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レディ・プレイヤー1 

『レディー・プレイヤー1』(2018)

キングコング/バック・トゥ・ザ・フューチャー/シャイニング/エルム街の悪夢/チャイルド・プレイ/バッドマン/スーパーマン/エイリアン/ターミネーター2/サタデー・ナイト・フィーバー/ジュラシック・パーク/スタートレック日本からは、ゴジラ/ストリート・ファイターⅡ/AKIRA/機動戦士ガンダムなどが参戦。

どうやら確認できなかったり、忘れちゃったり、私が知らないだけの様々なキャラクターが次々とオマージュされて登場する『レディ・プレイヤー1』。スティーブン・スピルバーグ監督の2018年作品。

今でいうメタ・バースのような広大な仮想空間が完成した近未来。人類は、仮想空間で享楽的に楽しみを享受しているが、現実世界では格差が進み、貧困にあえぐ人間は下手をしたら、強制労働に従事させられる世界。その仮想空間の開発エンジニアが死に、その遺産は仮想空間内に残される。その遺産を巡るゲームは、現実世界をも巻き込んで広がっていく。あらすじはこんな感じで、善と悪が明快なスピルバーグらしい作品に仕上がっている。
明快なのは善と悪の線引きだけでなく、CGと実写の線引きも明快で、スラムダンクで感じたような、CGと実写が混同されてしまうような錯覚感はない。

面白かったし、近未来の話だし、観たことない映像体験だったし、「新しい」ものを観ているはずだった。私が親しんできたサブカルチャーアイコンたちがいたるところで登場して、そのたびに思わず顔がほころんでしまうわけだけれど、映画を観ている間中、心の片隅のどこかではずっと思っていた。

「なんか古いな」と。

おそらく原作者が青春期を過ごした、80年代のサブカルチャーからオマージュされているのだろうから、当然なのだけれど、ガンダムがメカゴジラと戦う夢の迫力の戦闘シーンを観ながら、「懐かしい」というノスタルジーが通り過ぎた。そして、観終わった後、ふと不安になる。

「サブカルチャーの時代はもう終わったのではないか?」

 この映画が作られた2018年。コロナ禍前の空気感は「モノからコトへ」だった。人々の消費活動は、モノをため込むことからコトを体験することへと移り変わっていった。コロナ禍はモノの価値を延命させたけれど、このマインド自体は、変わってないのではないのだろうか? 思えば、現在のサブカルチャーにおいても、リメイク、新解釈の多いこと。サブカルチャーとは、もはやノスタルジーを湛えはじめてはいないだろうか?

 さもなくば『レディ・プレイヤー1』に出てきたバック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンのように、そこに付随していたはずの物語ははぎとられ、ガジェットとして消費される。『鬼滅の刃』や『チェンソーマン』など新しいサブカルチャーが登場しても、コスプレして写真に収めたり、二次創作を楽しむ。そのモノが含んでいた物語は、その体験を楽しむための前提として、基盤として保障されてはいるが、それを解釈したり、分析したりすることは野暮なことになりつつあるのではないのだろうか?

 『レディ・プレイヤー1』というサブカル好きのための娯楽作品には、ノスタルジーと物語の喪失という、サブカルチャーが抱えつつある斜陽もまた描き出していた。


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