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仕立て屋の恋

『仕立て屋の恋』(1989)
私が大学生の頃、
フランス映画ブームというのが確かにあったような気がする。
リュック・ベッソンが1988年に『グラン・ブルー』を公開して、
日本でもヒットした。
そこから、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』とか
ジュネの『アメリ』とか、
ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』とか、
キェシロフスキの『トリコロール』シリーズとか、
私の周りの友人がアイデンティティであるかのように観ていて、
「フランス映画はやっぱりいいよね」とか言っていた気がする。
私は、そのフランス映画ブームの潮流には乗れずに、『セブン』とか
『踊る大捜査線』とかを最高だと思っていた(それは今でも最高ではあるのだけれど)。

私のフランス映画ブームは、社会人になってから遅れてやってきた。
上に挙げた監督に加えて、私がひどく心を惹かれた映画監督が、
パトリス・ルコントだった。私の記憶では、大学時代の私の友人たちは、
『髪結いの亭主』を押ししていたが、私はこの『仕立て屋の恋』が好きだ。
この正月に、再度観てみたが、やっぱり良かった。

主人公は、街で敬遠されている冴えない中年男。
彼は、向かいのマンションの美しい女の生活を覗くことを日課としていたが、その女の恋人の男が犯した殺人を目撃する。中年男はそれを取引材料に、女に自分の傍にいることを求めていくが…というサスペンスになっている。この映画には原作があって、その作者はジョルジュ・シムソン。
ジョルジュ・シムソンと言えば、日本アニメの名探偵コナンで名前は有名になった、『メグレ警視』シリーズの作者だ。私は原作は未読なのだが、つまりこれはもともと、犯罪小説だったのではないかと推測する。
ネタバレをしてしまうが、中年男は女を手に入れようとするが、ラストでは、女に逆にその罪を着せられて、中年男は死んでしまうことになるという悲劇の犯罪小説だ。
しかし、パトリス=ルコントは、このミステリーを中年男の倒錯的な愛の物語に変換した。

この映画の主題は、私の考えでは、
見る/見られる という相互の関係性を浮き彫りにすることにある。
中年男は、ひっそりと女の生活を「見ている」が、男が街を出歩けば、街の住人に奇異の目で「見られている」。そもそも、「見ていた」はずの女からも、いつの間にか中年男は「見られていた」。様々な人間の視線のカットが印象的に多用され、最後は屋根の上から落ちていく中年男が皆に「見られて」男は死ぬ。
そして当然、この視線の往還は監督と観客の視線の交換にまで及ぶ。
監督が役者たちを「見て」作ったこの映画は、パトリス・ルコントの内面を象徴している映画として観客に「見られて」いる。

私は仕事上で、相談者を見ているが、私がその主体性を持つとき、私は相手から見られている。その気付きを自分の中に持っておくことはとても大事なことであると感じる。

『仕立て屋の恋』は日本においては、パトリス・ルコントの存在を初めて広く知らしめた映画であると私は認識している。フランスでは既に有名だったのかもしれないが、全世界に対して、ジョルジュ・シムソンのミステリーをパトリス・ルコントの眼で書き換え、「私が観ている世界はこれだ」と提示し、世界から見られることを覚悟した作品として、私はこの映画にパトリス・ルコントの覚悟を感じるのである。

そんなことをnoteに書こうと思ったら、こんなニュースが飛び込んできた。

パトリス・ルコント、ジョルジュ・シムソンのことめっちゃ好きやん!
今度はメグレ警視を映画でやるんですって。すごい偶然。
原作は『メグレと若い女の死』とのこと。今度は、メグレの物語に、パトリス・ルコントのどんな内面を描きいれるのか、折角だから劇場で確認してきたいと思います。




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