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『君たちはどう生きるか』 ~我々は生の身体をどう生きるのか~

今朝、ワンピース(ネットフリックス版)の記事を書いてみて、
改めて思った。

思えば、このアニメが実写を超克していくのではという思いは、2022年の末には、『THE FIRST SLAM DUNK』を観て感じていたことだったと。2023年は、それが本格的に顕在化し始めた年で、私がメジャーどころの作品しか見ていないからというのもあるのだろうけれど、『THE FIRST SLAM DUNK』から、『進撃の巨人』、『呪術回戦』というタイトルで、MAPPAというアニメ制作スタジオの存在がクローズアップされ、さらに、このネットフリックス版ワンピースで、アニメの優位性が逆照射されてしまった。

それこそ、本当に押井守がいうように、『全ての映画はアニメになる』日はそれほど遠くないのかもしれない。

 その思いを決定的にしたのが、ジブリの新作『君たちはどう生きるか』だった。ストーリーとしても大変面白かったが、正直、ある程度の心理学的な知識があれば、理解することが難しいということはなかった。ある意味、王道のファンタジー作品であり、おそらく半世紀以上の単位でその物語の強度は保たれるだろう。
 なので、この作品はきっと何度も見返すことになるだろうとも思った。だが、それはストーリーに引き付けられてというわけではきっとない。ストーリーも素晴らしかったが、きっと私は、そのアニメーション表現に魅せられて、繰り返し見ることになるのだろう。

 オープニングの主人公が火事に駆けつけるシーンから度肝を抜かれたが、なによりも唖然としたのは、主人公が疎開し、その主人公と父を駅に車屋(輪タク)が迎えにきたシーンだ。
 身体性という意味においては、輪タクの漕ぎ手が主人公と家族をのせて、ペタルを漕ぎ始める瞬間。その重いものをのせて漕ぎ始める時の筋肉の収縮と緊張と圧力。その身体性が生々しく伝わってくる。おそらく、実写ではそんなところに注目しない。アニメという動きを追求した媒体だからこそ、そこに注目し感じ入ることになる。
 この動きへの注目は、人間の身体性だけではない。物の動きにもいやおうなく着目させられる。その輪タクに主人公が乗り込んだ時の、重さで沈み込む椅子の動き。そして、おそらく荷物が載せられたのだろう、座っている主人公と荷台が重さで沈み込む表現。おそらく、実写ではそんなところに注目しない。なのにアニメだともう、目が離せない。

 宮崎駿は、「ファンタジーの中でのリアル感」を得意とする作家だと思っていた。ファンタジーを極限までリアルに描写することで、突然のアニメ的な動き(ほっぺたが引っ張られて不自然に伸びるなど)が、生きる。それが、アニメであることの意味だとはよく言われていた。
 しかし、それこそ『風立ちぬ』のころから、「現実の物理的な動きを、アニメで描写することで、より現実の細部に着目させる」という転倒まで可能にしてしまった。アニメはアニメ的表現を追求する芸術ではない。アニメは積極的に現実に介入し、人に、現実の物の見方を変えさせてしまう力までもを持っている。そんなことを言われている気がする。

 そしてラスト。インコ兵たちが現実に回帰し、色とりどりのリアルインコとなって飛び回るその映像のなんと素晴らしいことか。ファンタジーとリアルをシームレスにつなぐ。そんなことができるのは、アニメだけだ。ここでは、アニメであることの真骨頂まで見せつける。

2023年時点では気づかないが、私たちのアニメ概念はこういった多くの作品によって変わっていっている。この先、私たちがアニメに求めるものは、きっとアニメ的であるということだけに留まらなくなるだろう。
『君たちはどう生きるか』はそれを象徴する作品になるのではないかという予感がしている。

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