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コンテンポラリージュエリーが美術作品になり得ると仮定して“鑑賞”について考察する

今回は、コンテンポラリージュエリー(以下CJ)が美術作品になり得ると仮定した上で、着用や鑑賞について考えてみる。

広く一般的にジュエリーとは“着用”されるものであるが、ジュエリーを“鑑賞”対象として考えると、ティファニーやブルガリといったハイブランドの豪華絢爛な一点もののハイジュエリーや、何千年も前に作られた貝や骨に穴をあけただけのプリミティブな装身具が頭に浮かぶのではないだろうか。それは着用というジュエリーを構成している主成分を排除し、資産的、技術的、希少的、歴史的といった価値に重点を置くことによって、ジュエリーは鑑賞対象として認識されるようになる。
言い換えてみると、個人的に着用の機会がないと思えば鑑賞対象となり得るし、逆に大衆が手に取りやすい身近なジュエリーは、着用性の主張が強くなると言えるかもしれない。
そもそも着用性とは何だろうか。

人々がジュエリーに惹かれる点(投資対象や価格に関しては一旦抜きにする)を考えてみると、すぐ思いつくのは視覚的な要素だろう。つまりデザインが好きか嫌いかという至ってシンプルな動機である。そしておそらく、次に来るのが着用性だ。具体的には重量やサイズ感や衣服へのダメージの有無といった点が挙げられる。
ここで一度皆さんにイメージしてもらいたい。180cm以上ありスポーツをしている日本人男性の私とあなたとでは、どのくらい着用できる許容範囲に差があるだろうか。またはこだわりのあるファッションを着こなすモデルのようなフランス人や大柄なアメリカ人だったら?
私が言いたいことは、着用性とは100人いれば100パターンあり、全員を満足させることは不可能ということである。それだけではなく、ジュエリーを身に着ける気のない人に着用性がいくらマッチしたとしても、欲している人にマッチしていなければ意味がない。要するに、着用性に固執し多くの人に身に着けてもらうことを目的とするのであれば、複数のバリエーションを量産する単なる商業的なジュエリーであるし、美術作品であるならば、着用性はさほど重要ではないと言える。(着用が目的ではなく手段であれば話は別だが)

「ジュエリーなのだから着用を重要視することは当たり前だ!」と、ベテランのジュエリー関係者たちからお叱りを受けそうだが、それはそうだろう。なぜなら私は一般的なジュエリーではなく、ジュエリーの形をした美術作品を提案しているのだから。つまり、これからのCJは《ジュエリー/着用》から《ジュエリー/鑑賞》への回帰を目指すべきである。


さて、ジュエリーの“着用”という優先度を下げたところで、ここからは“鑑賞”を目的とした美術作品への転換を考察してみる。

まず大前提としてクリアにしておきたいのが、美術作品として表現に使用できるということは、ジュエリー好きにだけ通じるローカルな言語やルールを利用するのではなく、ジュエリーという存在が持ち合わせる、世間一般の共通認識や先入観を利用するということである。
例えば、資本主義社会を象徴する高価な嗜好品として、女性性を表す歴史的な文化の一つとして、呪術的で神秘的な信仰対象として。etc
ジュエリーの分野で活動する人たちにとってみれば、使い古されたなんてことないキーワードだろう。しかし、それで十分なのである。重要なのは鑑賞者が受け取るイメージのし易さ、つまり《共感》である。(ここで言いたいことは「デザインが気に入ったから購入する」といった程度の共感ではない)
ジュエリー分野で考えると、これらのキーワードを逆転させる方向に進むことが多かった。いうなれば、表のジュエリーに対しての裏のジュエリーといった、ちょっとした視点の変化や発想の転換である。ジュエリーを愛し過ぎるが故、ジュエリー好きにしか伝わらない、限られたコミュニティ内だけでの共感だと言えるだろう。

一方で、美術作品として仮定して考えてみると、これらのキーワードは作品の構成要素の一部として用いることが求められる。いうなれば、ジュエリーを使用した時点で強制的にこれらのキーワードが組み込まれると言って良いだろう。
作品を作る動機は作家によって様々だが、多くの場合は伝えたいメッセージやコンセプトやテーマや衝動があり、リサーチ活動や実制作へと進んでいく。そして作品としてどのように視覚化するか、相手に伝えるかを熟考し、油彩や木彫やダンスや映像など、ベストな表現手段/表現媒体を選択するのである。
(「私はジュエリーが好きなのでジュエリーを作ります!」という他の選択肢すら眼中にない人は、一度立ち止まって疑いを持つところから始めることをオススメする)
少し補足しなければならないが、絵画や彫刻といった美術の本流では、それ自体に美術の文脈が備わっているため、それぞれの表現手段/表現媒体を再解釈したり否定したりすることで美術作品として評価される可能性がある。しかし、今現在のCJは美術の文脈に接続していないため、同じ方法を取ることはできない。
話を戻すが、ここで言う油彩や木彫やダンスや映像はあくまでも選択肢の一つであり、ジュエリーも同じように置き換え可能な表現手段/表現媒体として使用できると言える。これは現代美術家の岡田裕子さんや井原宏蕗さんなどの作品が証明している。(CJとしてではなく、あくまでジュエリーという形を用いた美術作品として)

では、ジュエリーだから説得力のある美術作品とは一体どのような作品なのだろうか。ジュエリーの作り手は技術力も高いし、マテリアルの使い方も柔軟だし、デザインのセンスも高い人が多い。ジュエリーの市場でジュエリーを販売したいのであれば何も言うことはないし、これまでの暴言を許してほしい。しかし、美術作品としてジュエリーを作るのであれば話は別だ。何度も言うが、作品内に含まれるジュエリーという成分はほんの一部でしかない。
美術作品を家に例えるならば、ジュエリーの要素とは、他の柱とともに家を支える一本の柱である。ジュエリーだけで家を建てようとしても残念ながら家は支えられないだろう。

私がジュエリーを興味深いと思っているポイントを一つ挙げるとしたら、“人が想像される”という要素だ。
美術作品には絶対的に制作者(アーティスト)の存在が想像できるが、ジュエリーである場合には着用者の存在も同じように想像できる。それは制作者自身もしくは関係者なのか、どこぞの王侯貴族なのか、生活苦に悩む若者なのか、肩身の狭い思いをしている移民の人なのか、はたまた鑑賞している自分自身なのか。この作品はジュエリーとして着用者を求めているように感じるかもしれないが、実際にはその想像する過程を鑑賞者に提供しているのである。
他の表現手段でも、選ぶモチーフや題材によって同じように誰かしらの対象者を想像させてきたと思う。だけれども、ジュエリーはもっと鮮明にその人物を想像させることが可能かもしれない。それは大抵の人がジュエリーやアクセサリーを実際に身に着けた体験や、身に着けている人を見た経験があるからだとも言える。ジュエリーが大衆化された先の飽和状態にあり、そして美術作品の多様化が進んでいる現代だからこそ、“鑑賞”対象としての新たな一面が機能するはずだ。

とはいうものの、“ジュエリー”という機能があるからには、結局のところ着用するか鑑賞するかは個人的な問題である。作り手が強制するものではないだろう。しかし、“着用”を求めていない人たちに興味を持ってもらうためには、“鑑賞”に耐え得る作品としての強度が必要なことは言うまでもない。


最後に、なぜCJを美術作品として認めさせようと躍起になっているのか、最終的な締めくくりとして説明したい。

私がこの分野に興味を持ち始めたのは60年代から80年代のCJ作品と偶然出会ったからである。当時の作品はジュエリーという形態を取りながらも、ジュエリーの枠を超えた美術作品としての強さを兼ね備えていた。しかし、私はたまたま運が良かっただけで、多くの人たちはこれらの作品と出会うことは一生ないかもしれない。なんて残念なことだろう。私は多くのジュエリー作品に感銘を受けたし、その作家たちをリスペクトしているし、そしてもっと多くの人たちに知ってもらいたいと考えている。
この状況を変えることができるのは、今、ジュエリー作品を作ろうと挑戦している一握りの作家たちしかいない。なぜなら、私たちの誰かに脚光が当たれば、必然的に過去の作品や作家たちにも注目が集まるからだ。つまり、ジュエリーが美術分野の一部として文脈化されるかもしれないということである。
いくら故人の優れた作品を紹介したとしても、現在進行形で活動する作家が注目されなければ文脈化などされるわけがない。「過去にジュエリーを美術作品として見せようとしたけどダメだったのにまた同じ失敗を繰り返すのか!」と言いたい人は過去結果とともにその時点に止まっていれば良い。周囲を見渡してみても、私には「今こそチャンス!」としか思えない。
CJの歴史は市場の悪影響を受け、《鑑賞/作家中心》から《着用/顧客中心》へと移り変わってしまった。時代は繰り返されると言われるが、今こそ《鑑賞/作家中心》へ戻る時期に来ている。

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