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大学生活と思考回路の話

こんにちは。前回のブログを読んでくださった方、ありがとうございました。さて本日は自らの大学生活を元に私なりの大学という環境に対する考えについて綴っていきたいと考えています。

私は、大学に入って痛感しました。大学は能動的に動かなければ、何も得られないのだと。受動的な人間は淘汰されていきます、本当に。(ぼっちでも優秀な人はたくさんいます。)

元々大学に対して消極的だった私は、大学をサボり始めてからからというものの、「もう私の人生は終わったんだな~。」という思考が常に付き纏っていました。ここに至るまでに中学時代に虐めに遭ったり、クラスに馴染めない等があり、「私は社会不適合者なのだろう。」と思いこむ節がありました。何を以てして社会不適合者と定義づけるのか定かではありませんが、私は自分自身をそう思い込み、型に当てはめることで現実から逃げていたのだと思う。

大学に入学してからは、私が思い描いていた大学生活とは真逆の生活で、浅瀬で溺れ続けるような感覚に襲われていました。サークルも練習がきつく辞めてしまったし、友達と呼べる人もいなかった。常に将来を不安視していることにより頭は回転を続け、想像以上に身体には負荷が掛かっていることに最近気づいた。以前インターネットで無職・引きこもりについて調べたことがあったが、「無職・引きこもりは終わらない夏休みを過ごしている。」という言葉をみて「なるほど。」と思った。的を射ている。夏休みが終わるのは誰だって嫌だろう、しかしながら終わらない夏休みという先が見えないものは人々の不安を煽り、自分が何者であったのかその輪郭を少しずつぼかしていく、そんな気がする。一度そこに嵌ってしまうと、抜け出すのは容易ではない。私は勝手に被害者面をし、毎日被害妄想をするのに忙しかった。

大学は来るもの拒まず、去る者追わずな環境だ。つまり、自ら組織に飛び込まなければ、何も享受することはできない。孤独に苛まれ、鬱屈とした日々を過ごす羽目になるのである。

では勉強に集中すればよいのではないか。しかし私の中の思考回路では何かに集中する、ということがすでに難しくなりつつあった。将来に対する不安をどうにか頭の片隅に追いやらなければ、私は前進できない。それには、無理やりにでも何かに没頭し、危機感を持つ必要がある。しかし、そんな簡単に人は変われない。

私は留年していた間に何をしていたのかというと、ソシャゲをやったりyoutubeを見たりニコ動を見たり、そんな非生産的なことをしていた。つまり、頭を使うようなことを放棄していた。

大学に通い始めてからは、少しづつ勉強もできるようになったが以前のような集中力は取り戻せず、単位を貰えるであろうギリギリのところまで頑張ることしか出来なかった。

「知は力なり」という言葉がある。私は最近この言葉の意味を分かったような気がする。知識を増やさなければ選択肢は増えない。私は知識が少ないから、「留年したら人生終わり。」などと負の思考回路に陥り、ズルズルと抜け出せないでいたのだ。留年してもめげずに頑張っている人だって山ほどいるだろうに。私は井の中の蛙だ。何も知らない。故に、何も起こせない。

いつからか頑張ることが怖くなってしまった。失敗が怖い、挫折が怖い。私は留年したことで、「普通」のレールからは外れてしまった。それは少し嬉しくもあり、不安でもある。

まずは、熟慮するより行動しなければ始まらない。こんな簡単なことに気づかずにバシャバシャと浅瀬で溺れていたみっともない私はやっと砂浜に立てた気がする。

卒業する際に教授が「人生は曲がりくねった道。慌てる必要はありません。」と仰って下さった。私はいつも視えない何かに脅えている、それは今も変わらない。けれど、最近は少し欲もでてきた。これが生きがいってやつか~なんて思った。いきなり人生大逆転!なんてことは残念ながらない。それは、日頃からこつこつと努力を積み重ねてきた人に訪れるチャンスなのであり、努力を怠るような人間の元にはこないと思う。とりあえず私は、小さな成功体験から積み重ねていきたい。TOEIC700を取得するとかね。

おしまい。

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