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Le Messie(メサイア)

作曲家:ヘンデル

G.F.ヘンデル(1685-1759)
ドイツ出身の作曲家、オルガニスト。イタリアで成功したのちに、イギリスでも活躍。晩年にはイギリスに帰化することになります。

おなじみのエピソード

25歳(1710)ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任、直後に1年間の長期旅行の許可も得ます。訪問先のロンドンでは、オペラ『リナルド』を2週間で書き上げて上演は大成功。アン女王に再訪の約束をします。

27歳(1712)再びロンドンを訪れ…そのまま住み着いてしまいます。

29歳(1714)アン女王死去に伴い、なんとハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになりました。

32歳(1717)テムズ河で王の舟遊びの際に『水上の音楽』を演奏。ジョージ一世から何度も帰国を命じられていたのに、それをスルーしていたヘンデル。ご機嫌取りの為に作曲した訳ではなく、すでに和解していたようです。

その後のヘンデル


34歳(1719)貴族たちによりオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルは芸術部門の中心人物に。

42歳(1727)王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルは、ジョージ一世が亡くなる前にイギリス国籍を取得。ジョージ二世戴冠式では『戴冠式アンセム』を上演。

48歳(1733)ジョージ二世皇太子が「貴族オペラ」を設立。カストラートのファリネッリら有名歌手を引き抜くなど、「王室音楽アカデミー」との熾烈なオペラ対決が繰り広げられることに。

52歳(1737)「貴族オペラ」は倒産。ヘンデル自身も、経済的にも心身的にも疲弊してしまいました。

57歳(1742)失意の中、24日間で書き上げた『メサイヤ』をアイルランドのダブリンで初演。大好評を得て、ヘンデルにはとっては起死回生の作品、まさに救世主となりました。

64歳(1749)オーストリア継承戦争の終結を祝う祝典で打ち上げられる花火の為に『王宮の花火の音楽』を作曲します。

74歳(1759)失明や体調悪化により死去。ウェストミンスター寺院に葬られました。

No.20 Then shall the eyes of the blind be open'd (Alto)

最初はアルトがヘ長調で歌います。第2部は転調されて、変ロ長調でソプラノが歌います。伴奏が歌の模倣をしています。


No.46 Hallelujah! (Chorus)

「ハレルヤ(コーラス)」はヘブライ語で「神を褒めたたえよ」という意味の感嘆詞。

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