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節分の朝の彩雲

昨日のことでした
認知症を持つご家族の方と話をした時でした。

私の母も認知症があり、バスで病院へ行った後駅まで戻り、実家のある町の駅まで行き、親切な方に実家まで送ってもらった経緯がありました。
当然警察のお世話になったのです。
そんな話をした時
その方も同じ体験をされたと言われ、どんなに心配したか、どんなに恥ずかしいと感じたか、そんな思いが共感されました。
そして、なかなか家族の苦労って経験した人でないと理解されないと感じたのです。
現に私も、介護現場で認知症専門棟や、ユニットケアで認知症ケアをしていた時、こんな症状の人たちは大変だ、ご家族が距離を持ちたくなるのも理解できるなぁと、思っていました。
しかし、そんなもんじゃないんです。
日々しでかす母のことをどれほどがっかりしながらみているか?
その気持ちを大きな声を出していたりしているかなんです。
でも、私の気がおかしくなるほど次から次へと気がつけば訳のわからないことをしてくれる。
帰宅恐怖症になったりする。
挙げ句の果てに母の実家に帰って母の兄妹に話している話の内容は子供が怒られて母親の悪口を言う様に私の悪口だった。

空いた口が塞がらなかった。
だったらここに泊まっていけばいいと思い泊まっていくの?と聞けば。
なんで泊まるの私には私の家があるんだから、ご飯だって炊けるから食べていけるし…
と、さも1人で生活している様に話す。
つれて帰りたいと思わなかった。
完全に母への気持ちは冷めていた。
可哀想だとか、心配だとか不憫だとかいう気持ちは消え失せた。
なんでなのかと考えたら、そこには家族だからという括りの中の大切な人だということだった。

ある心理士の方に相談した事があった。
親だと思うから腹が立つ
他人だと思ったら感情は変わると、言われた事があった。

その時には他人ねぇと思うくらいだった。
しかし、先日の出来事で腑に落ちた。
それがこの感情なんだと思った。
とても冷静だ。
怖いくらいだ。
親子の感情が優しさとか愛とか思っていたが、それはなんとなくちがうものだと感じる。
愛情がないのではないと思う。
愛があるから過剰に反応しない様にして境界を作っている様に感じる。
とても楽になった。

母の我儘さ加減の過剰なところが私を客観的にみられる様にしてくれたと言ってもいいのかもしれない、、

その感情を持った私が、きょうかんできた。
そして、対人援助職として思う気持ちも話した。
そこでも相手の方は同じですと、話してくれた。

同じ様な体験の中で、同じ様な感情を持ち、共感できる事
それをピアカウンセリングって言うんだよね。
ピアグループで話す事、とても大事な事だと理解しました。

ダラダラ書いたけど、今日は節分、旧暦の大晦日
新年に向けて新たな関係づくりのスタートです。

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