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コーヒーと私 vol.2

前投稿では、花岡の若かりし青春()について書いてしまい、後々黒歴史になるであろうことは想像に難くありません。
今回は、現在のキャリアにつながる部分を書いていきます。

「早期退職」と「カフェ経営」(今でいうサイドFIRE?)

大学生活→社会人(公務員)とステージを経ていく中でも、前投稿で書いたとおり、「カフェのオーナーっていいな…」という想いはぼんやりと持ち続けていました。
結構公務員の同期や友人にも「早めに退職してカフェのオーナーになって、モジモジしながらカフェでデートする高校生カップルを眺めるんだ」という妄想を吐き出し、失笑を買っていました(多分)

憧れの喫茶店オーナーの偏ったイメージ

復興に携わる中で感じた「行政で出来ること・出来ないこと」

突然、真面目感満載な見出しに(笑)
2014年、南相馬市へ災害派遣で赴任した後、様々な状況に置かれた土地ごとにどのような復興を進めるか、計画立てと住民合意、事業者調整に奔走される日々を送りました。

■津波被害を受けた沿岸部
■地震被害を受けた市街地
■原発事故により放射線量の高い山間部
●原発から20km圏内の小高区
●原発から20km〜30km圏内の原町区
●原発から30km圏内の鹿島区

「様々な状況」の例

言葉を選ばず言えば、おそらく日本で一番厄介な行政運営に関わり、2年半ほど。
立てられた様々な計画を実施にこぎつけ始めた2016年の夏。
南相馬市の南側に位置する小高区(と原町区の一部)の避難指示が解除されました。

小高駅前(の馬)

それまで、市として、沿岸部や山間部における大規模な太陽光発電施設の整備、工業団地の整備、そのために必要な数百haにも及ぶ土地区画整理事業や防災集団移転促進事業での行政による土地の買収などなど、都市部からしたら考えられない巨大な復旧復興事業を進めてきて、僕自身もその一端を担ってきたという自負があったのですが、ふと頭をよぎったことが

「避難指示が解除されて、学生たちが来年から通うことになったのはいいけど、駅から学校までの間にたむろできるような場所ってないんじゃね?」

ということでした。
当日の小高区には、公設民営のスーパー的店舗が1店舗のほか、商工会女性部の皆さんが公民館で出すカフェスペース、震災前人気だったラーメン屋の店舗を使った定食屋のほかは、理髪店など生活に根ざした店舗が数店。
学生たちが「駄菓子を食べ」「なんか甘ったるい飲み物とかを飲み」「腰掛けてバカげた話で笑い合う」ようなスペースがありませんでした。

高校時代、野球少年だった花岡は、部活が終わったら高校目の前にある2畳くらいしかない駄菓子屋でブタメンを食べていました。
本当にくだらない話しかしない超無駄な時間なんですが、それが凄い楽しかったんですよね。

そんな個人的な記憶から、
「小高という場所が、子供たちにとって「ただ通学のために通う場所」になるのは寂しいなぁ」
という気持ちが湧いてきたのが2016年7月。
その想いを何の気なしに周りの若者たちに伝えたのが2016年8月。

その4ヶ月後の2016年12月。
小高駅前の空きスペースに、1台の手作りキッチンカーが停まり、営業を開始します。
Odaka Micro Stand Bar(OMSB:通称オムスビ)と名付けたこの店舗で、花岡は土日限定の移動販売カフェ業を始めました。

左のトングなんやねん

このカフェ出店は、「なんか必要そうだけど、行政ができない・やらない・手を出しづらい、みたいなところにはやっぱり民間でやるしかないよね」という考えを花岡が持つきっかけとなり、「自分、設計も工作も全然できないけど、周りに相談してみると案外できたりするもんだ」という気づきを与えられた瞬間でした。

ここから僕とコーヒーの関係は一層加速していきます(だって業にしちゃったし)

続く(多分)

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