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自律について考えるようになった原点「頭髪自由化会議」

少し時間が経ってしまったけど、2019年の暮れ、愛知県豊橋市にあるイノベーションスペース、MUSASHi Innovation Lab CLUE で行われた
【愛知で挑戦する女性を応援】Challenge × Woman というイベントで
「デザイナーが多様性について考えてみた」というテーマで
2019年にはじめた女性在宅ワーカーと個人事業主の話せる自習会「マネママ3.0」の活動とそれをデザインにどう活かせるかを募るピッチ(短いプレゼン)をしてきました。

活動を振り返りながら、私は、自分の大事にしている価値観に気づいた。

自分の意思決定を誰かのものさしではなく自分で考えて自分でできること。それは空気のようなもので、ないと私の心は息ができなくなる。

それを維持するために、
私は2つのことが大事なんじゃないかと考えている。
それは「自律」と「自立」
2つの「じりつ」の私なりの定義はこれ。
今回は1つめの自律について少し掘り下げてみようと思う。

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1つめのじりつ」=自律
意識するきっかけは、中学にとき参加した「頭髪自由化会議」

私が中学に入学した平成の初め頃はまだ、男子は丸刈りが「中学生らしい頭髪」という時代が残っていて、地方の公立中学の母校は男子生徒は丸坊主という校則があった。
中1の時、頭髪自由化の是非をクラス会議で全校で議論することになった。

今思えば、自由化決定で結論がでていたのだろうが、担任の先生が会議を題材に公開授業で行うため、普段の学級会よりちょっと大掛かりなものだった。
私は「みんなが発言しやすいように口火を切って手をあげるモブの生徒役」で仕込みメンバーとして先生から呼ばれ、司会進行役のクラス委員の子たち数人と学区の床屋さんなど何箇所か取材にいった。
そこで、地域の大人から頭髪自由化の是非や中学生らしい頭髪とは?というヒアリングし、人生で初めて「自由」ってなんだろ?と考えることになった。(発言する役だったし)

13歳が考えた「自由とは?」
「頭髪が自由化したら、風紀が乱れるわけじゃない。ヒアリングしてきた大人もそう話す人が大半だった。
でも、校則がゆるくなったあと、学校が荒れたという事実がもし出来てしまえば、人はそれが校則を変えたせいだ、と頭髪自由化を原因に結びつけて考えてしまう可能性があるし、「そんなことはない」と否定しても信用してもらえるかは怪しい。
だから、自由を得た直後の私たち在校生はそう思われないように、ひとりひとり意識して振る舞わないとこれからの後輩の自由を奪うことになると思う」

細かいニュアンスは違うと思うが、こんなようなこと意見を言った気がする。最近知った言葉でいえば「自由と無法を履き違えない」みたいな?

自由って誤解されがちだけど「なんでもアリ」なわけじゃなく、していいこととしちゃダメなことを社会や組織などの外側じゃなく自分の内側で決める、
つまり、自分で自分をハンドリングする自由がある、だけなんじゃないかと最近思う。


社会で人と関わって生きている以上、まわりの人のいのちや安全を損なうような自由を行使すれば
それらを守るため集団を管理する側は行動を制限する選択をとる可能性は高い。
ルールは個々の事情なんてそうそう汲んでくれないから、それまで無害でアリだったことにもルール上アウトなケースもでてくるし、そうやってだんだん、融通の効くエリアが少なくなって窮屈になったのが今なんじゃないかなー。

常識やルールをぶっ壊すのはロックだしアートだけど、
外側からきまりや規制でがんじがらめにされて主体性を奪われない程度の、
さし加減は自分でブレーキ踏んどくくらいの視野の広さや気配りがあった方が
結果的に1人1人にとってベターなジャストサイズの自由がつくりやすく、維持しやすいんじゃないかなー。というのが私の考えです。

古今東西、隙あれば人の自由を制限したりあわよくば奪いたい人っているから、そうい人に足元すくわれないようにするためにも。ね^^;

広告とデザインと子育ての話。繋がってないようでなんか繋がってる気がするのは私だけ? https://kycld.com