感覚はあの場所で感じたものと少しだけ似ていた。ロストンは時々、その場所を思い浮かべることがあった。そこで感じた感覚は身体に深く刻み込まれ、忘れがたいものとなっていた。
 アイスティーを再び口にすると、窓ガラスに映る自分が見えた。施設を出てから、若々しかった身体は元の状態に戻っていた。肌の潤いとハリがなくなり、髪の艶もなくなって、体脂肪も少し増えていた。ナノマシーンを使えば若さをいつでも取り戻せるし、いつでも使用の申し込みは許されていたが、利用料が高すぎて手が出なかった。博愛園の施設にいる間は利用料がかからず、惜しみなく使われたが、治療プログラムが終わった後は自分でお金を払わないと利用できなかった。だが庶民の手の届く金額ではない。負担を感じずに利用するにはそれが低廉化するのを待つか、自分が仕事で大きく出世するか、投資でも上手くやるしかない。
 隣の席を見ると、薄い囲碁盤が置いてあり、二人の男が囲碁を打っていた。店は賑やかで、気がつけばロストンの周りには多くの客が座っていた。
 彼は再びエナジードリンクをアイスティーに注ぐと、もう一本注文しようと思い、テーブルの上のメニュー表を眺めた。エナジードリンクの写真を見つけて指で押し、その横に書かれた数量も押した。今月に入ってもう十杯は飲んでいるだろう。昔は節約のためにティーハウスに入ることなどせず、小売店で買って飲んでいたが、最近は、賑やかなところに身を置きたい気分だったし、新しく就いた職の給料が以前より少しばかり高いため、ここに来ることが増えた。
 ふと、壁掛けのスマートスクリーンにテロップが流れているのが見えた。音楽用の映像はそのままで、文字情報が画面を横切っている。目を凝らして内容を確認すると、世界軍関連のニュースではなく、経済関連のものだった。経済政策研究所によると、今年のGDP成長率が前年度のそれを上回る見込みらしい。
 窓の外をまた眺めると、相変わらず広場の向かい側にグレート・マザーのロボットが立っていた。その前を多くの人が忙しく行き交っている。
 視線を店内の隣の席に戻すと、囲碁盤の上に白と黒の碁石がびっしりと置かれていて、一見、東洋で使う陰陽のシンボルのように見えた。囲碁が石で囲んだ領域の広さを争うゲームだということぐらいは知っていたが、素人の目で見ると、白石が黒石を囲んでいると同時に、黒石も白石を囲んでいるように見えた。勝ち負けのあるゲームだから当然対決しているはずだったし、実際、囲まれた石が取り除かれたりしていたが、全体的にはお互いがお互いを包み込んで共存しているかのように見えた。それはどこか、破壊的な対立を調和的な対立へと変換しようとする正統派の思想と似ている気がした。
 その時、ロストンの目にまたテロップが飛び込んできた。今回は重要な速報らしく、ムーディーな音楽が流れる中、大きな文字で「午後2時30分より世界軍をめぐる平和アソシエーションの重大発表」と書かれていた。
 ロストンは胸騒ぎを覚えたが、同時に冷静になろうとした。
 彼は以前、国際会議のテレビ中継で、世界軍への参加に反対するある中部アフリカの代表者が、賛成派の北アフリカと南部アフリカと欧米諸国を激しく非難する姿を観たことがあった。その代表者は、アフリカ諸国の軍隊が世界軍に吸収されることは実質的な植民地化であると訴え、むしろアフリカ連合がアフリカ軍たるものを創設し、軍事面でアフリカの独立性を保つべきであると熱弁していた。中継の解説者によると、それはその代表者の個人的な意見ではなく、中部および東西アフリカ諸国の民意を強く反映したものらしかった。諸大国の代表たちは植民地化などありえず、世界軍は民主主義的な仕組みで運営されると反論していたが、批判を受けたアフリカ北部と南部の代表たちは特に反論せずに黙っていた。
 その中継を観たのがつい数カ月前だったので、今回の交渉も大きくは期待できないとロストンは思っていた。それどころか、もしあの中部アフリカ代表者の提案したようなアフリカ軍が創設されれば、世界軍と対峙する巨大な軍隊が新たに台頭することになる。今の段階ではアフリカ諸国の力を束ねても世界軍に敵わないかもしれないが、アフリカは急速な経済発展を遂げており、それに合わせて軍事力も大きくなりつつあった。アフリカ諸国も他地域と経済的な相互依存関係を築いているので、実際に戦争が起きる可能性は低い。だが、独立した複数の軍隊が世に存在する限り、お互いがいつか敵になる可能性は常に残ることになる。
 ロストンは想像してみた。もし世界がアフリカ連合と世界市民連合という二つの陣営に分断されれば、世界市民連合と大資本家たちの世界支配が崩れ始めるかもしれない。そうなれば富の再分配が起きるのだろうか。格差が狭まるだろうか。
 だがその時、ロストンは自分の中に矛盾する気持ちを感じた。複雑な心境だった。
 隣の席の囲碁盤をしばらく眺めた後、彼は自分のテーブルを指でなぞった。

 2+2=4

 ジェーンはいつか、連合なら人の感情もコントロールできるかもしれない、と言っていた。信じさせたいものを信じさせることができる、と。だが、今ははっきりと分かる。かれらにそこまではできない。一時的にできるとしても、事実にそぐわない考えは長く続かないのだ。では、長続きする、事実を反映した考え方とは何だろうか。それを予め知ることはできないとオフィールドは言っていた。だから個人の自由を守ることが体制と社会の永続につながると。人々が色々な自由な選択をすれば、その中で現実に適した選択が生き残り、体制を支えると。
 博愛園の施設から出て、ジェーンと再会した時のことが思い浮かぶ。
 会う前、二人で会っているところを人に目撃されるのがロストンは不安だった。施設を出てからも自分たちの行動はマスコミの注目を集めていた。家の周辺にはスクープ写真を狙っている人たちが潜伏しているかもしれなかった。
 だからお互いの家に行くのは諦め、人目のつかないところで会うことにした。だが場所を決めてからも、万が一のことを考え、マスコミの注目が他に移るまでしばらく待った。
 それで会えない日が続いた。ようやく再会できたのは、施設を出てから数週後の、地面の雪が溶け始め、穏やかな風が吹き始めた頃だった。
 暖かい日差しの中、緊張しながら、ゆっくりとした足取りで待ち合わせ場所に着くと、彼女が木陰に立っていた。捕まる前の彼女と外見は同じだったが、どこか雰囲気が少し変わっていた。
 二人は目で挨拶をし、言葉を交わさず、歩き始めた。周りに人がいないのを確認しながら進み、木が生い茂る場所に着いた。日陰には凍った雪がまだ若干残っていたが、陽が当たっているところは暖かく、風が静かに通り抜けていた。
 二人はベンチの役割をしそうな横長の岩を見つけて腰を下ろした。人目のつかない場所だったが、どこかにスマートスクリーンが隠れているかもしれなかった。だから二人は少しだけ離れて座り、お互いの肌が触れないようにした。
 でも久々に見る、真横にいる彼女の顔は、昔と変わらず愛らしく、凛々しく、綺麗だった。見つめていると、いつしか花火の下で不意に唇を重ねてきた彼女の姿が重なった。
 ロストンは衝動的に身体を伸ばした。そして彼女の頬に短いキスをした。以前掘っ立て小屋でしたキスと似ていたが、込められた愛情の深さはまるで違っていた。
 びっくりした表情を見せた彼女は、次の瞬間には微笑み、恥ずかしそうに目をそらした。そして視線を戻し、ロストンを見つめた。
 その眼差しには愛情が込められている気がした。それは、今の気持ちだけでなく、未来へとつながる彼女の心情をも映しているように思えた。
 ジェーンは何かを言い出そうとしていた。そわそわしているのか、履いているローヒールを浮かせたり、地面に着けたりした。そして重い口を開いた。
「あなたを守りたかった」
 ロストンが小さく頷いた。「うん……」
「だからあの人たちにお願いしたの。悪いのは私だから、あなたにそんなことをしないでって。そんなことを言うのは自分を立派に見せるためだと思う人もいるかもしれない。でも私は本気だった。自分はどんなに苦しんでも構わないから、あなたを苦しめないでって本当に思ったの」
「僕も君に対してそう思ったよ。まったく同じ」
 ロストンは博愛園でのことを思い出しながら言った。
 そして二人はしばらく、電話で話せなかった色々なことをお互いに打ち明けた。
 ただ、時間に余裕はなかった。彼女は海外の仕事が入っていて、すぐ空港に向かわなければならなかった。
 二人は惜しむように立ち上がった。
「またね」彼女が言った。
「うん、また」
 先に彼女がその場を出て、ロストンは少し経ってから出発した。
 歩いて広いところに出ると、遠くで坂の下を歩いている彼女の後ろ姿が見えた。ふと気づいたように彼女は振り向いて、ロストンの姿を確認すると手を振った。彼も手を振った。
 ロストンは人目があるので距離を縮めない方が良いと思い、しばらくその場に立って、再び前を向いて歩いていく彼女を眺めた。
 視線の先、彼女よりも遥か遠いところに、馴染みのある建物が見えた。自分の住む庶民のマンション、都心に高く聳えるトゥルーニュース社のビル、博愛園の本部タワー、平和アソシエーションのビル。そしてそのまた向こうには丘の上の富裕層の街が見える。
 その時だった。
 彼女の方にまた目を向けると、いつの間にか大勢の人が、周りを囲むようにジェーンに近づいていた。不安がよぎった。変な連中に絡まれたのかもしれない。
 ロストンは慌てて彼女の所に向かって走り出した。走りながら色々なことが頭をよぎった。もしかしたら彼女はあいつらに罵声を浴びせられているかもしれない。汚い言葉を吐かれているかもしれない。笑われているかもしれない。
 ロストンは心の中で叫んだ。止めてくれ、彼女はもう十分に苦しんだんだ。たくさん傷ついたんだ。もうこれ以上彼女を……
 ところが、距離が縮まったところで彼はハッと気づいた。ジェーンを囲む人たちは、とても明るい表情だった。握手やサインを求めていて、彼女はそれに応じていた。人々の輪の中で見え隠れする彼女は、少し照れたような、でも幸せそうな笑顔だった。
 
 ロストンは回想から覚めた。
 店内の壁掛けのスマートスクリーンから懐かしい歌が流れている。

 おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー遊びましょうー
 おおきな栗の木の下でー

 童謡だが、大人用に少しアレンジしたものだった。聞きながら歌詞を反芻していると、優しい気持ちになってロストンは思わず微笑んだ。
 彼はエナジードリンクを混ぜたアイスレモンティーを口に運んだ。独特の味わいがする。エナジードリンクはもはや彼の生活の一部になっていた。それは疲労を癒やし、活力を生み、やる気を再び引き起こさせるものだった。おかげで彼は夜の十時前には安らかな眠りに落ち、朝五時には充満した力でスッキリ目覚めることができた。たまにこうして栗の木ティーハウスに来た時も、エナジードリンクを混ぜたアイスティーは彼をほどよく癒やしてくれた。ここでは彼を珍しがるような視線もなく、居心地が良かった。
 もちろん、いつもこういう所でゆったりできるわけではない。仕事が忙しい時もある。再就職先は、同じトゥルーニュース社の別の部署で、かつてハイムのいたメディア調査部だった。そのなかでもロストンは、オープンスピーク辞書第三版に含まれる新用語をニュースなどに導入するための対策チームに入っていた。使う言葉とそのルールを決めるというのはメディアの根幹をなす部分で、非常に重要な仕事だった。チームには彼以外に大勢のメンバーがいて、皆それぞれ違う文化的バックグラウンドとキャリアを持っていた。その方がオープンスピーク導入をめぐる問題点とメリットを様々な観点で見られるからという理由だった。チームの人達は普段は調査を行って報告書を作成し、会議時は午前から晩まで一日中議論をしながら細かいところを詰めた。時に議論は過熱し、決着のつかない押し問答が続くこともあったが、何とか妥協点や打開策を見つけようと皆が真剣に取り組んだ。そしてその日の案件が解決すると、皆クタクタになりながらも自分たちの仕事の成果に誇りを感じながら家に帰っていくのだった。
 スマートスクリーンに目をやると、また新しいテロップが流れ始めるのが見えた。
 世界軍をめぐる発表だろうかと目を凝らしたが、関係のないニュースだった。
 だが不意に、銃を手にして行進するアフリカ軍のイメージが彼の頭をよぎった。波打つかれらの行進がアフリカの中心部から外側へと突き進む力強い姿を。北部の防衛線を突破して北アフリカを占領し、さらにはアラビア半島とヨーロッパ大陸にまで力強く突撃していく姿を。
 それは単なる想像でしかなかった。だが自分の想像したイメージになんだか不安を覚え、ロストンは広場の向かい側にあるグレート・マザーを眺めた。彼は疑問に思った。最近の交渉はむしろアフリカ諸国民の反発心を刺激してしまい、逆にアフリカ大陸の団結力を強めてしまうのではないだろうか?
 ロストンは自分が落ち着きをなくしているのを感じ、エナジードリンクの混ざったアイスティーを再び口にした。隣の囲碁盤を見ると、今度は黒石が白石と犇めきあっているように見える。やはり共存しているのではなく、対立しあっているのだろうか。しかし……
 その時、おそらく囲碁の色からの連想だが、遠い昔の記憶が蘇った。
 白塗りの明るい部屋で八歳か九歳の自分が膝を抱えて座っている。部屋の中央には大きめのベビーベッドがあり、母は寝ている赤ん坊の妹を覗き込んでいた。それは、母が姿を消すおそらく一年か二年前のことだった。自分と妹に対する母の接し方の違いに気づき始めた時期だった。
 その日は雲ひとつない晴天で、透き通る青が広がり、穏やかな日差しが白塗りの部屋を明るく照らしていた。だが明るい部屋とは対照的に、家族の表情は暗かった。戦時中で、貧しく、食べるものがあまりなかったのだ。親と自分はじっと空腹に耐えていた。
 まだ赤ちゃんだった妹は、母乳だけで満腹になるらしく、飢えてはいなかった。しかしどの赤ちゃんもそうであるように、起きている時はよく泣き喚いていた。オムツの交換や母乳など、理由がはっきりしている時もあったが、何をやっても無駄な時もあった。
 憔悴した母がたまりかねて言葉の通じない妹に話しかけた。「おもちゃを買ってあげようか。それなら泣き止んでくれるかな」
 食料を買うお金さえ十分ではなかったが、娘を泣き止ます方が母にとっては切実だった。母は妹を抱っこして出かけた。
 すると数時間後、どこで手に入れたのか、母はおもちゃを手にして帰ってきた。
 そのおもちゃは、ボタンを押したり紐をひっぱったりすると面白い効果音の出る幼児用のものだった。そのうち妹は、押すと面白い効果音が出るのを理解して、笑い声を上げながら夢中でボタンを押し続けた。そしてその様子を見て母は嬉しそうに笑った。ロストンは妹のことが羨ましかった。彼はそれまで母におもちゃを買ってもらったことがなかった。
 突然、店の外から大きな歓声が聞こえてきた。
 世界軍のことかもしれない、とロストンは思った。世界軍が創設された時も広場の観衆は同じ歓声を上げていた。店内の人達は驚いた表情で、みな窓の方に顔を向けた。だが窓のすぐ外にいる人達もまだ状況が分からないみたいで、歓声が聞こえる方角を眺めていた。するとまた、見えない所から大きな歓声が聞こえてきた。ある客がしびれを切らし、チャンネルを変えるようにウェイターに指示した。
 すると壁掛けのスマートスクリーンが、ライブ中継のようなものに切り替わった。
 画面の中、アフリカ連合の代表を含む各国代表が横一列に並んで座っている。その真ん中で平和アソシエーションの中心メンバーが何かを発言していた。よく聞くと、ロストンが想像の中で繰り広げていたものとは真逆のことが起きていた。
 交渉期間中、欧米諸国よりもアフリカ北部と南部の代表たちの方が、譲歩案を出しながら、加盟反対派のアフリカ中部と東西の代表たちを粘り強く説得してきたらしかった。そしてついに、中部と東西の代表たちが折れ、アフリカ連合の加盟国すべてが世界軍への参加を決定するに至ったという。つまり、アフリカ大陸は外部の諸大国の圧力によってではなく、自らの意志で世界軍に加わることを決めたのだった。
 どんどん大きくなる外の歓声が邪魔をして途切れ途切れにしか聞こえなかったが、各国の代表たちが立ち上がって握手をすると、中継リポーターが興奮した声で状況を伝えた。
「長期間の交渉……アフリカ諸国同士の譲歩と説得により……交渉成立……五十億人の新たな加盟人口……アフリカ軍創設の案は棄却……アフリカ全土が世界軍に加わり……近日中に新条約の締結……平和……ついに達成された人類念願の永久平和! ……平和、平和、平和!!」
 ロストンは窓の外のグレート・マザーを見た。
 わずか数分前まで自分は、アフリカ軍が他地域を侵略する姿を想像し、世界軍と永久平和に対して懐疑的だった。だが驚くべき偉業は成し遂げられたのだ。予想を超える迅速さで、確実に成し遂げられたのだ。かれらには夢を実現する力がある。
 博愛園に連行された時から自分のなかで何かが少しずつ変化してはいたが、決定的な臨界点には達していなかった。だが今この瞬間、自分の中で何かが大きく変わろうとしていた。
 ロストンは高鳴る胸を抑えきれず、店を出た。
 広場は、彼と同じく歴史的瞬間に立ち会おうと飛び出してきた人たちで溢れ返っていた。
 それはまるで一つの祝祭だった。陽気な音楽が鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞い降りて、それを子供たちが宙で掴もうとしていた。広場の中央では大勢の老若男女が輪になって踊り、その隣ではキッパーをかぶったユダヤ人とターバンを巻いたアラブ人がハグをし、そのまた隣では黒人と白人とアジア人の若者たちが肩を組んで声高らかに歌っていた。広場の端にある大型スクリーンの中では興奮した中継リポーターが風にはためく連合と世界軍の旗を指差し、それを観ている観衆は歓声を上げ、スローガンを連呼している。
 ロストンは目の前の出来事に自分の感情を抑えられなくなった。気がつけば、群れの中へと駆け出し、分け入って、共に歓声を上げ、スローガンを連呼していた。
 酔いしれる熱狂と興奮の中、彼の意識は博愛園に舞い戻り、自分の犯した罪をオフィールドにきつく問い詰められている。床にひれ伏して、顔をうずめている。プレスルームに立ち、カメラの前で涙を流しながら、自分のせいだから彼女を赦してくださいと懇願している。そして誰もいない仄暗い廊下を一人で歩いていると、そこはいつの間にか長いトンネルの中だった。少し離れた出口で誰かが両腕を広げて待っている。ずっと追い求めていた救いが訪れようとしている。
 ロストンはその顔を見つめた。そして歩き出した。その微笑みと広げられた腕の意図を受け入れるのにとても長い時間がかかった。いや、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。分かっていながら拒み続けたのだ。
 彼は思わず溢れ出そうな涙を堪えた。
 でも、もう強がらなくてもいい。自分を守ろうとして強がらなくてもいい。本当は寂しかったと素直に打ち明けてもいいのだ。もっと愛して欲しかったと泣きじゃくってもいいのだ。
 彼は今、グレート・マザーに強く抱きしめられていた。
 
 
 
 
 
 
 〈完〉

 



あとがき


 

 本作は、2018年ごろに書き、その後、少しずつ修正を加えたものである。出版の見通しもないまま時間が過ぎていくので、ネットに載せることにした。作品は読んでもらわなければ意味がない。誰か最後まで読んで頂いた読者がいたなら幸いである。
 本作について解説しておきたいことがある。無論、作者は自分の作品の解説をあまりしない方が良いだろう。読者の想像力に制約をかけるからだ。また、作者は表現を作中ですべきであって、解説ですべきではないと考える人も多いだろう。私も同意するところである。
 ただし、政治や差別問題など、敏感な事柄に絡むとんでもない大きな誤読に対しては予防線を張らせて頂きたいところである。というのも、本作をある識者に一読して頂いたところ、その方は本作の社会背景を「ディストピア」と表現したからである。
 私はそれに飛び上がるほどびっくりした。作中の社会背景がディストピアなら、それに立ち向かって苦悩する差別主義者の主人公たちは正義側ということになる。どうしてそのような解釈になるのか。伝わるように書かなかった私の力量不足もあるかもしれないが、読む側が無名の人の作品を時間をかけて注意深く読もうとしなかったのもあるのかもしれない。特にこの作品は小難しいところがあり、読むのが疲れるのかもしれない。いずれにせよ、誤解を避ける対策として、オープニング・クロールを加えた。
 本作についてもう一つ解説しておきたいことがある。ジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだことのある人はすぐに気づいたと思うが、本作はその構成をなぞりながら、その内容を反転させたものとなっている。拙作の詩集『異なるものの結合』でも私はボードレールやランボーなどの詩を反転させる詩を書いている。私はそれを勝手に「反転文学」と名付けた。そのような試みをする理由は色々とあるが、本作の登場人物ハイムが反義語の意義を説明するところで一部表現されている。
 最後に、本業にもっと力を入れるべきかもしれない時に、出版されもしない小説や詩を書き続けてきた私を叱咤せずに優しく見守ってくれた妻に感謝の意を表したい。
 
 




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