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WBC

思想家であるロジェ・カイヨワは、名著『遊びと人間』の中で、「遊び」をこの社会全ての芸術・法律・統治機構が産まれてくる源泉として定義した。そして、「遊び」とは「本質的に意味のないもの」であるとした。しかし、それは価値がないことを意味しない。ロジェ・カイヨワは、意味のないものこそ最も人間にとって必要不可欠なものであるということを『遊びと人間』の中で明らかにしていく。

その論の過程で、カイヨワは遊びを4類型に分類した。

アゴン(競争):平等なルールを配し、明確な勝ち負けを規定する遊び
アレア(運):運の力の前に全ての人間が受動的な存在となる遊び
ミミクリ(模擬):真似、演じること。他の人間になる遊び
イリンクス(眩暈):痙攣、失神などに通じる、安定を破壊する遊び

スポーツは概ねアゴンに分類され、アレアの代表は博打。ミミクリは俳優という職業の基本となり、イリンクスは遊園地のジェットコースターなどに明確にその痕跡を認めることができる。
しかし、全ての遊びが明確に四類型できるわけではない。多くの遊びは、この4類型の要素をそれぞれ多少なりとも持っており、私は、この4類型をすべて高い要素で持っている遊びこそ、最も優れた遊びなのではないかと思っている。

 野球は、基本的にはアゴン、競争に基づいた遊び(今となってはスポーツ)だ。しかし、長く見ていれば、アレア(運)の要素が浮き彫りになってくる。素人考えだが、このアレアの要素の多さということで考えれば、チームのフォーメーションなどの戦略性が際立つサッカーよりも多いのではないだろうか。さらに、イリンクスという意味においては、バッターはバットを振ってくるくる回転する。打てばダイヤモンドを回転する。打球の放物線は、ジェットコースターのように上がって下がる。回転運動、上下運動によってゲームが構成されていく。
 しかし、ミミクリ(模擬)の要素が足りない。打つと見せかけてバントをする。走らないと見せかけて盗塁するなどの要素があるにはあるが、これは、どちらかといえば、競う技術、アゴンの領域に入ると思われる。野球は、アゴン・アレア・イリンクスの要素が強い、人を魅了する要素が強いスポーツだと思っていた。

 しかし、今回のWBCに関して言えば、本来、ミミクリとは相性が悪いとされる野球が、ミミクリの要素を持ってしまった。

「こんな、漫画みたいな展開、漫画で描いたらべた過ぎて描けない」

という記事を今回よく観た。

不調の村上の準決勝でのさよなら二塁打と決勝での大本塁打。
大谷のクローザーとしての登板と、盟友トラウトとの最後の対決。

現実の出来事が、フィクションの虚構によってこそ作られる物語を超えて、
我々の観たかった物語を顕現させてしまった。
トラウトから三振を奪って、グローブと帽子を放り投げてチームメートに近づいていく大谷は、もはや、とある戯曲の中で大谷を演じている何かの名演のように感じてしまった。
ミミクリという遊びに端を発し、古代宗教においては呪術として発展したとロジェ・カイヨワは言う。もちろん、神を憑依させた物語を演じることで、お告げや宣託として、その集団の政治を動かしたという意味だ。こうなると、もはやミミクリによって演じられた物語は遊びではない。物語は人を動かす力を持っていく。
 私は、この努力は報われるという物語、資本を生み出さない行為に真剣に没頭することは感動を産む、という物語は野球というスポーツを超えて、日本人に何かをもたらすのではないかと夢想する。

このWBCで観た野球はカイヨワの4類型を高いレベルで実現してしまった、完璧な遊びだった。準決勝と決勝を生で観れて、本当に良かった。

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