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バッキンガム(水曜日のカンパネラ)



水曜日のカンパネラ、『ネオン』(2022)に収められている楽曲。
どうやら、First takeでも歌われているようだ。
ボーカルのコムアイが抜けて、どうなるのかと思っていたら、
二代目ボーカルの詩羽の声は、コムアイに似ているようでありながら
オリジナリティにあふれるものでとても良かった。

そもそも、「水曜日のカンパネラ」というユニットのコンセプトとして、
「音楽を楽しみつくそう」という姿勢が貫かれているように思う。
昔、ラジオで『桃太郎』を聴いた時の衝撃は凄かった。

この『バッキンガム』は、そんな水カンの原点回帰のようなアルバムである、『ネオン』を象徴するような名曲である。

『バッキンガム ケンジントン アルハンブラ バチカン ジャイ・マンディル宮殿
モンテチトーリオ カルロス ベネチア シントラ パラッツォ・ファルネーゼ…』

と世界の宮殿の名前が連呼される冒頭。そこから後は、東京都にある世田谷給田という地名の経度・緯度など、その場所をただただ歌い上げていく。
給田とは、その昔平安時代とか鎌倉時代とか、荘園の領主が、そこに勤める人に与えた田畑のことだったような気がする。それが地名として残ったのが、世田谷給田なわけで、つまり「宮殿」と「給田」をかけたダジャレにすぎない。
 しかし、もちろんただのダジャレではない。それは世界の名だたる宮殿と並べて歌われたときに、我々のイメージの中で、「世田谷宮殿」というこの世に存在しない宮殿が立ち上がってくる。

 私はそれほど熱心に水カンを追いかけているわけではないので、もしかしたらどこかのインタビューで言っているのかもしれないとも思うし、ファンからしたら、当たり前の事実なのだろうことを述べてみる。
 水曜日のカンパネラの楽曲は、そのほとんどの歌の詩はダジャレのように聴こえる。しかし、そのダジャレのようなかけ合わせは、我々に、今まで想像もしなかったイメージを現出させてくれる。
 そして、その我々の空想を邪魔しないように、水カンは歌詞の中でただ情報だけを与えてくる。何かしらのメッセージを歌って、聞き手に気持ちの共感を要請しない。歌を聴いた後の、聞き手の空想の中に立ち現れるものに焦点を当て、そのイメージをロードするための「情報」を歌詞に入れ込む。なるほど、こんな聞き方が音楽にはまだあったのか。水曜日のカンパネラを聴いた時にはいつもそんな気持ちになる。

 そんな情報の中でも、経度・緯度、郵便番号などの「数値」はもっとも限定的な情報だ。聞き手は数多いるので、その数多の聞き手のイメージの中で立ち現れて来た「世田谷宮殿」の色や形は様々だろうが、ありもしない世田谷宮殿が東京の世田谷区に厳然と立ち現れる。そこだけはきっと共通しているだろう。
 この歌詞を書いた人は、きっと「感じ方は人それぞれ」という芸術の捉え方では満足できなくなったのではないか?と夢想する。「聞き手に同じような光景をイメージさせたい」という欲深い人ではないのだろうか。

「ミロのヴィーナスが完璧に美しいのは、腕がないからだ」
という話がある。欠けている腕を我々が自由に想像できるという空白によって、我々は完璧なミロのヴィーナスを想像することができる。しかし、ちょっと待ってくれ。その話には前提が必要だ。それは「ミロのヴィーナスの欠けてしまった部分についているものは腕である」という前提である。何を当たり前のことをと言われるかもしれないが、欠けてしまった部分についているものが蛸の足みたいな触手だったり、カニのハサミだったりすることが「ありうる」世界で、人間の腕は選択肢の一つに過ぎないという世界だったとしたら、ミロのヴィーナスの完璧性は揺らぐことになる。
 「世田谷宮殿」は、ミロのヴィーナスにおける「欠けた人間の腕」だ。我々の中にある「欠けているのは人間の腕だ」というイメージの前提の観念と同じものを植え付けるように「この曲を聞いて、我々がイメージするべき、存在しないもの(欠けたもの)は宮殿だ」と植え付けてくるのだ。

すごい曲だ。



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