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小説無題#4逃走劇

 柳が店を出たのは午後一時過ぎだった。雨宿りも兼ねて立ち寄ったはずが、雨は目に見えて悪化していた。厚い雲が空全体を覆い、日中にも関わらず日暮れの様な薄暗さが立ち込めている。
 まるで日食のようだと柳は思った。古来より日食は凶兆とされている。柳のもとへも招かれざる『何か』が近付いて来ているのだろうか? もちろんこれは実際の日食では無い。しかし日食に準ずる示唆が隠されている気がしたのだ。柳はスマートフォンの天気予報アプリを開こうとしたが、途中で諦めた。
 地上へ続く階段の途中で柳は空を見上げた。空は暗澹としたまま微動だにしなかった。この様子だと雨は一日中降り続くだろう。柳は意を決し外に出た。コンビニエンスストアで傘を買う事も考えたが家まではそれ程遠くは無い、帰って熱い風呂にでも浸かれば事足りるだろう。
 柳が地上に出ると、通りには人気が無くなっていた。地上一階に店を構える飲食店やコンビニエンスストアにも客の姿は見られない。柳はこの異様な光景に目を見張った。第一此処は都内屈指の繁華街であり、人が居なくなる事はありえない。とにかく早く家に辿りつかなければ。
 我が家へと足を速めている途中、真っ黒な車とすれ違った。国産のセダンだった。柳は過ぎ行くセダンを見送ったが、窓はフロント含め全面フルスモークになっていて中の様子はうかがえなかった。しかしその運転技術の若干の粗さやブレーキを踏み分けるテールランプの点滅から辛うじて人の営みを感じられた。
「大丈夫。俺はひとりじゃない」
 柳は独り言を呟く。その声は人の消えた通りに、反響や共鳴を起こす事無く吸い込まれた。
 降り続ける雨は容赦なく柳に打ちつけていた。矯正を拒み続けていた寝癖も、観念したと言わんばかりに頭皮に張り付いている。柳は繁華街を抜け、マンションの立ち並ぶ幹線道路に出た。首都高速の陸橋に沿う大通りだ。先程の道と違って車の往来はあったが、それはあくまで義務的で人の意思を感じられなかった。赤信号で止まり、青信号で走り出す、曲がる時にウィンカーが点滅するだけだ。『ドライバーが車を運転している様に見えますが、実は自動運転でした!』とタネ明かしをされても柳は特段驚かないだろう。──いや本当は分かっている。人は他人の権利を侵害しない為に自由意志を一部放棄しなければならないのだ。誰かの財産を盗んだり、命を奪う自由は極端に制限されている。
 柳は幹線道路に沿って進んだ。このまま道なりに行けば柳の住む分譲マンションがある(柳が結婚の時にローンで買った新築だ。今は柳一人で暮らしている)。雨に凍える体を励ましながら進んでいると、遠くに人影が見えた。柳が目を凝らすと、それはどうやら女子中学生のようだった。ブレザーとボックスプリーツのスカートを着てその下にジャージの長ズボンを履いている。そして両手で松葉杖を突いていた。彼女の足元に目をやると右足首にギプスがはめられているのが見える。両手が塞がっているせいか傘は差していない。彼女の容姿でひときわ目立っていたのは何よりもその美しいブロンドの髪だった。遠目からでもよく目立つ。女子学生は俯いたままこちらに向かって来た。しかし柳は何かがおかしいと思った。まず平日の昼過ぎに学生が街を出歩いている事はあまり好ましいとは言えないと言わざるをえない。早退したのだろうか? 或いは右足首の怪我が関係する事で。その異様さに拍車をかける様に雨に濡れたブロンドの髪が煌めいていた。髪は真っ直ぐ肩の長さで揃えられており、赤いカチューシャが比較的狭いおでこを露出させていた。
 ある程度の距離まで近づいた時に柳は気づいたのだが彼女の顔立ちは日本人離れしていた。語弊があるかもしれないので厳密に言うと古来より日本列島に住み着いていた縄文人と弥生人の混血ではないと言う意味だ。くっきりとした鼻筋、三角錐の様な鼻先はつんと尖って頬骨が高く、ふっくらとしたほっぺたから続く顎が緩やかに前へと突き出している。瞳はガラス細工の様に透き通る碧眼だ。この少女は北欧人だろうと柳は推測した。どういった経緯で日本の学校に通い、そして昼過ぎに街をぶらついているのかは分からないが、彼女の表情は憂いを帯びている。綺麗なガラス細工の瞳は寂しそうに見えた。遠い異国の閉鎖的なコミュニティになかなか馴染めないのかも知れない(しかし柳の考察はどれも想像の域を出る事はなかった)。
 数メートルまで近づいた時、少女はこちらに気付いて顔を上げた。目が合った彼女の碧眼は一番星の様に煌めいた。それは彼女が産まれてから今まで、胸の奥に大切に秘めている輝きなのだろう。残念だがそれは長い人生の中で徐々に失われてゆく定めの光だ。少女の目には陰りが戻っていた。柳は学生時代に思いを馳せる。友達と喧嘩したり親に怒られたりでしょんぼりとした気分は誰かの笑顔に救われるものなのだ。柳は少女ににんまりと笑いかけた。『俺も同じ気持ちだ』と共感の意思を込めて。しかし碧眼の少女はびっくりした様に目を見開いたあと、手足を最大限動かしてそそくさと歩き去ってしまった。狭い歩道ですれ違うときも道幅いっぱいに距離をとった。とは言っても柳が手を伸ばせば簡単に捕まえられる距離だ(もちろんそんな事はしないのだが)。どうやら警戒させてしまったらしい。仕方ない、きっと怖かったのだろう。柳は気を取り直して自宅へと向かった。
 柳が自宅マンションからほど近いファミリーレストランの脇にさしかかったとき、一人の男の姿に気付いた。ファミリーレストランは二階建てで一階が駐車場になっているのだが、男は駐車場の入り口で支柱に寄りかかって空を見上げていた。二メートル近くはあろうかという大柄な体格で、グレーのロシア帽を被り、厚い毛皮のコートを纏っている。逞しい鉤鼻は風を読む鳶の横顔に見えた。眼は深海の様に深い碧眼だ。
 そこで柳ははっとした。一体此処は日本なのだろうか? 都内で外国人を見かける事は珍しく無い。しかし先程の碧眼の少女といい北欧人と立て続けに出会う事がほんの偶然、たまたまとは思えなかった。そこには人為的な意図が隠されているような気がしたのだ。
 柳は男の様子を注意深く観察してみた。今まで気づかなかったが、右手に傘を持っている。となるとこの男は雨宿りをしている訳では無い。では何をしているのだろうか? 或いは誰かを待っている……?
 丁度その時、男がこちらに振り向いた。まるで狙いすましたかのようにスムーズな動きだった。例えば柳が此処に来ると知っていたかのように。男は柳を見ていた。柳は男と完全に目が合っていた。しかし深海の様な碧眼からはどんな感情も読み取れ無かった。柳は何事も無かった様に目を離し、男の前を通り過ぎた。それでも尚、男がこちらを見ていたかは分からない、だが男が動き出す気配は無かった。
 しばらく進んだところで柳は安堵の息をついた。最近は悪い事が立て続けに起こっているし神経が過敏になりすぎているのだろう。家に帰ったら湯船でしっかりと温まろう。それからベッドに潜り込んで全てを忘れてしまうのだ。
 だが柳はある異変に気付いた。それはさっきまでとは違う違和感だった。しかし何が違和感なのかが分かるまでには少し時間がかかった。緊張と同時に感覚が研ぎ澄まされてゆく。その正体は雨音だ。ぺちぺちと地面を打つやや低い音の中にぱらぱらと高い音が混じっている。その音は違和感ではあったけれど、むしろ聞き馴染みの深い音だった。──そうナイロン生地が雨を弾く音だ。カッパや傘の様な──傘だ。柳は背筋が凍りついた。ロシア帽の男が後ろにいる。柳は後ろを振り返らずともそれが分かった。男はファミリーレストランの駐車場で傘を手に柳を待ち構えて居たのだ。柳は咄嗟に駆け出した。男の目的は何だ? 捕まればきっとただでは済まない。柳が駆け出したすぐ後から、硬い靴がアスファルトを蹴る音が聞こえてきた。男が追ってくる。柳はこのまま男を振り切るしか無かった。自宅マンションまでは二百メートル程あるがそこに向かう以外の事を考える余裕は無かった。エントランスに入ってしまえば警備員に助けを求める事が出来る。柳は精一杯腕を振ったが腕の振り程に足は速く駆けてくれない。あるいはもう少し若ければ思い通りの走りが出来たかも知れない。後ろの足音は徐々に近付いていた。柳はとっくに息を切らしていたがかといって立ち止まる選択肢などあるはずもない。足がもつれて転びそうになりながらも走り続けた。途中、襟首を掴まれる様な感触があったが、柳は身を捩ってそれを振りほどいた。
 マンションの前にたどり着く頃には汗だくになっていた。柳は手を伸ばして自動ドアのセンサーを起動させ、ドアが開ききる前に体をねじ込ませると、勢いそのままにエントランスの床に倒れ込んだ。
「一体どうしました?」
 受付から警備の若い女性が驚いた様子で駆けつけた。
「助けて下さい! ロシア帽の男に追われてます!」柳は叫んだ。
 若い警備の女性は背は高いが随分と華奢で、二メートルの大男から身を守って貰うには幾分心もとなかった。
 しかし当の女性警備は呆けた顔で辺りを見回した後、柳に向き直った。
「誰も追いかけて来て無いみたいですね」
 柳は後ろを振り返った。確かに誰も居ない。柳の後ろでは首都高速の橋げたが薄気味悪く雨を滴らせているだけだ。少し間を空けて自動ドアが静かに閉じた。逃走劇の終幕を告げるように。

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