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何曜日に生まれたの

 今クールは観るべきドラマが多すぎて、
最近になって、ようやく『何曜日に生まれたの』を3話まで観た。
脚本家の野島伸司が、私が思う野島伸司らしさを逆手にとって、
グイグイと物語をドライブしているという印象。面白いです。

 私の思う野島伸司らしさとは、「登場人物のキャラ化」を推進する作家という定義である。これは、1990年代に大ヒットした、『高校教師』やら『未成年』やらの時代から、2018年石原さとみ主演の『高嶺の花』に至るまで、一貫して変わらない構造であるように思う。
 キャラ化とは、まず登場人物たちにわかりやすい属性を付与する。「心の傷」であるとか「上層と下層」であるとか「職業」であるとか。そして、その属性に応じて、登場人物を動かす。登場人物たちは、その与えられたキャラクターに縛られていて、そのキャラクターが許容する範囲で行動する。作劇上、登場人物が自分のキャラクターに反した行動をとる場合、キャラクターが崩壊して、なにがしかの形で狂うか、そうでない場合、作劇上の破綻として、視聴者が鼻白む。
 これは、坂元裕二が、登場人物たちのパロール(会話)に焦点化して、会話によって予想外の行動をとらされてしまう人間を描いたのとは違うアプローチであって、2000年代の両者の明暗を分けたように思う。

 という私の野島伸司評からもわかるとおり、私の中では、野島伸司は2000年代の訪れとともに、終わった作家だった。その印象が変わってきたのは、2015年の『お兄ちゃん、ガチャ』という作品からだ。

 このドラマ、「主人公の幼女が、お兄ちゃんガチャを回して、理想のお兄ちゃんを手に入れる」という、かなり痛い内容で、毎週、ガチャを回して理想のお兄ちゃんを生み出すのだが、どれも満足いかないというストーリーだったと思う(正直うろ覚えである)。毎週個性的なイケメンのお兄ちゃんが入れ代わり立ち代わり登場する。それはもはや、キャラ化の極致以外の言葉では表現できない。
 普通、自分の作劇が飽きられたと感じたら、方針を変更する。しかし、それはおそらく凡人の発想なのだろう。野島伸司は、自分の武器であるキャラ化を露悪的に、先鋭化させた形で作品化してみせたのだった。それは、よくあるお仕事物ドラマなどの中途半端なキャラ化ではない。筋金入りの信念を持ったキャラクター原理主義に、圧倒されたものだった。

 そして、『何曜日に生まれたの』である。この作品でも、野島伸司は、自分の登場人物のキャラ化という悪癖を、またも露悪的に溝端淳平演じる公文という登場人物に仮託している。
 飯豊まりえ演じる主人公の”すい”は、過去に傷を負った10年引きこもった女性だ(この時点で、どれだけキャラ化を施しているのかと思うが)。その”すい”を成り行きで、公文は物語の主人公とする漫画の原作を書くことになり、物語のためと称して、”すい”の人生に介入していく。公文はライトノベル作家だ。ライトノベルという「わかりやすい人物造形=キャラ化」をモットーとする小説ジャンルを、公文のキャラとして付与するところとか、主題歌の『Bus Stop』が流れるところで、登場人物のシーンがイラスト化する演出など、もはや確信犯的だ。
 まだ、第3話までしか見ていないが、公文はすいの心情を、ことあるごとに分析していく。それが、ことごとく、公文がキャラ化した、物語の中の”すい”の心情なのだ。現実の”すい”は公文が感じるのとは違うことを思い、行動する。その行動を公文はまた別のキャラクター化によって心情を再設定する。そのすれ違いが面白くもある。

 ある意味、一貫して野島伸司の自己言及的な物語である『何曜日に生まれたの』が、この先どのような展開を見せるのか、ちょっとハラハラしている。たとえ、公文が描くキャラクター化した”すい”の世界を、現実の”すい”が突破したとしても、そこに拡がるのは、野島伸司が描くキャラクター化した”すい”の世界だ。この入れ子構造をどう突破する気なのだろうか?
 もしくは、現実の”すい”は、公文の描く”すい”の行動原理に吸収され、結局のところ、いつもの露悪的な野島伸司でしたというところに着地してしまうのだろうか。
 野島伸司の自己言及はどこに向かうのか?その視点でこの物語を観る時、とてもドキドキしてしまうのは、自分だけだろうか?
 
 

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