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人はいつから風呂に入るようになったのか?(後編)

この記事は 人はいつから風呂に入るようになったのか?(前編) の続きです。

数世紀前までは現在のように浄水施設で高度に浄化された水が風呂に使われたわけではないので、ヨーロッパでは17世紀頃まではむしろ入浴が積極的に病原菌を体に取り込むという考え方もあり、18世紀に医学が発達して入浴は健康管理をするうえで好ましいと結論づけられるようになるまで風呂に入らないほうが健康だという思想の人も少なくなかった。

キリスト教、特に婚前交渉を禁じる厳格なカトリックでは飲酒は体が火照り、風呂は全裸になるため性欲をかき立てるとして飲酒や入浴を罪深いことだとしていた時代もある。

いっぽうでイスラム教圏では風呂に入らなかった人物というのはほとんど見つからず、イスラム教は体を清潔に保つことをたいへん重要視していることがわかる。

精神的な疾患が原因で入浴が困難だった場合もあるが、風呂にめったに入らなかったことで知られる有名人は以下のとおりだ。

入浴しなかった歴史上の人物

エリザベス1世

1533-1603年(69歳没) テューダー朝イングランド女王

生涯未婚を貫き、結婚しないのか?の問いに「私は英国と結婚しています」という名言でお馴染みの処女王として知られるエリザベス1世は多くても月に1度しか入浴しなかったとされている。

彼女は当時高級品だった砂糖入りのデザートが大好物で、歯磨きはしていたが歯磨き粉にも砂糖が含まれていたため口のなかが腐敗して歯が黒くなり、50代になる頃には多くが抜け落ちていたことでも有名である。

アンリ4世

1553-1610年(56歳没) ブルボン朝の初代フランス国王

アンリ4世は義理堅く人望の厚い国王であり政治的にもフランスの発展に大きく貢献したため現在のフランス国民の間でも人気の高い君主の1人であるが、最期は不運にも狂信的なカトリック信者によって暗殺された

16世紀当時では珍しく毎日シャツを替える人だったが趣味のハンティングのあとに汗の匂いをコロンで消さなかったことから愛人たちは腐った肉の匂いがすると彼に伝えており、2番目の妻は彼と初めて会った際にあまりの臭さで気を失ったとも言われている。

ジェームズ1世

1566-1625年(58歳没) ステュアート朝イングランド国王

スコットランド王としてはジェームズ6世でありイングランドとスコットランドの王位を初めて兼ねた君主として各国との協調政策に尽力し平和王と呼ばれ、その後ヨーロッパで広まる王権神授説の基礎を作った。

ジェームズのいる部屋にはシラミがうようよいると言われ、食事をする際にも手を洗わないほど衛生には無頓着だった。

宮本武蔵

小倉宮本家系図と宮本氏正統記によると1582-1645年(64歳没) 日本の兵法家

江戸時代の剣術家であり二天一流兵法の開祖の宮本武蔵は巌流島での佐々木小次郎との決闘で有名だが、放浪武士であった彼は役所を訪問するとき以外は髪を切ることもなく風呂には入らなかったと言われている。

歌舞伎、浄瑠璃、講談、小説、映画の題材として現在でも非常に人気のある日本の歴史上の人物だが生涯結婚することはなく、三木之助と伊織という2人の養子をもらった。

ルイ14世

1638-1715年(76歳没) ブルボン朝の第3代フランス国王

父ルイ13世の崩御により4歳で即位後フランス史上最長の在位期間を務めてブルボン朝の最盛期を牽引し太陽王とも呼ばれるルイ14世は極度の水嫌いであり、一生のうちに風呂に入ったのは医者に強制された際の2〜3度だけだったと言われている。

基本的には香りのついたパウダーで体をはたき、顔はアルコールを染み込ませた手ぬぐいで拭くだけで済ませていた。

5歳で梅毒、35歳で悪性の発熱、45歳で痔瘻(じろう)、70歳で糖尿病の合併症により死の淵をさまようも76歳まで生き延びたが晩年は太りすぎによって左足はどす黒く変色して壊疽(えそ)が始まり、侍医たちは重責を恐れて彼の脚を切断する決断が下せなかったため死に至った。

フリードリヒ2世

1712-1786年(74歳没) 第3代プロイセン国王

優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの国力強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされるフリードリヒ2世だが、晩年は孤独で人間嫌いになり人を避けるようになったため愛犬たちだけが心の慰めだった。

サンスーシ宮殿内の犬の糞を掃除することを禁止して足首まで埋まるほどになっていたとも言われ、風呂に入らないうえに何年も服を着替えず、亡くなったときには彼のシャツは汗で腐っていたようだ。

最後の願いは「犬たちの近くに埋めてほしい」だったとされる。

ベートーヴェン

1770-1827年(56歳没) ドイツの作曲家/ピアニスト

神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領のボンで生まれたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆者としてクラシック音楽界における極めて重要な作曲家の1人と数えられている。

ベートーヴェンは20代後半から難聴を患い始め、28歳で最高度難聴者となり音楽家としての死にも等しい絶望感から自殺を考えたが芸術への強い情熱によってこの困難を乗り越え、フランスの作家ロマン・ロランがこの時期を傑作の森と語るように交響曲第3番を筆頭に中期の名曲を次つぎに生み出した。

しかし40歳頃からほとんど全聾に近くなったうえに神経性の腹痛や下痢に苦しみ、非行や自殺未遂に走る甥のカールの後見人として苦悩し作曲活動が停滞する。

そんななかであの第九(だいく)と呼ばれる交響曲第9番などの大作が発表されたことからも、彼の至った境地の未曾有の底知れなさをうかがい知ることができる。

風呂に関してベートーヴェンは衛生意識が低かったから入らなかったわけではなくむしろ逆で、彼は髪型や服装には無頓着だったがピアノを触る手だけは執拗に洗うほどの強迫性障害に近い潔癖症であり、自分が難聴になった原因が入浴による鉛中毒のせいだと信じて疑わなかったため以後一生風呂には入らなかったとされる。

カール・マルクス

1818-1883年(64歳没) プロイセン王国の哲学者/経済学者

1845年にプロイセン国籍を離脱して以後は無国籍者として過ごし、1849年以降はイギリスを拠点とした。

盟友フリードリヒ・エンゲルスと協力し包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(通称マルクス主義)を打ち立てて労働者階級の歴史的使命を明らかにし、資本主義の高度な発展により社会主義共産主義社会が到来する必然性を説いたが、これは結果として独裁政治を正当化する手助けとなってしまった。

中産階級にとって清潔にすることは過剰行為という思想をもち、彼自身は皮膚感染症の膿に悩まされていたがポリシーをもって風呂に入らなかった

重度のチェーンスモーカーであり派手に飲酒することからも症状は悪化し、著書『資本論』の原稿には吹き出物が潰れて飛び散った血痕が付着していたが、それを無産階級(プロレタリアート)の苦境を理解している証拠として誇りに思っていたという。

毛沢東

1893-1976年(82歳没) 中華人民共和国の建国者

中国共産党の創立党員の1人であり長征と日中戦争を経て党内の指導権を獲得し蒋介石の国民党を台湾へ追放して1949年から1976年まで中国の最高指導者を務めた毛沢東は一度も歯を磨かず風呂にも入らなかったと言われ、彼は「虎は歯を磨くか?」と医者の歯ブラシを突っ撥ねて歯磨き代わりに葉っぱを噛み、内縁の妻が濡れたタオルで体を拭いていたようだ。

マリリン・モンロー

1926-1962年(36歳没) アメリカ合衆国の女優/モデル

1950年代から1962年にかけて最も人気のあったセックスシンボルであり女性の性の革命の象徴であったマリリン・モンローはジョン・F・ケネディらとの愛人関係で有名だが、過敏性腸症候群を患っており食事は基本的にベッドの上で摂って食べ残した皿はベッドの下に突っ込んで腐らせることが常態化していたという。

里親家庭や孤児院といったあまり恵まれない環境で育ったモンローは16歳で警察官のジェームズ・ドハティと最初の結婚をし、第二次世界大戦中の軍需工場で働いていたときに陸軍のカメラマンと出会いピンナップモデルとしてキャリアを開始する。

その後マイナー映画に出演し始め、無名時代にヌード写真を撮っていたことをスキャンダルされたことが逆に追い風となりヒット映画のヒロイン役を次つぎと務め、人気女優のスターダムを一気にのぼり詰める。

しかしモンローはいつも「賢くはないが性的魅力だけは溢れんばかりにもつブロンド美女」という同じような設定の役ばかり振り当てられることに不満を持ち、次第に薬物乱用、鬱病、不安障害を抱えるようになる。

MLB選手のジョー・ディマジオや劇作家のアーサー・ミラーと結婚したがいずれも離婚し、最期はロサンゼルスの自宅で睡眠薬のオーバードーズ(他殺説もあり)により36歳の若さで他界した。

彼女と親交が深かった俳優のクラーク・ゲーブルの自叙伝によると、モンローは極端に不潔でありシャワーすらめったに浴びなかったようだ。

チェ・ゲバラ

1928-1967年(39歳没) キューバのゲリラ指導者

エルネスト・ゲバラはアルゼンチン生まれのマルクス主義者であり、フィデル・カストロによるキューバの社会主義改革をサポートした革命家である。

ラグビーを好んだが喘息を患っており試合中によく発作が起きた。

ブエノスアイレス大学医学部在学中に先輩の生化学者アルベルト・グラナードと2人で1万2000kmにわたる南米大陸縦断の放浪バイク旅を決行して『モーターサイクル南米旅行日記』にまとめ、これを原作に映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』が制作された。

裕福な家庭に生まれた彼は、この旅におけるチリのチュキカマタ銅山で働く最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いやペルーの政治思想家ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受け、急速にマルクス主義に傾倒していった。

生涯風呂嫌いであり同じシャツを1週間は着続け、酒は飲まず葉巻を愛好しロレックスの腕時計をこよなく愛した。

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