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四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919

ちょうどコロナ禍で家から出ることが憚られていた時期。
ラジオというメディアが私の生活の中に入ってきた。
この年になって、はじめてラジオというメディアの魅力に魅了された。
そんなラジオの中で、今、私が最も聞き逃せないと思っている番組が、
ラジオ大阪で四千頭身の都築拓紀がやっている『サクラバシ919』だ。
特に今年に入ってからの、爆発的な面白さは毎週聞き逃せないという心持にさせてくれるし、木曜日が待ち遠しい。とある曜日が待ち遠しいという感覚は、実に久しぶりだ。

ラジオというのは、パーソナリティとの独特の近さを感じる、特別なメディアであるということは良く言われる。確かに、テレビなどの他のメディアとは違う「近さ」がある。
しかし、このメディアによってもたらされる「近さ」に思いを馳せる時、常に頭に浮かぶのは、立木康介著の「露出せよ、と現代文明は言う」で描写された、精神分析的な現代批評に書かれていた文章だ。
この本の中で立木は、ハイデガー、プルースト、マクルーハンなどの哲学者、小説家、批評家の言葉を引用しながら、メディアによってもたらされた

「いっさいが等しく遠く、等しく近い」

現代の状況を分析している。
SNS時代でもある今、この時において、ハイデガーが疑念を抱いた「時間と空間においてあらゆる距離が収縮している」という不安は、極まった形で顕現している。
プルーストが電話の登場によって、祖母という主体からはぎとられた「声」をまさに耳元に、「近く」に聴いた時に感じた、祖母との途方もない「遠さ」。それは、SNSによって、もはや見ず知らずの他人のつぶやきが、その主体をはぎとられ、書物のような全体性も失って、その断片が私に語りかけ来るという「コミュニケーション」を行うまでに「進化」した。
Youtubeのサムネイルの羅列では、お笑い番組のとなりには、ウクライナ情勢の動画が「並列」で並ぶ。喜劇も、悲劇も、並列化され均一化されたスペクタクルとして消費される。それをハイデガーは「不気味」と表現した。

こうした現代のメディアの機能に、都築拓紀は抵抗しているように錯覚させる。おそらく、そんな意図はないとは思いつつも、都築拓紀の言動は、この「近くて遠い」という距離の問題に挑戦しているように思えて仕方がない。
その端緒となったのは、『サクラバシ919』の番組ステッカーをX(ツィッター)を観て、都築拓紀の居場所がわかった番組リスナーに対して、配るという行動をしたときからではないかと感じる。


これは、私には「番組リスナーと近しくなりたい」という精神的な問題ではなく、メディアが構造的に作ってしまう、「近しい顔をして遠い」という不気味な顔を無化したかったのではないかと感じたのだ。
その後も、都築拓紀のこのメディアの距離への挑戦は続く。ある回では、
「走ろうにっぽんプロジェクト」というサイトを参考にジョギングをしようと思って東京の家を出た都築は、そのランキング上位が全て兵庫県だったことから新幹線に乗って、兵庫県まで行ってジョギングをして帰ってくる。ここにもネットの情報と、現実の身体との距離の問題を無化しようとする力動を読み取ってしまう。
都築拓紀はこういった行動を、体が勝手に動いている『オート』とお笑い芸人らしいワードセンスで表現し、その他にも、仙台に行ったり、福岡に行ったりして、そのたびにそれを、とてつもなく面白いエピソードとしてラジオで喋る。
しかし、ネットで紹介していた夜行バスの旅に魅力を感じて、福岡に行ったとき、都築は体調を崩して、福岡の病院で診察を受けただけで帰ってくる。その話も面白いのだが、自分とリスナー、ネットの情報と身体、そういったメディアによって作られる「遠さ」を克己しようとする時、人はとてつもなくエネルギーを消耗するのではないか。体調不良は、その象徴なのではないかと感じたものだった。

ともかく、今の都築拓紀の『サクラバシ919』は、何が起こるかわからないエネルギーに満ちている。今、一番熱いラジオ番組なのではないだろうか。

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