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「サブスクリプションへ乗せた思い」

「だったらやりたいことやるわ」


 2022年の12月6日に、先代である父があの世へ旅立った。
 数年前から癌を患っていて、最終的に肺に転移。手術、化学治療を続けていたが、もう長くはないだろうと感じていた。2022年の私の日記には、5回ほど「お父さん、もうだめかも」と書いてあった。最終的に延命はしなかった。なるべく苦しくないように逝ってほしいと祈り、次の日に天に召された。

 生前、会社をどうしていくかの話は一切したことはなかったし、父が自分の意思を話すことも一度もなかった。私を信じていたのか、さてお手並み拝見的に見ていたのかは定かではない。少ない引継ぎの時間の中で、商売のことを一切知らない、そして経験もない私が、一緒に銀行に行って借り入れをお願いしてほしいと頼んだ時、父はこう言った。
「もう沢山だ。行きたくない」
 それが父の答えだとしたら、二代目の苦悩はここから始まったと思う。
そして「ここを継ぐ=会社を畳む」ということが私の強い意思になった。
 会社の内情を知っていくにつれ、存続は難しいと感じ始めていった。この時「後悔」という言葉の意味を痛烈に知ることになる。
 私は色々な人に「会社って実際どう畳めばいいか」を尋ねたが、誰も知らなかった。沢山のセミナーの案内が来たけど「正しい会社の畳み方」というセミナーはなかった。事業継承の相談窓口で、М&Aの話をされたが、現実味が全く感じられなかった。
 その時、初めて覚悟した。助けてくれる人はいない。腹をくくったら何か知らんけど腑に落ちた。だったらやりたいことやって辞めるわ。だって私の人生だよ?

助けてくれる人はどこにもいなかった


「常識?なにそれ」


 私の人生のテーマになりつつある「常識?なにそれ」というものの捉え方は、持って生まれた資質のような気がする。ど田舎の昔からの伝統、継承されている色々なことが疑問だった。女しか産まれなかった私ら3姉妹は、小さいころから「婿、連れてこい」と言われて育った。姉は長女という運命から、家督制度のレールを歩かされ「お前が継げ」と事あるごとに言われていた。幼いながらに「嫌だな」と感じたし、姉が可哀そうと思っていた。が、その反面「私は次女!自由!好きなことやれる!」と思っていたのも事実。
私には幼い頃から、絵に携わって生きるという漠然とした夢があった。インドア派で本と音楽があれば満足だった。一人遊びも大好きだった。空想の世界に浸って人形を動かしたり、お話を作って、イラストにしたり。それは今振り返っても最高の時間だったと言える。
 しかし、教育システムにはめられる歳になり、私の人生は一旦暗闇と化す。私にとって学校は地獄そのものだった。小学校の楽しかった思い出は、早く家に帰って本を読んだことしか思い出せない。
 中学校に入学すると、私も少しは常識人っぽくなり、人間関係にも溶け込めるようになっていった。高校受験に差し掛かった時、初めて「将来」を考えるようになった。その時に考えていたのは「絵」か「音楽」か「デザイン」か「洋服」の世界のことだった。高校は最初進学校を目指していたが、勉強ができなかったのでランクを落とし、地元の高校へ進学した。その時、母が「こんな大学あるよ」と教えてくれたのが東北生活文化大学の家政学部、生活美術科だった。私はすぐに食らいつき「どうすればこの大学に行けるか」考えた。一般で入るのは無理だと思った。なぜなら部活をやらないといけなかったから。中学校から始めたソフトボールで県選抜に選ばれ、入学した高校はソフトボールが強かった。当然引き合いがあり、結局は一生懸命やらないと気が済まない性格だから入部し、その当時のソフト部はどんどん強くなっていった。
 大学に行くには、推薦しかない。とにかく普段の勉強を頑張り、評定平均を上げていくことだけに心を砕いた。
最後の高校総合体育大会が終わり、部活を引退。同時にデッサンを描きに仙台にある美大受験のための予備校に通った。その時の楽しかった日々を私は忘れることが出来ない。初めて話が通じる友達ができて、存分に絵の話をし、レコード屋をはしごし、古着屋を巡った。
 そんな友は、ほとんど東京の美大に散らばって行った。東京藝術大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学、女子美術大学、大阪芸術大学。私は仙台の東北生活文化大へ決まった子たちと入学式を迎えた。
 東北生活文化大美術科での学びが、今の私のほとんどを形成していると言っても過言ではないほど、毎日刺激的だった。特にこの時の同期生は、のちに作家になった人が多い学年で、ただでさえ変わった人間が集まる美大の中で、更に変態が集まった年だった。担任は現在副学長である北折整先生。当時の先生たちは結構スパルタで、デッサンの講評会では酷評ばかりで泣き出す人も珍しくはなかった。
 私の「常識?なにそれ」という物事の捉え方はここで完結したと思う。考え方や物の見方、作品との向き合い方、人生の在り方、全部「答えは自分の中にある」という考えが美大での常識だった。

常識?私には白紙のスケッチブックにしか見えなかった


「希望の星」 


「ここを継ぐ=会社を畳む」という考え方を一旦改めた、ひとつのきっかけになる出来事があった。当時お世話になっていた宮城県庁に努めていた内海氏に「会社の畳み方を県で指導してもらえないか」とお願いしたところ、「大変ですね」とか「頑張ってほしい」とかそういうありきたりな言葉はなかったように思う。「会社を救うためのセミナーはありますが、確かに会社を畳むという発想のセミナーは行っていませんね…」と、ちゃんと私の気持ちをまず受け入れてくれた印象が強く残った。そして私が「誰も助けてはくれないことに気が付いたのです。だから覚悟しました。自分の代で終わらせる、と」
 そして、内海氏は私にこう言った。
「ジャンボン・メゾンは宮城県の希望の星です」
 その時のこの言葉が、話の前後と合っていないとすぐさま思った。唐突な意見だとも感じた。だけど大きな違和感はなかった。今までは「何を言っているんですか、頑張りましょう」とか「皆さんそう思いながら踏ん張っているのです」とか言われるのが落ちで、心が無駄に傷つけられてしまった。違うんだよなぁ、そうじゃないんだよ、とずっと思っていた。だから内海氏がこの時発した言葉は異様に感じた。不意打ちだった。
「ジャンボン・メゾンさんは宮城の希望の星です」
 その言葉は、その後ずっと私を支えているお守りの言葉となった。この日をきっかけに「もう少し頑張ってみよう」と思うことが出来たからだ。そして瞬く間に時は過ぎていった。

一隅を照らすこれ即ち宮城の宝なり。
そんな星になりたい。


「調整しながら理想の会社へ」


 会社の方針、イメージを変えるには、タイミングだと思い、自分が代表取締になる前後に、それこそ常識にとらわれない色々な改革を始めていった。   30周年を見据えて、25周年の時に「30vision」(さんまるビジョン)というプライベート商談会を開催した。これからのジャンボン・メゾンはこんなことをやりますという発表の場を設けた。そこでブランドを一つから三つに増やすことを発表。
「岩出山家庭ハム」はスタンダート、「和ハム®」はトップブランド、「アトリエ・ドゥ・ジャンボンメゾン」はクリエイティブな活動体として動くブランドという位置づけでデビューした。
 その後「量り売りマルシェ」を主宰、食品ロス問題にも積極的に臨んだ。その間にコロナ時代が通過、会社の業績は良くなるどころか、ますます雲行きが怪しくなっていった。政府がその中「再構築補助金」という高額の補助を発表。周りが今までと違う業種に挑戦するために、補助金を申請し始めた。一瞬、自分も何かやらないとという「焦り」に似たような状況に陥ったが、だからこそ冷静に静かに考えた。そして自分に問い続けた。
「一体、あなたは何をどうしたいの?」
 そこで、いままで一番やりたくなかった「EC販売」に着手することにした。やりたいことをやる、と豪語していた私が、なぜやりたくないことに手を出したかというと、「やりたいことを実現させるのに必要なことだった」からだ。
 EC販売でやりたかったこと、それは食品ロス商品の販売だった。コロナでそれまで毎年開催されていた外のイベントが100%中止されていった。2022年から2023年にかけて現状に戻りつつあるが、コロナに入った時に「もうイベントは出ない」と決めていた。イベントのお誘いは一切断っている。そのイベントで売る予定だった在庫品をECで売り始めた。
 その後、TBC系列の連ドラ「居酒屋新幹線」でスペアリブがピックアップされた時も、ECにお客様が殺到した。こちらの都合で限定数にしてもクレームが来なくなった。予約販売に切り替えた商品もあった。お客様に待っていただくシステムを作り始めると、生産計画が立てやすい。売れるか売れないか予測がつかないものを、作る必要がない。過去のデータはもはやあてにならないものになり、コロナで世の中は一旦リセットされたのではないか?と感じるようになっていった。

大人気のスペアリブの仕込みに追われた日々・・・


「理想郷」


 2023年3月からサブスクリプションを始める計画は、2年前から始まった。今までは実店舗を持たず、売り場をお借りしての販売が主だった。作るのは楽しい。だけど売ることは難しいと判断した生前の父は、販売はプロに任せて、本人は職人に徹していた。その頃は生産が追い付かないほどの発注が来ていたから、今と比べると考える内容が違っていた。その時は「どうやって数を作るか」が大きな課題だった。今は「必要な人に確実に届けるには?」に変化している。前者は顔が見えないが、後者は顔がはっきりとわかる関係性に変わっている。これは実演販売でもなくイベントでもなく、量り売りマルシェで構築した関係性だ。
 今までは「売る人」と「買う人」の関係性だったのが、量り売りマルシェを開催してから、「同じ志を抱いている仲間」に変わっていった。そこから学んだことは「小さな声が届く距離感」が一番自然だということ。大きな声を張り上げたり、遠くまで聞こえるようにスピーカーを使ったりするような商売は、今の私にはうるさいと感じるようになってしまった。
 サブスクの仕組みは、欲しい方に確実に届くこと、生産計画がしやすく無駄がないこと。自社の仮想店舗として運営できることが大きな魅力だと思っている。
 今後、ジャンボン・メゾンは小さく、そして確実に光っていけるような会社になっていきたい。それを私はtiny company(とても小さな会社)と表現している。
 このサブスクリプションは、あと2年同じ内容でローテーションしていく(2026年2月まで)今はそこからの動きを考え始めているところ。

 改めましてこの一年、ジャンボン・メゾンのサブスクリプションをご利用頂き、そしてサブスクを通して会社に投資して頂いたことに感謝申し上げます。私の「常識?何それ」つまり社会への疑問を自分というフィルターを通して、ジャンボン・メゾンらしさとして構築していきたいと思っています。
今まで「もう少し頑張ってみよう」を何度も何度も繰り返してきました。また皆さんに「宮城県の希望の星」と言ってもらえるよう、ここであえて言ってみたいと思う。

私はもう少し、頑張ってみます!

どんな走りを目指すかより、どこを目指すかが大事だ

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