図書館の魔女を殺せ

「お前たちの神はことばだというに、シリル司教殿。お前は我が書庫の半ばのことばも知らぬか。約束通り初子の半数を貰うてゆくぞ」
首なしのセラピス神像が、嗄れた老婆の声で嘲った。

 司教館の粗末なベッドは汗で重く濡れていた。窓の隙から吹き込む砂漠の夜風は冷たいほどだというのに。
シリルは悪寒に震えた。夜風のせいではなかった。
燃やさねばならぬ。あの書庫も、老婆も。
 枕元の鈴を鳴らすと、すぐに男が来た。黒檀の肌のペトロは無二の友。信仰篤き剣の達人であり、人喰い獅子を一太刀で細切れにしたこともある。
「やはり、私はやるぞ。あの魔女を、忌まわしい大書庫を燃やすのだ」
声を震わすシリルの手を握り、ペトロが頷いた。聖句を誦ずる以外声を出さぬ剣士の目に、深い同情と義憤が宿る。

 大哲学者ヒュパティアは恐るべき魔女だ。冥府神セラピスの大書庫で天地全ての言語と文字を修め、万物に命ずる。
 魔女は水時計に死者を宿らせ、意のまま日食月食を起こす。ナイルの龍蛇と談笑し、リビアの水怪と詩を交わす。
 ひとは彼女を畏れる。総督に至っては、諂って都城の嬰児三百を水怪の贄と献じた。

 シリルはいま、己を強いて魔女に対する。
「都城の安寧のため、私はお前を除く。魔女よ」
「哀れな司教殿。お前の神、ことばは我がしもべ。その羊が我が友の贄となるは誉ぞ」
大書庫の深く暗い入り口を背に、うっそりと魔女が手を翳し、この世ならぬ口訣を紡ぐ。
司教の周囲が奇妙に歪み、無数の毒蛇の口が彼を……襲う寸前!すべて虚空で微塵に刻まれる!ペトロ!
 躍り出た剣士は司教を一瞬振り返り、頷く。ペトロが魔女に突進する!
『儀文は殺し、靈は活せばなり』
ペトロに文字の呪いは効かぬ。聖剣が魔女に……届いた!
「うわははははは!」
無数の断片に斬り刻まれつつ老婆が笑う。その血と肉片は全て奇怪な文字となって書庫の奥に吸われゆく。
 かくしてシリルとペトロは書庫の闇を冒す。絶対に逃さぬ。

<歴史の闇へ>


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